金曜日, 3月 31, 2006

水のような存在

喉が異様に渇く。先日、蓄膿の疑いをかけられてから、鼻の奥にできるという「鼻茸」、つまりポリープの症状などを読み、怖くなってきた。鼻がこころなしかヒクヒク。花粉症じゃないよね?違うよね?とオドオド。
それにしても喉が異様に渇く。
渇く前に飲んでおかなければいけないとあった、水についての教科書の言葉を実践できていない。喉が渇いているというのは危機状態らしいのだ。
鼻がおかしく、喉がおかしく、身体がおかしい。
ブリタに注いだ水を飲む。バイトの最中には、甘ったるいジュースなんて選ぶんじゃなかった。

布団に潜りながら「朝まで生テレビ」(テレビ朝日/1987-)を見た。格差社会についてが議題であった。民主党の退陣騒ぎもあってか、政治家らの衝突が 激しかったように見えた。団塊の世代が一斉に退職し、年金を貰うようになる状況の変化に、おっつかなくなる問題(2007年問題)も追い打ちでやってくる し、これはマジで見通しがつかない問題だ。
とか講釈を垂れている自分も、その問題の張本人。
おねしょ覚悟で水をたらふく、討論を子守唄にグッナイ。

木曜日, 3月 30, 2006

僕の仕事も同時にはじまる

今月いっぱいという言葉を持って、周囲の人間がこの町より旅立って行く。その後には、向かってくる人間もいるだろう。春はそういう季節。番組編成期だ。 bnap06 も編成仕事が続く、福岡事務所で企画書編纂の仕事をしたあとに買い物をして、味噌蔵で夕刻よりミーティングと勉強会。本日で全員分の勉強会を終えた。 bna05 の個々の作品が見届けられた。充実した時間であった。このメンバー間に存在する諸々の問題をハッキリと見ることができた。干渉と不干渉。感性と不感症。言 葉巧みな者、黙りこくってしまう者。詭弁と収縮、後悔はきりなく、反省と感想は述べられた。
至極、健康的なアートプロジェクトらしい行いであったように思う。少なくとも、疲れるだけのミーティングみたいなものより充実していた。
語る者には、その場はまだ存在している。

握手をした。残していく物を僕らはあやかって、部屋でそれを見ては寂しい気持ちになった。僕はピーターより、多くのファミコンカセットとファミリーベーシックにディスクシステムを箱ごと授かった。また、プレイする度に思い出すゲームが増えた。

川沿いの細いアスファルトの道を、荒川さんの車に乗せてもらって帰っていた。谷村さんを家まで送り、僕のアパートまで戻ると、ライトをパッシングする馬鹿 共がいた。福岡氏と真坂氏が、家に帰らずに待っていて、飯へ行こうと言う。41号線のラーメン横綱へ行くことになり、ファミコンをおろしてから荒川さんの 車に全員乗り込む。僕の携帯電話より今度発売になる「マザー3」のテーマ音楽が流れてくる。それはサイトより落とした着メロで、ここちよくて電話を取らな くなってしまう。
後部座席のガラスは完全に曇って、信号やライトにネオンの光を柔らかい水滴で包み放っていた。電話口には、怖い夢から引き上げられた君の身体があって、僕 の身体は50km/h 程度で移動している。携帯電話の電波はことも優秀にこの車を追っかけてくれていた。誰にも知られずに打ち上げた人工衛星のおかげ。これくらいのスピードは なんてことない。
およその多くの怒りや焦りは、深夜の外食に鎮められ。
猫の鬱と寝る。
僕の仕事も同時にはじまる。

水曜日, 3月 29, 2006

いつも待っている、そして、呼ぶことをする

「ハッピーマニア」(著,安野モヨコ/祥伝社/1996-2001)を全巻読破した。日常の話に終わりはないもの。痛快して、ぐったり。傑作だと笑う。そ のうちに泣きじゃくる前に、夕方からの絵画教室の為に、味噌蔵へ向かい、余っているロール紙を切り分ける。右腕でしっかりと掴んで、自転車をこいで岩倉市 へ向かう。北名古屋市から岩倉市へ。そういう表記になる。風は強く、ときどき雨粒がパラパラと落ちてくる。長い机を動かして、大きい紙を教室の床に広げ て、さあ何を描こうという時間へ。
子供のことを考える。
同じくらい、僕のことを考える。
彼らはいつも待っている。
僕もいつも待っている。
そのうちに、いつでも見れるものは崩れ去って行く。
数字の為に、そのうちに。

