月曜日, 12月 31, 2007

三匹の犬たちの性格見つめ、そばをずるずる食べました

段ボールを繋ぎ合わせてCRTモニターと、タワー筐体を梱包した。集配所まで持って行く。リサイクル業者に年明けの平日に届くように手配する。布テープをケチらずにぐるぐる巻きにしないと意味が無い。三匹の犬たちの性格見つめ、最後には仲良く眠る。
紅白で視聴者投票の集計時間にまた一曲歌うのはどうかなと思った。阿久悠で納めたんじゃないか。アナログ放送も残り二年。ドントラまであと一年。平成これ にて二十年。ゆく年くる年厳かに。2007年ありがとう。そばをずるずる食べました。犬らはゲージの中で眠り、起きたら人様の布団に入る。

日曜日, 12月 30, 2007

アトリエでの背中

夜中にアトリエへ伺い、多くの絵を見せて頂いた。
何の飾りもしていないそのままのスケッチブックを何冊もめくった。
この夏には美術手帖とみずゑが本棚ごとやってきたという。
僕はアトリエで追いかける仕事を追い続けている。
一瞬で立ち上がってくる姿を求めている。

土曜日, 12月 29, 2007

流行遅れの恋の歌、いまも君は口ずさむ、戦争は終わる、もし君が本当にそれを望むなら

「転々」(監督,三木聡/オダギリ・ジョー、三浦友和/2006)を鑑賞。
まさしく風景の変わる散歩向きの東京百景だこれは。主題歌がムーンライダーズの「髭と口紅とバルコニー」だったことを忘れてて、オープニングでグッとくる。いろんな人は遠いようで近く、似通っていながらもよく分からないまま仲を持っている。あそこでそうなっていればちがったかもねと、甘い匂いは甘いままで過ごされる。そんな絶妙の関係の頃合いが広がりを呼ぶ。小汚いアパートの部屋に、思い出となる遊園地、マンションでは眠る。この町ではみんな焦がれている。切ないものを。

「PEACE BED アメリカ VS ジョン・レノン」(監督,デヴィット・リーフ/オノ・ヨーコ、ジョン・シンクレア、アンジェラ・ディヴィス/2006)も続けて同じ劇場で見る。原題は「The US vs John Lenon.」なので、「PEACE BED」という日本版追加タイトルでイメージするものとは少し異なり、政治的、活動的な側面に照射した現実との戦いを追うドキュメンタリー。やや CG エフェクトがうるさいけれど、赤裸裸に語られるベトナム戦争時のアメリカ・カウンタームーブメントは面白い。チョムスキーも出てた。「Activist・活動家」と「Radical Activist・急進的活動家」の違いが気になる。そこらへんのバックボーンでほくそ笑むことができないのが悔しい。自分の見識不足なだけであるが。また、政府側からの思考なども重ねて全体的に見たくなった。ジョンとヨーコの戦いは活動家的なアーティストであることには変わらず敬意と感動を持つが、映画はいろんな要素を尻切れトンボで編集されている印象。優れたビートルズオムニバスのアルバムもあれば、そうでないものもあるということだろう。だが、この映画をいまのタイミングでぶつけてきているのに何かあるのだろうというレビューを呼んで口をへの字にした。オノ・ヨーコもたくさん出てきている。元旦の朝刊に「WAR IS OVER. If you want it.」と載るかもしれない。

http://tokyosanpo.jp/indexp.html

http://www.peacebed-johnlennon.com/

http://www.theusversusjohnlennon.com/

金曜日, 12月 28, 2007

A teacher runs on this month

年長組がいちばんすぐお酒にやられてちゃいけないと怒られて、横になった忘年会。起きたときに机にあったのは肉のタレを降りかけた白い御飯で、すぐにたいらげられた。
ベックスビールを缶で頂く。ブレーメンからセバ氏が今日着いた。コンビニで待ち合わせをして会ったから、不思議な感じだ。
いろんなものが納められて、だんだん大気圏突入の様相を迎えてきた。年末の日々は かけがえがなくていい。

木曜日, 12月 27, 2007

豊かな国の貧しい政治

「豊かな国の貧しい政治」というコピーのような言葉を思った。これがどんな局面にもあるような気がする。「豊かなテクノロジーで貧しいコンテンツ」、「豊かな食卓の貧しい会話」というように。「貧しい国の豊かな政治」と逆が成り立つわけではない。「貧しい国の貧しい政治」もあるだろう。そもそも政治が貧しければ国が豊かなわけではないとも言える。政治は創造力だから、それが貧しいままで動いているうちは何も変わらないんだ。

コーラにレモン汁を降って飲む。テレビを点ける。電子の光と音が部屋を変える。デジタルの恩恵をこれからも もっと受けるだろう。とにかくビタミンCを忘れないようにとメールが届く。ケータイも忘れない。お金はいつも落としてる。閃きはいつも、絶えず湧き続けるようにと忘れない。

水曜日, 12月 26, 2007

ポップのなかにある実感

J-POP の最前線では、言葉が答えになって歌われることが多い。
答えのままでは白々しい説教だが、耳障りの良い音楽に混ざっていくことで 聴けるのだと思う。そんなわけで言葉と音楽が分離している傾向が J-POP ニューミュージックにはある。
そんなことをアルバム「悲しみなんて何の役にも立たないと思っていた。」(槇原敬之/2007)を聴いて思っていた。とにかくポップなのだ。答えの先決が早いという印象は置いてみる。
そういう意識から、このアルバムに入っている曲ではないが ダウンタウンのまっちゃんが作詞をした「チキンライス」(作詞, 松本人志/作曲, 槇原敬之/2004)は、実感を基にしていていいと思う。

http://www.youtube.com/watch?v=o17AP4hRiiU

火曜日, 12月 25, 2007

麒麟 田村氏の戦い

節操の無い番組であることは重々承知だが、やはりロンドンハーツのドッキリ企画には笑ってしまう。麒麟の田村氏に四人の美女がやらせで送り込まれ、いつもモテない彼はメールで四人とそれぞれ食事に誘っていく。数々の寸止めを食らいながらも、もがく姿に手を叩いて笑った。最後は鉢合わせの苦しみを散々味わさせてから、みんな嘘でしたドッキリ万歳と終わる。それが分かっていても、キャッキャ喜んでしまう。彼の思いが伝わってきて、共感してますます好きになった。悔しいだろうな。うう。
それにしても、人をビンボー呼ばわりしたりする仕打ちはデリカシーが無くて、えげつない。親が子供に見せたくない番組第一位というのには納得する。人を見下す落とし方には笑えない。

ああ、田村氏よ。
人の目などに振り回されること自体がおかしなことなんだね。

http://www.tv-asahi.co.jp/londonhearts/contents/backnumber/cur/

月曜日, 12月 24, 2007

チュウとギュウ

豊田市美術館の「ギュウとチュウ・篠原有司男と榎忠」展が最終日。ギリギリで見に行く。榎忠サンタによるパフォーマンスを見逃してしまった。作品は圧巻。エネルギーに満ち溢れていて潔い。美術館に収まりきれるものでは・・きっと、ない。こんなハコは凌駕するマグマがずっと燃えている。
すぐに影響されて、クリスマスイヴの我がアクションは、大胆になってホールケーキを買うことや、バスに飛び乗ることに終始した。半刈りでハンガリーに行っていたチュウさんみたく、純真に意識的なしかめっ面を作り、時は元禄もつれあった男と女に花が咲くと興にのりたいギュウさんのスピードにしびれたのだ。

http://chuenoki.com/

http://www.new-york-art.com/shinohara/

日曜日, 12月 23, 2007

私たちは画面の前で

早いもので個展「沼が無い」も最終日となった。
昨夜とは打って変わって天気が良く、陽射しが温かい。
トルコ旅行のお土産お菓子を頂く。砂糖の中に封じ込められているピーナッツをまぶした練り菓子で、甘くて美味しい。これをアートフェチの面子や、三階で個展をされている先間さんとバックヤードでほおばる。
七時の閉館まで多くの方に来て頂いた。
次回への課題や展開の期待値を沸かしていきたい。
搬出に西山氏、真坂氏に手伝ってもらう。無事に終えて西春へ帰還。
中華料理屋でたくさん食べて、等身大の茂木さんを見る。話されていたことも等身大だ。

個展にお越し頂いた皆様、ありがとうございました。

土曜日, 12月 22, 2007

土砂降りはひとつ、水たまりはそれぞれ

ギャラリーが閉館してから 開店したてのカフェで、男はつらいよアメリカ版のプロットを聞く。
頬づえをついて頷きながらも、付箋に鉛筆で「女」と走り書きされていたのは見逃さなかった。
急に「人間」と飛躍できるほど、僕らはまだ若くない。
落ち着いた夢について、駅のホームで聞く。ここは別方向に延びる路線を同じホームで担うという、迷いやすいホームだ。
手を振って見送る。
帰ってすぐに靴下を投げ、ジーパンを干す。ひどい土砂降りのなか、僕らは小道に入って、水たまりをよけていた。

金曜日, 12月 21, 2007

いまごろきみはどこでなにしてる

遠征に次ぐ遠征を繰り返している まさしくフーテンのノリ。僕は伏見の拉麺屋で鼻水を垂らしながらモヤシを食べてた。「絶対に負けられない」という合い言葉を思い出す。ケータイのメール打つ。辿り着いたときには既に鍋は食い散らかされ、1キロのキムチも空っぽになっていた。爆音で木村カエラが流れている。そのまま踊る。おでんをコンビニで買う。赤髪の店員が病んでいる。そう見る自分も歯磨きをせずに寝ている。亀に噛まれる夢を見るかなと思ったけれど、そんなうまくはいかない。賞味期限切れの廃棄スイーツを皆でぱくついたのは美味しかった。どうしたら胸がときめくのか聞き出せば良かった。異国語の OSX に入った小栗旬に。

翌朝は、裸の目になっていて それを嘆きに走り出した。

木曜日, 12月 20, 2007

息を飲む音から

東京事変の「閃光少女」(詞, 椎名林檎/曲, 亀田誠治/PV監督, 児玉裕一/2007)の PV が爽やかでいい。アイディア、即ち閃きひとつでセンスは光る。さらりと魅せられるものからは、いつもそれを感じさせる。技巧的なことは、みんな隠れて勉強しているらしい。

http://www.youtube.com/watch?v=Zz_oCwL8hUY

水曜日, 12月 19, 2007

二千七分の二十余回目のクリスマス

クリスマスはなんで楽しいの。クリスマスにはプレゼントがもらえるから。朝起きたら、枕元におもちゃが置いてあるから。足下には猫が寝ていて、丸くなっていて温かい。もらったおもちゃを開けて喜ぼうと階段を降りていくんだ。この頃はそんな喜び方をしないかもしれないけれど、朝をそんなふうにできたら、コーヒーを煎れて、ケーキの残りを出そう。馬鹿騒ぎの合間に、思い出と称して話していたい。キリストに何の感謝もしていないけど、いまを西暦で数えているのだから。二千七分の二十余回目のクリスマスなのね。それがそのまま年末にあるのは意図的なのかな。

火曜日, 12月 18, 2007

梱包用の段ボールで眠るキュレーター

キュレーター長谷川祐子はプロフェッショナルだ。展覧会準備の修羅場にテレビカメラが入ったのははじめてではなかろうか。美術館苦労話みたいな映像ではなく、客観的に撮られたドキュメントには手に汗握る。河口龍夫展にあったインスタレーション設置風景のビデオも面白かった。これはほんの断片に過ぎないだろうけれど、凄まじい現場である。自分の現場をユートピアにするんだ。

http://www.nhk.or.jp/professional/backnumber/071218/index.html

月曜日, 12月 17, 2007

点と線

テレビ朝日50周年ドラマスペシャル「点と線」(原作,松本清張/脚本,竹山洋/ビートたけし、高橋克典/2007)が面白かった。二夜連続放送していたものを録画しておいたので、一気に見る。戦後推理小説の元祖という骨組みの強い原作と、相当に気合いの入った舞台背景、キャストの豪華さが絡み合って、テレ朝が本気で胸ぐらを掴みに来たという感じ。鳥飼刑事と三原刑事がかっこいい。社会の本当の悪を暴いて行くというのはこれが先駆けなのだろうなと思う。陳腐に締めぬ結末に、刑事らの歯痒さを共感した。

http://www.tv-asahi.co.jp/tentosen/

日曜日, 12月 16, 2007

野郎たち・来年は沖縄で乾杯を

南国ドロップスの「チェリーブロッサム」(2006)で起きた。林檎を齧る朝。凍えながら、みんな畳にごろ寝をしていた。もったいないと日本酒をペットボトルに移す。名駅前に見送り、良いお年を。また季節は巡り来るかな。
残留面子で車を飛ばし、ギャラリーやハードオフ、サブカルアングラスポットをはしご。来年は沖縄で集まりたいとわあわあ言う。
何度も同じことを言うのは正真正銘、オヤジ化の現れだった。
個展会場で作品撮影をしてもらってから、合流して入ったとんちゃん屋でもリピートしていた。こんな話題で盛り上がったということを再生。昨晩は覚えていないうちに寝てしまってた。遅くに駆けつけてくれた方の帰り道まで送っていったみたいで僕は何も覚えてない。ドラえもんの「あこがれミラー」は傑作で、しずかちゃんに笑われる野郎たちという とぼとぼ構図を反芻していた。

http://www.youtube.com/watch?v=oOj43C-pEZA&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=3loo3xz3x7g

土曜日, 12月 15, 2007

見えないものと見えるものツアー

名駅のナナちゃん人形前に集合というベタな約束。駅前には人が師走らしくごった返していた。この寒いのにやたらアイスキャンデーを口にしているのを見かけると思ったら、すぐそこでガリガリ君の正月用テレビ CM を 撮影していて、キャンペーンとして新しい味のを配っていた。僕らもちゃっかりもらい、美味しいんだけど身体冷やす。
本日は、大学の洋画面子らで小さな同窓会兼忘年会兼誕生日会兼クリスマス会ツアーである。いつもの調子で計画は七転八倒。もとい七転び八起きにするのは慣れたもの。歩いて名古屋市美術館とアートフェチに大須巡りと回った。

「河口龍夫-見えないものと見えるもの-」展で、種子を静かに見る。静かに見る姿勢になる。封印される関係は、そのままにして愛でていたい関係ではないか。化石たちを優しい色でフロッタージュし紙に写した後は、巻く行為を思い出す。
友人が巻いた 一粒だけの音に微笑む。

フェチで個展を見て頂いた後、早めに飲み屋に入って乾杯。七時には三人くらい眠たくなる。財布に向日葵の種子を二粒入れていたら、社長!俺もだった。

http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2007/kawaguchi/index.html

http://www.tatsuokawaguchi.com

金曜日, 12月 14, 2007

現代詩の研究自体が現代詩

先日の詩の朗読会では、個展に来てくれた方がその印象を詩にしてくれた。その方はこれから現代詩の研究に取り組むという。すぐにレスポンスを返してくださるその勢いは、とても嬉しい。詩に限らず、作品や表現に対しどう感じているか、どう思うかを返すことは難しいものだ。聞かなくても伝わってくるとどこかで思い、感動を明確にしていくことも必要だと考える。気分めいた感想と印象、批評は異なると思う。だが、それも全て同じ一人の人間から発生していることを忘れてはいけない。理路整然とまとめ過ぎるのも何かを失う気がする。研究は処理ではなく、課題をより広げ豊かにしてくれるのだと読む。現代詩の研究については、その朗読会で多くの方が「現代詩はわからないけれど」と言っていた。その言葉が既に現代詩だとも思える。メタだこりゃ。

木曜日, 12月 13, 2007

Our daily bread/いのちのたべかた

今池シネマテーク、六時半からの回に十分遅れで入る。映画「いのちのたべかた」(原題, Our daily bread/監督, /ニコラウス・ゲイハウター/2006)を鑑賞。

チラシや前情報にあったとおり、何の解説も講釈も無い。言葉というものが一切表出してこない。ただ淡々と食肉工場での作業風景が撮られていく。カメラは不用意なパンをせず、かっちりした構図を持っている。アピールされるサービスではなく、咀嚼する自由がある映像なので、ずっと見ていられる。奇麗な画面は、ただのありふれた日常であるという構造が映画である。残酷に思えるシーンも、映画を以てすれば気持ち悪くなるようなものではない。もっと非道で残虐な映像はたくさんある。

