水曜日, 12月 15, 2021

聴衆の沈黙が活かすライブ!

 moonriders 「LIVE 2020 NAKANO SUNPLAZA」CD 2枚組をフライングゲット。タワレコ名古屋近鉄パッセ店が夜9時まで開いてくれていて助かった。電車の中でビニル剥いて、ジャケットをパラパラめくったりする。なんともシンプルなつくり。黄色地に黒色の歌詞が眩しい。「卒業」あるんか。BYG の アルバムは、高校のときだ。美術室で聴いてた。

   そんで帰って、ビール飲みながら iTunes に取り込み、曲名取得したり、アルバムアートワークを webp 形式から jpg に変換して入れたり、いろいろ手間をかける。こんなん、なんでわざわざせにゃいかんのですかという質問が飛んでもおかしくない。結局、スマホで聴くやんって話になる。AIFF の自動設定だと CD 1枚 500MB 超。2枚で 1GB だ。MP3 にして聴き比べたら分かるものなんだろうか。5分の1くらいのデータ量まで減る。あとでやってみよう。ひとまず正座して(してないけど)聴く。内職しながら聴かない。こんなときのためのヘッドフォンだと音量を上げる。ほぼ一年ぶりの CD 経由の iTunes でのリスニング。

 このライブ盤は、2020年 10月31日、中野サンプラザで行われたムーンライダーズの録音なのだが、このときは COVID-19 新型コロナウイルスの感染拡大からの緊急事態宣言が開けたり、また再開しかけたりの合間で、人々は疲弊していた。厳戒態勢で、マスク着用やアルコール消毒必須のなか、歓声は出してはいけなくて、拍手は OK!という状況だった。なので、ライブなんだけど客が黙っている!それは録音などには都合が良い?!という不可思議な空気が立ち込めている。
 そんな硬直した聴衆をけしかけるようにムーンライダーズの演奏が呻る。勢いがすごい。解放感がある。ちょうど犬の格好をした 6名の首輪は外されたように、マスクが外されたように、噛みつくじゃなく、歌いあげていく。1枚目の「ダイナマイトとクールガイ」で鷲掴みにされ、「悲しいしらせ」は 生きているのか死んでいるのかわからない気持ちをけしかける。ベタだが効く。美しき「ヴァージニティ」。武川雅寛 歌唱の「腐ったリンゴを食う水夫の歌」からの「今すぐ君をぶっとばせ」という、ライブの定番曲を抑えつつも微妙にずらす選曲が楽しい。
 いつぞや行った 大須の ELLでの ライブのとき、武川雅寛の声が出ていなくて、それを活かす歌唱法を編み出した!と鈴木慶一が熱弁していて「なんて仲が良いんだろう」と感動したことを思い出した。
 2枚目は「Kのトランク」ではじまる。I can't live without a rose. のヨーゼフ・ボイスのポスター まだ探すぞ。「夢ギドラ 85'」なんとも誠実な歌だ。白井良明 かっくいい。ラストの演奏への流れも良くて、こないだ「静岡」もここに繋がる名曲だなと思った。そして「工場と微笑」「ニットキャップマン 外伝」は湾岸の風景で繋がっている。ナンマイダと空元気。
 高校のときに同級生にカセットテープにダビングした「マニア・マニエラ」とかで布教でかしてて、そのときもらった感想は「空(から)元気」だったっけ。
 大学生のときに行ったライブ「月面讃歌」。栄のクワトロで、私のサラリーマンはスーツ姿でクネクネと踊っていた。いまの私くらいの年齢か。「みんな、よく生きてたな」っていう 鈴木慶一の MC がある。はちみつぱいの 88年の解散ライブのときの CDに入ってる。あれ、けっこう高くて久居駅の前のレコード屋で買おうとして所持金が足りなかったことがあった。
 「Don't trust anyone over the30.」で最後の曲ですと MC が入る。おおなんて神々しい選曲。無人島に持っていく一枚。電気が無くてもヒールに溜まる涙を想う。ここからのアンコール三昧。ライダーズは粘る粘る。
 「帰還〜ただいま〜」九死に一生を得、「スカンピン」はブルーカラーの讃歌で「はい!はい!はい!はい!」というポリティカルメッセージで締める 〜ニュースの中で、嘘ついて、はい!が 2020年に光る。愛することを知らないうちに、はい!と。
 一巡し、残響に身を任せたまま、MP3 への変換を行う。ここで私も黙る。
うーん、分からない。ゼンハイザーの Bluetooth イヤフォンくらいでは、私には識別できない。将来用にこのディスクは蓄えておく。
 そしてムーンライダーズは、いま新譜のレコーディングの真っ最中だという。クリスマスにはまたライブもある。COVID-19 は、日本では理由不明に激減しているが まだまだ分からない。徐々に空気は変わる。これは聴衆の沈黙が活かすライブを封じ込めたものだ。またやりますから、ぜひいらしてくださいと優しい声が聴こえる。


