金曜日, 7月 31, 2009

一文字目を出す声で 自らを起き上がらせるような

荷物を急いでかつぎ、地下鉄に急いで乗る。今池の Tokuzo で早川義夫 佐久間正英ライヴ。オープニングアクトはミラーボールズ。
一杯のビールで酔った分は歌で明らかになっていった。
一文字目を出す声で 自らを起き上がらせるような早川さんの歌。哀愁の中で渦巻く思いが、佐久間さんのギターで暴れた。
明日からの僕は徘徊する詩の連続がはじまる。時折、早川さんの歌い出しを思い出すと思う。

http://www15.ocn.ne.jp/~h440/

木曜日, 7月 30, 2009

トキメキのメディア

名古屋の妖怪博士は「最近 ラジオづいている」と言っていた。それは自分自身のことなのだけれど、世界はトキメキのメディアを テレビでもネットでもなく、ラジオだと言っている節があるように感じる。トキメキのメディアとは、実用性とか利便性を追求するベクトルとは異なって、心ときめかせる存在だ。蛇足に説明的だが、トキメキのメディアは形而上的に君臨していくだろう。ラジオはその時間だけに流れて、私たちの手を止められるかと鳴っている。
シーシック・セイラーズもラジオ放送を軸にした世界だった。忌野清志郎の Oh! RADIO に胸を打つ。トランジスタラジオを持って来させて世界を思うべく、アーッ!ラジオ a"arts!RADIO を行う。この秋、十月の半ばにだ。この夏はラジオを聴きながら起きようと思う。テレビもネットも点く部屋で、ラジオだけで繋がろうとすることを思う。「トキメキのメディア」という定義が体験に変わるか。

http://kappaseico.blog66.fc2.com
http://www.youtube.com/watch?v=J0LlDVYyUpU

水曜日, 7月 29, 2009

贈り物がはじまったという はてしなきところを目指す

大須商店街のドトールコーヒーで開店を待ちながらお話。上前津のレコード店 サウンドベイで「シーシック・セイラーズ登場! Pirate Radio Seasick」(鈴木慶一 Captain HATE and The Seasick Sailors プロデュース 曽我部恵一/2009)を求める。映画も付いてる初回盤を。

東京タワーの立つ世界より、はてしなきところを目指す。
愛と憎しみの酔いどれ船員たち。
みんな海賊ラジオを聴いている。
メロディ。それは慈しみの眼差し。顔を振り返る姿も、みんな前へ向かわせる。
愛憎は父からの贈り物から分かれて生まれた。
音の広がりは彼女を含めた僕らから起こる。はてしなきところを目指す限りは。

聴いてはくり返す波のように、諸作業にまみれてもしっかり聴こえていた。贈り物が返ってきていた。
いや、これは贈り物の返し、はじまりだ。

http://e-days.cc/music/feature/tunein/200906/27637.php?page=1

火曜日, 7月 28, 2009

ハードコア記念日

博士と娘たち、新キャラと新世紀詩人らでビューティアンドヘルシーな、いつにない夜。野菜とワインの間にある口のざわめきは計って突き立てたタワーでは聴こえないぞ。このままじゃ。リアルタイムじゃないけど一世を風靡したと教科書に聞いてた。俵万智。いまやチョコレートにたかる蟻を毎日見る。ダリの映画みたいと一人わめいている。焼きが足りなかった29年目のプリンを皆ですくって食べる。ダリは口のなかにゴキブリを入れて来たって、先生から聞いた。川の字にはならず寝る。フラグなど立てては倒すためにあるぜ。名古屋タワーをどこに立てる?

この中心が堅いねと君が言ったから7月28日はハードコア記念日

月曜日, 7月 27, 2009

見届けた後の皆なら

良いとか悪いとか考える前にどんどん進んで行くのは社会、即ち自分。

「ディア・ターリ」(監督, 山上千恵子/2001)のDVD を何人かで見る。
同性愛の当事者が抱える問題は、異性愛の者にとっても新しい観点をもたらしてくれる有意義なものだと語る東京都写真美術館の学芸員の方の言葉が強かった。
イトーさんの動きは 留まらないじたばたで、振るい出す動きに見えた。
観賞後に皆で話したことはマイノリティについて思うこと。アートはやもすると自分たちだけ分かればいいとなる場合についてなど。