この映画の原題は「Our daily berad」で、訳は「私達の毎日のパン」だが、どうも決まり文句のような言葉らしく「日々の糧」であるという。聖書の言葉のようだ。それが邦題では「いのちのたべかた」となる。これは森達也の同名著書からで、内容がシンクロする点から名付けられているのだが、少しメッセージ性が強くなっているように受ける。それが日本の映画配給会社の戦略だと批判するのもできるが、ここには食べ物に対する態度の違いがあるとも考えてみる。
キリスト教の食事前の言葉は「主よ、この食事を用意して下さった方々と、これからいただく私たちを祝福してください。」というもので、神に感謝と祈りを捧げるが、日本では「いただきます」に全集約していて大きい。食べるいのちへの言葉だ。

http://ourdailybread.at/jart/projects/utb/website.jart?rel=en

http://www.espace-sarou.co.jp/inochi/

水曜日, 12月 12, 2007

年末朗読編

「詩のあるからだ」というオープンマイクの会に行っている。先月は個展準備のどたばたもあって行くことができなかった。根を詰めると、こういった会はたいへんに感じてしまう。オープンマイクだからといって許されるとかではなく、オープンマイクだからこその気楽さができるはず。なんて、詩にまつわる話は、理想めいて聞こえるかもしれない。スレッスレのところで魅惑させて浮き上がっていくか。最低なエゴイストで落胆されるかのふたつにひとつ。
今夜は即興で詩を読んだ。
詩になるようにと向かう動きと、安直な詩になってしまうのはつまらないとする動きとの間で。この形容は、昨夜テレビで見た絵本作家の荒井良二が自由に絵を描こうともがいていたのを、司会の茂木健一郎が言い当てた形容だ。

詩人の水尾佳樹さんが「幸せな年末」いや「結末」だっけかな? を、ぐふぐふと読んだ。笑っているうちに年を越しできるようで、ニャんともハッピー限りなく幸せ。
さて自分は何を読んでいたのだろうか。これを後でまとめるのはちょっくら不毛だからパスしようっと。

http://pocom.at.webry.info/200712/article_14.html

火曜日, 12月 11, 2007

凍てつく夜に進行す

夜道を自転車で突っ切り、福岡氏宅へカメラを借りに行く。同時に晩ご飯まで頂く。冬瓜の汁物が美味しく温かい。展覧会のオープニングパーティで、こういったやさしい味の料理とか出すと喜ばれそうだねと話す。明日も早いので、漫画や DVDを渡し合って十二時に帰る。それから二時過ぎまで自室にて skype で伊藤氏に HTMLのテクニカルサポートを受ける。skype のファイル送信機能の調子が悪くて遅いので、データはメールで送り合う。数百KB に十分も待ってられない。メールだと一瞬。来年の予定について話すが、まだ定まらない。オンラインでの企画のためにはもっとスキルが要ることが分かってきた。

月曜日, 12月 10, 2007

岡田監督!

オシム監督が病に伏されたので、サッカー日本代表に岡田監督が就任した。そのときの記者会見の言葉を思い出し、本当にそうだっ!と強く思う。
「(前略)・・・人生は分からないものだと思いました。1週間前まで全く考えられなかったこと。考えれば考えるほど引き受けられないなあと思いました。ですが、何かやらなきゃいけない、トライしなければいけないという気持ちになった。それで、あまり深く考えずにやりますと言いました。やるからには日本がワールドカップに出るために、やれる全ての力を尽くしたい。これからいろいろあると思いますが、みなさんとできる限り、いい関係を築いて行きたいと思います。」(「J's GOAL」部分)

僕は以前から岡田監督が好きだ。
オシム監督も好きなので、今回の就任はドラマチックに感じる。

http://www.youtube.com/watch?v=kKyNf2gz29Q

http://www.jsgoal.jp/news/00058000/00058271.html

日曜日, 12月 09, 2007

mixi に収拾されない

「mixi なんか無くても、僕らの関係は大丈夫なんだ」
そう言ってみるが、
実際に mixi の恩恵を受けて、こうして会えているわけで、きれいごとばかり言っていてはいけなかった。
ただ、そう言った本心は、僕らの関係が mixi に収拾されることを恐れるからなんだ。あのオレンジ色のウインドウには書くことができない言葉を、僕らは山のように持っている。
電子メールが一般に広まりはじめたとき、敬語を尽くした文面にしなければいけないと言われていたのを思い出す。いまや、メールでのやり取りは当たり前になり、携帯電話で友達と送り合うメールはとてもフランクだ。mixi はそんな僕らの感覚にフィットした。関係をネットで補完しようとする感覚が、これからもっと広がるだろう。それを止めようとは思わないけれど、ネットでは補完できないものが浮かび上がる。
ブログには書きたくない言葉もたくさんある。日記を見せ合うとき、その人を好きになるとは限らない。
個展に来てくれたふたりと、いっしょに駅まで歩いて帰る。近鉄と名鉄の前で手を振った。

土曜日, 12月 08, 2007

大きな塊になっていく

高校の美術部で同級生の友人が来てくれた。久々の再会。もっとゆっくりしたくて、駅近くの店に入る。おもちゃに囲まれたソファーでカフェオレとホットチョコを飲む。ちょっと恥ずかしい。
あれから十年ということになる。やっぱり時間は速い。あのときに覚えた歌を何度もリピートしてる。美術室に居なければ見えなかったものが、まだ自らのなかに芽吹いていくるのを思う。Relation は底知れぬ。あのときのみんなが大人になって、働いたりしながらも、話したりやっていることは同じみたいな近況に嬉しくなって笑った。ただ、転がっている時間は雪だるま式に隠していたものも巻き込み、暴いていき、局面は新しくなってるんだな。こんなことは無かったということは、あったことなのだろう。
作品を発表するということも、いままで自分が転がしていたものと平行に新たに転がしはじめて、いつしかくっつき、大きな塊になっていくようだと思う。

金曜日, 12月 07, 2007

普通というものは無い

アートフェチの特別開廊日で、個展が晩にだけオープンしていた。
会社帰りの方に多く来て頂いた。皆様 スーツとかで格好いい。僕は袖幅が延びて割烹着みたいになった緑のシャツを着ていた。それでも小ぎれいになってしまったよねと友人に言われる。
閉館後、中華料理屋へ集った面子で食べに行く。隠し部屋のような地下室に通してもらったが、カビ臭くて参った。食べ始めたら気にならなくなったけど。
矢継ぎ早にいろいろな話題が挙ったが、自分自身が、見たり聴いたり嗅いだりしている感覚というものは他の人と一致していなくて共有できないから「普通」というものは無いよね。という話が面白かった。考えだすと気が遠くなって寂しいようだけれど、違っているのが面白くて、それを認めていくのが豊かなことなんだよねと捉えることもできる。この後者の考えが、きっといい。「普通」という仮想に振り回されてばかりではいけない。

木曜日, 12月 06, 2007

いい娘だね

夜、早川義夫と鈴木亜紀のライブ。
「歌があふれてくる夜、ライブのあとはちょっとみんなで一杯!」へ。

音を出す前
言葉を出す前の間に
全身で
ピアノと
張りつめ、緩み、伸びて
"愛する勇気を持ち続けていようね" の
"ね"
で大きくなって、
目を見て歌を歌ってくる。

"いい娘だね
いい娘だね"

ふたりで座るピアノは、ベンチの上で楽しそう。
ずるいよと笑う よくばりな僕らは
それ故に傷つき、愛する。
何も無い空には何かある。
"それぞれの心のなかさ"
だよね。

当たり前のことをまっすぐに、恥ずかしいこともみんな
そのまま歌うことが、言葉にすることが、
どんなに難しく大切なことなんだろう。

http://www15.ocn.ne.jp/~h440/

http://suzukiaki.com/

水曜日, 12月 05, 2007

文句は言わないが、融通は効かない

改札で定期を入れたのにゲートが閉まった。自動販売機で百円入れたのにボタンが効かない。お昼の食券も出てこない。紙コップのコーヒーは、紙コップだけ出てこずに流れ去った。自動ドアは開かず、エレベーターは緊急停止する。ケータイの電波はどこも圏外だ。パソコンは宿命として凍りつく。さっきから照明がチカチカしている。原発の管理システムが狂い出したのではあるまいな。ATM が万札しか入っていないと表示が出ているので、何もできない。交差点の信号は、歩行者ボタンを押しても押さなくても同じ。他の信号と関連を持たせてあるらしく、ここで待つ僕には何も目を向けない。デジカメの画素も足りない。テレビの出演者らには目を隠す黒い横線が焼き付き、VHS ビデオはすぐにカビを生やす。DVD はたくさんの時間をかけて、たったほんの数秒の映像を映した。LD はどうなのだろう。ケータイの無かった頃を思い出せない。果たして生活は豊かになっていたのか。手数料がまたかさむ。それが私があのとき感じた嫌な気持ちの、焦る気持ちの原因だ。電線も凍てつくほどの今夜。修理に出していたケータイが返ってきた。アドレス帳も無事で安心した。これはバックアップを取っておかなくては。これはいつ壊れるか分からないただの機械だ。それを以て愛せよ。

火曜日, 12月 04, 2007

精神発生

ギャラリー矢田にて「精神発生 -PSYCHOGENESE-」展を見た。
電源から生える彼女の髪に戸惑うのが気持ちいい。
自分の利己的な意識を振るい落とそうと、うごめく。
そんなつまらないことなんて置いて、もっと面白いことがあるよと笑みを浮かべるだろう。

http://www.nzu.ac.jp/~souzou/

月曜日, 12月 03, 2007

きっと素敵なことになる

雨は止んでくれた。Novaia Liustra 展を見に行く。「新しいシャンデリア」が咲いている。TORICO は路上を呼び、ギャラリーを誘う。これを描く行為は慎重さを要すると聞く。その丁寧な思いは、きっと素敵なことになるという思いとなって、こめられ、見る者に広がってくる。それは咲きながら待っていた。インドで眠った犬はどんな夢を見てたのでしょう・・って、何かの美しい歌のように綴る。
ホットチャイとグルーワインをたくさん頂き、オープニングから帰る電車のなかで、同じ駅まで帰った 岩崎洋子さんの「記憶について」の文章を読ませてもらった。まっすぐで素敵な文章だった。絵画も文章と同じく思いがこめられていた。彼女らの出品する展覧会も今月にある。

http://www.vision.ss.is.nagoya-u.ac.jp/clas/

http://www.novaialiustra.com/

日曜日, 12月 02, 2007

明らかな論考としてのスタートライン

「作品について」という小見出しを付けるかどうかで全てが変わってくる。
詩なのか、概説なのか、関連文章なのか。
夜明け前にそれをまとめ、何かを見切った。

個展にお越しくださった皆様、どうもありがとうございます。
アーティストの中野克俊さんがレビューを書いてくださいました。
明らかな論考としてのスタートラインを思います。
身体が覚えている湿度や、色の有り様が感覚の根本をつくっているのだと。

http://d.hatena.ne.jp/knakano/20071202
(展示内容の紹介が含まれております)

http://www.youtube.com/watch?v=Z74m2mtqJQQ

土曜日, 12月 01, 2007

だから こうしているんだろうなと思う

個展「沼が無い」の初日を迎えた。
いつも展覧会の初日は、一気に見え隠れする気持ちで、落胆と歓喜の繰り返し。明らかになっていくのは、建築的な行為だ。
それが楽しくて、こうしているのだろうと思う。
作品を見る人にも、その楽しさが起こるかだ。

ギャラリー芽楽での ミニアチュール展パーティへ行く。
温かい料理とワインを頂く。はやくも来年の話が出てくる。
帰宅前に、市内でもう一軒。
「こうやって自分の物差しを明らかにしようとしているのかもしれない」
と聞く。
それはとても広くて、大切なものだから、こうしているんだろうなと思う。

http://www.gallery-garaku.ecnet.jp/current/index.html

金曜日, 11月 30, 2007

搬入日は気が立ってるから

いつもの道を自転車で走っていたら、やけに褐色を目に感じる。おかしいなと思ったら、歩道に真新しい黄色の点字ブロックが多く取り付けられていた。本日、個展の搬入日。作業をお願いした面々に、その道を同じように自転車で通るときに「何かがこの道は変わりました!さて何でしょう? 既に皆さんの視界に入っています!」とクイズ形式で出題したら、興奮しすぎだと冷静な御指摘と「やはり、搬入日は気が立ってるから」と総括まで頂く。それは本当に総括で、いろいろ何かとうるさくしてしまうことばかりだった。タフなのと、鈍感なのを履き違えてもいけないし、迅速なのと慌てふためくのを混同してもいけない。
名監督にならねば!
冷静かつ迅速な みんなのおかげで、作業は無事に完了した。感謝しきり。ありがたし。

皆でそのまま ギャラリーアートフェチから、新栄のカフェ パルルへ。「eye sight」展のオープニングの終わりかけへ駆けつけた。絵を描く人は、音楽もしたくなる。視覚を満たした者は、聴覚も満たしたくなる。そんな話が あらわれてた。
近くの中華料理屋で乾杯。西山氏が友人より電話で聞いて、店内のテレビのチャンネルを変えると、ニュース23で峰田が歌っていた。
僕らはそうして町へ車で戻り、それぞれの家路についた。
立っていた気がゆっくり畳まれていくのを聞くが、それが積もっていって、自然に壁が地中になるのだろうと思う。

http://www.parlwr.net/cat6348250/index.html

http://artfeti.main.jp/

木曜日, 11月 29, 2007

付け加えるなら

付け加えるなら、
机の上に敷いた透明のゴムマットの下には、ちょうど挟むのに適したハガキだと思う。
最近やたら人身事故が多くて、胃が痛い路線で今日も帰った。
猫の鬱が、ひっくり返った部屋のなかで、新しい居場所を探そうと、擦り寄ったり、噛み付いてきたりする。なんでこんな派手な色を買ったんだろうという靴紐 にじゃれさせると、どすどす飛び跳ねてくれる。今夜はスーパーのタイムセールで買ってきた秋刀魚の塩焼きと白い御飯だ。この前のタモリ倶楽部で秋刀魚の食 べ方をやってたから、それで食べたくなった。思いっきりテレビじゃなく、タモリ倶楽部で刺激される購買欲。残った骨をそのまま鬱のお皿に入れてあげれば、 うにゃうにゃ大喜び。ゴミも出ない自然な構造のはじまりだ。しかし家猫 100%のせいか、いちばん太い骨を残してやがる。なんたる骨抜きキャット。語呂遊び。部屋が寒いのならばと、採用して二回目の冬となるプラスティック湯 たんぽを起動させる。ガスで湯を沸かす。布団ができました。いつでも眠れます。いろいろやること数えながら、本当に大切なことを見定めるために ここは敢えて寝る!( 丸C,「燃えよペン」 )か??いや、敢えて布団を完成させた。膝の上で静かに寝ていてくれればとても優しい。でもいきなりガブーッ!それは俺が見失ったことへの警告? 今度は何を付け加えるべきで、何が要らないのかって。

水曜日, 11月 28, 2007

もっと愛しあいましょ

ひと月前ほどから、愛機 我がBook 白G3 が、銀の据え置きが新しくやってきたのを見て悟ったのか、画面をめいいっぱい開けると何も映さないという恥ずかしがりやな仕様になってしまった。所謂 ヒンジ部分の断線故障というやつらしく、Book では最も多くやられやすいところのようだ。Apple に電話すると、機種の修理可能期間が終わってしまっているので「騙し騙し使ってください」とのこと。というわけで他の修理業者には出さず、半開きで作業を するというのがオフィシャルスタイルである。印刷ジョブを繰り返すくらい問題ないとガーガーやってたら、そっちはうまくいくのだが、データをコピーしよう と同時に USB接続していたケータイが急に立ち上がらなくなった。1Gのメモリースティックを調子こいて外部メディアとして使いまくっていたのが災いしたか。これ というのも、新銀と旧白がやはり仲悪くって ターゲットディスクとして繋がらないからなのだ。みんな同じくらい愛して止まないのに。あいつらは生きているという言葉は本当でした。ケータイ困った。う んともすんとも言わない。やりかけのメール交渉はどうなってしまうのか。合間合間に奏でている指先のメッセージはどこで昇華するのか。そもそもこのおおも とにある源泉は何だ。己の愛の脆弱性か。旧白より前は、グラファイトの 元祖 DVモデルがいたんだ。あれも中は動いていたが、液晶が飛んだ。何も見えなければ人間には分からない。心の目に直接繋ぐコネクタが要る。

