水曜日, 10月 31, 2007

チクチクするタグ

首の後ろ、肩にチクチクするタグに苛立つ。無駄な足かせが多くて、それらの整理にも焦ってしまう。マイペースで行くことと、のんびりしていることは似て非 なると自覚する仕事っぷり。自分はどうしてこういうふうにしているのか考えだすと「まだまだこんなもんじゃないだろう」と頭のなかで閻魔大王が言った。
明日の朝には、このチクチクするタグを鋏で切り落とす。ここからのテーピングカットになるこれだ。痛みは消えて足取りは軽くなる。やるべきことが、やりた いことを見せてくれるようになる。たったそれだけで、閻魔大王もひっくり返る。そして「人生を語らず」(詞,曲, 吉田拓郎/1974)をいっしょに歌うのだ。

http://www.youtube.com/watch?v=8hPMWs54Nn8

火曜日, 10月 30, 2007

いくつかの後悔を経て、素晴らしい席を

今夜も呑みながら、アイディアーを話す。
酔いをもっと盛り上げてくれるのは、これはいけるんじゃないか!?という言葉による閃き。
それをお酒が後押ししてくれる席に、この頃は座ることが出来ている。
出されたお手拭きで顔をぬぐい、とぼけた近況からはじめだす。

かつて行っていたアルバイト先の会社のおじさんが「仕事の後のビールが大好きでね」とにやけて言っていたのを思い出す。あのおじさんに罪は無かった。僕は助手席で はやく辞めたいと思っていた。
いくつかの後悔を経る。頭で思い浮かべていたように貫けていないけれど、今夜もアイディアーを話して、それには本気でぶつかりたおす。
疲れきった君を抱きしめ、やさしくしできれば。
本気のことが話せれば。
そんな素晴らしい席を経て。

月曜日, 10月 29, 2007

世界の縮図よ、また!

三線による蛍の光で祭りは終幕した。
明日から本当の自分になるんだと背を伸ばす。
抱きしめ合った僕らは、それから二階のソファーで、ほんの朝に引っかかった白む風を見ていた。
世界の縮図は、僕らにすっぽりと入った。
これからの数日はそのうねりで微熱が続くだろう。

電車に乗って、叱咤激励を受けに地下室へ。
館長の気まぐれで激怒した話を聞く。
やさしくなれた話をする。
朝になれば、またはじまる。
君の声を聞くために、ちゃんと起きる。

日曜日, 10月 28, 2007

(コジキ ≒ ホームレス)= スカンピン

おれたち いつまでも
星屑ひろうルンペン
やぶれた 恋や夢を
今日も売り、歩く
湯水のように
金を、使ってみたい
愛する君のために
いつ、いつまでも
明日はジゴロかペテン師か
爪に火をともし
暗い夜空に身をまかせて
我が身を占えば

おーれーたち
いつまーでも
ほしくーず、ひーろーう
ルーンペン
やぶれた 恋や夢を
今日も売り歩く
さあ、煙草に火をつけて
どこへ
どこへ
ゆこう

さあ、煙草の煙をくゆらせて
どこへ
どこへ
ゆこう

スカンピン!スカンピン!
おれたちは〜

スカンピン!スカンピン!
いつまでも〜

・・・おれたち、スカンピンの
ブールーカーラー!

「スカンピン」(詞,曲/鈴木慶一/1976)。

土曜日, 10月 27, 2007

rooms

柱に沿って、雨が降っている。
朝は傘ひとつを開いて、私が立っている。
柱のなかで、ずぶ濡れになっている。
君の鞄を取り、扉を開ける。
その勇気はある。
ささやく勇気もある。
この部屋を出るときに、この町を一望し、そこからも出て行くためには
空に迎えられた身を柱に見立て、撫で上げるように落ちるのだ。
僕らは許しあうことよりも、
呼びあうことに焦がれている。