来ると言って来れなかった面子が焼き肉をしているというので、マンションの一室へ移動する。
話の続きもするが、性についての話は誰もが思い入れが強く、皆で一点を見ることができない。それが自由なあり方だとは言えるが 寂しい気もする。性についてを誠実に語ることは、自分についてを語ることだから。
焼き肉は美味しかった。
「ディア・ターリ」の最後の場面は、緑の芝生の上でワインを飲んで語らう女性たちだった。
見届けた後、僕らは自分のこととして語ることができたのだと思う。
酒、ここではビールだけを理由にはできない。

http://itotari.com

日曜日, 7月 26, 2009

思いをむさぼっては反芻する

ぎりぎりのモーニング。過ぎると大雨まで本屋と茶店でゆっくり物色できる。確か大きい本屋だったなと覚えていて向かったら、今月いっぱいまでと看板が出ていた。空っぽの棚も並び、洋書が70%オフになっていた。寂しくて嬉しいハイエナになっていろいろ買う。茶店で戦利品を撫でて、徘徊は大雨だった。
紫色の傘を買ったが、詩はよく濡れてしまった。
窓にはこちらと向こうがあって、雨はどちらに降っていたか。
壁際で並び、たたずんでいた。
夕方が来て終わっても、これからはじまる前ぶれだった。雨はまた降るのだ。
思いをむさぼっては反芻する。

土曜日, 7月 25, 2009

くさくないんだ

二週間ぶりの金沢、そして徘徊の再開。いやずっと続いていたのだ。お前は松尾芭蕉らになりたいのかと言われ、そうかもしれないとニヒルに答えられるほど僕は斜にかまえたくない。馬鹿正直にでも俳諧と徘徊は呼びあっていると言うだけだ。
閉館間際に詩を手にとってくれた男性と女性が話しかけてくれた。松尾芭蕉も句を通して他者と話していたはず。
ゾーン2の消滅は全てがかき消えたわけではない。僕はあらゆる動きを思い出す。頭では分かっていても切なかった。新しい学校へ行くなら、もっと話したい。恋愛のように尊び、語り草になれればいい。
くさくないんだ。チェルフィッチュが塩田千春さんの部屋で行っていた長いパフォーマンスの断片を見る。あらゆる出会いは断片かもしれないとニヒルを振舞ってみる。あらゆる思いが解放されていく。焦らずに一言ずつ話していこうと思う。

金曜日, 7月 24, 2009

ポリッシャー、私たちのターン!

ひっきりなしに物事が押し寄せていた。常に人が関わり合っているのは、喜ぶべきことだと本当に思う。何もないけど何か話したりできるのは楽しい。それは気付いていないだけで、何かがあるのだ。
アニメーションとは 本来動かないことで成立している絵が 敢えて動き出しているものだと気付き、遊戯王の絵は「俺のターン!」と言い切ることで明らかになる家族の姿。耳を垂らしたままの犬も、眠気に悶えている猫も、みんな部屋で顔を合わせて、ああだこうだ言い合う私たちを見ている。

先日の宴で ねちゃねちゃと黒く汚れてしまったスタジオの床を 電動ポリッシャーで洗浄しようとした。
魚崎氏にも手伝いに来てもらって、格好いいところを見せようとしたが、高速回転するポリッシャーに振り回され 漫画のようにずっこけてしまった。それから力づくでブラシを押さえて格闘するが、ひどく疲れてしまうのでもう止めようと思っていた。別室で博士の出力作業に立ち合ったのち、スタジオに戻ると同僚の鈴木氏が鼻歌まじりで軽くブラシをさばいているではないか。聞くと、力ではなくハンドルの上下で左右の回転方向が変わるのに気付いたという。だからその上下の調節位置を感覚で把握すれば静止も移動も思うがままらしい。何っ!?と、交替し、言われたとおりに意識して上げ下げすると さっきまでの馬鹿力は嘘みたいに必要なく、楽ちんになった。ヘリコプターのホバリングのごとく 回りながら止まって、ピンポイントを磨き上げた。
反射をするほど明るい床が広がっていくのを見ていると、面白くなってくる。
水切りをして、雑巾で乾拭きし、机や椅子を運び込む。

