日曜日, 12月 31, 2006

大晦日は歌を聴く

年の尾っぽに集まった養分。ろ紙で灰汁がどっさり出る。
大気圏突入の最中に叫びだした我ら。三十年はもうすぐ。
やぶれかぶれでフセイン殺して。
優しさ、この力、愛憎という意味を捨て、煙草を捨て。
同じ言葉でありながら、伝わってこないよ。
違う言葉だけど、伝わってくるものは同じだよ。
あの公園にも冬の朝。
大晦日は歌を聴く。

「さよならは夜明けの夢に」(詞,鈴木博文、曲,岡田徹/1977)
どうもありがとう。

http://www.youtube.com/watch?v=6QD0K1LbAps

土曜日, 12月 30, 2006

草原に帰ろう

めまいがしていた。
心のクセについてを考えていた。読み返していた。煙草を捨てて。
音楽は意味ではない。都合だけを数えていた。
胸をはっていたら、それが力。
何も無い自分が、なけなしの思いで抱きしめる力を湧かすことだけがある。
そこから、草原に帰ろう。
そう、草原に。

bnap06 で発表された、dilettantin らによる作品「HOTEL」が web で紹介されていた。
その音楽を聴き続ける。
ポートフォリオを思い出す。
草原で寝転んだ。青空の前に。
めまいはとおくに。
温かく。

http://www.dilettantin.de/hotel/

金曜日, 12月 29, 2006

日々の暦の夜

山を降りるとき、山について書かれたものを思い出した。
コメダ珈琲はいつも入りやすい。
山から町へ。
シロノワール。
味わいながら越える。

岐阜市内の旧十六銀行で行われた「HIBINO DNA AND...」のトークイベント、ムービーショーイング、クロージングパーティに向かった。
激動のプロジェクトの終わりに挨拶して、スタッフやボランティアの方も感慨深い様子。
そんななかに「こよみのよぶね」の日に撮影したビデオを流させてもらい、しばしの時間を頂いた。
藤井さんの写真、スライドショー、良かった。

読みこんでいこう。しっかり踏み込んで。
とても温かい時間だった。
来年も暦を踏むんだな。
いい暦を呼んでいこう。

http://www.dnaand.org/

木曜日, 12月 28, 2006

脆弱性

谷澤氏より「百代の過客」(監督,原将人/1995)を見せてもらった。
それで勢いをつけて、五時間分の ミニDVを取り出した。
しっかし、iMovie での映像編集はやはりキツイ。保存して再起動したらバグったり、外付けHD にアクセスするとバグったり、何よりキツイのは書き出し中にバグること。なんの前触れもなくデジタルノイズが走ると、それまでの録画時間がパアになってし まう。50分、15分、5分の三段階のバージョンを順に作ったので、段々ラクになっていく。「3分までの映画祭・SEPM」をやろうと言い出した理由は iMovie 環境というのも起因しているはず。そういえばあれは年末行事だった。バグを回避するための先手を打ちながら作業する。こういうときにアプリケーションの脆 弱性と呼ぶのである。何べんも書き出しにトライ。終えてから、直したいところが浮上してくる。うわぁ。これは人間のせい。いや本当はさいしょっから。

やみくもに 我が脆弱性 年の暮れ

水曜日, 12月 27, 2006

仕事とは、日々に価値を持たすこと

晩に遠征し、violets の面子で忘年会。

そのまえにびょういんとびよういんでさんざい。

先生の仕事。野球の仕事。美術かどうか見極める仕事。福祉の仕事。生きる為の仕事。

はなしながらせかいのかちをおとすようなひびだが。

私達の仕事。物真似には新しいことを望む。冴え渡る行いが続く。活動時間は異なる。

すこしずつかわっていくのをみつめよう。

煌めく為に話す。いくら意見を唱えても馬鹿なことには変わりはないよ。

このメンタリティ。

あくしゅ。

火曜日, 12月 26, 2006

ドラッグアンドドロップで日が暮れる

部屋に籠って一日中編集仕事。親の仇のごとく、鼻をかみ続ける。猫の鬱が落ち着かない。来年はなんとかしろと噛み付いてくる。買い物をしながら、仕事のこ とを考えるという前進方法を試してみる。晩に家電話で話したことには「試す」という単語をよく用いていた。正論で僕を落とし、君を傷つけるつもりはない。 意味を唱えていたなと考え直す。遅くまでさわっていることができず、保存の処理を待っている間に寝てしまった。君の時間を撫でる時間を思ってみる。紅茶を 入れることを教えてくれて、先日からそんな時間を試している。無垢なままでは編集が終わらない。守るために噛み付く。そうしないと。

月曜日, 12月 25, 2006

それははじまる言葉

搬出搬入は続く。頭上を囲む線は、空間を規制してしまっていた。
愚痴を言ってもはじまらない。
白い部屋の営みのために。
それははじまる言葉となるか。
とんとん拍子で帰って、真坂氏を囲んでの会へと流れた。
その前に病院と美容院を周る予定が、病院だけで疲れてしまって、今日は継続の意志で終える。
西山氏のアトリエで、壁一面に貼られた絵のなかで、一枚の写真がこちらを見つめてきていた。
そのかけがえのなさを。五月蝿いのは二十代後半のオヤジなり。

騒ぎは続く。「ジョゼと虎と魚たち」(監督,犬童一心/妻夫木聡、池脇千鶴/2003)を野郎だけで見る。見入る。フツーの学生の妻夫木氏には参った。く るりはかけがえのなさを慈しむ音楽。夜はとんとん拍子で帰れない。外は冷え込み、急に十二月らしくなってしまって、クリスマスソングは立ち寄ったコンビニ が最後だった。ここの裏にある長屋を曲がったところに、おそらくジョゼはいる。
映画を終えて、佐内正史の写真がスライドショーになる DVDのメニュー画面にずっとしておいて、僕らはビールを飲んでいた。
今年ドイツに行き、持ち帰ったのはアートワークだけではなく、捨てていくものはアートワークだけではない。アートという言葉だけにすれば、そこにワークも入る。それ以上の言葉も。
象徴として輝く映画よ。詩は全てをやさしく言い当てる。そして言葉自身が言葉を待っている。