火曜日, 11月 27, 2007

迷い道を楽しむ

「オタクの迷い道」(著,岡田斗司夫/文春文庫/2003)をもうすぐ読み終える。これが面白い。TV Bros. での連載コラムを収録した後に、ボーナスコンテンツと称した対談や補足文などが充実していて、連載当時 95年あたり とのギャップを埋めている。ここ十年でオタクの世界はめまぐるしく変貌しているのだと一望できる。
いくら世代分けを論じていろんな判断が行き交ったとしても、オタクと自己を明言して、ヘマをしたことも体験なんだと捉えて行く・・生き方はとても前向きで楽しい。

http://netcity.or.jp/OTAKU/okada/library/priodical/mayoimichi/index.html

月曜日, 11月 26, 2007

画竜点睛を欠く

ステータス表示は「画竜点睛を欠く」だ。
どこに点を打つかで決まる。
これで百人もの味方を得るか、敵をつくるかだよなと呟く。
何度も繰り返しているうちに自分が求めているコントラストが意識される。
今度はそれを一蹴するのも意識する。
表示を「????」とさせて、ほくそ笑みたい。
次の瞬間 チャラチャ チャッチャッ チャッチャー とトランペットのファンファーレが鳴り響く。

日曜日, 11月 25, 2007

夜の淵

夜の淵で、あぐらをかく三人
ポン酒の名前はもう少ない
誰彼かまわず電話が鳴る
君のことを思い浮かべる
はぐらかしても、言い続け、陰にしたことはいくらぼそぼそ包んでも
眠気には勝てない
勝たなくてよく
そもそもはじめから戦ってなんかいないんだから
それは言い訳でした
清い酒と書く理由を述べよ
もとい有り様を聞かせてほしい
夜の淵では明日が見えないらしい
そこには行ったことがないので、何を言っても相手にされない
君は泣いていたねと歌うのは
黒髪の歌手だけに非ず
もうすぐ灯油が切れて、凍え始める

土曜日, 11月 24, 2007

KY ばんざい!

我ながら「前スレを読め」とはあんまりだった。
KY ばんざい!
それは本音である。
何も空気を読むことができなくても、感動することはある。
心を動かすものは、空気に同調させるだけの上手な言葉ではない。
KY じゃないかと臆病になっていることが怖い。
KY と指を指す空気を作り出している正体不明の空気が最も怖い。

駐車場の屋上から売り場に戻って、とにかく売りたいだけの店員をかいくぐって、俺たちは何をしてきた? でも何かを言いたかったからここにいたんだよ。それを忘れちゃだめだ。

金曜日, 11月 23, 2007

とても切ない顔で

THE PYRAMID のレコ発ライブに行った。
いちばんはじめに psycho+logic 。
新曲はとても切なく聴こえた。ただホームから電車に飛び乗るというだけだったのに、そこから思いに耽るのである。
体育館座り。背筋を伸ばす。ゆらゆらと踊る。心の中で踊る。
多くのゲストバンドを堪能し、PYRAMID へ。
積み重なった音の間はとてもキレがいい。
それは "吐く" とかじゃなく、もっと超えていくものだ。

「Star Strar」(2006)

Star Star 口とけむりの間に広がる
Star Star 口とけむりの間に広がる

http://www7b.biglobe.ne.jp/~the_pyramid/

http://www.geocities.jp/original_sol/

木曜日, 11月 22, 2007

See how the world goes round. You've got to help your self.

今夜は、ずっと画面を見ています。

"世界がどのように回っているかを見ていてください
あなたがあなた自身を助けるのです"

「以心電信」(作詞, 細野晴臣、ピーター・バラカン/作曲, 坂本龍一、高橋幸宏/1983)。

http://www.youtube.com/watch?v=sJgtyMbfYAY&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=PdhJXGhBcj0&feature=related

水曜日, 11月 21, 2007

アイディアをあきらめない

先日の NHK プロフェッショナル。ヘアデザイナー加茂克也氏の回は最高にかっこ良かった。ファッションデザイナー渡辺淳弥氏とパリコレに挑むその打ち合わせのやり取 り。仕事を信じている仲では、うるさい注釈など無い。限界ギリギリまであきらめないという一流の世界は、実力と結果に裏打ちされた世界だ。
テープひとつ、古道具ひとつ、見慣れたハンズのビニル袋ひとつで動き回る氏は、とにかくアイディアをあきらめない。それが、そこにいることのできる力だった。

http://www.nhk.or.jp/professional/backnumber/071120/index.html

火曜日, 11月 20, 2007

超えるのは一瞬

季節外れで PU-PU-Bi-Do
君に出会えて PU-PU-Bi-Do
ハイナ ハイナの声がした
いつだいつのこといつのまえ?
いつだってんだろう
君が落ち着いて眠るのは

浮ついてるんじゃない。
超えるのは、一瞬だけれど、そこで明らかになる。

月曜日, 11月 19, 2007

Come sta TOKYO?

Como sta, TOKYO?元気?
晴れた空の底で
丸ノ内を背に、そっと外苑歩こう
子どもの頃から ひとりで遊んでた
悲しいことはどこにもない
君を好きにならない その訳がある、僕を裸にさせるから
Como si sente?
Como si sente?
いつだって
君のいる南を見てるのに

「Come sta TOKYO?」(作詞、曲,白井良明/1991)

虚実入り乱れるところからのリアリティ。
綴り歌の醍醐味なり。
シンガーソングライター?おんやまぁ!ロックよロック。

http://www.tonpi.net/bokulog/2007/08/14-1927.html

日曜日, 11月 18, 2007

やけっぱちのマリア

少年のなかで醸造された女性の存在は、実体を持たない。
それは自己循環を繰り返すだけの、幼い恋なのだった。
ヒゲオヤジがこっそり作っていたダッチワイフに入り込む理想の彼女。
「やけっぱちのマリア」(著, 手塚治虫/1970)は異様な構造を勢いで持っていくエネルギッシュに溢れる。中学生はいつでも純だろう。ケータイ裏サイトなんて見てたとしても、詩のひとつやふたつ指先で走り書きしてらい。
空き缶を引き鳴らし走って行く車から、新郎の手塚治虫は僕を振り返っていた。

http://ja-f.tezuka.co.jp/manga/sakuhin/m075/m075_01.html

土曜日, 11月 17, 2007

re-action

なまめかしい言葉でなまめかしいことを、なまめかしく読みあげているのを、何やら神妙な面持ちで聞いているのはぎこちないかも。
笑うというダイレクトな反応のように、火照ってくるとか、うっとりしてくるとか、オーディエンスというのも座ってしまえば賑やかな行為だ。
もっとも、客席だけでは場には成らない。
キスだなんだという前で、おいおいおいっていう表情になってみてもいい。
ヒューヒュー言おう。文句はないか?
展覧会場でおしっこちびってしまってもいい。映画館で号泣するなんて素敵なこと。

金曜日, 11月 16, 2007

眠りにつくまえの夢

こことそこには違いがなければいけないの。
そうでなければ、こことそこにならないから。
ここにあるのは可視化された間。そこに見える間と濃さが違う。
これらを横切っていいのですか?
ええどうぞ。横になってもかまいません。
向こうとの違いはどんなふうだったか、思い出しながら、天井に至る間が目に入る。
「眠りにつくまえの夢」櫻井里恵さんの個展にて。
それから向こうはどうだったか。聞いて、その違いを前にした。

http://www.nua.ac.jp/prog07/details.php?key=361

木曜日, 11月 15, 2007

SELenological and ENgineering Explorer・かぐや

昨晩 NHK で放送されていた 月周回衛星「かぐや」からの映像を、今朝のすし詰め電車のなかで思い浮かべることは難しい。
それは夢想に溢れた絵のようで、本当に月の空から我々の上空にカメラを向けたものだという。
アポロ12号に乗って月に降り立った アラン・ビーン氏が出演していた。何かを急き立てるようにアラン氏は「素晴らしい」を連呼した。同時通訳の技術が足りなかったのではないはず。それは本当に「素晴らしい」と呼ぶしかないと言っていたのだと思う。

http://www.youtube.com/watch?v=EkHuRRDshhg

http://www.jaxa.jp/projects/sat/selene/index_j.html

http://www.youtube.com/watch?v=Z6YArO9tRKk&feature=related

水曜日, 11月 14, 2007

Bad scene

予定切り上げさせてもらって急遽の作業のために、すぐに帰る。先日、0:00 までなら百円だよと急いで借りたレンタルDVD はその日のうちに借りたことになっていたので、新作は二泊三日としながらも実質は一泊二日だったことが判明。延滞料金を渋々払う。他の数本の旧作を二百円 で借りたくらいの計算になってしまった。何かと乱雑な我が未確認が招く Bad scene 。

火曜日, 11月 13, 2007

How did you feel it?

さっきまで顔を合わせていたのは、すぐに背中、そして走り去った。ギアが入れば、行かなければいけないのは同じ。僕にもその仕事が降りればそうする。呼び 止められて、知らずに落としていた書類を渡してくれた美容専門の学生らも、足早に消えた。歩道橋を超え、上着を脱いで、冷たいレントゲン台に抱きつく。廊 下でひとり バレエのふりで飛んでいたのはちゃんと見た。高層ビルはどうでもよく、君に何度も連絡する。どんなふうに、ふわりと飛んでいたのかと。

晩には即興のライヴがあった。リズムマシーンとトランペットが上下に行き交っていて、僕はのってた。

月曜日, 11月 12, 2007

シチューより

クレアおばさんの絵本つきシチューには牛乳を最後に入れる。
温かくて美味しい。蕪入り。
それから、半どんの今夜はとても穏やかに。マッサージバーは冷蔵庫で眠ったまま。
遠い北の国から送られてきたビデオには、僕らの言葉を受けた写真家が、こちらを見て語っていた。
それからいつ頃眠ってしまったんだったか。
えらく冷え込んだのはよく覚えている。

日曜日, 11月 11, 2007

狂気乱舞し散財する、アートへ!

走ったけれど、サイン会に間に合わなくて残念無念。アートフェチにて飯田淑乃さん個展「ゴヤフェチ」のオープニングイベント。既にギャラリー内は、熱狂の後となっていた。アイドルオタクの狂喜乱舞はおそらく、このビルを軋ませるだろう。

下劣な言葉に酔わないように、自らを戒め、性癖を満たす欲望の先へ、向かうには。
ここにある我が心のままを、踊り狂う等も手だ。

http://artfeti.main.jp/EXHIBITION.html#next01

http://www.youtube.com/watch?v=UJUgMfmpHaw

土曜日, 11月 10, 2007

目映さの輪郭

ホームエキスポ岩倉店を満喫して、ひととおりミッションコンプリートす!
うどん食したあと、少し遅くに +Gallery でのオープニングパーティへ。

「笹岡敬 個展」。
煌煌と待ちながら、その空間はゆっくりと向かってくる。
空間のはじまりと終わりは、緩急を持っていて、眼球の地下水に流れ込む。
目映いものは、塞ぎ込もうとしたものの肩を叩く。
穏やかにやさしく、それぞれの正確さに合わせて。

http://homepage3.nifty.com/plusgallery/

金曜日, 11月 09, 2007

個展「沼が無い」

nforamtion です。十二月に、大須のアートフェチにて個展を行います。



個展「沼が無い」

会期・2007年 12月1日 (土) - 23日(日) 土日のみ開廊
   13:00-19:00 入場無料
   ※12月7日(金)のみ、18:00-21:00 特別開廊。

会場・ギャラリー アートフェチ
   名古屋市中区松原 1-6-27
アクセス・地下鉄名城線「大須観音」駅 3番出口から徒歩7分。
     http://artfeti.main.jp/about.html


また、本日よりホームページを再編しました。個展のお知らせも載せております。
作品などを見やすくし、ブログも中心に位置づけました。どうぞご覧くださいませ。
更に情報は追ってお伝えしていきます。

http://jinmurata.jpn.org

木曜日, 11月 08, 2007

さよならみどりちゃん

「さよならみどりちゃん」(監督, 古厩智之/原作, 南Q太/星野真里、西島秀俊/2005)を見ていて、「あー」と言う。タクシーが走り去ったあとの地続きの先で、抱いたり惚れたりのすったもんだが地続き で、僕らはコンビニとか行き交っているんだなと思って「あー」。
何をしてんだろというのは他人事だと思えるね。でも彼女も彼も、切実なところでうごめいてるんだな。この撮り方は好きだわ。ぺろっとした下着や、狭苦しい ベランダの感じ。男の背中。チャリチャリ言うベルトとズボン。丁寧に折り畳んで、煙草も姑息にも忘れない。場末のスナックから、陽を受けるシーツまで走っ た。ヒールがペチペチ鳴って いやになる。ムキになる。絹目の写真のようにざらざらした空気で撮られている。どうしようもない彼女たちに、もっとどうしようもない彼ら。それは誰でもな い自分と同じ。アスファルトは夜遅いほど固くなり、人を拒む。
だからもう最後だから歌って。君がたおれることなんてない。男が何か決めてるかどうかなんて、些細なことでしかないよ。だからそうばんざいして終わろう。

http://actcine.com/midorichan/

水曜日, 11月 07, 2007

働きマン・日テレドラマ版に思う

毎週欠かさず「働きマン」(作, 安野モヨ子/2004-)のテレビドラマを見ている。何かが足りない!といつもピーピー言う。連続ドラマの文法に沿って作れば、こうなるだろうと言いながらも、何か決定的な不足要素を感じていた。
近所のレンタルビデオ兼書店にて、ビデオの貸し借りをした後に雑誌「モーニング」を立ち読みした。原作は二巻くらいまでしか読んでいないけれど、話はオム ニバス形式でもあるので最新の回でも楽しめる。ぐふぐふと読み、やはりドラマには存在しない興奮を覚える。そのひとつの理由が おぼろげながらも見えはじめた。

それは登場人物たちの言葉である。漫画の「働きマン」たちは、物語の進むなか、ずっと、自分の仕事についての思いや葛藤を独白し続けている。いや、むしろ物語のあらすじよりも、独白に感動する漫画ではないかと思う。
その言葉は、彼女、彼自身らに向けられている。私たち読者は、その姿に自分を重ね、親近感と同時に相容れない部分を見出すという緊張感を持つのだ。
それに対し、ドラマ版の言葉は大きく異なる。第一回はそれが特に強調されていた。毎回冒頭のシーンで登場人物たちは 突然、物語とは外れた異次元に位置して、カメラ目線になり視聴者に話しはじめるのである。その言葉は、視聴者がそこから共感をしはじめるように用意された 導入である。仕事の悩みやよくある話、ずばりその回のテーマそのものであるその言葉は、彼らの心境ではあるものの、とても歯切れ良く進む。
働きマンは頑張っているなぁという感触はあるが、キリキリするほどの興奮は起こらない。そこには、安心感のある視聴者との距離があるように思うのだ。あくまでも前向きなスタイルに帰結していくという・・。
原作の漫画は、最終的な解釈を読者に放りっぱなしにしていく鋭い危うさがある。働きマンたちの独白は、やもすると反感を招くものかもしれない。けれども、 彼らがそれぞれの正義を抱えて戦っているという姿がある以上、その反感も「働きマン」の力なのだと思う。そこには反感という時期を超えていく独白がある。 辛くて切なくて、どうしようもない戦いに向かう姿に揺さぶられる。編集部から蒸発してしまう男の話は、ドラマでやるのだろうか。僕はあの話に相当ピリピリ 来たので期待している。