「rooms」で立っていた。

http://2007rooms.blogspot.com/

金曜日, 10月 26, 2007

ねじまき鳥が鳴く

僕も ねじまき鳥をアトリエに忘れてきてしまったようだ。
戒厳令がしかれるなか、僕らは何もできないのが悔しくて、散財したあげく充電する場所を探すしかなかった。最初に裸になったほうが勝ちで、何もできないの をこうして吹き飛ばすしかない。君が嘆く、気持ちがすべて伝わらないということは、おかしな悲しみでは決してない。僕らには身勝手な呼び方と、差し替える ことのできない体温がある。
翌朝には煙草に火を点けられますか。
布団に転がった我が死体を、見て見ないふりしながら。
ねじまき鳥は、いつ鳴くか。
なくものはなく。
雨の間で泣くものの、手を引いて。

木曜日, 10月 25, 2007

一日の終わりに

原付の君よ
コーヒーの君よ
水を手放さぬ君よ
カフェオレの君よ
ベレー帽の君よ
詩を読む君よ
ジーパンの君よ
僕はトランクス一枚で眠って、鼻水をたらすよ
中村中の歌はいいよ
愛しいという言葉を使わずに愛しいことを伝えてくれる
僕には語りたいことと、
語るべきことがきっと同じだという疑念が信心のように擬態化して、
ここまでこうなって来ている
そんな丸腰なのだから
走って行く君に顔をよせれば
どうしてかすぐに眠ることができた
ガスパン遊びなんてするんじゃないよ
子供たち
くそガキたちよ
僕もおじさんらに言わせればくそガキだから
ピストルの試し撃ちなんてバラエティーでやるなよ
僕は朝を待つ
乗り過ごすことを理由に
詩人ですと名乗りをあげる
君よ
ここからまだ長いと知っていても
楽しいも哀しいもないか
わからない
わからない
知らないわけではなく
わからないほうが
問題なんだよ
知らないことは何でもないことだ
なくものは、なく
それは許されるとかそうじゃないかとかじゃない
言葉で超えるべきものは、言葉そのものなんだ
君よ
猫のことを思っておくれ
眠りのなかを思っておくれ
僕らが見ているものを思っておくれ

一日のはじまりは、子供のようで
一日の終わりには、老人のようで*
(*Three Blind Moose「一日の終わりに」)。

水曜日, 10月 24, 2007

書生はきっと

心を落ち着かせて、紙に向かうのがいちばんたいへんなときがある。
なんてことなく、さらっと書けてしまうときもある。
その前に経ている時間が書けることを生み出しているのだ。
傍目から見て 書生は気軽なように感じられたかもしれないけれど、きっとたいへんな方はたいへんだったんだろう。
書生がブログを書いていたら、一人の取り越し苦労を綴ってばかりだろうな。
それでまた朝方にメール。深夜にはコンビニ。猫の鬱の ごはんが尽きたので猫缶を求めに。十五円高かったけど、ゴミが面倒だという理由でパウチの餌を選んだ。むしゃむしゃ食べていた。人間用には 百円のスナック、チーズ味。

火曜日, 10月 23, 2007

やねうらのもり

西口奈穂さんの個展「やねうらのもり」は、ほんとにやねうらのもりだった。ごそごそと暗闇から引っ張りだしきては、カップの間に置く。
捧げるという言い方が適しているのか。でもあまりにも救いを前提とするのは、逆に疲れるとも思ってしまう。
我ながら勝手なものである。この頃合いが難しい。
言い切りながら、思ったことは、静かな音楽と居たいということと、呼び出しブザーは無くていいなということ。
僕らがこうしているのは、何かのためじゃない。ただゆっくりと落ち着かせたいと思っていたし、そういられたのは何よりも嬉しいと思っている。
やねうらのもりは、ずっとずっと深いようだ。

http://www.geocities.jp/mamekarakusa/

月曜日, 10月 22, 2007

Beautiful World

弟とコンビニに行くのがはじめてだった。
こんなものを食べてやってくのかよって後で思う。
それからの始発内ではずっと、じゃあ何をって探っていたのだ。
それで突き抜けて向かえる運びになる。
また手を引いて、行こう。
この暗い道は、朝を前にしていた。iPod からカーステに繋がって流れてる。
もしも願い、ひとつだけかなうなら。