きれいな夢よ、さよならって、そんなにきれいになれるか。自分の弱さが露になって。情けなく参って、力を持って。
もう二度と会うことはないんだと彼は言っていた。
傷つけたくないと言う彼を知っていた。
妻夫木氏自身もそんなふうのコメンタリーを聞き、笑ったり、黙ったり。黙るコメンタリーというのが良かった。審美眼も剥き出しに見る。思えば、俺達はコレクターのような目で見ていたのだ。
西山氏が言った。
「今日の映画鑑賞会を終わります。」

http://jozeetora.com

日曜日, 12月 24, 2006

ババロア山越えて

クラムボンの彼女の声。
冬だけどサマーヌードを歌った。
車に乗って、現像を出しに行った。僕はドイツに送らなきゃいけないメールを今朝まとめて、十何時間かの睡眠の後で、現象を捉えて洗濯機を回していた。
猫の鬱が少し外でコロコロして、ドラえもんでクリスマスの話を読もうと思っても、すぐに出てこなくって。吉本ばななが藤子F不二雄について書いたエッセイを思い出した。
一年前の今日はちょうど「おじいさんに会いに行く、冬。」を豊橋のファミリーマートで朗読していた。
読み返すと、声や笑顔が思い浮かぶ。

夜に食べたババロアはとても美味しかったけど、胃が緊張してしまったのかも。
帰りにお腹が痛くなってしまった。

アートフェチにて伊藤正人氏の個展「Royal Blue Mountain」を見た。言葉による山は遥かにて青い。
見て伝わるものと読んで伝わるものを併せ持っている山は、言葉を森と呼んで、それを散策するというつくりを持っていた。

高速道路で帰ると、猫の鬱は肉付きが良く、お腹は食べ過ぎでぱんぱん。
ケンタッキーフライドチキンに並んでいた駅前の人々。
サンタは一年に一度しかやってこない。
日々は冠や名前などなくとも、一度しかないもの。
けれどそれは常に呼ばれるものではないから、誕生日を思い出す手がかりにしていたのだ。
僕は愚かで、数えずに喜ぶことをする思いを通せるかということで。
言うはやすし、行うがきよし。
笑って眠る。
言葉によるこの夜。
さんまは喋り。尽きぬことを生きることとし。掛け合いは遠い神様までのこと。
優しく休み。
そう言うよ。

http://jinmurata.jpn.org/301/101/ojiisanniainiikufuyu.html

土曜日, 12月 23, 2006

長良川の町より

朝と朝と朝と朝と朝と朝と朝と朝と朝と朝と朝と朝。

レジデンスより出て、お風呂には入れなかったけれど、旧十六銀行徹明支店での「16 art bank」の展示を見た。
金庫室の壁に鏡があって、自身を見つめることになるようになっていた。
創業当時の記念写真が作品と同列に並んでいるのが良かった。

吹き返るものは、町より起きた。
僕らは寝不足でありながら、満ち足りた気持ちで、
自らの胃にやさしくしようと、うどんを食べた。
すぐ前にある駄菓子屋さんで、ねり飴を買った。
そしてねりはじめるのでした。
金華山のふもとには、芭蕉の句がありました。

この間に眠るため。
見つめる日に。
来夏は鵜飼いを見に来よう。

金曜日, 12月 22, 2006

こよみのよぶね

まる一日、岐阜県長良川にて行われた「こよみのよぶね」をビデオ撮影した。
人々の意識。
ここより引き出してゆくための
浮かび上がり、流れゆく暦を見送れば、
それはぼんぼりゆえ。
貼り合わされた数の仕事ゆえ。
煌々とゆく。

夜と夜と夜と夜と夜と夜と夜と夜と夜と夜と夜と夜と。

http://www.dnaand.org/

木曜日, 12月 21, 2006

POORでFUULな一日

部屋中にくぐもった煙草を風にやり放つ。
空はすっきりとしない天気だが、時間がないので洗濯をした。
猫の鬱がプリンターと掃除機の駆動音で興奮してダッシュ。
夕方に出かける今日は気楽な身分。
決めなきゃいけない量は誰でも同じだ。

ガラリアフィナルテで長谷川繁展を見た。
不可思議な絵だが、どうも目にひっかかる。それが繊細な触感を持っていた。プロの仕事を眺め、やはりいいものを見なければだめだと自分を言い聞かせ、下校する中学生の集団を横切る。
名古屋市民ギャラリー矢田、真坂氏の個展「切り取ったロケット」の会場へ。
すれっすれの空間。とぼけているのかマジなのか?ってな、テキストを書かれそうな気がした。僕が考えるのは充分にマジな話なのだけれど、イメージすること は自由だ。アートはこう見るものなんだという解説や、詩はこう読むものなんだという解読書は、ひとまず大前提のルールで、そこから破ったりすっ飛ばしたり するのがオツってなもの。作品はそれでもタフに揺れ動かないかが試される。
社会はプレゼンテーションの連続。氏は充足した時間を経ていた。ドローイングとクリスマスカードが同列で喜ばれていた。ブレーメンの外れにあるゲオーグの部屋で、フレームに入った絵は前を見ているはず。罰点が転がる理由を野暮ながら今度聞こうと思う。

bnap06 ミーティング。年内最後。来年の三月に行う報告展の案内状についてなど。終えて、自室で福岡氏と助成団体への提出資料の確認。最近見た作品や映画の話題。 ブルーノートと iPod が今年の暮れに響く。第九を聴こう。今日はお昼すぎに「No,9」と題した「第九」を聴いた。映画を見たんだ。暮れの映画だ。「東京ゴッドファーザーズ」 (監督,今敏/江守徹、梅垣義明、岡本綾/2003)。すごく良かった。前作より断然良いと思った。「No,9」はムーンライダーズによる。確か5・1 チャンネルのSACD 出してた。すごく楽しい。暮れにはこれと「時計仕掛けのオレンジ」で聴こう。
運命みたいに偶然がぐるぐる回るのは、心がそうさせてるのかもしれないけど、それを力にしていこうとする強さが持てる映画だった。