新生スタジオがあらわれた。私たちのターン!と書いてみた。
喜ぶのは、それを呼べたときだ。目の前が軽くなる。

木曜日, 7月 23, 2009

埴生の宿

尊敬され得る者とは何か。「自由」になったとたんに恐ろしくなる。休みの日に稼いでおこうなんて実はおかしいんじゃないのと自問。なんて自覚が無いだけか。そのぶん後で五月蝿くなってしまう。でもまぁ、悶々とするのも必要な時間だとも思う。夜中に「ビルマの竪琴」(監督, 市川崑/安井昌二、三國連太郎/1956)を一人で見た。前半のあわや突撃で玉砕かという場面で、死んでも歌うべきだという反応が溢れていて、ここに「自由」が樹立されているのを見る。白黒の画面いっぱいに暑い陽射しが満ちていた。

http://www.youtube.com/watch?v=wxfrgTZxXQI

水曜日, 7月 22, 2009

世界は爽やかにうごめくイメージを求めている

日食を見れなかった。見事にぐーすか寝てしまっていた。
夜明けまで話していたのは人が信じたり諦めたりするきっかけについて。僕らは分からない。ただ理由も無く信じていて、それだけの動力でうごめいている。
外国でなら見れるさと繰り返す。
日食報道に「世界が空を見上げた日」と見出しがあって、見出しに見とれてしまった。
それから YouTube にて Google と連動企画の「未来のための Q&A」を視聴し、爽やかでいいアプローチだなと思う。イメージの作り方がうまくて、懐疑心無く大切なことだなと思わせる力がある。いとうせいこうと、羽生善治の質問が核心を突いていて面白い。プレゼンテーションにてアーティストが、どうしてこんな仕事をしているのかと話すのと同じだと思った。
誰かがうまくやってくれるとはもう繰り返せない。
誰もが空を見上げた日、僕はただ寝ていた。
世界は月面着陸も二世帯住宅化もみんな同じに取り込んでうごめいている。

http://sankei.jp.msn.com/science/science/090722/scn0907221507016-n1.htm

http://www.youtube.com/watch?v=cy8Ok9yP81w&feature=channel
http://www.youtube.com/watch?v=5SOD7S4jVA4&feature=channel

火曜日, 7月 21, 2009

けだるく雨が降ったから、猫が踊る歌を教えたがっている

とある審査を外して、それじゃ駄目だと言ってやれよと愛の無いところを突かれ、十二月公開予定の「輪ニメーション」の企画ミーティングなど、地味に試される局所が続く。
ようやく落ち着いたフリをして、忙しいフリから逃れた。自己暗示が入り口でもいい。必要なことを削り出すには、暗示にひっかかりにくい自分であればいい。そのぶつかりは かなりの原動力だ。
けだるく雨が降り、濡れたフリではなくて実際に衣服も鞄も濡れて自転車に乗っていた。傘が無ければただ濡れる。スマートフォンだろうが、Wi-Fi が飛んでいようが、水に浸かって壊れる反応をするだろう。人だけが濡れても風邪を誤摩化して正常に動こうとすることができる。正常か異常かは分からない。取り囲み合う多くの人々でそれを検証していくしかない。そうやって歴史は語られている。八月末までの選挙がはじまると報じられていた。動き回って票を集める行為だ。どれが自分に正しいかを書いていく。紙が小さくなるまで折り畳まれ、その下でバケツに花が生けられていた。シンクは汚れたコップでいっぱい。翌朝に洗って、自分で確かめながら冷房を切る。猫の写真をメールしている。おやすみからおはようまでに通信履歴は無い。
けれど僕は、猫が踊る歌を教えたがっている。

http://www.youtube.com/watch?v=fAYvMZKhQSc

月曜日, 7月 20, 2009

素朴さを守る為に知性が要る

連勤仕事の後で、夕食に土曜の丑を頂く。食べながら何故か司書の女性の話に。知的で素朴な人が何故に病まなければいけないという強迫観念に捕らわれなければいけないのかと問われる。いや、素朴故に悩むし、鰻が美味しくてもボリュームとか養殖とか、いろいろ好き故に検討するように、素朴に純粋無垢で姿勢を強くするために知性を持って病むのだと言い返した。いまや病むことのフリに長けた者は多い。コスプレは日常化し、眼帯の少女が主人公のアニメが行き交う。素朴に純粋無垢でいられるほど世界は静かではなく、次から次へと裏モードも表示される。厭世観は生きる力になり得るか。対立項の観点があってこそ比較思考として活かされるだろう。やはり、素朴さを守る為に知性が要る、か。知性を得て育てる場所、それが教育機関で無くてどこにあろう。オープンしておいても誰も入ろうともしない教室で、いま非難と凶弾されている主義主張が語られているか。それは憧れ過ぎなドラマ観だった。そして誰もが入ってくるだろう。純粋さとは卑怯に手段を選ばなくても良く、一点でその方法だけに終始している姿勢だ。信じられる画が徐々に見えてくる。いくら病んだフリ、つくり笑いのフリをしたって、美味しいものにお金を払うだろう。教室を出て、駅までの帰り道でまだ話してる。主義主張は柔らかい尾っぽとなって揺れている。熱いからビールでも飲んで、純粋に酔おうよ。私達は対等に話したい。話すことができたならどんなに豊かになれるだろう。