火曜日, 10月 05, 2021

芸術家の活動と子育てについて #1

Anna Bart, a painter working in Bremen, Germany, who co-organized the Japan-Germany international exchange exhibition "ONGAESHI" in 2014-7, She posted the blog of the art project currently participating in 2021 In activities. The title "Parent-child relationship in artist lives" was written.
The work of my videopoem "Language with you #3" was posted there!
When we released the catalog in 2017, I produced a video poem when I went to Germany, and I went through a conversation between parents and children.
At the beginning of her blog page, Lenka Clayton's work "The Distance I Can Be From My Son (Park)", a child running in the forest and getting smaller, an adult chasing, It is interesting.
Anna asks about parental leave and grants for freelance artists, and states that she loves spending time with son and some drinks, building trains in the sandbox in the park.

2014-7年に 日独国際交流展「ONGAESHI」を共に企画した、ドイツ ブレーメンで活動している画家 Anna Bart さんが、現在 2021年に参加されているアートプロジェクトのブログのなかで「アート活動における親子関係」という題を書かれました。
そこに拙作「君との言語#3」の映像が掲載されました!
2017年のカタログ発表時に、渡独するタイミングで制作した映像詩で、親子の会話を経ていくものです。
ブログページ冒頭にある、Lenka Clayton の作品「私と子供がとれる距離」かな、森に走っていって小さくなる子供、追いかける大人、興味深い。
そして、Anna さんは、フリーのアーティストにおける育児休暇や助成についてを問い、公園で砂場に電車をつくり、飲み物と過ごす時間を愛おしいと記されています。

金曜日, 5月 07, 2021

緊急事態条項で万事うまくいく特効薬だとするのは改憲派のいつもの手

国民投票法の改正が通った。
コロナ対策がうまくいかないのは、憲法に私権制限の術が無く、緊急権が無いミス故だという理屈で、改憲して「緊急事態条項」を入れれば万事うまくいくとゴリ押ししてくる。

これは 9条改正を進めるより、理解を得やすい 改憲の方法論だと憲法学者の石川健治氏が語っていた。(Choose Life Project 5月3日放送分)

ドイツ思想家の藤崎剛人氏は、「『コロナ』危機に乗じた改憲を許すな」とストレートに書いた。政府は「コロナ対策にやる気が無い」と、明快で強いメッセージだった。(Newsweek 5月3日)

曲解で改憲が必要と持ってくるあたり、無理矢理ねじ込んでくるくせに、利権団体のために、五輪を開催するために、コロナの件はとにかくスルーしたがっている日本政府。それにあわせて国民側も、スルーして聖火リレーも連休もちゃっかり遊び、政府の思惑どおり。
安倍氏が次の 100代目 内閣総理大臣に返ってきて、改憲を成し遂げるというドラマの脚本はとっくにあるんじゃないか。
五輪の開催にこぎつけたら、国民は感動して支持率はアップする。「なんだかんだでコロナ禍でも開催してくれて良かった!感動をありがとう。」と騒ぐ影で、罹患してしまう人は 運が悪かったねとされ、医療現場はより苦しむ。そこは知らぬ顔で、緊急事態条項があればうまくいくとしてくる。
ブルーインパルスを より多く飛ばされるだけだ。
そもそも、人々の健康的で文化的な生活を平等にキープしようとする気が無いだけなんだ。
自分たちに投票してくれる団体に返すだけ。それが政治だとしているのだから。
選挙で負かして、政権交代をして、拙くなっても、人権なり、生活なりを重視する勢力を強くしないと、ほんとうに殺されそう。
何度もここに返ってくるけど、でも選挙に そもそもみんな行かないのだから、そんな国民が決めたことになっているんだから、仕方ないとも言えてしまう。
なんで選挙に行かない、行きにくくされているかは極めて巧妙なシステムの調整があるのではないか。だから、今回の国民投票法の改正で、18歳が投票できたところを補強するかたちで、海上での投票も可能にするとか、やたら細かいのではないか。
立憲民主党の譲歩要件にある、メディアでの宣伝の制限などが果たされなかったら、高校生向けのキャンペーンが芸能人を使って行われるだろう。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210506/k10013014891000.html