ここまで充電して、洗濯ものも干しっぱなしなら大丈夫。
ばっちり語り尽くしたよ。
赤の他人という言葉を潜めれば、関係を見つめる精度が上がる。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~ryop_ryop/

http://www.sonypictures.jp/archive/movie/worldcinema/tgf/

水曜日, 12月 20, 2006

メリー絵画教室

今年はこれでお別れ。
残念ながら三学期まで延びてしまった僕たちのイメージ。
クリスマスソングは恥ずかしくて唄えない、みんな。
三ツ矢のスパークリングワイン、サイダー白ぶどうが溢れる。
TICO MOON 流す。
男の子だけで。
それから煙草とスパゲッティミートのなかで、如何に食うかという話をした。
詩人?
サンタクロース?
どれだけのクオリティその言葉?行為?信頼?
僕たちのメリー絵画教室。

火曜日, 12月 19, 2006

最後の公園

今年の十二月はまだ秋みたいに温かい。
木もまだ丸裸じゃない。
ここからはじまる気がしてる。
いま私の全てのことが。
この公園をどう撮るか、公園ひとつをどれだけ描写できるかを思っている。ここの空気の軽さ、寂しさを。

すぐにちっぽけなものになってしまう?とニヒルにかまえることではなくて。
どんな印象であるか?とかっこいいことには理由がある。
L・O・S・Tじゃない。
ありがとう。
すぐに十二月は過ぎ去る。しがみついているか、散乱してしまっているかどうかは二月くらいに惨く分かる。
誤解するなよ。すぐに丸裸になるぞ。

電話中に地震があった。
なんとかすぐに収まってくれた。
こんなふうに動いているんだなと会社を後にした。
地下鉄を降りてまた歩く。





月曜日, 12月 18, 2006

公園のてっぺん

送ってくれた言葉を求めて、私の月曜日はまた公園より語られる。
てっぺんに上ったら、何が見えるだろうか。そう想像してみる。いま私に最も必要なものはその力。それこそがいまここから前に進ませる力なんだ。どこに行っても、そこを向かなければ、何も変わらない。
場所や本、人、何か新しいものが大きなきっかけとなって、そこに向かわせてくれることが多い。

「麦ふみクーツェ」(著,いしいしんじ/新潮社/2002)を文庫版で、借りたのを読んでる。行き帰りの電車のなかで、とたん、とたんとはどんな音だろうか。のどかな言葉遣いが楽しい。
帰宅すると、それからはスパゲッティを茹でるときに玉葱や塩に黒胡椒をどう入れるかと、いつのタイミングでクリームソースを温めはじめるかを取り組んでみる。
たわいもない些細な段差を上っていく。
私には向上心とそれを成し遂げたときの喜びが人一倍大きいのではないか。
自己満足や、一人遊びが上手とでも批判されることか。

危ないからと言って、日本中の公園から滑り台を撤去しようとする大人たちというドラマを思い浮かべてしまった。下世話でありがちな感じだが、既に教育基本法に愛国心は植え付けられて装填されている。
あれとこれとは関係無いだろうと罵声が飛んでも、今日はてっぺんからこの文章展開だ。
あての無い市街地を歩きまわったときに、母校を思い出せるかどうかが、教育が力となって震いあがれるかどうかだと思う。
みんな勉強をしている。少しでもいい方向を見出せるように。
亘さんとの共同制作「記憶の星座化」(2004)で見つめたはずだったけど、「思い出す」というのはスキルなんだなと思った。
そこから引き出すのもスキルで、思い出すことと勉強は極めて近い。
自己学習が上手と批判される筋合いはないぞ。
ただ「ひとりでは誰も愛せない」(著,鈴木博文/創現社出版/1994)んだがね!

日曜日, 12月 17, 2006

re: re: 岐阜の犬

宅配便を待っていた午前中。確認の為に電話をすると、おばちゃんは丁寧に返してくれた。電車や車で北へ向かう日曜。日曜なのにごめんねではじまる bnap06 メールを周囲に送り、目当ての荷物も十一時半に届く。このサインはいつかの自然な息づかいを残してくれていた。
少し北へと上がるのを意識する、我々は岐阜へ。母親からの犬の話も届く。私は二十七の自称詩人の作家活動中。立ち上がる氷川きよしを撮影できなかったカメ ラマンに捧ぐ、私の学習心。たわいもない独白。作家は旗を振る存在、社会のなかで求められる存在でなければいけないから、FC岐阜は勝利した。我々は勝利 の牛丼を食べていた。つまらない意地を私ははっていた。なんとか答えを見出したかった。君はとっくに見抜いていた。どんどん北へ行ってしまうような気がし た。
「HIBINO DNA AND...」の企画、来る 22日に長良川で行われる「こよみのよぶね」で使われる ぼんぼりをみんなでつくる。犬もつくられていた。私はこっそり、犬のフレームがつくられるのを見ていた。
鼻の穴が黒くなっていた。たくさんのいろんなものを吸い込んでいた。

