水曜日, 2月 25, 2015

テロに屈しないのだから

いよいよ渡独が近い。2015年、3月、世間も周囲も同意見で、そんな今はヨーロッパのほうとか海外は危ないんじゃないの?と言う。無理もない。皆が注目するなかで、日本人二名がテロ集団「IS」に拘束され、殺害された。以前、2004年に香田さんがアルカイダに殺された事件のときより、すぐそこに恐怖があるように感じられる。フランスの新聞社襲撃テロを引き金にして、他の国へも拡散していく恐怖が演出されていく。
自分は 今回の事件に対して不可解な思いが多い。最も納得できないのは 日本政府が遺体の引き渡しを自ら取り下げていることだ。日本は他国に比べて、遺体の存在を重要視する文化ではなかったか。殺害発覚後も、政府としては遺体の引き渡しを要求し続け、IS がそれには対応しない、身代金など無理難題を返してくるというのなら動きは分かるが、異様に政府の引き際が良く、そして酷い。
交渉がうまくいかないなどは、憤慨しつつも様々な思惑や計算があるのだろうと考えていたが、遺体の引き渡しを自ら取り下げるというこの動きに、「日本政府はいざというときには何も守ってくれないのだな」という確信を完全に持った。遺族の方は納得いかないだろう。

福島原発事故で避難を余儀なくされているところに、情報をが出し惜しみされている状況などを考えれば、こう痛感している方はもっと多いはずである。先日 見た 映画「希望の国」(監督, 園子温 / 2012) は まさしくその言葉があった。
いまの日本政府、安部政権にとっては非常に好都合な展開ではないか。テロの脅威が実行され、庶民的感覚で「日本も狙われるで、こりゃ 自衛隊を派遣できるようにせにいかん。」と誰もが思っている。人様に迷惑をかけないよう、危ないところには行かないようにするべし。自分のところにも、そんな赤子も連れて 家族で渡航するなんてどうなんだと思われることになる。繰り返すが、無理もない。しかしそれは同時にテロの恐怖に屈していることになるのではないか。
何でもかんでも「危ないから」という箱に入れて 思考停止である。安部首相が対テロを唱え、この罪は償わさせるという発言をしているのは、遊びのようなパフォーマンスだった。日本が自ら恐怖を利用し、テロに屈する形で自粛を横行させ、ジャーナリズムや文化を殺していく。
ドイツで行う「ONGAESHI」の展覧会は 危ないので空気を読んで中止になりましたという判断は テロに屈したことだろう。テロにやられず、何故にこうなっているのかを語ることができなければ、テロ戦争は終わらないと思う。
情緒的なだけで 具体性の無い言葉遊びをしている場合ではない。自戒を込めて書く。