洋食屋でハンバーグを食べた。お祝いしたい気分で、次の喫茶店に向かったけど、北名古屋市の店はみんな早くに閉まる。モスバーガーでホットの抹茶ラテを飲 む。もう、モスバーガーをテーマにエッセイを書けるくらい、この店で話をしている。今度、持ち込みをしてみようか。黄色い照明の下で、リサイクル・ペット と彫り込まれたトレーの上にマグカップ。ゆるゆるした手描きの線が白地にグリーンで刷られていた。
詩を書いている姿を、君は見たいと言った。
ブログで満たされてなんかいないさと、僕はうそぶいた。
変換キーを押すと、「嘯いた」と表示されて、これじゃあ誰にも読めないよと思う。
ポップ感覚が起こりえる気がしていた。
それにしても、待ち過ぎだろうと、電話口で友人が言った。
東京での話は、もうすぐ一週間後に差し迫っている。
東京を舞台にした漫画を読んで、都会人の気分で居すぎた。僕は今日の最先端の感覚に疎い。
だから詩を書いているわけじゃないし、詩は古くなければなんて微塵も思っていない。意地になったりして。
書店で「AERA in FOLK」(朝日新聞社/2006)を購入。中川五郎が高田渡について、谷川俊太郎がフォークの詞について書いているのが決め手となった。宝島などの特集より、現在形の問題で捉えようとする紙面が嬉しい。どれほどかは、読んでからだけど。
今晩は、雪が降りそうなくらいに寒い。
ブログを書き、詩を書き、缶ビールを開けてみる。iTunes からは、サニーデイサービス。

http://opendoors.asahi.com/data/detail/7305.shtml

火曜日, 3月 28, 2006

曽我部恵一BAND

今池 TOKUZO にて、曽我部恵一BAND ライヴ。ガタイの良い曽我部恵一。豊かなロック、豪気に優しい。
「日が暮れたら、愛のことについて話そう」を「日が暮れたら、アイスを食べよう」に聞き間違えていたらしいけど、そっちのほうがグッとくるよと、バンドメンバーに笑って言っていた。
ギターとギターは向き合う。
朝と夜を繰り返す、時折雨の降る毎日には、テレビの前や、赤ん坊の前に、ギターが向き合っていた。
優しすぎるのと、人でなしを渦巻かせるロックミュージシャンはごまんといるかもしれない。ただ、名前や言葉について、どのように優しさを捉えていくかをしているかと 聴けば、それは個々の話であるべきだ。
喉が渇き、お腹を空かして、終電で帰った。
今晩は、曽我部恵一BAND を見た。

http://www.sokabekeiichi.com/

月曜日, 3月 27, 2006

萌えるな、キスをしろと監督は吠えていたけれど

新作レンタルでも安いというのに浮かれて、一泊二日にしておいたのが大間違い。土日のゴダゴダで、またもや延滞をしてしまった。しかも予想通りに内容もイ マイチで、見事にパッとしない。そのタイトルは「機動戦士Zガンダム ll -恋人たち-」(監督,富野由悠季/声,飛田展男/2005)。
ロボットアニメの王道。ガンダム第二弾、「機動戦士Zガンダム」(同/1985)の映画三部作リメイクものの第二作。キャッチコピーには「新訳Z」と書かれる。
第一作のときに呆れ果てたのだが、モビルスーツの美麗なギミック鑑賞目当てで借りてみた。断然、第一作よりも新しい絵のボリュームが増えておりビームの波 動ひとつにいたるまで、丹念で格好良い。見せ場の戦闘シーンも卒のない感じ。でも、依然としてテレビ放映当時のカットは時々出てくるし、いくらデジタル処 理でズームなどをかけても、逆に見苦しくて薄っぺらいだけで、トーンダウンしてしまうのは否めない。これが今回の「新訳Z」の疑惑渦巻く点であり致命的な 点だと思う。 前情報でそれは知っていたので、批判だけではなく、意 識して鑑賞してみると、ビジュアルの絵柄ひとつで、その登場人物の性格が描き出されることになるんだなということを、頭のなかで考えた理屈ではなく実感し た。80年代当時の絵柄のカミーユは、00年代の絵柄のカミーユよりも硬派な性格で、もっと気難しく見える。00年代のカミーユは、特有のナイーブさが 甘ったるいところにまで解釈されている感じ。簡単に言ってしまえば、時代性が絵に出ている。それが「新訳」だというのだろうが、話の展開もほとんど尻切れ トンボの駆け足で進むもんだから、なんともストイックだし、オリジナルのテレビ放映版を知らない者はわけがわからなくなるだろう。水で薄めた関連コンテン ツという内容に見える。00年の絵がデジタルレタッチで描かれている点からも、全編がそのままプレイステーション2のゲームみたいだ。CGで描かれた戦艦 が、くるっと回転するシーンなどに、まるでいま自分が十字キーで操作しているようなちゃっちい感じを見る。やはり戦艦はゆっくりと、画面では捉えられない くらいの重みを持って移動をしてほしい。おそらくこの違和感は、構図の問題で、画面というものが、人間の視界を模しているのだということを思わせる。画面 にすっぽり入りきってしまうと、戦艦のスケールは損なわれるのだ。宇宙空間などには、大きさを知らせる木やビルなどの背景も存在しないから、余計に。そこ に音の質感や、色、スピードが合わさって、戦艦の重みが生まれるはずだった。
モビルスーツ表現は、細部描写と遠方からのショットなど、多くの視点を繰り返したりするので、戦艦のように軽くは見えない。むしろ、直線の引き締まった感じや、プラモでの洗練を思わせるシャープな造形美が決まっておりカッコイイ。