「無念」と「残念」という言葉について書く。
先日の日記で、「無念」という言葉を使っていたが、あれは間違いのような気がしていた。心情をあらわすには間違いだった。「無念」は、武士が切腹するとき に言う言葉。「念がもう無い」と宣言しているのではないか。本当は念があったとしても、言うことで無しにする働きがある。
「残念」は「念が残っている」という後悔の言葉で、まだ終わっていないと思っている意識だ。
だから「無念」と「残念」を混同してはいけないと思った。
ここまでは私の考えだ。
辞書を開くと、どちらにも「悔しく思うこと、さま」と同じ言葉で記述されているし、「残念無念」という言葉もあった。
「残念」は形容動詞のみであり、第一義は後悔。
「無念」は形容動詞と名詞の場合があり、後悔の意味は二番目にあること。名詞としては仏教用語で「種々の雑念を生む心を消滅させた状態」とある。
「残念無念」は昔の新造語なのかもしれないと思った。そもそも、人が「無念」になれる瞬間など理想めいた話だよという達観もそこには見える。
「念がもう無いようにしたいけど、まだ念が残っています」みたいなね。

岐阜の犬は明日からも元気にいくだろう。
誰にも新しい一週間がはじまる。





http://www.dnaand.org/

土曜日, 12月 16, 2006

今日のカミーユはちゃんと息ができた

結局、残業となって、地下鉄を降りてからも歩いて帰った。
夜は駅の近くにあった松屋で大盛り豚丼にした。土曜日のダイヤは、名鉄との連携をするつもりが一切無いようで、地下鉄線がホームに着くのとの同時に、目の前の名鉄電車が出て行くという実に不愉快な気持ちになる乗り継ぎである。松屋は味噌汁が付いているのが嬉しいなぁ。
名鉄の一区間に160円。地下鉄の遠く離れた目的地にはそこから290円。一区間分の値段が高くつくので、悔しさと、節約心と、乗り継ぎ連携が為されないことへの憤りから、夜道を歩くことにした。
通り沿いの家は、前を通過する度に自動センサーで防犯ライトが点く。それが逆に悲しい気持ちにさせる。ここは自分の家じゃないんだと自覚させられるのだ。

「機動戦士ZガンダムIII -星の鼓動は愛-」(監督,富野由悠季/声,飛田展男、池田秀一/2006)をレンタルの DVDで鑑賞した。「エイジング」と言うらしい新旧のフィルムを織り交ぜて繋ぎ合わせる編集が、やはり僕には馴染めない。ザコのキャラクターやモビルスー ツより、オープニングでバチッと格好良く美麗なZガンダムとカミーユが見たいと思ってしまう。子ども騙しなのかもしれないが、そのようにカッチョ良く賑や かでいながら、ヘビーな戦争ドラマというのが僕の好きなガンダムのバランスだと思うから。と、まったく同じ文句を三部作に続けて言っていたけど、比べると 今回が一番良かったように思う。エイジングにも覚悟はしていたし、実際に新フィルムも多く、また物語も濃厚で詰め込み過ぎなくらい畳掛けてきて、一貫して どのようなことをやっているのかを掴むことができた。もっともこの感想は、テレビ版を見ているから分かるというのが大前提ではある。映画で初見だと、展開 についていけないように思う。
ラストは騒ぐほどのものでもないが、あのシーンのイメージは大好きなので良かった。他の作品でも同様のシーンでエンディングというのがあったから、監督にはやはり思い入れがあるのだろう。最後に帰結するメインテーマだと凝視した。
僕の好きなキャラクターは、エマとファー。カミーユはすぐに文句を言う現代っ子である。アムロよりお利口さんな感じ。名鉄の一区間分くらい払っちゃうね。ブツクサ独り言は言っているだろうけど。塾帰りのひねた高校生みたいだな。

http://www.z-gundam.net/

金曜日, 12月 15, 2006

公園で

もう公園にあの人はいない。
私は目をつぶり、送った言葉を思い出そうとしたが、無念でならず、さまようだけだった。
部屋に帰って、送ること、決めることを並べ、私はゆっくり目を開く。
広がるのは、私たちの人生、私たちの世界。掛け値無しのそのもの。
だから一度きりと見る。









木曜日, 12月 14, 2006

自分が見たかったものは

その価値を見せろ。
失ってでも得たかったものを見せろ。
卑怯な心を思い出すのは、格好だけのことだ。
言葉が必要なんだ。僕には。
僕の誠実さはここにもあったはずでも、酷かったんだよ。何時になっても。

「芸術起業論」(著,村上隆/幻冬舎/2006)を読む。
悔しく、惨めな気持ちで雨の夜に寝る。
壁を叩いたクリスマス。
「抱きしめることができない人を、詩で抱きしめる」というのが作品「抱きしめる」の主題だ。
もう皆まで言ってしまった。逃げ道はどこにでもある。
その価値を見せろ。
羨ましがられるほどのものか?
自分が見たかったものは。

水曜日, 12月 13, 2006

今年の自画像

昨日、ブログに書いた 図書館利用者の公共心が問題になっているニュースを批判したからには、自分も延滞している本と CDを返さねばと、雨降るなかを自転車で返しに行った。またたくさん借りて、安心する。その足で岩倉へ。
今日の教室は「今年の自画像」と題したマジな内容。
いやいつでもマジだぞ。子どもに教えるとき、自分の問題は全て露になってしまう。だからいつでもマジになる。言葉はマジな意識を伝える。
来週はクリスマスパーティをして、年内は終了だ。
来年は油絵をすると宣言!まずは木炭デッサンからはじめるぞ。