日曜日, 7月 19, 2009

映画を朝まで見て、人生をむさぼる

明日に何かを起こす。物語は気概を持って、私たちが綴り、見届けよう。

また遅くから朝までの会だ。自室にてビール片手にDVDで映画をたらふく見た。

「うる星やつら4 ラムザフォーエバー」(監督, やまざきかずお/平野文、古川登志夫/1986)。
「スペース・カウボーイ」(監督, クリント・イーストウッド/トミー・リー・ジョーンズ、ドナルド・サザーランド、ジェームズ・ガーナー/2000)。
「天国と地獄」(監督, 黒澤明/三船敏郎、仲代達矢、山崎努/1963)。
「東京失格」(監督, 井川広太郎/福島拓哉、岩崎高広/2006)
と連チャン再生。

うる星やつらは、押井守の ビューティフル・ドリーマー(1984)との類似品でかつ地味な印象で劣化した印象が拭えない。破天荒でもいいのだけれど、葛藤対象の根拠が無いので空振りばかり懸命に続く。ドタバタなのにユーウツで報われない。詰め込み感が制約に化けてしまったよう。
打って変わって、スペース・カウボーイは痛快に面白い。かっこいい男たちの物語だが、いささか一元的な世界の捉え方にも見える。そう見てしまうのは、グラン・トリノ(2009)を見ているからである。非常に構造は似ている。しかし異者への眼差しはグラン・トリノのほうが圧倒的に深い。スペース・カウボーイがアメリカ万歳というわけではないが、誇りに思う姿勢を前に出している。グラン・トリノは、真摯な疑いの目と意志を誇示すること、深いところに流れる誇りである。9・11 以前、以後であることを思う。イーストウッドの見ているものは何も変わっていない。その出し方が常にいまへの姿勢なのだ。
フランク・シナトラの歌声が残っているにも関わらず、画面は白黒の黒沢節へ変わった。天国と地獄は痛快でありつつ重厚だ。世界の構造は二極対立ではないと考えても、現実には対立して現れているのを見せつけられる。考えは本質的なものを見る目である。狂気も誠実も表裏一体だ。だが人は一つずつしか選択できない。牢屋の金網は、身代金が境界として色が付いたように周囲のモノトーンより熱かった。天国と地獄の接点には磁場が起こっている。
では、合格と失格の境界には何が起こっているだろうか。
朝になって、皆が帰ったあとで一人 東京失格に挑む。挑むと称したくなるくらいこれが鑑賞に困難な映画だった。プライベートフィルム調で撮られた場面からは台詞も伏線も聞き取りにくく、見づらい。分からないというわけではなく、うごめきが伝わってくる。その意図は成功していて、見終わった後に登場人物らがやり取りをしている顔は思い浮かぶのだ。それも動く画として。残像的な彼らの動きは、東京徘徊であり、合格も失格も彼らの意識ひとつである。彼らと女性一人の時間が流れたとき、私たちはかけがえのない選択の時が人生にはあると思えた。それは緊張感と言ってしまえばそれまでだが、そういうものだと思う。なんでもない日常をだら〜っと撮るという類いの引きこもり的な映像では決して無い。

翌日も仕事だというのに、無茶をして映画をむさぼりたいというのは何かある。骨休めではなく、気持ちの整理か、まだ埋もれている本音への回帰か。

http://www.youtube.com/watch?v=CIw4BvTVdS0

http://www.youtube.com/watch?v=l-pXaZAACGg
http://www.youtube.com/watch?v=D7GDYQY6ny0&eurl=http%3A%2F%2Fhomepage2.nifty.com%2Fe-tedukuri%2Ftengokutojigoku.htm&feature=player_embedded
http://www.youtube.com/watch?v=gaF62loA9Ys&eurl=http%3A%2F%2Fwww.p-kraft.com%2Flostintokyo%2F&feature=player_embedded