漫画とドラマの違いは、それはそれでいいのだ。こう、ああでもないこうでもないと言いながら、菅野美穂がチオビタの CM に出ているのまで凝視するのが楽しいのだ。

http://hatarakiman.moura.jp/

火曜日, 11月 06, 2007

けれどもいま気がついたこと

パンとコーヒーで雨の前。
ウッドデッキ調の椅子や机を用いて、足を組み。
最近、映画館に行っていないね。
布団のシーツを付けるのだけは手伝ってとし、それまでは場末で熱唱。
僕らだけのために用意されていたと思ってみる。このウッドデッキ調から、ソファーまで。
語るべきことを、代用する気など毛頭無い。
ここで僕らは波超えできるか。
でも、こうしている時点で、大丈夫だとも思う。
僕らは袋入りのラーメンを買って帰った。
ラーメン食べたいがそのままなったんだ。
僕はこんなふうにお腹が空いてくるのが好きだ。お腹が空いてきたなと実感するのは楽しい。
やはり男の声は低く、女の声は高い。
お腹の空き方は似たようなものかもしれない。
何もわからなくてもさ。

「ひとつだけ」(作詞、曲, 矢野顕子/1980)。

http://www.youtube.com/watch?v=DoszxumG0Ds

月曜日, 11月 05, 2007

大寒町を歌うころには

ずいぶん冷え込んでいるねと言われてそうだねと返したけれど、それでも暖かいほうだと思うのは、僕がおかしいのか。
いや、十一月はもっと寒くなかったかしら。

もうじき、「大寒町」(作詞、作曲, 鈴木博文/1974)を歌うんだね。
と、言って、そうやって待つことにしよう。
今夜よ。
ざわざわ冷気を巻き起こして、理由に至る理屈を凍えさせろ。
打ちひしがれ、思いに悶えるまで冷えよ。

http://www.youtube.com/watch?v=f1DIzRl7rTA

日曜日, 11月 04, 2007

バイオハザード!とタイトルでは怖く、こぶしを効かせて叫べ

おつとめ品の筑前煮とレタスのオーロラソース和え、それにチーズとごはんが夕食でした。
あれよあれよと最後まで見てしまった昨晩の「バイオハザード2・アポカリプス」(監督,アレクサンダー・ウィット/ミラ・ジョヴォヴィッチ、ジャレッド・ ハリス/2004)がべったりと脳裏に付着している。いま映画館ではじまった続編で完結らしく、どうなるのか気になって歯痒い。ゲームの映画化は簡単なよ うで難しいと思った。もともと映画のようなゲームの売り込みで広まったものが、映画になるというのはパロディのパロディという構造になっていて、ありふれ たどこかで見たイメージが重複して続く。何も救われない気持ちになって見てしまった。面白いとは感じるのだけれど、空虚ではある。
テレビ放送で見ていたので、終わったあとに新作の宣伝があり、主演の ミラ・ジョヴォヴィッチ がカメラに向かって挨拶をする V が流れた。いかにもホテルの一室というところで簡易的に撮られたそれには、映画のなかでアクションをするアリスよりも少しぽっちゃりしていて幸せそうだっ た。

http://www.so-net.ne.jp/movie/sonypictures/homevideo/residentevila

土曜日, 11月 03, 2007

散乱で満たして

いまつかまえられたら、ずっとつかまえられそうなのを知っている。

金曜日, 11月 02, 2007

やっぱり心の旅だよ

古書 5っ葉文庫 で以前に購入した「やっぱり心の旅だよ」(著,/福満しげゆき/青林工藝舎/2007)が悲哀に満ちていていい。
帯に「しかし人生は続く・・・。(中略)失敗エロ まんが道。」と大きくあって、読後は本当にそんな気持ちになる。
コンビニなどで売っている所謂エロ漫画雑誌に掲載されていた短編をまとめたものだが、はたして読者のニーズにこれらは答えられていたのだろうか。おそら く、一部の層だけに親しまれていたはず。アクセル全開で興奮を高めていくという一般的な性の語り方ではなく、ゆっくりじっくりねちっこく、自らの愚かさも 情けなさも露呈していく性だ。
書名と同題「やっぱり心の旅だよ」がいい。魅せる場面は性描写ではないが、動きの細部でグッとこさせるのは性描写と同じ語り口である。

おじさんと少年は手を組み、娘や愛人、愛しの君のもとへ向かう。
そこに たゆたうのが心の旅なのかなぁ。

http://www.k5.dion.ne.jp/~fukuyuki

木曜日, 11月 01, 2007

三倍のはじまり

靴下のまま出ててきたようにそれは言われるだろう。
常滑駅から歩く道すがら。
入った和食店の三段弁当が美味しい。美術愛好家のおばさんらが展覧会の話をしているのが聞こえてきた。すぐそこの工房ギャラリー rin で行われている「TOKONAMECHI '07」の話だ。お腹を満たして、すぐに向かう。常滑の古い焼き釜も面影を残したまま、現代美術作品の展示空間となっていた。bnap で共に過ごした谷澤氏の作品は、砂浜の写真群を並べて追体験できるような作り。流れ着いた物へのサンプリングが完全に自己を軸に迫っていくのが剥き出しで 面白い。加藤優一さんの立体は埃をかぶった窓の前や、天井裏などに展示されていて、空間を作り込むのではなく自然に進ませていく流れを持っていた。はかな くギョロギョロとしている。小栗沙弥子さんの作品も空間を制するのではなく、自然に流していく気持ち良さがあった。作家ファイル置き場にあったフリーペー パーの作品ももらってきた。
たくさんの作品に関心しつつ、常滑を後にして名古屋市内へ移動し、ケンジタキギャラリーで鬼頭健吾個展へ。タイトルは「luminary」。じっと見てい ると、うっとりしながら色を追うようになる。インスタレーションも絵画も、内側から発光していた。それらは覚醒と陶酔を適度に持ち合わせているような気が する。

それから愛知芸術文化センターへ歩き、大ホールでコンドルズ主演の「愛知と青春の旅立ち」という 芸文センター15周年記念イベントのステージを見る。ダンスはもちろん。ロックライブにアニメーション上映、参加型の体操コーナーなど盛り沢山ですごく充実していた。
こんな目出たい日には、中日も優勝間近だと MCで煽られて場が更に湧く。

地下鉄の電光掲示板に、速報が流れているのを見ながら帰って、テレビをつけたら落合監督が奥さんと子供とで出ていた。監督本人は連覇の先に優勝したいという課題を抱えていた。
その表情に、人の三倍は取り組んでいるのだろうということを伺わさせる。奥さんと子供も、同じく父の監督姿を温かく見ている。

http://blog.goo.ne.jp/tokonamech07

http://www2.odn.ne.jp/kenjitaki

http://www.aac.pref.aichi.jp/bunjyo/jishyu/2007/condors/index.html

水曜日, 10月 31, 2007

チクチクするタグ

首の後ろ、肩にチクチクするタグに苛立つ。無駄な足かせが多くて、それらの整理にも焦ってしまう。マイペースで行くことと、のんびりしていることは似て非 なると自覚する仕事っぷり。自分はどうしてこういうふうにしているのか考えだすと「まだまだこんなもんじゃないだろう」と頭のなかで閻魔大王が言った。
明日の朝には、このチクチクするタグを鋏で切り落とす。ここからのテーピングカットになるこれだ。痛みは消えて足取りは軽くなる。やるべきことが、やりた いことを見せてくれるようになる。たったそれだけで、閻魔大王もひっくり返る。そして「人生を語らず」(詞,曲, 吉田拓郎/1974)をいっしょに歌うのだ。

http://www.youtube.com/watch?v=8hPMWs54Nn8

火曜日, 10月 30, 2007

いくつかの後悔を経て、素晴らしい席を

今夜も呑みながら、アイディアーを話す。
酔いをもっと盛り上げてくれるのは、これはいけるんじゃないか!?という言葉による閃き。
それをお酒が後押ししてくれる席に、この頃は座ることが出来ている。
出されたお手拭きで顔をぬぐい、とぼけた近況からはじめだす。

かつて行っていたアルバイト先の会社のおじさんが「仕事の後のビールが大好きでね」とにやけて言っていたのを思い出す。あのおじさんに罪は無かった。僕は助手席で はやく辞めたいと思っていた。
いくつかの後悔を経る。頭で思い浮かべていたように貫けていないけれど、今夜もアイディアーを話して、それには本気でぶつかりたおす。
疲れきった君を抱きしめ、やさしくしできれば。
本気のことが話せれば。
そんな素晴らしい席を経て。

月曜日, 10月 29, 2007

世界の縮図よ、また!

三線による蛍の光で祭りは終幕した。
明日から本当の自分になるんだと背を伸ばす。
抱きしめ合った僕らは、それから二階のソファーで、ほんの朝に引っかかった白む風を見ていた。
世界の縮図は、僕らにすっぽりと入った。
これからの数日はそのうねりで微熱が続くだろう。

電車に乗って、叱咤激励を受けに地下室へ。
館長の気まぐれで激怒した話を聞く。
やさしくなれた話をする。
朝になれば、またはじまる。
君の声を聞くために、ちゃんと起きる。

日曜日, 10月 28, 2007

(コジキ ≒ ホームレス)= スカンピン

おれたち いつまでも
星屑ひろうルンペン
やぶれた 恋や夢を
今日も売り、歩く
湯水のように
金を、使ってみたい
愛する君のために
いつ、いつまでも
明日はジゴロかペテン師か
爪に火をともし
暗い夜空に身をまかせて
我が身を占えば

おーれーたち
いつまーでも
ほしくーず、ひーろーう
ルーンペン
やぶれた 恋や夢を
今日も売り歩く
さあ、煙草に火をつけて
どこへ
どこへ
ゆこう

さあ、煙草の煙をくゆらせて
どこへ
どこへ
ゆこう

スカンピン!スカンピン!
おれたちは〜

スカンピン!スカンピン!
いつまでも〜

・・・おれたち、スカンピンの
ブールーカーラー!

「スカンピン」(詞,曲/鈴木慶一/1976)。

土曜日, 10月 27, 2007

rooms

柱に沿って、雨が降っている。
朝は傘ひとつを開いて、私が立っている。
柱のなかで、ずぶ濡れになっている。
君の鞄を取り、扉を開ける。
その勇気はある。
ささやく勇気もある。
この部屋を出るときに、この町を一望し、そこからも出て行くためには
空に迎えられた身を柱に見立て、撫で上げるように落ちるのだ。
僕らは許しあうことよりも、
呼びあうことに焦がれている。

「rooms」で立っていた。

http://2007rooms.blogspot.com/

金曜日, 10月 26, 2007

ねじまき鳥が鳴く

僕も ねじまき鳥をアトリエに忘れてきてしまったようだ。
戒厳令がしかれるなか、僕らは何もできないのが悔しくて、散財したあげく充電する場所を探すしかなかった。最初に裸になったほうが勝ちで、何もできないの をこうして吹き飛ばすしかない。君が嘆く、気持ちがすべて伝わらないということは、おかしな悲しみでは決してない。僕らには身勝手な呼び方と、差し替える ことのできない体温がある。
翌朝には煙草に火を点けられますか。
布団に転がった我が死体を、見て見ないふりしながら。
ねじまき鳥は、いつ鳴くか。
なくものはなく。
雨の間で泣くものの、手を引いて。

木曜日, 10月 25, 2007

一日の終わりに

原付の君よ
コーヒーの君よ
水を手放さぬ君よ
カフェオレの君よ
ベレー帽の君よ
詩を読む君よ
ジーパンの君よ
僕はトランクス一枚で眠って、鼻水をたらすよ
中村中の歌はいいよ
愛しいという言葉を使わずに愛しいことを伝えてくれる
僕には語りたいことと、
語るべきことがきっと同じだという疑念が信心のように擬態化して、
ここまでこうなって来ている
そんな丸腰なのだから
走って行く君に顔をよせれば
どうしてかすぐに眠ることができた
ガスパン遊びなんてするんじゃないよ
子供たち
くそガキたちよ
僕もおじさんらに言わせればくそガキだから
ピストルの試し撃ちなんてバラエティーでやるなよ
僕は朝を待つ
乗り過ごすことを理由に
詩人ですと名乗りをあげる
君よ
ここからまだ長いと知っていても
楽しいも哀しいもないか
わからない
わからない
知らないわけではなく
わからないほうが
問題なんだよ
知らないことは何でもないことだ
なくものは、なく
それは許されるとかそうじゃないかとかじゃない
言葉で超えるべきものは、言葉そのものなんだ
君よ
猫のことを思っておくれ
眠りのなかを思っておくれ
僕らが見ているものを思っておくれ

一日のはじまりは、子供のようで
一日の終わりには、老人のようで*
(*Three Blind Moose「一日の終わりに」)。

水曜日, 10月 24, 2007

書生はきっと

心を落ち着かせて、紙に向かうのがいちばんたいへんなときがある。
なんてことなく、さらっと書けてしまうときもある。
その前に経ている時間が書けることを生み出しているのだ。
傍目から見て 書生は気軽なように感じられたかもしれないけれど、きっとたいへんな方はたいへんだったんだろう。
書生がブログを書いていたら、一人の取り越し苦労を綴ってばかりだろうな。
それでまた朝方にメール。深夜にはコンビニ。猫の鬱の ごはんが尽きたので猫缶を求めに。十五円高かったけど、ゴミが面倒だという理由でパウチの餌を選んだ。むしゃむしゃ食べていた。人間用には 百円のスナック、チーズ味。

火曜日, 10月 23, 2007

やねうらのもり

西口奈穂さんの個展「やねうらのもり」は、ほんとにやねうらのもりだった。ごそごそと暗闇から引っ張りだしきては、カップの間に置く。
捧げるという言い方が適しているのか。でもあまりにも救いを前提とするのは、逆に疲れるとも思ってしまう。
我ながら勝手なものである。この頃合いが難しい。
言い切りながら、思ったことは、静かな音楽と居たいということと、呼び出しブザーは無くていいなということ。
僕らがこうしているのは、何かのためじゃない。ただゆっくりと落ち着かせたいと思っていたし、そういられたのは何よりも嬉しいと思っている。
やねうらのもりは、ずっとずっと深いようだ。

http://www.geocities.jp/mamekarakusa/

月曜日, 10月 22, 2007

Beautiful World

弟とコンビニに行くのがはじめてだった。
こんなものを食べてやってくのかよって後で思う。
それからの始発内ではずっと、じゃあ何をって探っていたのだ。
それで突き抜けて向かえる運びになる。
また手を引いて、行こう。
この暗い道は、朝を前にしていた。iPod からカーステに繋がって流れてる。
もしも願い、ひとつだけかなうなら。

http://www.youtube.com/watch?v=to9K_wCUlh0&mode=related&search=

日曜日, 10月 21, 2007

草花は夏のために、思い出をとっている

小島久弥展「Critical Point 50≒0 ボク達はドコから来て、ドコへ行くのだろう」を見に、 美濃加茂文化の森へ行く。JR の美濃太田駅から歩いて少しの森のなかにそれはある。ちょうど、駅伝の表彰式を中庭でやっていて、ジャージの家族連れが多くいた。スポーツとアートが同じ 場所で展開されているというのは、まさしく文化の森であろう。日本には本当の総合大学が無いという話題を思い出す。
今日の陽射しは暖かい。
室内では、凍えた孤独を草花が迎えていた。
それを覗き込み、うらぶらた日々もあったかしらと思う。
こんな森では思い出せない。いくらむこうを見ても、思い出せないことがたくさんある。草花はすぐに生えぬ。伸び盛る夏へは、いまがいちばん遠い季節だ。いや、すぐだよそんなもんと笑われるかも。

南下し、三重県某所にて来年八月の為の展覧会ミーティングへ。こうして積み上げることに必死なのを焼き付けておこう。この部屋をただの部屋と思うなかれ、いつかから草花のようにずっと沸き上がっては、僕の背中を震い上がらせてきた。
それも思い出せない。いや、いまは思い出さない。森へ帰ろう。家へ帰ろう。犬を可愛がる。ビールを飲んで、焼き肉を乞うて、どこへ帰ったか。家族の前を、日々はただ過ぎ行く。



http://www.forest.minokamo.gifu.jp/tenrankai/19/kojima.html

土曜日, 10月 20, 2007

Sensitive drunkards

それはセンシティブな問題だと思った。展覧会のオープニングパーティをはしごして、飲んだくれになってしまって、でもどうにかしたい問題を前に転がしてい て、それはそれで収拾つかず。いろんな話題はそのままに、ゆっくりと散開していく。終電で帰る。四両編成と小さな車両なので、すし詰め状態で酸欠みたいな めにあう。アスファルトの上に出たら空気が美味しい。センシティブな問題は、何がどうセンシティブなのか。それが問題だ。