https://www.newsweekjapan.jp/fujisaki/2021/05/post-8.php

 https://www.youtube.com/watch?v=MEslk3-BjAI

木曜日, 5月 06, 2021

ゴジラの住む世界と同じ心理で

  もう無理だとはみんな思っているけど、なんとか大丈夫だろうとも思っている。思っていなければ暮らしていけない心理は、ゴジラが攻めてくるなかでも社交ダンスをしていた人々とそう変わらない。はかなさの美学に酔う暇も無く、何もできないまま地震を待つようだ。

 止まない雨は無いけれど、日照り続ける晴れも無いかもしれない。お天道様がどうであれ、空の下で人間は枯れたり、水浸しで転覆してしまう。最後は神頼みで世界が終わることを受け入れるようなこの国の癖はとても根深い。生きにくいのは誰のせいだろうか。面倒だと投票に行かず、文句を送りあう小市民のせいだろうか。文句が文句を呼び、何も許せなくなった使命感の足かせか。いろいろ理由をつけて仕事を成さなかった自分のせいか。全部自分のせいにできれば格好良かった。全部人のせいにするのも気楽だった。全ては数え切れない所作で補完しあっていて、目に見えない大きさで引っ張り合った先の均衡が今日なのだろう。

 Wi-Fiネットワークに繋げられないだけで、この文章も先へ進むことになった。担当している専攻の学生たちは、いまは放っておいても書き進められるように見える。何か飲めなくても、一定の距離は走ることができると笑っていた。それが尽きる前に、補給地点なり、走り方のフォームなりを点検していきたい。いまの状態は、ただ泳がせているだけ。楽しい気分はそのうち醒める。

 文章が社会を変える事例を挙げよう。詩が社会を動かした事件を。そんなものがあると信じているけれど、具体的には何年何月何日なのか。コピーはいつから唱えられた? プレゼンって何で必要なのか。小中高の、見よう見まねの授業で癖がついている。先生の言うことを聞きましょうと。

 授業準備に追われて何もできないことになりそうだ。解決策を持たないと手詰まりである。小遣い稼ぎの仕事で時間を取られていてはいけない。仕事のカードを作成し、それを貼り出して共有する。ストレスを壁に、それだけで緊張感が適度に漏れる。一年生のうちにその癖を付けさせないといけない。

水曜日, 5月 05, 2021

ママがいい

  改札で幼児が大泣きしていた。母親が怒りながら抱きかかえる。母親はもう一人、小さな子をおんぶ紐で抱えている。何かで上の子はぐずっているらしく、聞き取れないが、嫌だぁという声が響いていた。

自分の子、三歳もこういうとき、とても頑固で大変だ。保育園で他の子が大泣きするときに「ママがいい」と言うのをを聞き覚えているので、いつもはママなんて言わず、お母さんと呼んでいるのに、泣くときは「ママがいい」と繰り返す。ママという単語では認識されていないだろう。そして殴り、抓り、蹴っては怒り狂う。スーパーなど店先でやられたときはヘトヘトになる。

 さっきの母子に出くわしたとき、通行人には何ができるか。どうすれば効果的に見守ることができようか。幼児言葉で近づきたくなるけれど、母親に話しかけるのが良いだろう。自分だと、子供を守る警戒心も発生してしまうから。助けられるかどうかはわからないけれど、私は「ママがいい」のママではないというコンセンサスが助かるのではないか。

 とポメラで書いていたら、こないだ 子供は「お母さんがいい」と泣いていた。「ママ」の意味を理解したのか。全体的にアップデートされたのかは不明だ。だが、言葉は大人に聞かれて、体得される。