西山氏とマクドナルドで近況雑談。そのあと真坂氏のアトリエでも続けて近況雑談す。
レンタルビデオ屋に寄って、帰宅し、教えてもらったアートのサイトをチェックした。
自分は盲目的に地図も見ずに突っ走ってしまったんだなぁ、と思った。
ドイツでベルリンに行ったときのことを思い出す。無謀なことは疲れるのだ。本当に好きなら、サポートも全力で享受しに向かわなければ。
ブログのカテゴリにある「bnap05」の数を超えるように、より向上したプロジェクトに日数を懸けていきたい。いまそれは「抱きしめる」だ。
「今年の自画像」は、みんな自分の顔になっていて良い絵だった。お世辞ではなく、良い絵を描く意識が持てている。マクドナルドでは折り鶴ひとつ折るのに、表現の問題なんだといちいち五月蝿かったが!・・・これもマジな話。


火曜日, 12月 12, 2006

いじめ自殺を無くす為に歴史の授業を強化させる!下手すると世界に達観してしまって、自殺する子が増えるか?よく言われる自殺の理由に、人生と世界に達観視してしまうというのが挙げられる。

悪霊でも吸い込んでしまったかのように、突然ガタガタと震えだし、布団に潜り込む。夜道を歩き過ぎたのか、脹ら脛の腓返りも同時に併発して、けっこう洒落にならない異常体感に。デロンギヒーターのスイッチをフルで入れながら、さっきテレビで見た「治療の順番を待つ母子」という長崎の原爆報道写真に映っていた母が、今日亡くなったという報道を思い出し、生き死にの瞬間など、こんなもんではない発狂状態なのだろうなと想像すると気が遠くなる。そんな歴史に頭を垂れ、世界はとんでもないと、身を引き締め謙虚になる姿勢から、公の心や生きようとする心が生まれてくるのだと思う。小林よしのりの受け売りのようだが、本当にそう思う。全国の図書館で切り抜きやアンダーラインを勝手に引かれる本が増加しているらしい。とある図書館では、館内で堂々と切り抜きをしている者に対し、係が注意すると「なんでいけないの!」と喧嘩になったらしい。ゾッとする。「いじめ」も無くそう無くそうと言いまくり、芸能人はこぞって昔いじめられていたと告白するが、昔いじめていたという者の意見こそ僕は聞きたい。不良キャラの方、哀川翔あたりが愛のあるパンチで抱きしめるのが見たい。安岡力也では、いまの子どもらと同世代的には響かない。哀川翔でもちょっと上か。小学生に効くのは、お笑い芸人とかかな?フジを見ていたら、今田耕司がウェンツに「もし小学校で同じクラスやったら、ガイジン〜といじめてたわ。ごめんな〜、絶対に言ってたわ〜。」と笑いにしていたのが面白かった。ウェンツは実際にそうからかわれていたので「ガイジンだぞー!って、言い返してました。」と笑顔で実体験を返すのも良かった。そう、からかいは興味のあらわれだから、実は愛情に変化できる可能性を含んでいるんだと思う。人は世界のことを全て納得し尽くしたいから、いろいろな方法で名前を付けるのだ。大人の世界もいじめだらけだ。だいたいアメリカが世界一のいじめっ子じゃないか。日本は優しいんだけど、表面的に体裁をつくろうのが裏目にでるときもある。欧米的な社会システムとの無理が常にある。いや、欧米でも全てがうまくいっているわけではないんだろう。僕も根っからの日本人だと思う。嫌というほどもうこれは変わらないし、これが脅威にもなるはずだと思う。
苦痛のなかでそんなことを思い、ドラクエ9がDSで出るのか〜、しかも四人同時プレイで戦闘はアクションで来年発売予定で、いつの間にか草薙クンがドラクエの宣伝マンになっていて、堀井雄二とすぎやまこういちと鳥山明いう巨人達を思うのであった。
「ドラゴンクエストへの道」(著,石ノ森章太郎、絵,滝沢ひろゆき/エニックス/1990)は名著であった。中村光一も凄い。DS買ったら、トルネコしたいな。

そのまま眠りにつき、福岡氏への書類受け渡しを流してしまった。いや、彼も残業になったとかで仕方なしか、兎に角、師走は思い巡らすことがまた chaos。

月曜日, 12月 11, 2006

正直な価値だけが残る

温かい思いで、朝から昼へ、そして夜へうつる。
いましているアルバイトも賞味一週間と少しで、勉強は続いていた。
スーパーで買い物をしながら、コンビニはやっぱり高いなぁと思った。

天津飯のお弁当百円引きを食べてから、テレビでたまたまやっていた映画「NANA」(監督,太谷健太郎/中島美嘉、宮崎あおい/2005)を見た。なんと なくであったのが、思いのほか引き込まれる。等身大の切なさが伝わってくる感じ。いま映画館でやっている続編はキャストが違うらしくて、残念な気持ちに。 いろいろな思惑が行き交っているのだろうなと思う。熱が冷めないうちに突っ込んだ余裕の無い感じを想像してしまう。

「イルコモンズのふた」で、文部科学大臣の作文を知った。これも余裕が無い要素が無くて突っ込んだ感じ。こういうのは子どもに痛いほど見抜かれてしまう。 読んで無いダローナー。全くの無駄だとは思わないが、逆に子どもを弱く、事故定義化してしまわないか心配だ。自分は「いじめられっ子」「いじめっ子」っ て。この文部科学大臣の言葉は正しい答え過ぎて、頼りない。そう、いまこそ「詩」なんジャロー!JYARO に電話して、詩人は勢いだけで突っ込まず、温かく抱きしめることができるか!?