土曜日, 7月 18, 2009

体験のすがたかたち

寝ぼけ眼で移動。電車とバスを乗り継ぐ。
一宮市 三岸節子美術館にて、津田直 個展「果てのレラ」を見る。島尾伸三さんと津田さんとのトーク。時間が間に合わず、展示を見る前に見た。

観念的なことのみでは新しい言葉は生まれない。
体験に向き合うことが言葉を生む。
対話とは、見ている、聴いている、思ったことを互いに向き合わせることができたとき、思ってもみなかった言葉が口から出てくる。いま思ったこととして。
「果てのレラ」という言葉は体験から起生していた。
写真は体験そのものだった。

家に帰って、勉強しているという辞書を見せてもらった。最近変えた携帯の犬のクリアファイルと共に。目覚ましは犬の鳴き声。付箋は体験の蓄積。誰かが書いて、私が引いた体験のすがたかたち。

http://www.tsudanao.com/

金曜日, 7月 17, 2009

MYRE3

絵を並べるように、曲を並べられるわけじゃない。
今夜は MYRE3 at 仮設フロア。身内内最大級レイヴ第三弾。
皆、肩をぶつけ合ってすれ違う。サラダも配備されるなんて何て優しい。DJ として 00年のミチクサナイト以来に行った。誰かの口と耳が近くなるのを求めて、大きい音で皿を回しているんだという気概が要ると思った。

以下、自己申告セットリスト。(ブログの為にメモを採るから踊れないなんて本末転倒だとやはり思ってしまうけど、楽しみ方は人それぞれというのも頷ける次第。これこそ価値の多様化か!余談ではあるが、余談すらも踊りのなかに紛れて気にならなくなるやも。猫ダンスと呼ばれるそれは、もっと化けることができるだろう。)

01, アナザー2(PSI ミックス)/田中宏和
02, COSMIC SURFIN' /YMO
03, Satellite Serenade [Transasianexpress Mix] /Suzuki K1
04, INOSISIS PULSE /東京太郎
05, イエローサブマリンがやって来るヤァ! ヤァ! ヤァ! /MOON RIDERS
06, 9月の海はクラゲの海 (COSMIC TRAVELER MIX) /MOON RIDERS
07, Voice Of Silver / HONZI
08, イケネコ・ドドネコ /タモリ
09, Music For Tinguely/一柳慧

さぁ、明日はどこへ並べに行く!

木曜日, 7月 16, 2009

解体 Nights

机上スタジオの解体にとどまらず、天空スタジオ自体も解体していった。連日連夜で集まる面子も入れ替わりで吊り下げたり飛び跳ねたり。黒いゴムシートを窓の大きさに切り分けて、外でも踊り出さないように貼っておく。扉の中にいる者だけが享楽を聴くことができる。更にその上に壁を覆う黒のビニールシートを吊り下げる。天井が薄い合板らしく、引っ掛けたフックごと抜け落ちてしまった。この黒は光の遮断。壁には欲望の絵が映し出される。この花金は儀式で、朝まで踊ろう。暑さで皆、つまらないことでも気にして腹立たしくしてしまっているから。解体しても何か残ってない? 明後日の朝に何を話してる?

「今夜はブギーバック(nice vocal)」(詞, 曲, 小沢健二、光嶋誠、松本真介、松本洋介/1994)。

http://www.youtube.com/watch?v=JfpqbhTl-DM&feature=related

水曜日, 7月 15, 2009

ガブ美とぶつ美、夢と共に

たれ耳の女の子犬が眠たそう。
ふやふやしながら抱きかかえられていた。
僕は机を鈴木氏と部屋から運び出し、机上スタジオを一時解体する。
週末に、子犬を起こすために。
大音量で彼女をまさぐり、外へ散歩に、いっしょに出てしまわんと。
勇んで深夜だ。
ああだこうだと配置を決めているときがいちばん楽しい。永遠の前夜祭はラムちゃんの映画だ。
女の子犬はミミと名付けられなかったが、僕はガブ美と呼ぶことにする。自室には猫の鬱こと、ぶつ美が寝ている。