金曜日, 10月 19, 2007

このままではわからない

雨でずぶ濡れ。遅くなってしまって、晩に駆けつけようと思っていたパーティを断念したら、そこから七転八倒す。いろんな罰に見舞われたようだと思う。次の 瞬間、文庫サイズの手帳に ふだんの行いが良いからとか報いだとか、折り合いをの理屈をつけるのは大人の行為だと記した。大人は混沌を野放しにしない。何らかの呼び方で処理をする。 そんな大人が混沌を認めだしたときが いちばん怖い。
落ち着くべく、コーヒーショップでハンバーガーを二個ぱくつき、ホットにミルクを入れて飲む。横の席ではアラブ系の家族が食事をしている。何語なのかわか らない。僕が机に広げて書いている言葉は日本語であるということだけがわかる。どういったことを書いているのかは、このままではわからない。

木曜日, 10月 18, 2007

そうここから

エレベーター内でうずくまっていると、こんなこと終わりにしようよと女子に告げられた。背中には何も付けていないから、羽交い締めにされるのも厭わない。 みんな実は必要とされたがっているんじゃないか。くだらないことを続けてしまった。こんなはずじゃなかったかもしれない。昇降音が唸る。いまは自分のこと を俺と呼んでみたい。そんな気分のときも、そりゃあ、ある。とにかく誰かと関係を持って、その前にひざまずきたい。とびきりに濃い目の黒い水を選ぶしかな い。だから、鍋で湯を沸かしておくのだ。いますぐに。さあいますぐに。噂なんて信じてはいけない。誰かが誰かを必要としていることを逆撫でしてはいけな い。笑っている。女子はどこかの階で降りていったようだ。個室にゆらめく青いガスの火を見ている。そのときから君と呼ぶことを覚えて、何でもなくなる。ひ ざまずいていた自分の姿を、火と重ねてみる。そんな言葉を消した。そんな言葉を消した。そんな言葉を消した。バンドの演奏がはじまるぞ。チューニングは とっくに終わっているし。スティックがカツ、カツ、カツ。君のための黒い水は、もういつでも入れられるようにしてあるよ。火を止めて、茹で卵を蒸らすテ ク。そう君が教えてくれた。ちょうどいいくらいの黄身になるんだ。エレベーターは行く。猫の仕事は眠ることだとも教えてくれたね。山の上より、そうここか ら。

水曜日, 10月 17, 2007

路地裏のカラス

エレベーターのなかで一人になったとき、大声で「パオ!」と吐いた。夢工場ドキドキパニックのキャサリンのように。「パオ!」と。
扉が開いて、背広のおじさんらが入ってくる。僕は入れ違いに降りて、さっきの「パオ!」がいま響いてやしないかと思った。おじさんらは次の階にスライドして行く。

坂道を上り、僕はヘッドホンを両耳にかけて取り付ける。

「路地裏のカラス」(作詞作曲, いとうゆうこ/1998)。

・・・
結局、自分を守ることばかりしていたような気がする
永遠という言葉と、愛してるという言葉の裏で

路地裏で死んでいたカラスは
次の日にはどこにもいなかった
死んでしまえば 私も
何日か経てばこの姿はどこにもない
まだまだ生きられると思うから、
いっぱいいろんなものを望んでしまうのだろう
それが誰かを深く、深く、傷つけてしまう望みなら どうすればいい?

情けなさも弱さも、ぜんぶ
受け止めてあなたといきたい
過去も今も全て乗り越えて、あの雲の向こうに

もっと、あなたのために私はやさしくなりたい
もっと、あなたのために私はかわいくなりたい
もっと、あなたのために私はばかになりたい
もっと、自分のために私は強くなりたい

情けなさも弱さも、ぜんぶ
受け止めてあなたといきたい
過去も今も全て乗り越えて、あの雲の向こうに

ラーラーラー、ラーララーラーラーラー

火曜日, 10月 16, 2007

理解の台頭、頭から直で射出する記号

名大で津田さんとお会いした。
「歴史画のための調書」展の会場、プロジェクトギャラリー clas で。
歴史画とは、そこにあった力の姿を描いている。
古典的な西洋絵画には、力の行使が凄惨に巻き起こっているが、現代のそれは、不気味に静かで何も散らかってはいない。誰にも知られないかたちで、力は行使 され、空気は変わる。現代に吹く風は、野山からの無色透明ではない。すぐそこに建ち上げられたビルの看板から、風は薄く染め上げられている。僕らは駐車場 でそれを全身に浴びる。手のひらで灯る画面から、言葉の音を全身に浴びる。そこにあった力を忘れながら。

電車からエレベーター、バスと乗り継いで、名造大へ行く。
沖さん、亘さんとお会いし、html から AIFF まで。
「Valve/Membrance」の演奏の映像を見せてもらう。
響き方が一定に続いていくのが格好いい。
名古屋発祥の台湾ラーメンを食べて、水餃子がいちばん美味しかった。

部屋では、猫の鬱がまるくなって寝ていた。
彼女の仕事ぶりを背に、僕は Mac をポーンと入れた。

http://www.vision.ss.is.nagoya-u.ac.jp/clas/programs/72.php

http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2007/10/post_9674.html

月曜日, 10月 15, 2007

物語を切り開く力とは異なるもの

「めぐみ -引きさかれた家族の30年-(原題/ABDUCTION -The Megumi Yokota story-)」(監督, クリス・シェルダン&パティ・キム/2006)
を DVD で見た。
こんなことがまかりとおってなるものか!という怒りと悲しみを持つと同時に、この映画の視点は、海外の監督だからこうなるのだろうなと思った。それは拉致事件に対して、アメリカ人らのほうが日本人より強く反応するということと、共通するのではないかと考える。
自国の利益とか都合などもあるだろうが、映画のなかに出てきた、
「アメリカは 一人国民が拉致されたらば、そのために戦争をするだろう」という言葉にその根本の考え方の違いがあらわれているように思う。

いざ、自分の家族が拉致被害にあったとしたら、たったひとりに何ができるだろう。連帯し、活動を続けていくことは とんでもないことだ。でもそれしか解決には無い。日本の反応はひどく冷たい。
こうして一個人が国に向かって、停滞して蔓延った歴史の病理を剥がすようなことは、個人主義の西欧に合意されるのではないか。
日本人は、どちらかというとそういう活動は苦手で、もっと連帯感が同情を中心に向かっていくような気がする。
だから、この監督らがインタビューで
「この映画にあるのは愛の物語、希望を持って負けない姿が美しいのです」
と答えていたのに、どこか違うピントを感じてしまったのだ。
僕には横田さんが、いつか めぐみさんと草原に寝そべって、いろんな楽しいことを話したいなという箇所に、愛とか強さという形容とは異なるものを感じるのだ。
開拓していく強さじゃなく、本当にこの家族が持っているのは活動ということではない・・・。
拉致事件をめぐる姿には、日本の家族の、愛のありようがきっとある。
そこにこの映画は向かっていない。
ここにあるのは、急務な使命を持った物語のみである。
現在進行形の事件を扱うという、社会的な効果も勿論そこにはあるだろう。しかし、再度書き連ねるが、本当にこの家族が持っているのは活動ということではない・・・。
という姿を、僕は映画に求めている。
原題に「物語」とあることに、感じていた違和感はここだったのだ。

http://megumi.gyao.jp/

http://www.abductionfilm.com/

日曜日, 10月 14, 2007

ほほえみの国から

夕べから朝にかけて、ハイビジョン撮影による タイツアーの上映会。ほほえみの国は凄い。旅のはじめと終わりで皆の表情は根本から緩んでいった。毒素が抜けてる。しかし画面を見ている面子は深酒も手 伝って、ダウンした。無理な姿勢で眠り、毒素を溜めた。そのあいだ ツアーは三べん繰り返された。明け方はスクリーンを貼った向こうの窓が明るくなってきて、画面が見にくくなった。
そのまま出動する。
一行は昼過ぎまで席を囲んでいたらしい。
月末には大きな祭りがあるから・・・・・see you 来週!と社長に交わす。
改めて向こうに留学している友人の顔もビデオで見た。
ナイトマーケットに並ぶ絵画作品。
「いま」とは、新旧織り交ぜのものだなと思う。

帰宅して、釜玉うどんをつくって食べた。小パックの柚子胡椒を和えると美味しい。
コンビニに公共料金を振込に行ったら、近くのレンタルビデオ屋が百円セールをやっていたので、多く借りた。
店内にて、「ほほえみの国から」を口頭伝承で鑑賞する。

土曜日, 10月 13, 2007

写真展と現像仕事

地下鉄藤が丘駅からリニモに乗り換え、ひと駅で降りる。少し使用感が出てきて汚れている改札周辺の床を眺める。万博から二年だ。モリゾー、キッコロがまた森から下りてきているようなのが懸念される。
駅から徒歩で長久手文化の家へ、写真家 今井紀彰「長久手現幻曼荼羅展」を見に。
写真をカッティングしてコラージュ構成された画面は、写真の物質感を伝えてくる。プリントされた写真の断面は鋭い。強い色と相まってテカり、イメージを鮮 明にさせた。これら様々な土地の写真による曼荼羅は、相まって迫ってくる連続。オーストラリアの砂漠と空、太陽が熱いだろう。人のポーズが配置される周囲 を、土地は無限に続く。長久手も類に漏れず、パワースポットのようだ。子供たちのワークショップも、みんな手作りの写真だった。
そこに写った笑顔を見つめて、またリニモに乗った。
今度は、藤が丘駅から歩いて ギャラリー直指天へ行く。写真家 内藤祐子「まぶたに謡う」を見る。DMの写真がいちばん凝縮したイメージで良かった。仮面を付けた人々は、作り込み過ぎていると妙な趣味性だけが誇示され る印象を受ける。どこか素の部分があると逆に生々しくてギョッとする。過去作と同時に、日記をスキャンして半紙に印刷したシリーズが面白かった。言葉が途 中から手書きから、活字になっていたので、どうしてですか? と訊ねたら、ネット日記にパソコンで書いたものだからということ。言葉の、素のありようだとハッとした。なんて自分は姑息に意図的な上っ面で操作しようと しているのか。

帰り、藤が丘から名古屋駅に向かう地下鉄車内にて、現代美術病と現代詩病患者には、素のありようを見つめ直すことが急務だなと考えた。
晩は、現像仕事を見ていた。

http://www.noriaki-imai.com/

http://www.yukonaito.com/

金曜日, 10月 12, 2007

あんたの知らない明日もある ホレ 明日もある

誰もいない廊下を、背筋を伸ばして飛び跳ねてみる。
屋外の大きな階段を見つけたら、駆け上がりながら歌を歌う。どこかにカメラがあるのを意識して手をかざし、調子良く軽快に。
テレビで追悼企画として放送されていた「日本一のホラ吹き男」(監督,古沢憲吾/植木等、浜美枝/1964)を何故か急に思い出して、植木等は凄いと思った。
植木等が繰りひろげたメンタリティは、いまの社会が 込み入れば込み入るほど求められるはず。
それは無責任だと逃避することではなく、宣言する姿勢、スタイルだ。
そう決めているから、ジャンプする上空での絵が、本当に絵になるんだと思う。

http://www.youtube.com/watch?v=genwxCnH-es&mode=related&search=

http://www.youtube.com/watch?v=9jiRWdtYCIM&mode=related&search=

http://www010.upp.so-net.ne.jp/tohoscope/Crazyindex.html

木曜日, 10月 11, 2007

場は開く

昨日の晩は「詩のあるからだ」というオープンマイクの会に行って来た。お店を間借りして、月いちのペースで行われている。読みたい者は読み、聞きたい者は 聞く、居合わせた者による場。・・というのがオープンマイクの定義なのだけれど、詩の世界は書き手も読み手も同じだというよくある批判にもれず、どこもそ ういった状況だろう。そこに眉をひそめていてもキリはない。同時にこれでいいんだと居直って、内輪のコミュニティに埋没していくのも気持ち悪い。オープン マイクはそういった課題もひっくるめてオープンになっていたらいいなと思う。

シーンは幻想だが、場は必要だ。
「場は無いから、作らなくてはいけない」と、ムーンライダーズの映画でハリー細野は言っていた。バンドとは作られた場である。
こうしてせっせとブログなんぞを書いているのも、幻想を見ているからだ。
幻想を照らすのは、言葉であって、言葉が生きるとき、幻想を先に殺してはいけない。幻想が脱皮するのを放っておけるだろうか。
言葉の力を持って、それを握りつぶさないように。
幻想が大好きな僕は、意味を油断させるために、こうして言葉で成ってみる。
それは量の問題ではない。
場は開く。
夢は夜ひらく。

BRTUS の特集に載っていたボブディランのプロモーションビデオを見つけた。めくっては、どうですかとディランはすぐにこちらを見てくる。言葉が重ねられたあと、私は画面の前、この路上を、歩き出す。

http://www.youtube.com/watch?v=MAbtg9dz5P0&mode=related&search=

http://shinoa.poemove.jp/

水曜日, 10月 10, 2007

脊髄

草花への愛撫
青く塗られたプールの壁
布を捨てて
夜はバスになる
売れっ子は辞書で詞を引いて
あとは くるまりたいのだが
森でいこうよ

言葉はふびんで
カッと開いては
言い聞かせてしまう

彼のセスナが飛び込む
とても見立てが良かった
必死だったのかなあ
それは夜の真似事なんだよ
そこから何も覚えていない
思い出というより
そうであったろうという話だけが
調べを持つことになる?