00年代の主人公達は、安っぽくブチュブチュとキスをしていた。80年代のファーとカミーユはこんなに積極的じゃなかったはず。

夜遅く、豚の角煮を御飯にとり、ごろごろしてテレビをつけたらアニメがやっていた。別にエッチいアニメじゃないみたいだったけど、キャラクターはどれもこ れもがまるっこくキラキラして魅惑的な要素を帯びている。今日びのアニメには、皆一応に「萌え」の雨が降り注いでいるのだろう。先日のアニメーションフェ スティバルの終わりの挨拶で、企画者の吉田氏が「アニメ」と「アニメーション」の違いを話していたのを思い出す。そう、日本では「アニメ」のシーンが異常 肥大しているのだった。
もはや、商業ベースから逃れないと「萌え」要素を排除した絵柄のアニメは作れないのかもしれない。
「萌え」への反抗として、筋肉ムキムキなギャグものに走るのではなく、肥大シーンに迎合せず展開される「アニメ」が見たいのだ。
多くの監督勢は、そう考えているであろうと思いつつ。

http://www.z-gundam.net/z2

日曜日, 3月 26, 2006

詭弁の快楽、本当のことを言おう、リセットはしない、言葉は繋がっている

昨晩は、皆がくたばっていった遅くに、伊藤氏らが尽力した「PINE in the factory」のカタログを読んだ。
愛知県の南部、知多半島では、2003年より、友人らの実践が行われていた。
アートの普及?
アーティストの自由?
地盤づくり?
アートの可能性?
アートとしての存在意義?
社会のなかでのアート?

どこかの定義を借りていることが、こうして言葉にされていくのを思う。
議論や論理は、決めつけて、定義して終わらせていくことではないはず。
言葉は、自由になるための、進んでいくための、それそのものである。
僕は正直な意見をはぐらかすかのように言った。
面倒になっていた。
だからやめればよかったのだ。
それらは自明のものではない。どこかの定義でしかない。
アーティスト以前に市民、市民以前に一個人という蔓延しているかのような思考も批判する。
それは全て都合で引出される所属やでしかない。
以前、以後ではなく、同時だ。
アーティストであり、市民であり、ナニガシナニガシである一個人なのだ。
肩書きで自身を称することは同時であることを宣言する覚悟である。
その場の都合で、詩人だと自称したりしなかったりしているうちは、大人としての評価は無い。
アーティストはこうあるべきだという論文と、アーティストである前に一人の人間だという一見、大人のような意見が同じ口から出るのは間違っていて卑怯である。
そうやって各属性毎に分離した人間を信用できない。
自己完結しているんだねと批判された折には、勝手にしやがれとゴダールの有名作品の題名口ずさみ、忌野清志郎はかっこいいと話を切り替えた。