火曜日, 7月 14, 2009

ア"ーッ!ラジオ a"arts!RADIO という恐るべき企てたち

十月半ばに名古屋芸大で行う「ア"ーッ!ラジオ a"arts!RADIO」のミーティング。仮設 - 構想領域研究主催による。恐るべきラジオ局企画だ。三日間も体力は持つだろうか。それこそ、これを駆け抜けたときに「ア"ーッ!」と声が出るだろう。
ながら聴きをしながらでも、掴まえようとチューニングを合わせても、喉からの声ではないものが聴こえるラジオになりそうだ。小規模 FM発信と、オンラインストリーミング or ダウンロード方式で!
〜ミーティング後、夜十時と遅く、さぁ帰ろうと言いながら皆 YouTube でマイケルジャクソンのスリラーに釘付けで動かなかった。

http://www.youtube.com/watch?v=cIqj0xD7VCY

月曜日, 7月 13, 2009

噴水状にして作るフルーツポンチ

「chopstick」という新しくつくられたスペースでのオープニングパーティに誘われ、スイカや焼きそばを振る舞って頂く。大きいペットボトルのサイダーを振って、噴水状にして作るフルーツポンチが楽しくて美味しかった。誰かのパフォーマンスというわけではないが、目を引いた。
作品だと銘打つことなどせず、楽しげに見せることがクールであるという本音が現れてるのかもしれない。ならばもし本音を剥き出しにできたなら、どんなことが起こるだろう。僕の興味はそんなところにある。

http://chopchopchopstick.blogspot.com/

日曜日, 7月 12, 2009

ラプソディ・イン・ブルー

粟津潔 追悼特別プログラム「一柳慧 × 山下洋輔 ―ピアノセッション 《解放のラプソディ》」に立ち会うことができた。その動きは校庭を見下ろす同級生たちのよう。誰もが走っていて、いろんなことをやったのだった。命の楽しみ方、そんなことを思い浮かべた。何かに懸けて、何かを前にし続けて、互いに思い合う。文句も混ぜこぜにしながら言い合っていられたら。ピアノを燃やす、外は青い空。火は赤く、肌は焼けた。プールを前にして、僕は祖父の家に向かう軽の車についてをまた思った。そこから歩き出し、どこに行こうかと考えたり、考えたことを話したりしてバスに乗った。ガラス越しに手を振って声を出した。それはよく聴こえた。また名古屋への道は夕方〜夜の景色を走る。

http://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=24&d=612

土曜日, 7月 11, 2009

体中の何かも常にいま

徘徊の先に何があるのかではなくて、徘徊している間に何があるかだと思った。
言ってもらえたとおり、わざわざそんな強い日差しの下に立ち止まって詩を読むこともないのだけれど、そこはしっくりくる場の点だった。汗だくになって言葉も茹で上がるか、熱っぽくなるか。どっちだろう。猫や犬がまたどこかの中より動いている。

ラファエル・ロサノ=ヘメル氏のパフォーマンスは自作の紹介レクチャーの後に作品「パルスルーム」の中へ移動して行われた。
気持ちは動いている。視線も、体中の何かも常にいま。

http://www.lozano-hemmer.com/

金曜日, 7月 10, 2009

私はここにいて、これを見ている

ヱヴァで開眼したと彼は嬉しそうに語ってくれた。それは冗談などではなく、それくらいの気合いは注入されるであろう体験だろう。斜に構えたところから誠実な何かへ向かっていく姿はいつも強い。その力が引き出されるという可能性を信じている物語であったように思う。これからまた多く語らい、反芻していくはず。
僕がいま徘徊しながら繋げている詩は、その場で運命的に発している詩だが、それもまた語られるなかで物語として反芻される。モノと、コトは出会い、別れの交錯を経て、記憶になっていく。ヱヴァを体験した我々はただ、音と光の動きを前にしていて、人物はおそらく誰かであると、これから見て行く。

私はここにいて、これを見ていると言っている画面は強い。僕は寝るのが惜しい気持ちで、内職的に鞄を掃除したりずっとしていた。刷り出した猫の鬱の紙は、えらくでかい。

木曜日, 7月 09, 2009

仕掛け合う二人

小雨が降りはじめた夕方、今池の路上での列に並ぶ。
ライブハウス TOKUZO 10周年企画第22弾の、鈴木慶一・山本精一 ライヴに行く。
「ここは重要なハコなんです」と言った山本精一氏の声は静かで、歌はゆっくりと伝わってくる。
鈴木慶一氏は高田渡との共演以来だとのこと。声はしゃくりあげて、心の喧噪を奇麗なメロディが内包していく。
二人でのインプロビゼーションでダークスターへ。
慶一氏はスターウォーズで DARK STAR のシャツだった。互いに仕掛け合うリフは甘ったるくないが苦くもない旨味に満ちる。
僕らは満ち足りて会場を出た。深夜までやっている飲み会へ行く約束がなければ、まだ TOKUZO で飲んでいたい気持ちだった。

http://d.hatena.ne.jp/suzukikeiichi/20090709
http://www.japanimprov.com/syamamoto/syamamotoj/