やさしくしてくれれば
すぐに ほほよせるよ
そんな濡れることに
思い入れなんてないけど
見ないふりもできないわ
バカでしょー
ここいらは
空ばかり撮ったアルバム撫でてるの

火曜日, 10月 09, 2007

気持ちを書く

階段を上るところで電話が返ってきた。
大丈夫?ちゃんと、落ち着けるお店とかに入れた?
東京は物騒だから、そんな気持ちでも容赦されずに人が寄ってくるから。
どうやって向き合おうかとこねくり回しているうちに、こんなに遅くなってしまった。
何にもなっていないのは、いけない。
出来事はすぐに起こる。
いまはこうして、輪っか一つパルックの下で、プロレスゲームに興じてる。スタミナもつかな。もつだろ。ああ胸が苦しい。鼻水があふれてくる。朝までビールを飲んで、ずっと話し込みたいよ。
気持ちを書くというのは、気色悪くて、無理がある行為かもしれない。
願いを入れなければ、それは一言も書けないものだ。

月曜日, 10月 08, 2007

グッドをグッ と歌って

池下の「源」へ、斉藤哲夫のライブを見に行く。
ちょうど昨日 BS2 のフォーク番組に出演していたそう。テレビなんか二度と出てやるもんかと、リラックスした演奏をしていた。声の温度が近く、のびてくる。そして軽くなってくれる。
永井宏の詩に歌をつけたものも、考えさせられるテーマのようでいて、言葉はそんな深みには落ち込まない。音楽はそうやって軽くなるのに寄り添う。

後半にはセンチメンタルシティロマンスの告井延隆も入り、ピアノさがみ湘とで、三人編成による数曲が格好良かった。

甘いワインは葡萄さ
葡萄は美味しい水さ
美味しい水は空から
恵み受けるものさ
「甘いワイン」

と合わせて歌えば、なんて楽しく強いのか。言葉の端々に有り様が生きてくる。
あっという間にライブは終わり、帰り道は歩きながら「バイバイ、グッバイ、サ〜ラバイ〜」と歌ってみる。繰り返し部分の「バーイ バーイ バーイ グッ、グッ、グー」のところがすごく楽しく切なくて好きだ。
「悩み多き者よ〜」と続ける。
歌は帰り道にいい。
ギター一本での歌は尚更さ。

http://tetuo0404.hp.infoseek.co.jp/

http://live-gen.musical.to/

http://www.mis.ne.jp/~ryu-s/album.index.html

日曜日, 10月 07, 2007

そして彼女は歩き出した

「一冊の本が、一人の人生を変えてしまうことがある」
山奥の仕立て屋、爺は告げる。
男ふたりはそれを本当に理解はしていない。「彼女を無知から救いだすんだ」と言って、乾杯をした。二十七年後、ビデオカメラからケーブルをテレビの外部入 力に刺して、ワインを飲みながら、男ふたりはそれを見返す。ものがあふれた町は、電力の為に山奥の村をダムに沈めることを決めたという。小さな乾杯にグラ スがチンと響く。これでよかったのか。男ふたりを残して、彼女は歩き出した。どんな感じの女性ですか?「小さなお針子」と免税店の店員に返す男。彼女はど こにもいない。彼女を愛していた。俺と彼とでは違ったけれど。本当に愛していた。彼女ほど人生に向き合えただろうか。俺たちは。

「小さな中国のお針子」(監督, ダイ・シージエ/ジョウ・シュン、リィウ・イエ、チュン・コン/2002)を見た。

http://www.albatros-film.com/movie/ohariko/

土曜日, 10月 06, 2007

sapce bone

犬山キワマリ荘 space bone にて五人の作家による個展が同時にはじまった。そのオープニングに向かう。たくさんで盛り上がっていた。ホットプレートで焼きそばを作りながら、不登校問 題から尾崎豊とデーモン閣下まで話す。と書くと、あまり広がりが無いみたい。脱線ばかりで楽しみつつ。それぞれの個展も楽しんだ。ペインティングにインス タレーション。気軽なようで、濃厚な狂気が見え隠れ。以前に福井氏からもらった「あめんぼ飛ぶ」という音楽を思い出した。ずぷずぷと視線は笑う。もっと怖 くなっても、僕は好きだ。

http://honeya.hp.infoseek.co.jp/yotei.htm

金曜日, 10月 05, 2007

25と28

そして祖母から弟へ、渡されたのか渡されなかったのか。言わなくてもあるミネラルウォーター。冷蔵庫を開けて、注ぎ口から直接飲む。
彼女は空港から、彼女は駅勤めに変わったのではと考える。
今度、映画館への招待券を送ろうか。

ノンストップ!と唄う。
「東京エキスプレス」(上田正樹/1981)。
どう聴こえる?
これらの平日を見渡す仕事もいいな。

http://www.youtube.com/watch?v=wWv-K81vJ64

木曜日, 10月 04, 2007

黙視する時間を

去っていったものを数えないで。
ここにあるものを数えることもしないで。
あなたが ふれていたいもの。
あなたが 呼んでいたいもの。
私の言葉は、数えることを先にしてはいけない。
そんなことをすると、何も言えなくなる。
潔く言うための、黙視する時間を、持とう。

水曜日, 10月 03, 2007

苦い薬を飲んでくれた

「太陽」(監督,アンドレイ・ソクーロフ/イッセー尾形、佐野史郎/2005)を DVD で鑑賞した。
昭和天皇 裕仁をイッセー尾形が演じ、無条件降伏と現人神宣言へ至る決断の姿を、賛美でも侮辱でもなく、静かに描く。
ここにあるのは劇的な演出ではなく、日常の生活感覚で息をしているだけという「天皇として生きる人」である。
日本人の精神構造、即ち国の社会構造がまざまざとある。
天皇と付き人の会話、マッカーサーとのやり取り、軍部からの報告、皇后に引き寄せる手。あらゆる場面がそれを持っている。

ノンフィクションを基礎としながらも、想像を巡らせた心理描写をふんだんに取り入れているバランスが秀逸で、素晴らしい。
ロシア人のこの偉大な監督の映画を見るのは初めてだった。映像の質感や構図、間、音楽の使い方など、あらゆる面で造詣が深く、気品高い。

玉音放送は、澄み渡った声で響いた。

http://sokurov.spb.ru/island_en/feature_films/sun/mnp_sun.html
http://www.youtube.com/watch?v=uXedhmfVln4
http://www.sbbit.jp/article/2062/

火曜日, 10月 02, 2007

新しい詩

新しい詩を書こうとしている。
逆立ちしたら、きっと書けるのに、逆立ちができない。逆立ちをしようとして、もがいていると何かを書くだろう。床の上に、紙と鉛筆を置こう。
使い古された言葉で、新しい詩を書きたい。
地下鉄のホームで別れる。これからの企みには新しい詩が要る。企みから、新しい詩を読もう。
いまの私には焦がれているものがあって、それは温かく広がりを持った透明の風船みたいで、具体的な言葉を欲しているのだ。
飲み会の最中から、それを思っていた。
コンビニで無口だった店員が、やたらフレンドリーに話しかけてきたり、事務的な会話しかしない男が急に冗談を言ったりなど、何かが温かく透明の広がりで溶け出して、暗い夜の淵をかいくぐって。

月曜日, 10月 01, 2007

人は少しずつ変わる

このままではだめだよと
言い聞かせはじめた。
はじめたんだ。
一行から広がって、またその一行に帰ってみるんだ。
その一行がずれたら しめたもの。

「人は少しずつ変わる」(詞、曲, 中山ラビ/1974)。

http://www.youtube.com/watch?v=fVurnTBEGNE

日曜日, 9月 30, 2007

九月の海はクラゲの海だと感慨深く確かめるのはまた一年後

結果的にレコード屋をハシゴした。なかなかうまい頃合いの盤に出会えないものだ。大須の安くて美味しい焼きそば屋さんが、明日から価格改訂をするらしい。 小麦などの原価値上げが直接のそれだろう。明日から十月で、いろんな取り決めや制度がはじまるという。自分自身にも何かを課そう。ひとまず CD はひと月に一枚と決めようか。映画は映画館で見るのは二本くらい?レンタルは何本まで・・こんなこと決めても、いまだけの自己満足に終わるだけだな。結果 的に任せもいけないが、決め尽くすのも本末転倒だ。そう思ったり、感じたこと自体にゆっくり向き合う時間が要るだろう。何かを課すのはそれからでも遅くな い。無意味な自己規制は、気持ち悪い循環を起こす。

晩に、とある打ち合わせ。空気が肌寒いなと思っていたら、面子は風邪を引いていた。はやく寝たほうが良いよと言いながら、終わってから食事に誘ってしまう。我ながらなんとも身勝手であった。

土曜日, 9月 29, 2007

ストロベリーショートケイクス

今週末は雨のようで、洗濯ものができない。本屋を回ったり、スケッチをしたりして日中過ごす。
ブランチのようなタイミングで、たくさんの麻婆茄子を食べる。美味しくお腹を満たす。
それからしばらく何も食べずに過ごした。日が暮れてから、猫の鬱がお気に入りのソファーを動かし、画面の前へ。そこに座って、インスタントの珈琲を煎れ。
DVD で「ストロベリーショートケイクス」(監督,矢崎仁司/原作,魚喃キリコ/池脇千鶴、中村優子、中越典子、岩瀬塔子/2006)を見た。

四人の女性はそれぞれの性格を以て、人生の象徴を抱えている。関わりと心情が丁寧に描かれるこの情景は、物語の情緒に溢れていて美しい。彼女たちは若く、 しぶとく素敵だ。僕はトマトをもぎとる手を持った、白髪の恋人になりたいと思った。愚かなことに喜んでいては、ああはなれないだろう。

煙草を吸いたくなって、ビールを飲みたくなった。
小雨の夜道をコンビニまで歩いた。

http://www.strawberryshortcakes.net/

金曜日, 9月 28, 2007

受け取る

玄関先に宅配の不在通知票。説明書きを読むと、再配達の時間指示以外に最寄りのコンビニで受け取りをするサービスがあるようなので、試してみる。ネットに 不在通知番号などを入力すると、処理と完了のメールが送られてきた。これなら帰りが遅くても大丈夫だ。コンビニとしては、こうしてまたひとつ人を呼ぶ要素 ができたわけで、これは公共料金の振込と同じく当たり前になりそうな気がする。僕もその思惑通り、荷物の受け取りと同時にアイスクリームも買った。
レジ横で、取り下げられずに並んでいるスポーツ新聞を横目にした。

店を出ると、女性がひとり 後ろ向きで カップラーメンを食べていた。地面に座り込んで、弁当類を自分の周りに並べている。自転車の鍵を開ける僕に気付くと、背中を少しまるめこんだ。
この九月の終わりは、暑いような、寒いような。その斜度を持ってる。
ひとつずつ、受け取る。処理ではなく。
アイスクリームは林檎味のスーパーカップ。
そして台所のシンクを洗う。

木曜日, 9月 27, 2007

形式によって

君は図書館で調べもの。
君は美術館に髪の毛を運び込む。
君は空港であくびをした。
取り乱しちゃって、慌ててスッ転ぶのはだれ。
僕はもうそんなことはしない。
僕は巻き煙草の作り方をまた教え直してもらっている。
猫の鬱は昨日に続きゴキブリをしとめた。またよく寝ている。
ころころとまるく肥えてきた。
君を憂鬱にさせるものは、夢の中で変容しないだろうか。
僕がそのプールをかき混ぜに行くことはできるか。
幻覚作用ではなく、君は言葉を持ち帰る。
僕は自分の詩の形式を意識している。
形式によって、触れることができそうなものに意識を向かわせている。
君との形式も意識されているのだ。
僕の財布にはいま八十六円しか入っていない。

水曜日, 9月 26, 2007

麒麟 田村氏

FBI 捜査官、マクモニーグル氏の透視によって、麒麟 田村氏の生き別れになっていた父親が見つかった。もう マクモニーグル氏の透視も凄いのだが、麒麟 田村氏の「家族解散」エピソードが壮絶過ぎて、それが再会できたということのほうが大きく、番組に見入る。
再会してすぐ、田村氏は部屋から出てきて、テレビカメラに向かい マクモニーグル氏に御礼の言葉と親孝行をしていきたいと話した。
彼の仕事と人生が、カメラの前にあった。
それはとても凛々しい姿だった。

http://www.youtube.com/watch?v=S67gXmyjMgs

http://www.youtube.com/watch?v=ez_TNpFcYOQ

火曜日, 9月 25, 2007

Tension and Compression

緊張と圧縮。
Tension and Compression。
名付けることの強さよ。
それは作り続ける源泉。
あらゆる全てと引き合い、睨み合って。
篠田守男氏の仕事による。
感化と歓喜。
泣きわめくこともすら、この間で向かい、現れる。

http://www.datltd.net/sclptrglry/shinoda/index.html

月曜日, 9月 24, 2007

白ける夢を見ている場合ではなかった

また尾崎豊を見ていた。土鍋でつくった豚汁を食べて、数本の映画をDVD で見て、明日からまたどうしようと呟いていたときだった。「愛は白けるものだ」と書いてしまえば、達観した気分で、それは上に立ったように何かを放棄して いる気がしていた。これは計り知れないことであるが、おそらく、やはりそうではない。白けるものを、白けないように働く動きそのものが愛であると、思っ た。本当はシンプルなものなのに、容易に言葉にすることができない。借り物の言葉にすると、すぐに白けてしまい、愛でなくなる。大切にしようとする気持ち や働きは、いまもここにあって、あなたを生かしている。尾崎豊が何故若くに亡くなってしまったか、知る由もない。彼が唄ったもので、生きていられた人、彼 を支えた人、これから彼の歌を聴く人。大切に向き合う関係は様々だ。これらの尊いものの前で、白ける夢を見ている場合ではなかった。
ここ数日で見た夢は、残酷で、取り返しのつかないことをする夢ばかりだ。

勢い勇んでシャワー室に入ると、髪の毛の固まりがボタボタと落ちてくる夢。
同級生の女の子達のグループ展の搬入作業に偶然居合わせて、何故か大切な古典書を預かるのだが、それを公園のベンチに置き忘れてしまう夢。後からそのうち の一人の子から携帯に確認の電話がかかってきて、それに気付く。僕は大丈夫だよと言いながら、来た道を戻り、ベンチで置いてけぼりにされたその古典書を見 つける。古びた表紙には毛筆で「原始の女」と書いてあった。各国のあらゆる女性と関係を持った男が、絵と文章で何やらを回想した辞典である。インデックス 部分が剥がれて無くなっていた。ベンチの周りには草野球のユニフォームを着た学生が集まっていて、僕は彼らをかき分け、それを手に取ったのだ。グループ展 はうまくいったのだろうか。確か彼女たちが展示を行う部屋の向かいは、知り合いの作家さんがビデオインスタレーションをしていて、僕が見に行ったときに画 面が暗い気がすると言ったら、全部の電源を落として再起動しはじめた。するとさっきより明度が上がって、ちょうどいいくらいに床が照らされた。作家さんは そうだねと言いながら、脊髄のあたりを ぽりぽり掻いていた。

日曜日, 9月 23, 2007

気高さだけ、捨てないで

声を重ねて、震わせるにはどうすればいいかを試行錯誤する。ハウリングではなく、美しい調べになるように。声と言葉の関係もまた表裏一体で、これを言うか らには鮮やかに居たい。何かを忘れるでもなく、捨てるでもなく、新しくはじめることを迎え、時間に委ねながら、意志を確かめているには。本当に深いところ でのイメージを掘り起こしてみよう。僅かに、豊かな日の、横たわる関係を思い始めるのよ。

「1%の関係」(詞,鈴木慶一/曲,高橋幸宏/1995)。

http://www.youtube.com/watch?v=HyqKlhxedNQ&mode=related&search=

土曜日, 9月 22, 2007

そんなの

駅のホームで小学生が「そんなの関係ねぇ!」と振りをしていて、お母さんがやめなさいと言っても聞かずに「そんなの関係ねぇ!」と返していた。そりゃあや るだろうなぁと思っていたら、電車に乗り込むと目の前に居合わせた背広のおじさんまでやりはじめたから驚いた。「そんなの関係ねぇ!」向かいの席に座って いた OL風の女性がそれに返す。「そんなの関係ねぇ!」。必死の表情が笑いを超えて、痛ましく見えた。夕方の陽射しを受けて、車両内は皆、拳を地面へ突きなが ら上半身を斜めに身体を揺らしていた。僕は iPod をかけてやり過ごそうとしたが、次の駅で入ってきた乗客までもが 皆一様に「そんなの関係ねぇ!」だったのには絶句してしまった。誰もがそれぞれの「そんなの」を持っているのだが、それは「そんなの」に集約される。そし てそれを本当に振り切ることはできるのだろうか。皆目不明だが、いまここで しがらみを無しにする言葉を、言ってしまうことが面白かったのだろう。もはやシラケドリが飛んで行くのを眺めていられるほど、悠長な気はしなくて、拳で断 ち切って、イッチャッテしまいたい。いやあくまでも願望。いやもとい欲望である。これは。僕のすぐ隣で踊っていた女子高生のパンチで iPod からのイヤホンコードが引きちぎられた。すると震えんばかりに全車両内から響き渡っていた無関係意志の讃歌。大合唱となって、電車は真っ暗闇へ突っ込む。 ああこんなのに乗りたくなかった。無念でならない。自分にもしがらみが無いわけではなかろうが、いま踊りたくはない。声をあげなくても、関係は消えていっ てしまう気がしてならない。このアクションで逆に引き寄せて、関係をやり直そうとする叫びなのか。意識下に「そんなの」が君臨する。辛抱たまらなくなり、 ついに僕は・・!
吐いた。
辿り着く。

そんなのは深く関係しているぞなもし。

金曜日, 9月 21, 2007

ファミコンやってディスコに行って、知らない女の子とレンタルのビデオ見てる

「カルアミルク」(詞,曲, 岡村靖幸/1990)が頭のなかで回る。

自分の弱さを見つめる 独白は、隠す事無く明らかだ。

http://www.youtube.com/watch?v=u6EVyxwSo18

木曜日, 9月 20, 2007

むえしつげりしくっふらひへかほはなつふるきぴいりくこうあいょきぼにかゃなちゅめまそにみあきああいにうつこ

なんだか止まらない。
気持ちがぐるぐる。
寝不足だからでしょう。
きっとそうさ。
そうしよう、そうなんだ。
銀のスキンで「あいどんわなだい」を聴きまくり。エレベーターという個室で唄う。
杏仁豆腐のくだりが好き。