http://www.youtube.com/watch?v=to9K_wCUlh0&mode=related&search=

日曜日, 10月 21, 2007

草花は夏のために、思い出をとっている

小島久弥展「Critical Point 50≒0 ボク達はドコから来て、ドコへ行くのだろう」を見に、 美濃加茂文化の森へ行く。JR の美濃太田駅から歩いて少しの森のなかにそれはある。ちょうど、駅伝の表彰式を中庭でやっていて、ジャージの家族連れが多くいた。スポーツとアートが同じ 場所で展開されているというのは、まさしく文化の森であろう。日本には本当の総合大学が無いという話題を思い出す。
今日の陽射しは暖かい。
室内では、凍えた孤独を草花が迎えていた。
それを覗き込み、うらぶらた日々もあったかしらと思う。
こんな森では思い出せない。いくらむこうを見ても、思い出せないことがたくさんある。草花はすぐに生えぬ。伸び盛る夏へは、いまがいちばん遠い季節だ。いや、すぐだよそんなもんと笑われるかも。

南下し、三重県某所にて来年八月の為の展覧会ミーティングへ。こうして積み上げることに必死なのを焼き付けておこう。この部屋をただの部屋と思うなかれ、いつかから草花のようにずっと沸き上がっては、僕の背中を震い上がらせてきた。
それも思い出せない。いや、いまは思い出さない。森へ帰ろう。家へ帰ろう。犬を可愛がる。ビールを飲んで、焼き肉を乞うて、どこへ帰ったか。家族の前を、日々はただ過ぎ行く。



http://www.forest.minokamo.gifu.jp/tenrankai/19/kojima.html

土曜日, 10月 20, 2007

Sensitive drunkards

それはセンシティブな問題だと思った。展覧会のオープニングパーティをはしごして、飲んだくれになってしまって、でもどうにかしたい問題を前に転がしてい て、それはそれで収拾つかず。いろんな話題はそのままに、ゆっくりと散開していく。終電で帰る。四両編成と小さな車両なので、すし詰め状態で酸欠みたいな めにあう。アスファルトの上に出たら空気が美味しい。センシティブな問題は、何がどうセンシティブなのか。それが問題だ。

金曜日, 10月 19, 2007

このままではわからない

雨でずぶ濡れ。遅くなってしまって、晩に駆けつけようと思っていたパーティを断念したら、そこから七転八倒す。いろんな罰に見舞われたようだと思う。次の 瞬間、文庫サイズの手帳に ふだんの行いが良いからとか報いだとか、折り合いをの理屈をつけるのは大人の行為だと記した。大人は混沌を野放しにしない。何らかの呼び方で処理をする。 そんな大人が混沌を認めだしたときが いちばん怖い。
落ち着くべく、コーヒーショップでハンバーガーを二個ぱくつき、ホットにミルクを入れて飲む。横の席ではアラブ系の家族が食事をしている。何語なのかわか らない。僕が机に広げて書いている言葉は日本語であるということだけがわかる。どういったことを書いているのかは、このままではわからない。