水曜日, 7月 08, 2009

「新劇場版 ヱヴァンゲリヲン 破」(監督, 庵野秀明/緒方恵美、林原めぐみ、宮村優子、坂本真綾/2009)をやっと鑑賞。
世界への裏技、どうやったら賢く生きていけるかなんてのは力を持たない。無力の力さえも持たないのだろう。ひたむきさへの絶賛。思いへの賞賛。そう感じたら泣けてきた。カタカナで囲んだ世界はもう機能を成さない。体験である映画。美しい世界と歌う言葉が新しい響きを持つ。肉食的に頭と目を用い、生き物である私達を恐れては歓喜する。

http://www.evangelion.co.jp/

火曜日, 7月 07, 2009

次のコマへ視線を流せずに、幾重にも集積した彦星と、凝固せずとも美味しく頂いた織姫の朝まで

彼女たちは部屋に集って漫画を読む会を開いているらしかった。アイスクリーム製造機をアパートの冷蔵庫に入れて、締めは冷たく美味しくとの算段なのはさすがである。漫画の頁をめくる指先への力のかけ方、液晶ではなく感光ユニットが壊れたデジカメの扱いスイッチの入れ方ひとつにつけても、僕はなっていないとダメ出しをされる。萩尾望都の読み方ひとつできていないということは、高野文子も、大島弓子も全く読めていないよ貴方はとなんとも手厳しい。吉増剛造「キセキ」(2009)を見た後で、早く「ヱヴァ」の「破」を見たほうがいいと熱弁される。熱いのに嬉しくなり、作らなければいけないプリント類を一晩で完成に持って行く。冷蔵庫の冷え、ではなく何か粉を入れ過ぎたらしく固まらずに半液状の甘いものを舐めるようにして漫画の会は終わった。詩と漫画の会も終わった。手元には洗脳するよと渡された浅野いにおが二冊。部屋と机上と鞄の中と窓の向こう、どこに読もうと思っていたのを入れただろう。段ボール箱で仕切って、視線を解体する。朝までむさぼる日を持つ。

月曜日, 7月 06, 2009

帰る前の晩に

名古屋造形大学の大講堂室にて「七夕イブ」ライヴ。参加。マイク一本と紙一枚で一方的な思いを擦り合わせる。スピーカーはすぐに静かになってくれる。手もともそっちに行けばすぐに暗くなる。音と色をシンクさせて見ていることを思う。お笑いは意志だった。兎に角も強靭な思いが声の先や、振りの先にあるかで、何の司会の解説が無くても、お笑いを聞くモード、現代音楽を聴くモード、聴衆は素直だ。そこに座れば誰でも。すぐに帰れるのだ。

日曜日, 7月 05, 2009

しっくりくるか否かを問いながら

海鮮丼にありつき、商店街沿いのコーヒー屋で豆から出したアイスコーヒーを飲むお昼前。
鈴木ヒラク氏のライブペィンティング、そして聲明とピアノ、円状に回るのは外側でパトリック・トゥットフアコ作のシルビアに乗る私たちの姿もそうで、ぎこちなくもあり、そわそわと探っている。夜まで、まだ喉は渇かない。ビーバンジーのラップインプログレスと飛び跳ねて、外でフレッシュな空気を吸うまで、回るのはまだ続く。連絡先と、マイスペースの交換を。名刺の前に名前を言い、名残惜しくバスに乗る。しっくりくるか否かを問いながら、背もたれの形に合わせて寝ようと務めた。

土曜日, 7月 04, 2009

徘徊に懸ける

「聲明」は声が明るいと書くのだと思った。
一柳慧「オープン・ダイアローグ」聲明〜新井弘順 まで歩き、声を前にする。
声を明るくするもの。
私たちを照らしていたもの。