月曜日, 3月 08, 2021

書き出すだけが人生だ

「これから書こうと思っている作品は頭の中にあるんで大丈夫です!」と言ってくる大学生の言動を私は信じない。
 自分がそのようにしたときに何も進ませられなかったことを知っているから。
 舌が肥えていくように、アニメや映画を観る眼も肥える。本も読んでいると深まるものだと思う。具体的に、目の前に、手に取れるものになっていると、場は動くし、行き交う人間も思考を手にとるのだ。
 手にとられるかどうか、どのように持ち帰られ、捨てられ、向かうのか。それを意識しないと、表現はできない。好き嫌いで集める消費者のままでいるならば、それはそれで間違いではない。
   大学は鼻を折られ、このままではだめだと焦り奮起するための場所なので、良い気分にさせてくれるサロンではないのだ。消費者のままでいくか、生産者になれるか。その言葉を繰り返す。

日曜日, 3月 07, 2021

ポメラニアン四日にて

 いろんなことが同時に動く。それが見えるのは面白い。
 集中できる音楽はこれだと教えられ、読んでおこうという本を買い込んだ。三月は見渡したい。次期のために読み書きしたい。いま何が起こっているのか。それをみんな書き出せるか。
Get Things Dan だと口酸っぱく言っていた本は、言うは易し、行うは尋常ではない内容で、旗をあげなければ向かうことはできないけれど、たいへんでたいへんで目が回る。

 ブルーノ・ムナーリ「木をかこう」のように描きたいと考えていた「本の木」の絵をようやく描いた。紙に描いた絵を基に編集に入る。実際に写すスマホに転送してトリミングする。
 良い感じな気はする。解像度がもう一段階ほしい気も。

 絵を拡大させることにした。最終的な仕上がりで検討するため、iPad で描くことにする。Adobe Fresco を使う。切羽詰まった制作状況でアプリケーションの使い方を覚えるのはいつものこと。

 ポメラ三日目の論考の輪郭をより深く書き込んでおきたい。日記は日記で、ブログはブログで、ツィートはツィートで良いので、アカデミックライティングもどきもしておきたいのだ。

土曜日, 3月 06, 2021

三日ポメラさん

 積ん読(つんどく)された物質を段ボールに入れた。機械的に左側にあるものから所定の位置に動かすという作業を繰り返し、自室の机をスッキリさせた。ポメラが来て二日目の夜だ。dTV のゴジラも見終わった。ゴジラより俳優を魅せていたが、ゴジラ自体の動力はそういうものかもしれない。
 ゴジラではなくコロナは、愛知県は独自の宣言を出しているし、東京のほうも二週間延ばすという。みんなどんどん、どうでもいいや~となってくる。ゴジラに襲われる世界の人々もそう生きていただろう。戦時中の日本の大半もそうなのではないか。ドラえもんの歴史の漫画を読んでいたときに「疎開」の解説のところで、子供が「どうして都市を中心に爆撃が行われたの?」と聞いてきた。「そのほうが要領が良いからだよ。人が・・(死ぬとか殺すは言いたくないので)・・工場とかが集中しているからね。田舎は少ない。だからだよ。」都市への一点集中だ。

下記を構想する。メモとして。

@危機の集中化
@都市だけではない危機
@うっせえわ
@幼児虐待、カルト化などの事件
@取り戻すのではなく、新しくつくるコミュニティ。

金曜日, 3月 05, 2021

ポメラと連れ添って二日目の朝

 昨晩は某リストアップの作業をしながら dTV で「ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘」からの「ゴジラ・ファイナルウオーズ」を流す。ファイナル・ウォーズの中盤でダウン。人間に擬態した宇宙人が攻めてきているのは旧来のゴジラと同じなのだが、いかんせんミュータントと呼ばれる強化人間が格闘などで戦うところが長すぎる。一体何を見ているのか分からなくなるので、ツッコんで楽しまなければいけない。そもそもゴジラ自体そうでしょうと言われればそうだ。「シン・ゴジラ」も実はそうだった。骨董無形で、馬鹿馬鹿しい子供だましのお話のなかに反原発や自然破壊などのメッセージが分かりやすくお説教めいて提示されるゴジラには安心感がある。これがエンタメか。
 岡田斗司夫が、ゴジラは太平洋戦争の英霊がお盆に帰ってくるお化けのようなものと語っていた。台風や地震のように、日本人の精神的風土に根付くゴジラ。うまく組み立てられている。