今日は温かい冬の日だった。
正直な価値だけが残るんだろうなと思った。
どのようなことも。

http://www.nana-movie.com/

http://illcomm.exblog.jp/4343392

日曜日, 12月 10, 2006

re: 岐阜のアラビックヤマト

電車に揺られて、岐阜へ行く。
犬山駅から乗り継いで向かったので時間がかかり、痛恨。
日々野克彦からの企画「HIBINO DNA AND...」へボランティアワークをしに。
長良川の流れを貼ったり、「こよみのよぶね」の数字の「2」を貼ったり。
あっという間に終わりの時間になった。
親切で丁寧なスタッフの方に感動。
bnap05 のときに、ボランティアで味噌蔵に来てくれた方に接するのがどれだけたいへんなことだったかを思い出した。

岐阜市内のブックオフに寄って、帰りは「夜露死苦現代詩」(新潮社/2006)で心から笑った。横すっぽ叩かれる思いで、そんでもって抱きしめられる思いで。気合い入れっか!と落ち着いて!今夜は鍋焼きうどんとミルクプリンを食べて眠った。
猫の鬱〜、布団の中でガブリンチョ。詩人って何YO 何YO!

土曜日, 12月 09, 2006

贈り物を見届けた一日

雨は体を冷やし、僕には認めたくない変化を促した。夢から覚醒したのに、社会は地下を覗かせる姿勢で適度な会釈と共に時給相応それ以上の振る舞いを要求し ている。いや、もとい、夢は浅はかな僕の合わせ鏡なだけであったのだ。自覚するという可能性、自らが見出せばそれは酷使される関係にならぬことに気付き、 表向きは戦わずして勝利を続ける大人でいる者は、風邪をひいてしまったのではなく、風物詩として風邪をひいたのである。クラスの全員がビジネスマンやオ フィスレディになりきることは、実はできない。たとえ商業科でも、言葉は蜜の間(ま)を持っている。露悪的な電話応対に疲れたら、夜は猫になってしまえば いいのだと、お酒を飲んだようだ。もてはやされた四週間が終わり、逆に言葉足らずの日々が浮き上がった。拍手喝采、見えない花束のあとで、僕が贈ることが できるものは何であったか。中学生の時分からずっとこのような自問自答を続けている。歯を磨かず、流れる田んぼの闇に浮かぶ車のライトを電車の窓から見て いた。窓には僕の顔も映り込む。この視界自体を何かの画面に撮影することは不可能だろうなと思った。街から帰るときのことだ。風邪薬を飲んだカミーユらし い。良かった。修正され続ける、蹴落とされる時間の跳ね返りに目をつぶったのは誰だ。誰も悪くない。蜜の間(ま)を意識しているうちに、今夜は言葉を蘇ら せる言葉を唱える。
贈り物を見届けた一日。

金曜日, 12月 08, 2006

地上も地下も無く地球

お腹を満たすとすぐに眠くなり、地下社会の鉄道会社の夢を見た。ドラクエやエヴァみたいに地下に街が作られていて、そこは表社会より半額で乗ることができ る鉄道が走っているのだ。ひとつの会社がその地下社会を運営していて、地上からドロップアウトした人々が住んでいるようだった。そんな大規模なことなの に、電車が安く乗れる程度というのが、どうもみみっちく我ながらだと思う。この夢はドラマ仕立てになっていて、随所のポイントで知っている人が登場してく る。ドラマのはじまりは表社会で、有名な展覧会を僕が一人で見に行くのだが、その会場の近くにあった彫刻に日光が重なる点があって、そこから次元が歪んで 地下に滑り込んでしまうのだ。そこらへんの物理的な構造は適当で、ついにはアパートの玄関先に入り口があることにも気付く。ヤバイことを知ってしまったと 思いつつ、みんなも買っているので、僕もその鉄道のプリペイドカードを買ってしまう。だがすぐに、ここを知る客や会社員らが裏切ろうと企んでいることを知 る。僕自身も、自分だけちゃっかり利用して早いとこここから逃げなきゃと思っていたので、みんなすぐに地上に出たがるようになるんだなと頷いた。やがてド ラマは僕個人ではなく、この地下社会を運営している会社の経営陣らが描かれていくのだが、ここからは騙し合いの駆け引きと、結局は地上社会のように変貌し ていく集団劇になっていく。

目を覚ましても、残像が浮かんで気持ち悪かった。
ビデオに撮っておいた音楽番組をまとめて見て過ごす。雨の降る深夜。猫の鬱は足下で寝ていた。
MUSIC STATION に井上陽水奥田民生、僕らの音楽に森山直太朗と友部正人、POP JAM にムーンライダーズ。
オセロの松嶋尚美がボーカルをしている KILLERS が出ていて、表も裏も無くはじけていて良かった。
表社会ヅラした言葉をかいくぐって唄おう。翌朝六時に居て、次の息が楽しみだ。

木曜日, 12月 07, 2006

雨の悩み

理不尽に鼓舞される言葉に呆れてしまい、雨のなかを歩いた。
男は馬鹿だと、十九歳と二十七歳は夜の空気を吸う。
それを地で行って、思い出すことはきりがない。
会議に向かうときに聴いていたのは、中村一義で、スキップしながらにはぴったりだったのにな。
それこそ金字塔って感じでいけんもんかと。来週のミーティング休みが決まって、濡れ転がった。
雨に言い聞かせたって無駄さ。
女達は帰るよ。
そりゃそうなんだよ。
損して得とれよ。ようやく気付いたのは俺のことだよ。
遅かれ、早かれ何かを言い合うか。言い合えるんだろうか。その余地については、どんな言葉で唄えるだろうか。
というわけで、ジャンバーだけでのりきったので濡れまして、後は自宅で bnap06仕事した次第です。