夕暮には、浜田 剛爾パフォーマンス&レクチャー「Looking Freedom 2」に出会う。
落下するのに合わせて気持ちが確かめられるように思った。
和食とビールの後にコーヒーを飲む店へ梯子した。
それら、選択しきれないものの先の、そこは徘徊に懸けるという声を思った。

http://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=24&d=604

http://www.hikuiyama.com/goji-hamada/J-html/index-j.html

金曜日, 7月 03, 2009

鳥の幸せ

朝焼けに京都市街地を抜けて
一眠りのままでバスに乗り
鳥の幸せについてを聞く。
部屋には畳が
僕と君が過ごした日の数だけ
目を紡いでいる。
暗いところでも見える?見えない?
飛んでいくのは二人の見上げる首。
町と町の間を抜けた頃の苦楽を聞くと、
朝まで飲んでいたいと思った。

木曜日, 7月 02, 2009

京都で憧れ続けた

朝いちの高速バスで単身 京都へ行く。ギャラリーを周り、教えてもらった市内バスに乗って京都造形大学へ向かう。しかしバスに座った安心感でうとうとしてしまい、見事に乗り過ごしてしまった。詫間さんに待ってもらって、なんとか落ち合い、大学の学食で遅いお昼。携帯電話も充電させてもらいながら、多く見学とお話をさせて頂いた。写真をきっちりファイリングしてナンバリングしてあるのを見逃さなかった。僕も感想をきっちり整然と話そうと務めたつもり。いやおそらくだけど、ファイルの中身はガサッとしているんじゃなかろうか。たとえコンタクトプリント状に並べてあったとしても、次は写真の中はまたガサッとしているんじゃなかろうか。小奇麗にまとめられっぱなしなのではなく、整然故に動き回れるのだという構造を思う。制作への姿勢がそのままアトリエにあらわれるのだとも憧れ続けながら思う。大学は姿勢をあらわにしている緊張感に満ちていた。
もっといたかったけれど、夜には京都精華大学のサテライトスペース「shin-bi」にてライヴを見るのでまた市内バスで向かった。詫間さんは自転車で展覧会準備とアルバイトと忙しいところを有り難し。七尾旅人 × 千住宗臣 × 石橋英子 の七千石ツアー。最終日だった。たっぷりと濃厚に聴いた。七尾旅人さんの歌世界は恥ずかしがりながらのストイックで必要なことだけを歌いたいとする姿勢だ。冗談が本音と表裏一体になっていた。

京都の夜は以外と早かった。祇園方面、繁華街は違うのだろうけれど、市内のサイゼリヤは二時までしか営業していない。でもまぁ、あんまり遅くなるのはと思って、ビールと遅い夕食をとる。まだいたかったが、時間になったので出ようとすると入り口付近のテーブルにはちっとも帰る素振りを見せない連中ばかりだったので驚いた。おそらく常連か。すごく元気な男子店員の笑顔に負けて席を立ったというのに。見知った街になると憧れも薄れてしまうのか。深夜の徘徊なんざ、憧れでもなければできないよと一人言。マクドナルドで携帯電話を充電す。

http://www.shin-bi.jp/




水曜日, 7月 01, 2009

自主制作映画だという意地

仕事を切り上げて、夜に自主制作映画の上映会「女子女子 over8」を見に行く。今池の駅を降りて会場のシネマテークへ傘とダッシュ。オムニバスの短編映画たち。共通項は女子が二人登場する。東京と名古屋からの監督たちによる。
比べてしまうのも悲しいが、東京勢はあっけらかんとした享楽観で地方に解放の夢を描いていた。名古屋勢は深刻ぶって意味ありげにローカルの町並みが何も変わらないのをいまだ嘆いている。女子が二人登場するというのはかなりウエイトを占める要素だろう。それだけに構想する力が試されている。友情か恋敵かもしれない、やもすると狭い世界へ埋没してしまう。映画にヒロインは一人でいいと言った監督がいたとかいないとか。上映後にロビーで監督と話をさせてもらった。スポンサーを付けないことをマイナスと見ない。自主制作映画だという意地を思った。
インディーズシーンで活動しているアーティストを紹介したいというフリーペーパーの話を日中に聞いたのを思い出した。ブログの「たけくまメモ」を読み、「新劇場版 ヱヴァンゲリヲン」は壮大な意地の貫きなのかと考える。アスカとレイ、いや、二人だけじゃない他者の連続だ。

http://over8.com/modules/tinyd04/
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-486f.html