俺はロックミュージシャンだ。
僕は詩人だ。
この町が好きさ。
でも東京で売れたいのさ。
故郷に錦を飾りたいのさ。
海外でもガンガンに売れたいのさ。
たくさんの水着美女、制服美女に囲まれて暮らしたい。
でも愛しているのは君だけさ。
信じているのは自分からのこと。
僕は君の言葉を読んでいる。
君は僕の言葉を聞いている。
猫は僕じゃない。独立したみんなの鬱なんだ。
心は卑怯だよ。誰をも蹴落として、優しいことをして、満たされたいと思っている。
この町はそんな心の結晶体。
いろんな人の行き着くところ。
誰にも何の根拠も無い。
理屈で人は動かない。
戦争がはじまったら人を殺しにいくだけだ。
戦争が終わったら平和を歌うだけなんだ。
平和がはじまったら、戦争が要ると気付くんだ。
ミサイルや爆弾ではない方法で、
戦争はできないだろうか。
どうにかしてその営みの均衡で、競い合い、許し合うことはできないだろうか。
自分から信じていくことができるならば、
それはきっとできるだろう。
アーティストでいるときだけが、悪いことをしない仲間と生きていくことができるというなら、それは多くの集団が行ってしまった悲劇とよく似ている。
中山氏の車に同乗させてもらって、愛知県の北部に帰った。
福岡氏の提案で、延期した PSE法のこともあり、ハードオフを調査に寄ってみた。ジャンク品はほとんど処分され、店はソフトオフ化に進んでいた。
これから別仕事だという中山氏に手を振り、福岡氏とも、今日はひとまず休もうと家の前で別れた。
一人になって考えたいことが山ほどあった。
かっこいいものになる方法を手にできそうな気がした。
うぬぼれへの自制とかではなく、心は汚いものだと客観視する。
浄化機能のために、批判は信じるためであった。

谷川俊太郎と、手塚治虫がよく似ていると改めて思った。
「明るい夜」の資料を、持参して東京に行こうと思う。

http://p-i-n-e.com/
http://www.miraikan.jst.go.jp/j/info/2006/if_0122_01.html
http://www1.odn.ne.jp/b.mayo/101/akaruiyoru.html

土曜日, 3月 25, 2006

「TAFF'06」を見に行きました

風邪気味の自覚を押して動いてみる。鼻水対策に、ポケットティッシュを鞄に押し込んだ。
愛知県の南部、武豊町にて行われた「武豊アニメーションフェスティバル」通称、「TAFF'06」を見に行く。福岡氏と電車を乗り換え、駅前のコンビニで道を聞き、アメリカンドッグなどを買い食いしながら、田んぼの間に延びる新しめの公道を歩いた。
会場も、新しめの公共施設で、その一角にあるホールにプロジェクターとスクリーンが設置されている。一時からの開演だと思って、少し遅れてしまったと悔や んでいたら、一時開場、二時開演だった。武豊町も合併なのか何か知らないが、ゴミ処理が変わったとかいうことで、施設内のゴミ箱は全て撤去されており、コ ンビニの小さな袋を握っているしかなく困ってしまった。いまや、駅のホームにもテロ対策や、家庭ゴミ対策で同じような現状であるから、ゴミ持ち帰り用袋な どは、必須アイテムやも。
気持ちいい天気の、穏やかな地域に来たからには、ゴミはちゃんと分別して捨てて、気の赴くままにぶらついてみたい。アニメーションだよと聞いて、眺めてみ たり、発泡酒も美味しくなってきたねと講釈を垂れてみたり。イベントの主旨とは別に、僕は楽しい構造のポイントを何かと求めてる。

TAFF'06 の企画者、吉田氏と立ち話で挨拶をし、椅子に座ってから、壇上からの挨拶を聴いて、拍手をする。
四部構成のプログラム。趣向に富んだ現代的なアニメーションが並ぶ。休憩が適度に入ってくれているおかげで、体調良く見ることができた。非常に親切で良心 的な紹介を受けている感じ。部屋で御託を延々と聞かされている図とは大きく異なる。アニメーションフェスティバルそのもの自体が、大きな映像作品のように 構成され、導線が引かれていることを思う。
休憩が中断にならない印象は、力量が問われるところであろう。
おかげで、個々のアニメーションが持つテンポだけを気にすることができた。

アニメーションを大量に見ていくと、自分自身の興味対象を見ることにもなった。
自分が、執拗にテンポやリズムを気にしていることを自覚する。
第三部の東京芸術大学映像美術部「TACOROOM」は、特集プログラムだったので、各作品の間をタイトル表示で仕切ることなく、ぶっ続けで流れるように なっていた。それは効果的で、小気味良いテンポを起こす。だが当たり前だけども、同時に総体としてミックスして判断し味わうことになってしまう。
ワインのテイスティングで、舌に残ったワインを無くす為にある食パンを、口にするかしないかの違い。東京芸大産のワインはがぶ飲み状態。甘いという大きな感想。
日の目を見ないかもしれないくらい、地味かもしれないけれど、深い味わいのするワインも棚には置いてある。
残酷性や、目新しさの要素などは、本質的な問題ではない。
紹介者としての公共性部分と、作家の公共性を吐き違えると面倒だぜと後で思う。
友人が多くお手伝いしていたり、出品していることに甘えて、レストランでの打ち上げやその後の飲み会にもまみれ遊ばせてもらい、友人宅にあがりこんだとき にはテレビに再度プログラムを全上映し、吉田氏らと解説や感想を話しながら。まさしく、DVD の別音チャンネル、生コメンタリー状態に。