陽が落ちてからは、白井良明とボカスカジャンによる Eye Don't Nose で、「大人の悩みに子供の涙」(作詞, みうらじゅん/作曲,白井良明/2006)。

さてさてさて、こんなんは、なんなんだははははい。

http://www.youtube.com/watch?v=ShJUkkHKCfE

水曜日, 9月 19, 2007

目眩

現実に朝がやってきて、電車に乗ってどこかへ向かう。
夕方過ぎには、写真を撮りに、文章を書いて、考えをまとめ、空いたコーヒーショップでお腹いっぱい食べたり。
ここで並べようとしているものは、尽きることのない欲望です。
骨が肉を付け、皮膚をまとっているだけに過ぎず、いつも腹を空かしている。
脳味噌は あっという間に空回り。もうあなたは動物です。
そんな形で、何を書くというのです。
現実に夜を通り過ぎて、また朝が滞り無く現れた。そして電車に乗るのであった。

火曜日, 9月 18, 2007

愛が白けてしまわぬように

昨晩、映画を見て帰ってから、少し前に NHK でやっていた尾崎豊のライブ映像の録画を見た。何気なく、かっこいいなぁ程度に見るつもりが、その正面から唄われる歌に驚き、引き込まれてしまった。
無軌道で破天荒に思われている尾崎像だが、彼が見ていたものはどこまでも現実的だったのだ。

「I LOVE YOU」(詞,曲, 尾崎豊/1983)

I LOVE YOU いまだけは 悲しい歌
聴きたくないよ
逃れ逃れたどり着いた、この部屋

何もかも許された恋じゃないから
二人はまるで、捨て猫みたい
この部屋は落ち葉に埋もれた
空き箱みたい
だからお前は子猫のような鳴き声で

きしむベッドの上に、優しさを持ち寄り
きつく身体、抱きしめあえば
それからまたふたりは、目を閉じるよ
悲しい歌に、愛が白けてしまわぬように


・・・・・この歌の恐るべきところ、それは、彼は既に十八にして、「愛は白けてしまうものだ」ということを見抜いていたことである。ほとんどのラブソング は「私たちふたりの愛は永遠」と唄うものだ。そう唄うことで、力を生もうとする理想的な視点である。彼は違う。彼はそんな幻想を唄っても、本当の力にはな らないことを知っている。ふたりは徹底的に無力で、悲しい歌ひとつで愛も白けてしまうという現実を、さらけ出し、そうならぬようにと願いを唄うのである。 願いに転ぶのも、白けに転ぶのも歌ひとつという置き方も素晴らしい。彼の歌手としての覚悟をここに見る。
この歌で唄われている ふたりは、何も不良カップルだけのことではない。全ての ふたりは、現実を直視すればこそ、無力と限界の前に抱き合っている。
と、書いていて、この文章に白ける気持ちを持つ。
「殯の森」を見て、感覚が解放され、意識が立っているようだ。
「殯の森」は愛に溢れた映画だった。
愛についてを語ることができるか。
無下に悲しいことを綴ってはいけない。現実故の言葉を見つけられるか。

http://www.youtube.com/watch?v=8PBupJw1VQA&mode=related&se

月曜日, 9月 17, 2007

殯の森

「殯の森」(監督,河瀬直美/うだしげき、尾野真千子/2007)を見た。

誕生日会の場面から、おろおろ泣いた。本当にそこに居合わせたように感じられて、共に森へ入っていった。
美しく、強い映画である。

http://www.mogarinomori.com/

日曜日, 9月 16, 2007

美しき天然

雨を逃れてモーニング。
丁度いい感じで解散し、眠気にまかせて夢を見た。

夕方過ぎまで休み、夜に岐阜の金華山ふもとへ。
ORGANデザイン室 主催の「お月見ライブ」を見る。中庭のある旧日本家屋に人がひしめき合い、料理とお酒を交えて、中庭向こうから音楽が演奏されていた。浴衣姿の人が多く、暑いわと言いながら楽しんでいた。
ラタトューユを食べながら、What's GO IN ON を聴いた。中学生のときに、美術部の先輩からカセットテープを借りたなと思い出した。オフコースがライブでカバーしていたやつだ。いつも寝る前にそれを聴いていた。

福岡から来られていた ちんどん屋 鈴乃家さんが素晴らしかった。南京玉すだれの楽しいことよ。
ORGANデザイン室メンバーらによる ちんどん屋も わいわいと演奏しながら登場して、ステージ上はぎゅうぎゅう詰めで楽しい。
「美しき天然」(曲,田中穂積/1905)の演奏が素敵。

それから、我々の姿を天然として迎える。
素敵だよこれと、伝えるのを続ける。

http://tenkirin.exblog.jp/6943395/

土曜日, 9月 15, 2007

凝視の都市

金曜の夜、カフェ・パルルにて 韓国人作家 ジョン・ジョンジュ氏 のアーティストトークへ向かう。都市の内と外を同時に撫でる作品。目は光と影の前に座る。

+Gallery 企画による展覧会で、同じく韓国の美術評論家 カン・スミ氏も来日し、クリティカルクリティックを話されていた。終了後、宴に同席させて頂く。
ビデオプロジェクションされた都市は装飾を脱ぎ捨て、骨身になろうとすることで、その名前だけを残していた。

土曜「凝視の都市」展、オープニングへ。
私たちの空間は暴かれる。ずっと、何も無いと思われる時間でも。

カン・スミ氏に bnap05-6 のカタログと作品ファイルを差し上げ、見て頂く。取りこぼさずに見て頂き、ありがたし。
福岡氏もスイッチ入り、以後の お好み焼き屋と、戻ってラウンジでまた飲む。
本気のウイスキー登場に一同興奮。
それから更に遅くに、ジョン氏が作品撮影をするというので、その鑑賞者エキストラとして、皆でフリをする。
でもフリではなくなってきて、都市と画面を覗き込んでいると、作家が撮影に熱くなってきているのが伝わってきた。
たとえ言語が拙くても、本当に感じているかは伝わるんだよ!とまた熱弁。
とかなんとか朝まで。

http://homepage3.nifty.com/plusgallery/
http://www.jjju.com/

金曜日, 9月 14, 2007

feel is real

生真面目な言葉は、そのまま声になっている。
誰彼も無言で涼むビルをくぐり抜け、がらがらの部屋を思った。
そこにパンツ一丁で横になり、骨だけになったらばと思う。
すやすやと眠り、せっせ せっせと働き、じんわり感じるのを待ってる。
年を経ても、声は変わらない。
「夢で逢えたら」(歌, 吉田美奈子/詞・曲, 大瀧詠一/1976)。

http://www.youtube.com/watch?v=NkiwWVgz0Ig

木曜日, 9月 13, 2007

でもそれは「逃げちゃだめだ」であって、「僕はここにいていいんだ」では無かった

マンモス大学の中庭で、詩についてのオープンディスカス。そののちに自己披露と実現の違いを考え、終電で帰ってきた。意識はうごめき続ける。昨晩はミチク サに 2Lのお茶を買って行った。同時にエヴァのレボルティックも。ザッピング夜話は尽きぬことなく、そのまま朝まで起動しっぱなしで仕事へ。眠気覚まし資金投 入し対応し乗り切る。

悲しいことはネタじゃない。
やむにやまれないと僕は聞いた。
「こんなことになってしまったけれど、これで詩が書けるからいいじゃない。」
後日、実際に僕も含めて、そのことを書いていた。
でもそれは「逃げちゃだめだ」であって、「僕はここにいていいんだ」では無かった。

ビール瓶や皿をさげてもらう。
我々は、手を叩きながら、我々の拍手の音を聞く。
白い本に言葉が書いてある。
「私は詩で人を幸せにしたい」。

本当は悲しいことなんて忘れてしまいたい。
でも忘れてしまったら、もっと悲しいじゃないかと思う。
本当は自分がいちばんいいところにいたいだけで、セカイ系の極みに酔っているだけだ。
本当は世界の果てしなさの前で、名もない一匹のヒトに過ぎぬ。
それがビールなんぞを飲み、ああだこうだと憂いているのだ。
このうごめきだけが、人である悲喜劇だ。
正しいことのような「逃げちゃだめだ」は一方的な言葉で、
そのままでは辛過ぎる。
「僕はここにいていいんだ」は、とても通って聞こえる。

水曜日, 9月 12, 2007

忘れなくてはいけないと覚える

水に濡れた文字を
油にまみれた手で記す
一ヶ月前、原動機付き自転車はY字路でこけた
何もかもが終わってしまうというのは
どういうことを指すのだろう
明らかな言葉に会えぬとも
受光体は動いてくれた
走ってウインカーを修理した
手をよく洗い
文字を見返した
私をとびこませた文字がある

(携帯電話で2007年9月11日付の日記を読む)

火曜日, 9月 11, 2007

テロルが焼き付かせたもの

テロルが焼き付かせたもの。瞬間の絵を黙すとき、少しらくになったあなたの心は、何のせい。すべて私のせいではなく、私のせいだ。テロルは私の前を通って 行った。世界は一生を懸けても回りきれず、憎しみと一生向きあうのはいやだ。それをらくにさせるのは、かぶせ合いではない。自由の塔など何も自由ではな い。がんじがらめのままで、新しい戦争と呼びながら、世界を一生懸けなくても回れる程度にしていっている。
ずるずると時間だけが過ぎていくようだ。
若者は いい加減にしろよと思って、車を爆発させるのではない。とてもとても悲しいのだ。
テロルが焼き付かせたもの。三つの数字の意味が変わり、グラウンドゼロという言葉も利用され、目に見えぬテロルがうようよと蔓延っている。第一次、第二次 大戦時など、どんな有様だったのか考える。いまみたいなリアリティで回っていたのではないかとも思う。しかし気が遠くなる。私たちは、いずれまたこの日の ことを歴史の教科書に書くことになる。テロルが焼き付かせたものは、何故このように悲しさが溢れていたのかを書くことになる。それが伝わってくれるだろう か。

月曜日, 9月 10, 2007

She laughed.

頭突き。
これは、
この流れ落ちるものは、自ら引き起こした流れだ。
はじまりの一行で決まる。
やるしかないという声で決まる。
帰り道は夕方を通り抜けて、夜にしか使わない言葉へ。
行くような。
所信表明から書くのである。

日曜日, 9月 09, 2007

海だけがないということ

「名称未設定の手紙」をよく手に取る。light note というアーティストユニットが発行している写真と文章による定期刊行のフリーペーパーだ。昨日ももらってきた。
紙切れ一枚を積み重ねるだけで、深いことになるのを思う。
その、light note で文章を書いている 伊藤正人氏の小説がある。
少し前に、読書感想文を書く。

八月の恐ろしく暑い晩に、僕は「ひとひらの声」(著,伊藤正人/2006)を読んだ。
ちょうどいろんな我が身の騒ぎが、終息はしないというのを知った頃で、慎重にページをめくった。
本の中の「僕」は「彼女」とマンションの一室にいる。その部屋には彩りというものが欠けていて、外を走り続ける車の騒音と、向かいのビルの同じ高さにある オフィスの灯りだけがもたらされている。文字通り灰色の部屋で、ふたりは毛布にくるまって、孵化するのを待っている。季節は、冬だった。
冬でなきゃ、そんなふうにはならないだろうなと思う。コーヒーも、朝焼けも、そう簡単に彩りにはなってくれない。クーラーも無い部屋で汗だくだとしたら、「邂逅なんだよ」などと、彼女もつぶやいてくれない。
何かを待つには絶好だったのだ。
彼女は僕を導いてくれる。と、「僕」は見ている。・・・と読者の僕は読む。
だがその声は、本当はわからないものだと思う。
わからないからこそ、僕らは海に向かう。
そこで、海だけがないことを知り、その欠落を受け入れる。
聞こえそうで聞こえない声は、欠落している形状から聴こえてくるのではないかと思えた。

「海だけがない」と言う彼女に、「仕方がないさ」とはたして僕は言うだろうか?
きっと、僕はその声を飲み込み、灰色の部屋にいるだろう。
我が身の騒ぎが終息しないことに、読者の僕は叫んでしまう。
聴こえていたはずの声はかき消されて、生まれ変わることもできなくなるのに。
海はおあつらえでも、持ち帰ってくるべきなのか。
「海だけがないということ」を、持ち帰るのに海へ行くってのは、なんて切ないのか。

http://lightnote.blogspot.com
http://royalbluemountain.blogspot.com

土曜日, 9月 08, 2007

セカイ系と呼ばれて

アートフェチにてカトウトクハル氏の個展「欠伸をする度に世界は拡がってゆく」を見る。煌煌と路上を照らすものは、パースがかかった横断歩道の先にあっ た。溢れてくる光は救いではないように思える。あれはただの電灯のはず。コンビニエンスストアの形に白が抜け落ちて、看板も入り口も輪郭でしか判断ができ ない。彼の暗室に溜められた時間が、ここいらの世界だった。

最近覚えたての「セカイ系」という言葉を口に出していた。
「ぼくときみ」が抱えている出来事が、社会領域をすっ飛ばし、そのまま世界の存続に関わってくるという物語を指す言葉らしいのだが、どうもその呼称に批判的な何かを感じてしまう。むず痒いのだ。
「世界」をどう捉えるかということと直結してくる。世界をくまなく上空から見渡し、把握することなどできないのだから、自己のリアリティに基づくしかない。
自殺する若者が増えているという社会問題と、いま降り出した雨に困ったということを天秤にかけ、雨のほうが問題だと唄ったのは井上陽水だったが、テレビの 向こうにだけ世界があるわけではなく、実は「ぼくときみ」がとどうやっていくかが世界に繋がっていくんだよとするのはずっと以前からの主たる物語ではな かったか。
その自己のリアリティのみで世界を把握していくことが特別視され、ときに批判されるとするならば、それもまた何ら新しい認識でもなく、当時の「傘がない」 (1972)への批判と何も変わらないのだが。・・・・どうなのだろう。なんでもかんでもセカイ系になってしまう気がする。この言葉を用い出すバックボー ンにあるものが、僕には気になる。
社会領域をすっ飛ばすということから考えれば、「ぼくときみ」の問題をそのまま世界の問題とし、何のプランも関係も無く、素人の日本人カップルがイラクに 行ってしまうような、所謂 自己中心的で非常識な認識がそこにはあるのか。だが、そのような方法でしか世界のリアリティを持ち得ることはできなかったとしたら・・・、それも、そもそ も貧しい価値観点からはじまっているとも言えるが・・・、この心理を持つ表現を「セカイ系」と呼びはじめることで、人の何かが閉じる もしくは裏返り背を向けてしまうのではないかと考える。
いや、そもそもそういった概念の言葉と対峙するものを、作家は実際に具現化していかなければならないのだろう。

http://artfeti.main.jp/
http://members.at.infoseek.co.jp/toumyoujisourin/jiten-sekaikei.htm
http://iwatam-server.dyndns.org/kokoro/sekai.html
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1012474625

金曜日, 9月 07, 2007

Screaming masterpiece

台風の風が吹いていた昨夜は、シネマテークでレイトショーを見た。
今朝 起きたとき、ここらはすでに上天気で、出歩くのに不自由は無かった。拍子抜けのような面持ちで、一日在宅作業。スーパーから買ってきた大きい紙パックの果汁100%オレンジジュースをすぐに飲み干す。風が止んで、また蒸し暑さが戻ってきている。

そのレイトショーは音楽の映画だった。
「スクリーミング・マスターピース」(監督,アリ・アレクサンダー&イルギス・マグヌッソン/ビョーク、シガーロス、ムーム/2005)。
アイスランドの音楽シーンという軸で描かれた映画のラストは、根底をひっくり返す発言で、その高い意識を受け入れているのが面白い。
・・的とかいうことで音楽を判断することだけでは、アイデンティティーを捏造しかねないだろう。でもそうやって、疑い続けて 開いていくものなのだろうなとも思う。