水曜日, 12月 06, 2006

コラージュのちパーティ

大竹伸朗の受け売りだと宣言し、本日の絵画教室はコラージュ大会。チラシや雑誌の素材をたくさん持ち込み、みんなでハサミをチョキチョキ。異なるソースのイメージを出会わせる。
テーマは野球。楽しい野球場の俯瞰図を描いた。子どもよりも、参加していた僕や西山氏のほうが熱心になってしまったところもある。構図についてが剥き出しに問われるので、コラージュは面白くてヘビーだ。

それからポールらのアトリエにて、ピーターを囲んでのパーティ。誕生日もあってクラッカーを鳴らす。鍋にダンス、握手に指差し、再会を祝い、また願う。
この頃のことなどをたくさん話した。

火曜日, 12月 05, 2006

目がきらきらして、言葉で開いている

言葉足らずのことばかりだと、それだけじゃ分からないし誤解されてしまうこともあるしで、対立し合うのも実は全てそんな理由なのかもしれない。
でも、ここからも思うのは、人はひとつの言葉から莫大なことを想像することができるということ。
活字中毒者というのは、もしかしたら言葉から想像することを快楽にしているのではなくて、想像することが実はあまりできない状態なのかもしれない。もしくは、想像することができない貧しい言葉だけにしか囲まれていないか。
この反応についても、逃れられない原則だと考える。

夜は あんかけスパとお茶をした。NHK で国民健康保険制度の行き詰まりをドキュメントしているのを見て、先の小泉政治は二極化現象を何も本気で捉えていなかったんだなと思った。がんばって、 ちゃんとして、安心できるようにしないと。ドキドキワクワクできるように。僕も、控除が溶けるぞ。

月曜日, 12月 04, 2006

原則から逃れることはできない

気付けば、朝五時の名古屋駅。
眠気と寒さで、逃げるように無理せず帰宅、二時間だけ睡眠をとる。
この判断が正しくて、身体がとてもラクで良かった。
やっぱり睡眠だなと。
物理的な現象の反応で身体は動き、それで言葉を扱い、ものごとを考えているんだなと。当たり前のことを思う。
この頃は本当にそう思う。
表現についていくら大きなことを吠えても、こんな原則から逃れることはできない。
でも短い睡眠時間だったので、バイト後には、帰ってすぐに突っ伏して寝てしまった。
よく言われることだけど、名古屋はやはり、行き交う人がゆっくりしている。
環境も原則。
ここで起こってくることを受けとめていこう。

日曜日, 12月 03, 2006

東京歩き、僕は、僕は、僕は

まるで申し合わせたかのように、早朝の渋谷には誰もいない。確かあの BYG は道玄坂にあったはずだと思い出したが、見つけることはできなかった。
ゴミ回収車と叫び合うホームレスを路上に見て、ひとり歩き続け、「煙草路地」(作詞作曲, 山本浩美/1974)を唄う。

恵比寿の「写真新世紀」展へ。いい展覧会だった。丁寧な仕事ぶりは、鑑賞者の目に届く瞬間まで続くことを思った。見ることができて良かった。
アートフロントギャラリー、シェル美術賞展とそのまま歩く。代官山のあたりは裕福な感じだ。
電車で両国に向かい、荒木経惟「東京人生」展へ。IXY を握った新作「色夏」は現在進行形であると思った。
意図は理解できるものの、江戸東京博物館の展示空間に混ざっている関係には戸惑う部分もあった。bnap05 のときにトヨタの産業技術記念館内で展示を行ったことを思い出す。博物館鑑賞と、美術鑑賞は似ているようで異なるから。

携帯電話の電池が切れたので、秋葉原で安い手回し充電器を買うが、うまく動かないので、諦めて携帯ショップにお願いしに行く。快く引き受けて頂き、待ち時 間にオタク街を社会見学。情報では知っていたが、生で見る現象は迫力が凄い。ネットアイドルの路上パフォーマンスは、見ている野郎のほうがパフォーマーの ようだ。この全体自体を見ている人もたくさんいた。タケノコ族も見せ物化してたであろう。
三十分百円という激安ネットカフェを見つけたら、メイドネットカフェと書いてある。入ると、一人だけが申し訳なさそうにメイドの格好をしていて、後は古び た漫画喫茶だった。ネットは Windows95 時代のようなノートPCでやってくださいという無茶な仕組み。それだけでも変な空間なのに、目の前でアラブ系のカップルが抱き合いながらネットサーフィン をしているというのも凄い。ここが一番カオスだったように思う。

充電を終えて、無事に秋葉原を脱出。名古屋の大須もオタク街だけど、お祭りっぽい感じは比べ物にならないと思った。ソウルを回ったときに、大規模な都市ほ ど地域毎に専門化を進めて個別に発展していくということを学んだが、東京はまさしくそうで、渋谷と恵比寿、代官山、両国に秋葉原は全て異なる。東京に住ん でいる人でも、ぜんぜん行かない街もあるだろう。
そして新宿に戻った。深夜のバスで名古屋に帰還する。アルタ前まで歩くときに、駅の南口でやっていた工事の囲いに、おそらく写真家による企画作品がプリン トされているのを見つけた。面白いなと思っていたら、路上スナップのシリーズに、森山大道や電撃ネットワーク、鈴木慶一もいるではないか。嬉しくなって、 電池が不安な携帯でパチリ。後で調べたら、これは吉永マサユキによる写真のプロジェクトだった。

十一時までやっている喫茶店に入って、今回の東京の話をたくさんした。
今日見て来た展覧会の話もたくさんした。
話は尽きぬこと無かったが、バスのリクライニングを倒すと、眠気は襲いかかってきた。