木曜日, 10月 18, 2007

そうここから

エレベーター内でうずくまっていると、こんなこと終わりにしようよと女子に告げられた。背中には何も付けていないから、羽交い締めにされるのも厭わない。 みんな実は必要とされたがっているんじゃないか。くだらないことを続けてしまった。こんなはずじゃなかったかもしれない。昇降音が唸る。いまは自分のこと を俺と呼んでみたい。そんな気分のときも、そりゃあ、ある。とにかく誰かと関係を持って、その前にひざまずきたい。とびきりに濃い目の黒い水を選ぶしかな い。だから、鍋で湯を沸かしておくのだ。いますぐに。さあいますぐに。噂なんて信じてはいけない。誰かが誰かを必要としていることを逆撫でしてはいけな い。笑っている。女子はどこかの階で降りていったようだ。個室にゆらめく青いガスの火を見ている。そのときから君と呼ぶことを覚えて、何でもなくなる。ひ ざまずいていた自分の姿を、火と重ねてみる。そんな言葉を消した。そんな言葉を消した。そんな言葉を消した。バンドの演奏がはじまるぞ。チューニングは とっくに終わっているし。スティックがカツ、カツ、カツ。君のための黒い水は、もういつでも入れられるようにしてあるよ。火を止めて、茹で卵を蒸らすテ ク。そう君が教えてくれた。ちょうどいいくらいの黄身になるんだ。エレベーターは行く。猫の仕事は眠ることだとも教えてくれたね。山の上より、そうここか ら。

水曜日, 10月 17, 2007

路地裏のカラス

エレベーターのなかで一人になったとき、大声で「パオ!」と吐いた。夢工場ドキドキパニックのキャサリンのように。「パオ!」と。
扉が開いて、背広のおじさんらが入ってくる。僕は入れ違いに降りて、さっきの「パオ!」がいま響いてやしないかと思った。おじさんらは次の階にスライドして行く。

坂道を上り、僕はヘッドホンを両耳にかけて取り付ける。

「路地裏のカラス」(作詞作曲, いとうゆうこ/1998)。

・・・
結局、自分を守ることばかりしていたような気がする
永遠という言葉と、愛してるという言葉の裏で

路地裏で死んでいたカラスは
次の日にはどこにもいなかった
死んでしまえば 私も
何日か経てばこの姿はどこにもない
まだまだ生きられると思うから、
いっぱいいろんなものを望んでしまうのだろう
それが誰かを深く、深く、傷つけてしまう望みなら どうすればいい?

情けなさも弱さも、ぜんぶ
受け止めてあなたといきたい
過去も今も全て乗り越えて、あの雲の向こうに

もっと、あなたのために私はやさしくなりたい
もっと、あなたのために私はかわいくなりたい
もっと、あなたのために私はばかになりたい
もっと、自分のために私は強くなりたい

情けなさも弱さも、ぜんぶ
受け止めてあなたといきたい
過去も今も全て乗り越えて、あの雲の向こうに

ラーラーラー、ラーララーラーラーラー

火曜日, 10月 16, 2007

理解の台頭、頭から直で射出する記号

名大で津田さんとお会いした。
「歴史画のための調書」展の会場、プロジェクトギャラリー clas で。
歴史画とは、そこにあった力の姿を描いている。
古典的な西洋絵画には、力の行使が凄惨に巻き起こっているが、現代のそれは、不気味に静かで何も散らかってはいない。誰にも知られないかたちで、力は行使 され、空気は変わる。現代に吹く風は、野山からの無色透明ではない。すぐそこに建ち上げられたビルの看板から、風は薄く染め上げられている。僕らは駐車場 でそれを全身に浴びる。手のひらで灯る画面から、言葉の音を全身に浴びる。そこにあった力を忘れながら。

電車からエレベーター、バスと乗り継いで、名造大へ行く。
沖さん、亘さんとお会いし、html から AIFF まで。
「Valve/Membrance」の演奏の映像を見せてもらう。
響き方が一定に続いていくのが格好いい。
名古屋発祥の台湾ラーメンを食べて、水餃子がいちばん美味しかった。

部屋では、猫の鬱がまるくなって寝ていた。
彼女の仕事ぶりを背に、僕は Mac をポーンと入れた。

http://www.vision.ss.is.nagoya-u.ac.jp/clas/programs/72.php

http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2007/10/post_9674.html

月曜日, 10月 15, 2007

物語を切り開く力とは異なるもの

「めぐみ -引きさかれた家族の30年-(原題/ABDUCTION -The Megumi Yokota story-)」(監督, クリス・シェルダン&パティ・キム/2006)
を DVD で見た。
こんなことがまかりとおってなるものか!という怒りと悲しみを持つと同時に、この映画の視点は、海外の監督だからこうなるのだろうなと思った。それは拉致事件に対して、アメリカ人らのほうが日本人より強く反応するということと、共通するのではないかと考える。
自国の利益とか都合などもあるだろうが、映画のなかに出てきた、
「アメリカは 一人国民が拉致されたらば、そのために戦争をするだろう」という言葉にその根本の考え方の違いがあらわれているように思う。