 話すようにタイピング。ポメラの定位置、姿勢を意識する。とにかく書いてみる。
 考えていることを全て書き出せと言われて、気持ち悪いと話すか、書きたいことはみんな頭の中にあるんで~と言うか。  とにかく今日は「メイゲイ・ブックツリー」の絵を描いて完成させる。そのために部屋で仕事ができるようにする。
 ポメラに手を出してしまった。

木曜日, 3月 04, 2021

ポメラ礼賛

 また三月になってしまった。
諸々停滞してしまっていることを揺り動かしたく、ポメラDM200 を中古で買った。これを定価で買う者は猛者だと意識する。
 中学校のときに文豪ミニが流行って、父親が購入していて、自分もいじっていた。一ドットずつ十字キーで置いていく描画機能でストⅡのケンの絵を描いたりして遊んだ。保存は 3.5インチフロッピーだった。
それを思い出す。
 重い図体で、印刷はほとんど感熱紙でやっていたそれ。
ワードプロセッサーだ。
 言葉だけに向かうために、読み切れない有象無象をポメラで薄めるしかない。一生分のワープロを購入したという音楽評論家の片山杜秀氏の件を新聞で読んだ。後日、同じ紙の記者もその記事に言及していた。文章を書くことと、編集をすることは別だと捉える人の強い意志が、ポメラを生き延びさせ、自らを生き返らせるようだ。
 今日はどれくらい電池が持つかを、出勤して試す。行きの車内はマスク率九十パーセント。黒地に白の明朝体で縦書きで滑っていくポメラ。キータッチの音は Bluetooth イヤフォンを付けている私には聞こえない。
 慣れないのは右上の Delete キー。
iPad の癖で、画面をタッチしてしまうこと。

 スタバで席に着くとき、コーヒーを思いっきり溢した。ひとくちもつけていなかった。店員さんは気にしないでくださいと布巾を持ってきてくれた。これからお仕事ですか?とも。一時間で出るんですゴニョゴニョと、ポメラでドヤろうとしていましたなど言えない。どこかでマニュアルがあると意識した卑怯な自分。十分後には何もなかったように芝居は再開されると。そんな映画があった。「トゥルーマン・ショー」。現実はビルから落ちる瞬間も、火事で空から灰が降ることも、コーヒーがひっくり返り、スプリングラテが飛び散ることも、遅れている提出物も、調べきれなかった資料も、残り時間も、みんなカットされない。中学生のとき、口づけをしたあとのカップルはどんな風に唇を離すのか見たことがなかった。おそらくその疑問はどんどん回収されていく。疑問を出すこが大切だという話になる。
 私がハンカチすら持っていないことをスタバの店員さんは知った。そして何もできずにオロオロしている子供のようで消費者の甘えに三百八十円を支払っていたことも。コーヒーもう一杯を入れてきてくれた。すみません。サービス以上か、以下かで、語られるとき、私は追加で購入するのが筋なのか。この国にはチップが無いのだから、チップを設けるしかない。人々の感謝が対価として現れるしかない規則ならば、そうなる。
 またこの店を利用させていただきますと向かう。ここで超えていく方法を私は持てるか。
 店員さんが「小さいテーブルですので」と言った。落ち度を設けて、こちらの落ち度を楽にしてあげるのは優しさなのか。消費者の気分を損ねないようにするマニュアルにも思えて少し怖くなる。

 帰宅し、前の持ち主が貼っていた画面フィルムを剥がす。気泡は入っていないけれど、切り口が歪んでいるのは気になる。新品の画面があらわれた。なるだけ、気になる要素を減らしたい。それだけ。気になることが多すぎた。だからコーヒーをこぼす。コールバックにも出ない。何度もスマホを覗いてしまう。もう気にしない。目の前の文章に集中する。夕方四時、電池残量 79パーセント。悪くない。使い込んだら変わるだろうか。でも悪くない。