さあ、煙草に火を点けて
どこへ、どこへ、行こう
さあ、煙草の煙をくゆらせて
どこへ、どこへ、行こう

破れズックをつっかけて、穴開けポッケに手を突っ込んで
のばした髪を風になぶらせて、小便臭い路地を行けば

何にも考えはしないけど、僕は、僕は、僕は
何にも話はしないけど、僕は、僕は、僕は

僕のこの心の奥底から、汲めど尽きないものが湧きいづることを

さあ、煙草に火を点けて
・・・

(作詞作曲, 山本浩美/1974)

http://www.shinjuku-ss.jp/

土曜日, 12月 02, 2006

全ての景色を言う

宇宙にはあと一歩だった。
そんな僅かな、でも本命の望みを追うようにして、バスは走った。

「大竹伸朗 全景 1955-2006」展を見に、朝七時、東京都現代美術館のある清澄河の町に立つ。
少し歩くと、「宇和島駅」という看板が屋上に付いているのを発見する。はじめての町だから、本当にあるのかと疑うが、明らかにおかしい。既にこれははじまっているのだなと思った。
そんな早くには開いていないし、待ち合わせ時間まで三時間もあったから、迷わずファミレスに入ってモーニングを食べた。お代わり自由のコーヒーと杏ソーダ を飲みながら、「海馬 脳は疲れない」(著,糸井重里、池谷裕二/ほぼ日ブックス/2002)を読み終えた。前向きになれる対談が、丁寧に、それでいて堅 苦しくならない言葉で収められていた。
教育にも、サブカルチャーにも、容易に自己定義しようとしていないところが「ほぼ日」の糸井重里らしい。やろうとしていることはただの対談であって、変に 気負うところは無いというか、大義名分や意味を掲げるのは置いておこうという姿勢が、この本の中で後半に出てくる「あとで修正するかもしれないけど、いま 自分が考えていることはこういうことです」という言葉に出ている。これは更新を共有していこうとする、気負わない姿勢だ。
読み終えて、根拠の無い自信を持ってがんばろうと思えた。
脳は「べき乗」でうなぎ上りするのだから。

十一時、美術館に入ると今日の昼から大竹伸朗と湯浅学の対談イベントがあると知る。「幻の名盤解放同盟」「時代の体温」の!あの方かっ!と興奮する。その イベントが三時から六時まであるという長丁場ものなので、終わってから展覧会を見ることができない展開だ。急ぎ足で見ねば!
と、思っても、この展覧会は多く話されているとおり、大規模な回顧展であり、総作品数二千余というフルボリュウムで迫ってくる展覧会だったのだ!しかも大 竹伸朗の作品は、濃厚多層イメージのハイアンドロウだから、すごいすごいすごい。興奮止まぬまま、後半泣く泣くペースを上げ、三時には企画展示の全てを見 たが、常設作品展と、大竹伸朗の選書展という別企画は見れなかった。

エレキギターぐわんぐわん振り子状に鳴り響く「零景」のあるエントランスの宇和島駅より、地下に下ると、講堂からクリスマスソングが流れていた。壇上にレコードセットとスピーカーが組まれている。
やがて湯浅学と大竹伸朗の両氏があらわれて、対談のタイトルは「歌謡曲相撲」というハイパー脱力企画がはじまった!
これでもかというくらい、当時ガキの今おじさん世代は感涙ものの歌謡曲レコードを流しまくり。
間にぶっちゃけ本音トークを話すという、何の気負いも無いリッチな時間であった。母親に勝手に捨てられないように作品が大きくなっていったんでしょうと湯 浅学が突っ込んだり、こうやって描けばこれが出来るなと思ってしまうと冷めてしまうから、一歩踏み込むんだと画家の情熱を大竹伸朗が返したり。最後は何の 対談なのかわからなくなってきて、谷岡ヤスジは凄い!と強く言っていた。

そこからダッシュして、、小山登美夫ギャラリーで蜷川美花の個展、シュウゴアーツで森村泰昌の新作を見た。同じタイミングで同世代くらいのカップルがエレ ベーターに駆け込んできた。男子は「靴を踏むなよ、殺すぞう!」と女子に言い、女子は「私の靴は踏んでもいいよ!」と返していた。

地下鉄を降りて渋谷に出ると、街はやはり狂っていたが、そこでは東京の幻影を見ている者だけが騒いでいるように思えた。
十一時半、携帯電話の電池が切れた。
僕らには来年の手帳を、両方が持つという望みがあると思う。
あと一歩の宇宙も、ここから望もう。

http://shinroohtake.jp/

金曜日, 12月 01, 2006

LOST、あるいは!

まだ三千円くらい残っていたユリカを無くした。鞄や財布をひっくり返しても出てこない。今日の朝の出勤のときに使ったのが最後で、改札を出たときに左のケ ツポケットに入れたまでは覚えているのだが。どこでどうなったのか無くなってしまった。落としたか、あるいはすられたか。

僕自身、先日にあった飲酒の機会からの傷は癒えていなかったようだ。それからまた何かを無くした。あるいはそのぶん、得ようとしたのか。いまいちど強い力 で抱きしめようとした。もがけばもがくほど、やさしい気持ちからは遠のいていった。朝焼けの公園で、缶コーヒーを握りながら悩んでいることを聞くような行 為に落とし込みたかった。切ない想いを肯定でもしなければ、それも自分自身がそこを力にもっていけないようじゃ、世界中のセックスは全て欲望のはけ口に なってしまう。そんな定義の仕方こそ、オヤジくさいと罵られる。川と町について、僕と彼女が見ていたもの。あるいは彼と彼女が車で通り過ぎた風景の流れの なかに、何もきらめくものは無かったとでも言うのか。
彼が彼女の絵を描くことをしないのを、僕はどう考えていて、僕自身はどうなのか。
沈んでいくだけの憶測はこれで終わり。
僕は逃げるように、深夜の高速バスに乗り込んだ。
シートを倒すためのレバーが壊れていて、背もたれがずっと垂直になってしまっていて寝苦しい。
思い出すための夢も見れない。