いざ、自分の家族が拉致被害にあったとしたら、たったひとりに何ができるだろう。連帯し、活動を続けていくことは とんでもないことだ。でもそれしか解決には無い。日本の反応はひどく冷たい。
こうして一個人が国に向かって、停滞して蔓延った歴史の病理を剥がすようなことは、個人主義の西欧に合意されるのではないか。
日本人は、どちらかというとそういう活動は苦手で、もっと連帯感が同情を中心に向かっていくような気がする。
だから、この監督らがインタビューで
「この映画にあるのは愛の物語、希望を持って負けない姿が美しいのです」
と答えていたのに、どこか違うピントを感じてしまったのだ。
僕には横田さんが、いつか めぐみさんと草原に寝そべって、いろんな楽しいことを話したいなという箇所に、愛とか強さという形容とは異なるものを感じるのだ。
開拓していく強さじゃなく、本当にこの家族が持っているのは活動ということではない・・・。
拉致事件をめぐる姿には、日本の家族の、愛のありようがきっとある。
そこにこの映画は向かっていない。
ここにあるのは、急務な使命を持った物語のみである。
現在進行形の事件を扱うという、社会的な効果も勿論そこにはあるだろう。しかし、再度書き連ねるが、本当にこの家族が持っているのは活動ということではない・・・。
という姿を、僕は映画に求めている。
原題に「物語」とあることに、感じていた違和感はここだったのだ。

http://megumi.gyao.jp/

http://www.abductionfilm.com/

日曜日, 10月 14, 2007

ほほえみの国から

夕べから朝にかけて、ハイビジョン撮影による タイツアーの上映会。ほほえみの国は凄い。旅のはじめと終わりで皆の表情は根本から緩んでいった。毒素が抜けてる。しかし画面を見ている面子は深酒も手 伝って、ダウンした。無理な姿勢で眠り、毒素を溜めた。そのあいだ ツアーは三べん繰り返された。明け方はスクリーンを貼った向こうの窓が明るくなってきて、画面が見にくくなった。
そのまま出動する。
一行は昼過ぎまで席を囲んでいたらしい。
月末には大きな祭りがあるから・・・・・see you 来週!と社長に交わす。
改めて向こうに留学している友人の顔もビデオで見た。
ナイトマーケットに並ぶ絵画作品。
「いま」とは、新旧織り交ぜのものだなと思う。

帰宅して、釜玉うどんをつくって食べた。小パックの柚子胡椒を和えると美味しい。
コンビニに公共料金を振込に行ったら、近くのレンタルビデオ屋が百円セールをやっていたので、多く借りた。
店内にて、「ほほえみの国から」を口頭伝承で鑑賞する。

土曜日, 10月 13, 2007

写真展と現像仕事

地下鉄藤が丘駅からリニモに乗り換え、ひと駅で降りる。少し使用感が出てきて汚れている改札周辺の床を眺める。万博から二年だ。モリゾー、キッコロがまた森から下りてきているようなのが懸念される。
駅から徒歩で長久手文化の家へ、写真家 今井紀彰「長久手現幻曼荼羅展」を見に。
写真をカッティングしてコラージュ構成された画面は、写真の物質感を伝えてくる。プリントされた写真の断面は鋭い。強い色と相まってテカり、イメージを鮮 明にさせた。これら様々な土地の写真による曼荼羅は、相まって迫ってくる連続。オーストラリアの砂漠と空、太陽が熱いだろう。人のポーズが配置される周囲 を、土地は無限に続く。長久手も類に漏れず、パワースポットのようだ。子供たちのワークショップも、みんな手作りの写真だった。
そこに写った笑顔を見つめて、またリニモに乗った。
今度は、藤が丘駅から歩いて ギャラリー直指天へ行く。写真家 内藤祐子「まぶたに謡う」を見る。DMの写真がいちばん凝縮したイメージで良かった。仮面を付けた人々は、作り込み過ぎていると妙な趣味性だけが誇示され る印象を受ける。どこか素の部分があると逆に生々しくてギョッとする。過去作と同時に、日記をスキャンして半紙に印刷したシリーズが面白かった。言葉が途 中から手書きから、活字になっていたので、どうしてですか? と訊ねたら、ネット日記にパソコンで書いたものだからということ。言葉の、素のありようだとハッとした。なんて自分は姑息に意図的な上っ面で操作しようと しているのか。