これだけの量のアニメーションを、集めるということと、プログラム構成するということ、それと多くまとわりついてくる手面倒な雑作業等。その苦楽を思いつつ、楽しい鑑賞の機会に感謝感激する次第であった。

社会のなかで、喜びのかたちをはっきり自明できる人が、希望であると思った。

http://www.alt-media.org

金曜日, 3月 24, 2006

M氏の卒業を動機にして呼んだ人生

目覚めると、素っ裸で、からっ風吹きすさぶビルの下であった。
かろうじて財布は見つけたが、動き出してから、免許証が無いのに気付く。
でも、もう既に高速に入ってしまっている。
コトは起こり出し、コトは収束し出していた。
僕は吸わないけど、彼やオジサン達は吸うから、助手席と運転席の間にある引き出し式の灰皿にはシケモクの山ができている。
数時間前までは、認められた名前が行き交っていたのを思い出す。
野っ原に一人で倒れていたのは、どこかのビルの上から吹き飛ばされてきたのだろうか。
さっき目を開けてから、帽子を深く被ることにしたのだ。
次の瞬きのときには、脱ぐことにしよう。
僕の覚えたての言葉を、これから会う人は何語と思うだろうか。
ただの声。ただのわめき。ただの歌。ただのぐずぐずの、どうしようもない単調な詩か。
滑走路まではもうすぐと、看板を見たのは二分前。
いまは時速なにがしだから、ガソリンはきっちり、ギリで足りる。
カーラジオで聴く、十代向けの工場産のジャンクフード音楽の間で、流れてくれた「ロビンソン」(スピッツ/1995)に少し救われる。
そうか、95年だったか。あの忌まわしき年。ナチスが生まれた年の話じゃないが、日本にとって、病みという闇の時代がはじまりを告げた年。僕は中学三年生で、君は中学二年生だった。
君の卒業式のことを思ってみていた。
学校をサボタージュして、エヴァの映画版を見に行ったということを思い出す。
君が唯一行った悪い事だったはず。
その頃は、コンビニの入り口前にある灰皿から、しこたまのシケモクを集めていたんだろ。
君の無精髭には爽やかすぎるかもしれないけれど、同じ美大の東京の方の連中がバンドを作って、同じようにこうして歌って、人々の心を動かしてる。
ここからどこかの町へ高速移動できるように、フライトもいまじゃわけもないように、僕らがたとえアートと呼ばなくても、人々は毎日の仕事で衝撃を与え合っていた。
町は勝手に変わっていくもの。
そう、エヴァから十年が経ったんだぜ。
今夜はアルバイトをしているけど、ここでなんとか下道に降りて、旧空港から発つ君への賛辞と、写真を待っているのだけは、言いたくて。
1995年。
同じように鼻水をたらして、人々が医療に従事する映像を見ていた。

木曜日, 3月 23, 2006

なけなしでいくよう

俺は正しい。お前は正しくない。ここは戦いの場で、尊重しあう場である。個々の求めるところ、いよいよ結集し、決裂か歓喜か、どこに流れ着くのやら。
bnap06、春の陣。
いろんなことが迫り来る。話だせばきりがなく、話をしなければ何も変わらず。
個々の苦渋を宣言するのは解決にはならない。
核心を突いた言葉で、ひとりだけで向かっていきたいだけ。
そうやって、活用していければいいと思う。
bnap05 の九月のときに多用してしまっていた、安い飯屋に行く。
既にこのプロジェクトも二年が経とうとしている。
いろんなことが迫り来ていたんだね。
来週は、最後のアート展開の発表です。
これからの一週間は暴走です。
えらいこっちゃ。ぬわんとー。ぶるぶる。どないするか。なけなしでいくよう。
変な姿勢でいたので、両肩が痛くなってしまった。
春と呼ばれどまだ寒し。
猫の鬱、水道の蛇口より直接、水を飲んでいる。
安い飯屋は、圧倒的に不味く、驚いてしまった。一緒に行った面子は食べきれないとわめいていた。僕は、当たり外れのないよう、ハヤシライス。百八十九円。