帰り、藤が丘から名古屋駅に向かう地下鉄車内にて、現代美術病と現代詩病患者には、素のありようを見つめ直すことが急務だなと考えた。
晩は、現像仕事を見ていた。

http://www.noriaki-imai.com/

http://www.yukonaito.com/

金曜日, 10月 12, 2007

あんたの知らない明日もある ホレ 明日もある

誰もいない廊下を、背筋を伸ばして飛び跳ねてみる。
屋外の大きな階段を見つけたら、駆け上がりながら歌を歌う。どこかにカメラがあるのを意識して手をかざし、調子良く軽快に。
テレビで追悼企画として放送されていた「日本一のホラ吹き男」(監督,古沢憲吾/植木等、浜美枝/1964)を何故か急に思い出して、植木等は凄いと思った。
植木等が繰りひろげたメンタリティは、いまの社会が 込み入れば込み入るほど求められるはず。
それは無責任だと逃避することではなく、宣言する姿勢、スタイルだ。
そう決めているから、ジャンプする上空での絵が、本当に絵になるんだと思う。

http://www.youtube.com/watch?v=genwxCnH-es&mode=related&search=

http://www.youtube.com/watch?v=9jiRWdtYCIM&mode=related&search=

http://www010.upp.so-net.ne.jp/tohoscope/Crazyindex.html

木曜日, 10月 11, 2007

場は開く

昨日の晩は「詩のあるからだ」というオープンマイクの会に行って来た。お店を間借りして、月いちのペースで行われている。読みたい者は読み、聞きたい者は 聞く、居合わせた者による場。・・というのがオープンマイクの定義なのだけれど、詩の世界は書き手も読み手も同じだというよくある批判にもれず、どこもそ ういった状況だろう。そこに眉をひそめていてもキリはない。同時にこれでいいんだと居直って、内輪のコミュニティに埋没していくのも気持ち悪い。オープン マイクはそういった課題もひっくるめてオープンになっていたらいいなと思う。

シーンは幻想だが、場は必要だ。
「場は無いから、作らなくてはいけない」と、ムーンライダーズの映画でハリー細野は言っていた。バンドとは作られた場である。
こうしてせっせとブログなんぞを書いているのも、幻想を見ているからだ。
幻想を照らすのは、言葉であって、言葉が生きるとき、幻想を先に殺してはいけない。幻想が脱皮するのを放っておけるだろうか。
言葉の力を持って、それを握りつぶさないように。
幻想が大好きな僕は、意味を油断させるために、こうして言葉で成ってみる。
それは量の問題ではない。
場は開く。
夢は夜ひらく。

BRTUS の特集に載っていたボブディランのプロモーションビデオを見つけた。めくっては、どうですかとディランはすぐにこちらを見てくる。言葉が重ねられたあと、私は画面の前、この路上を、歩き出す。

http://www.youtube.com/watch?v=MAbtg9dz5P0&mode=related&search=

http://shinoa.poemove.jp/

水曜日, 10月 10, 2007

脊髄

草花への愛撫
青く塗られたプールの壁
布を捨てて
夜はバスになる
売れっ子は辞書で詞を引いて
あとは くるまりたいのだが
森でいこうよ

言葉はふびんで
カッと開いては
言い聞かせてしまう

彼のセスナが飛び込む
とても見立てが良かった
必死だったのかなあ
それは夜の真似事なんだよ
そこから何も覚えていない
思い出というより
そうであったろうという話だけが
調べを持つことになる?

やさしくしてくれれば
すぐに ほほよせるよ
そんな濡れることに
思い入れなんてないけど
見ないふりもできないわ
バカでしょー
ここいらは
空ばかり撮ったアルバム撫でてるの

火曜日, 10月 09, 2007

気持ちを書く

階段を上るところで電話が返ってきた。
大丈夫?ちゃんと、落ち着けるお店とかに入れた?
東京は物騒だから、そんな気持ちでも容赦されずに人が寄ってくるから。
どうやって向き合おうかとこねくり回しているうちに、こんなに遅くなってしまった。
何にもなっていないのは、いけない。
出来事はすぐに起こる。
いまはこうして、輪っか一つパルックの下で、プロレスゲームに興じてる。スタミナもつかな。もつだろ。ああ胸が苦しい。鼻水があふれてくる。朝までビールを飲んで、ずっと話し込みたいよ。
気持ちを書くというのは、気色悪くて、無理がある行為かもしれない。
願いを入れなければ、それは一言も書けないものだ。

月曜日, 10月 08, 2007

グッドをグッ と歌って

池下の「源」へ、斉藤哲夫のライブを見に行く。
ちょうど昨日 BS2 のフォーク番組に出演していたそう。テレビなんか二度と出てやるもんかと、リラックスした演奏をしていた。声の温度が近く、のびてくる。そして軽くなってくれる。
永井宏の詩に歌をつけたものも、考えさせられるテーマのようでいて、言葉はそんな深みには落ち込まない。音楽はそうやって軽くなるのに寄り添う。

後半にはセンチメンタルシティロマンスの告井延隆も入り、ピアノさがみ湘とで、三人編成による数曲が格好良かった。

甘いワインは葡萄さ
葡萄は美味しい水さ
美味しい水は空から
恵み受けるものさ
「甘いワイン」

と合わせて歌えば、なんて楽しく強いのか。言葉の端々に有り様が生きてくる。
あっという間にライブは終わり、帰り道は歩きながら「バイバイ、グッバイ、サ〜ラバイ〜」と歌ってみる。繰り返し部分の「バーイ バーイ バーイ グッ、グッ、グー」のところがすごく楽しく切なくて好きだ。
「悩み多き者よ〜」と続ける。
歌は帰り道にいい。
ギター一本での歌は尚更さ。

http://tetuo0404.hp.infoseek.co.jp/

http://live-gen.musical.to/

http://www.mis.ne.jp/~ryu-s/album.index.html

日曜日, 10月 07, 2007

そして彼女は歩き出した

「一冊の本が、一人の人生を変えてしまうことがある」
山奥の仕立て屋、爺は告げる。
男ふたりはそれを本当に理解はしていない。「彼女を無知から救いだすんだ」と言って、乾杯をした。二十七年後、ビデオカメラからケーブルをテレビの外部入 力に刺して、ワインを飲みながら、男ふたりはそれを見返す。ものがあふれた町は、電力の為に山奥の村をダムに沈めることを決めたという。小さな乾杯にグラ スがチンと響く。これでよかったのか。男ふたりを残して、彼女は歩き出した。どんな感じの女性ですか?「小さなお針子」と免税店の店員に返す男。彼女はど こにもいない。彼女を愛していた。俺と彼とでは違ったけれど。本当に愛していた。彼女ほど人生に向き合えただろうか。俺たちは。

「小さな中国のお針子」(監督, ダイ・シージエ/ジョウ・シュン、リィウ・イエ、チュン・コン/2002)を見た。

http://www.albatros-film.com/movie/ohariko/

土曜日, 10月 06, 2007

sapce bone

犬山キワマリ荘 space bone にて五人の作家による個展が同時にはじまった。そのオープニングに向かう。たくさんで盛り上がっていた。ホットプレートで焼きそばを作りながら、不登校問 題から尾崎豊とデーモン閣下まで話す。と書くと、あまり広がりが無いみたい。脱線ばかりで楽しみつつ。それぞれの個展も楽しんだ。ペインティングにインス タレーション。気軽なようで、濃厚な狂気が見え隠れ。以前に福井氏からもらった「あめんぼ飛ぶ」という音楽を思い出した。ずぷずぷと視線は笑う。もっと怖 くなっても、僕は好きだ。

http://honeya.hp.infoseek.co.jp/yotei.htm

金曜日, 10月 05, 2007

25と28

そして祖母から弟へ、渡されたのか渡されなかったのか。言わなくてもあるミネラルウォーター。冷蔵庫を開けて、注ぎ口から直接飲む。
彼女は空港から、彼女は駅勤めに変わったのではと考える。
今度、映画館への招待券を送ろうか。

ノンストップ!と唄う。
「東京エキスプレス」(上田正樹/1981)。
どう聴こえる?
これらの平日を見渡す仕事もいいな。

http://www.youtube.com/watch?v=wWv-K81vJ64

木曜日, 10月 04, 2007

黙視する時間を

去っていったものを数えないで。
ここにあるものを数えることもしないで。
あなたが ふれていたいもの。
あなたが 呼んでいたいもの。
私の言葉は、数えることを先にしてはいけない。
そんなことをすると、何も言えなくなる。
潔く言うための、黙視する時間を、持とう。

水曜日, 10月 03, 2007

苦い薬を飲んでくれた

「太陽」(監督,アンドレイ・ソクーロフ/イッセー尾形、佐野史郎/2005)を DVD で鑑賞した。
昭和天皇 裕仁をイッセー尾形が演じ、無条件降伏と現人神宣言へ至る決断の姿を、賛美でも侮辱でもなく、静かに描く。
ここにあるのは劇的な演出ではなく、日常の生活感覚で息をしているだけという「天皇として生きる人」である。
日本人の精神構造、即ち国の社会構造がまざまざとある。
天皇と付き人の会話、マッカーサーとのやり取り、軍部からの報告、皇后に引き寄せる手。あらゆる場面がそれを持っている。

ノンフィクションを基礎としながらも、想像を巡らせた心理描写をふんだんに取り入れているバランスが秀逸で、素晴らしい。
ロシア人のこの偉大な監督の映画を見るのは初めてだった。映像の質感や構図、間、音楽の使い方など、あらゆる面で造詣が深く、気品高い。

玉音放送は、澄み渡った声で響いた。

http://sokurov.spb.ru/island_en/feature_films/sun/mnp_sun.html
http://www.youtube.com/watch?v=uXedhmfVln4
http://www.sbbit.jp/article/2062/

火曜日, 10月 02, 2007

新しい詩

新しい詩を書こうとしている。
逆立ちしたら、きっと書けるのに、逆立ちができない。逆立ちをしようとして、もがいていると何かを書くだろう。床の上に、紙と鉛筆を置こう。
使い古された言葉で、新しい詩を書きたい。
地下鉄のホームで別れる。これからの企みには新しい詩が要る。企みから、新しい詩を読もう。
いまの私には焦がれているものがあって、それは温かく広がりを持った透明の風船みたいで、具体的な言葉を欲しているのだ。
飲み会の最中から、それを思っていた。
コンビニで無口だった店員が、やたらフレンドリーに話しかけてきたり、事務的な会話しかしない男が急に冗談を言ったりなど、何かが温かく透明の広がりで溶け出して、暗い夜の淵をかいくぐって。

月曜日, 10月 01, 2007

人は少しずつ変わる

このままではだめだよと
言い聞かせはじめた。
はじめたんだ。
一行から広がって、またその一行に帰ってみるんだ。
その一行がずれたら しめたもの。

「人は少しずつ変わる」(詞、曲, 中山ラビ/1974)。

http://www.youtube.com/watch?v=fVurnTBEGNE