私が愛について兎や角語りはじめるとき、私が日本人であることは勝手についてくるものだ。それよりも、見ようと目をこらし、聴こうと耳をすますのだ。

http://screamingmasterpiece.jp
http://milanrecords.com/screamingmasterpiece/

木曜日, 9月 06, 2007

また、愛について

私たちの手がこねあげるもの、それは情念だけのものではなく、冷静なものを含んでいる。
私が語り続けるもの、それは後悔だけのものではなく、頷くものを含んでいる。
私たちの行いはそれしか残らないだろう。
やがて、窓の前で、私たちは何処からの風を迎える。

水曜日, 9月 05, 2007

愛について

日々の憂いの、波間に眠る 私たちの本当の音
いま持て得る最高の尽きぬ有り様を
私たちの手で

火曜日, 9月 04, 2007

Air

図書館のビデオ視聴覚ブースにて、小学生の男の子がひとりでエヴァを見ていた。LD で全巻揃っているのだ。しかし、館外貸し出しはしていない。LD を部屋で見ることもできない。他の子たちはアンパンマンとかを見ているのに、彼だけがエヴァを凝視していた。血なまぐさい画面もやがてくるだろう。「アニ メは子どもが見るもの」という大人の固定概念がいまだ横行する公的施設にて、僕は彼の背中を見つめていた。心の中でガッツポーズをする。
いつか、彼を救済する場面が訪れるはず。
悪夢を超えていくことができるはず。

http://www.youtube.com/watch?v=GYxQ6Z4csM8

月曜日, 9月 03, 2007

二本のフィルム

出来上がってきた 35ミリフィルムの一本は、多重露光をしてしまっていた。それも、三つの画面が重なっている。ちょうど一年前、初夏の頃であると確認できるイメージがあっ た。僕がトランクケースを引いている背中が見える。その上に、この前行った常滑焼き祭りの人ごみが重なっていた。現像に出したフィルムは二本で、一本は多 重露光。もう一本は露光せずに写っている。笑っている金沢での表情。36枚と、24枚の束を全て積み上げて、一番上にどの写真を持ってくるかで迷う。多重 露光はイメージが定着していなくて、どうも頷けない。プールでの写真を上にした。青色のゼラチン質のテカリが返ってくる。部屋の片隅、僕らが通り過ぎて いった情景があった。長方形のこれは、アルバムに入るまで、生々しく色と像を持ってうごめいている。
これらの横で、僕は何を語ることができるだろうか。チキン丼と、ピラフで過ごす。いよいよ本当に、言葉と写真に何があるのかをはじめるときだ。

日曜日, 9月 02, 2007

天然コケッコーとヱヴァンゲリヲン新劇場版:序

「天然コケッコー」(監督,山下敦弘/原作,くらもちふさこ/夏帆、岡田将生/2007)と「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」(監督,庵野秀明/声,緒方恵美、林原めぐみ/2007)の豪華二本立てに望む。
チケットを買うときに「天然コケコッコーください!」と間違えてしまった 通称「天コケ」は、人々のあり方、関わりが丁度良い頃合いで落とし込まれている繊細な描写による映画。原作は未読だが、おそらく原作に等身大の感覚を持っ た人物像が出来上がっているのだろうなと想像させる。透き通った田舎がきれいで、そのまま主人公の心持ちに繋がっているというそんな素直な撮り方がいい。 都会っ子と田舎っ子、大人と子供、家族に社会、いろいろ丁度良い頃合いで伝わってくる。

一休みして、松屋でお腹を満たしたのちレイトショーのエヴァへ。
前半、Zガンダムリメイク版を思い出して嫌な予感に触れるが、それは杞憂だった。目映い光と音、ギミック、テンポ、総合的にこれは映像の感動、手に汗握 る。堂々たるエヴァを見せつけられた!・・・・続編があるという歓びが、当分訪れる!なんと惨く美しい、戦いのはじまり。身体と心が向かい出す。

http://tenkoke.com/
http://www.evangelion.co.jp/

土曜日, 9月 01, 2007

最低同盟の挑戦

35ミリのフィルムを、安くプリントしてくれる店も減ってしまった。いまやフィルムカメラのほうが贅沢品だ。デジカメはパソコンに入れたら終わりになる。 プリントを全部することはないから、こぼれ落ちてしまうものが多いように思った。いまの自分は そこを丹念に捉えたくて、わざわざフィルムで出してみる。はたしてどうなるか。

最低同盟親睦会よろしく。アートとはコンセプトとはなんぞやだろう続く一夜。一夜と言わずまだまだ続くよどこまでも。
はたしてどうなるか
に向かって、
雨に打たれて突っ走る。
ひたすら帰る。
自分のいないところへ。
雨で濡れれば、濡れるほど、自分はこうあるものだろうという気が増してきている。そんな服を着っぱなしで。
自画自賛も甚だしい。
自画自賛の根拠を見れば。
雨を見せつける。
俺はこんなに濡れたんだぞう。
そんなことを言う必要も無い。はたしてどうなるか の前では。そんな安牌は無い。

金曜日, 8月 31, 2007

狂った果実は本当に狂っていた

昨夜遅くに、second life でタイランドと交信。快調に楽しいと聞く。遠く離れていても、共通の空間を持って、いま共有できるものとできないものをテーブルの上に置いたようだった。実際にはタイピングによって、弾き出されていた。

雑用を終えてから、日中に「狂った果実」(監督,中平康/石原裕次郎、津川雅彦/1956)を レンタルDVDで見た。格好良くて、ノッタ。大胆なカット割りで一気に進む。古さは微塵も感じない。こんなふうにつるめたら、イイネ。なんて羨ましがるこ とができるから、石原裕次郎の人気が出たんだろうな。脂の乗った頃より、若くて青さのある石原裕次郎に惹かれる。ここらへんの日本映画も深いや。みんな早 口で何を言っているのか分からないのも魅力に感じてしまう。
平沢フランクこと、岡田真澄もまたイカしてる。津川雅彦も若くて幼いけれど、目つきが鋭さを秘めている。そんな表情と設定が充分に合致しているのも傑作の要因だろう。マドンナの北原三枝は、この四年後に石原裕次郎の妻になるのか!
石原慎太郎と長門洋之を叩きのめすという場面も ただの特別出演では無く、この物語が持っている「兄弟」という要素が含まれているのだなと、ニヤリ。
また、資料クレジットを見て驚いた。
撮影クランクインが 昭和31年6月4日で、クランクアップが 同年7月3日!初試写が 同年7月6日!公開が 同年7月12日!! 信じられないくらい速い!一瞬、誤植じゃないかと疑った。で、公開初日の集客は六千人代を全国で出している。当時の映画動員数をいまと簡単には比べられな いだろうけど、興行的にも成功していただろう。
当時はこれが当たり前だったのかもしれないが、凄い。こういった熱もフィルムに焼き付いているに違いない。ヌーヴェルバーグの先駆けは、本当に狂っていた。

DVD を返却しに行って、続いて「太陽の季節」(1956)を取るが、今日はセール日ではなかったのでレジでキャンセル。なにかとチマチマしているようだが、これもまた狂うための!

http://www.youtube.com/watch?v=SJZFNM5IsIs

木曜日, 8月 30, 2007

青春で大阪

まだ空が白んでいるうちに、僕はホテルを出て、駐車場で紙コップの珈琲を買っていた。始発に乗って一度自室へ戻り、身支度をしてまた駅へ戻った。青春 18きっぷで、JRに乗り換える。これでどこまでも行けるが、今日は大阪に向かった。一眠りすれば昼には到着する。
なんばグランド花月の前を歩く。ごちゃごちゃの繁華街で、たこ焼きとお好み焼きにありつく。店員が、さも軽快に鉄板の上でお好み焼きを焼いてくれているの を見ていた。カウンターで、具材がたっぷりのやつを頼んだ。店内の BGM に やしきたかじんの歌声が流れていて、やっぱ大阪と言えばたかじんやなぁ〜とうっとりしていたら、店員は有線のチャンネルを J-POP に変えてしまった。お好み焼きはふっくらしていて美味しかった。

国立国際美術館にて藤本由紀夫「+/ー」を鑑賞。さっきまでの雑踏のなかでは意識されなかった音へのスイッチングを自覚するが、この作品は、それだけで終 息しない。ビートルズのロッカーは、僕らが再生する音楽の有り様を示しているようにもとれた。そのロッカーが待ち構えている部屋そのものが、僕らの音楽史 に触れている空間であった。
恋は続く。
美術館のインフォメーションで場所を伺い、数分歩いてギャラリーのあるビルの二階へ。小原さんら大学院の二年生の三名が同時に個展をやっている。ポート フォリオも全部見て、とにかく達者であると思った。出入り口の天井に貼られた「美術取り扱い商」の認定証を壁の白ペンキが少しかすってしまっているのが、 ここが以前は白い空間では無かったことを思わせ、ここに至る過程を見る気がした。
皆でうどんを食し、挨拶をして解散した。また 18きっぷで同じ路線を逆に帰る。
名古屋駅に着いたとき、改札口で「31日分で入らせてください」と18きっぷを出して凄んでいる鉄道ファンらがいた。駅員が「まだ31日じゃないんで」と断っていた。時計を見ると、23:43。そりゃだめだろうと思った。

http://www.nmao.go.jp/
http://yaplog.jp/saeki/archive/642

水曜日, 8月 29, 2007

夢をこうしてまたひとつ

金沢で買った「陰翳礼賛」(著,谷崎潤一郎/1933)を読む。
日本家屋についての美が語られていて、ちょうど兼六園でお茶を飲んだ和室を思い起こす。厠は離れたところにあるのが、趣があって良く、漱石先生は毎朝用を 足すのを楽しみとしていたなんて。面白い。文体にその趣があって、日本家屋の邸宅に住みたくなる。これはゆっくり味わって読も。

友人の、結婚式の二次会へ加藤氏と行く。結婚されるおふたりは、どちらも仲の良いおふたりだ。奇跡が普通のことになるって、なんて素晴らしいことなのか。 僕は、嬉しくなって、周囲の OLさんにどん引きされつつもビールで酔っぱらい、アートスペースもバンドもたいへんだーっとか、ドバイはヤバイとか。楽しかった。
泊まらせてもらった日本家屋のホテルにて、くたばる前に「小学生のための日本万国博」(学研/1970)が何気なく置いてあるのを発見し、ついつい見入ってしまう。当時の人たちが如何に本気で万博を行い、子どもらとどんな未来を見ようかと考えたかが伝わってくる。
夢があるよ夢が!
夢をこうしてまたひとつ、離さない。

火曜日, 8月 28, 2007

金沢礼賛

朝湯を浴びて、朝食は加賀野菜のバイキングをもりもり食べた。じゃがいもが甘くて美味しい。加賀れんこんもやわらかくて美味しい。ご飯もおかわり。食べ過 ぎたくらいで、出発する。生憎の雨に見舞われつつ、巡回バスで兼六園へ。雨にけぶる庭園もまた乙なもの。散策をして、園内にある時雨亭でお茶と小さな金鍔 を頂く、手入れが行き届いた庭をゆっくり楽しんだ。
他に 大きな池の上にせり出して建てられた夕顔亭という食事処があったけど、ちょうどお休み。
雨が止んでくれたので、兼六園から近江町市場へ歩く。
市場は活気があって、見ているだけで楽しい。イカの黒漬けなどを求めた。回転してるけど根本的にネタの基礎レベルが違う寿司を堪能し、珈琲豆屋で煎れたてを店先で飲む。

今度はどこまで乗っても百円の小さな電気モーターらしき小型バスに乗って、兼六園の方向へ戻る。雨がまた降り始めていた。停留所から走って、21世紀美術 館に着く。ここも人が多くて賑やかだ。次回企画の日比野克彦の作品がはじまっていて、美術館の周囲を朝顔のツタが覆っていた。
企画展「我が文明」グレイソン・ペリーと「パッション・コンプレックス:オルブライト=ノックス美術館コレクション」を見る。リッチな空間で見る豊かな作品群。
グレイソン・ペリーはイメージを混沌とさせる妙があって、それはそのまま私的な問題と公的な問題の合いまった妙である。最初は、何故に坪に描くのか首をか しげていたが、だんだん坪を見回すのが、面倒ではなく、深く入りこめるようになってきた。ぐるりと見回すという時間は、読むことのようで、言葉をひとつに させていくようである。女装したペリーはクレアという名になって、新しいイメージを見出す。それまでわからなかった人生のイメージを。彼、彼女は人生を嘆 くが、捨ててはいない。

プールに、穴に、緑の門と、光の空、21世紀に僕らは時間いっぱいまで居て、ダッシュで六時半のバス停へ向かう。外は、夕方の金沢市。2007年の。

「人間性のレシピ」という作品に縫い込まれたペリーの詩。

人は死に、人は独りである
王座に神はなく
人はこの世の無秩序におかれる
人生の意味はその人しだい
下に地獄はなく、上に天国もない
この人生を生き、愛とともにあれ

http://www.kanazawa21.jp/
http://blog.livedoor.jp/air2005_kanabi/
 

月曜日, 8月 27, 2007

音楽が降りてくる夜

金沢へバスで一泊二日の旅。
35ミリのフィルムカメラを小脇に抱えて、リュックひとつに一眠りすれば、すぐに金沢だ。でも、ずっといろいろ話していた。バスの中で、僕らの小さな声だけがあった。
お昼、香林坊という金沢の中心街で降りて。賑わいのなかを歩く。wiki で読んだとおりに高級ブランドショップの路面店が多い。
ハントンライスという、オムライスみたいな金沢名物の洋食をレストランで食べた。見た目よりボリュームがあって、白身魚の肉が凝縮フライになっていて卵と 混ざって美味しい。明日ゆっくり見る予定の 21世紀美術館のほうへ小道を歩いて行く。書店で「そらあるき」という小さな町歩き本を購入。金沢の若いお店の人たちが作っているようで、地図が見やすく て実用性もありつつ、読み物なども充実しているしっかりした素敵な本だった。

通りに面したジャズバーの窓を「どんなのをやってるのかな」と覗いてみたら、遠藤ミチロウの写真が額に入れてあるのを見かけ、「おっ」と思ってたら、すぐ 横のチラシに「早川義夫、HONZI ライブ・音楽が降りてくる夜」とある。「何っ?!」しかも今夜ではないか!!興奮し、開店前の店に入る。チケットがまだありますかと訊くと、あるので求め る。すごい偶然なんですとオーナーのおじさんに話してしまった。ここは、以前にライブ記事で名前を見たことがある「もっきりや」だったのだ。
「がんばれチヨジ」だよ!と一人うるさくなってしまう。

一度、ホテルにチェックインしてから、ライブに向かうことにした。ホテルは温泉のあるところにして良かった。うーんごくらく。この後にライブもあるかと思 うと、楽しみが重なって嬉しい。旅先で偶然にも早川義夫に HONZI、雰囲気のいいジャズバー、ごにょごにょごにょ。ホテルの部屋にあった左内正史の写真が、なんでもなくて良かった。

もっきりやの壁に「この七つの文字」と「There three words」が見えた。高松次郎だ。その手前に大きなピアノがある。お客さんととても近い。僕らが着いた頃は、もう満席に近かった。ビールとウインナーを頼んだ。
以前、早川義夫のライブを見に行ったのは名古屋のクワトロで一人だった。サングラスにスーツ、MC は何も無く「どうもありがとう」だけを言っていたのを覚えている。
今夜のライブは、話しかけるだけの間合いの MCがあって、HONZI が入ってからは、もっと優しく歌っていた。HONZI とMCを交わすことがなくても、音と歌は向き合って、深く大きな広がりを生み、そのままにあった。僕らは息を飲み、手を叩いて、また息を飲んだ。身体をゆ すって、心をえぐり出して、奥底を見つめた。開いたそれは風と水と沈黙が抜ける音楽だった。コンクリートの堤防に上って、海の近い川沿いから夕方の空を前 にしている気持ちになった。それらは生き死にを共にしていて、惨めで残酷で、優しくてきれいだった。そのままの言葉と音楽、そのままの歌だった。

ライブが終わって、そういう気持ちを話せばよかったのに、僕は要らない余計なことを話してしまった。緊張のあまり、早口になって蛇足に落ち込むのが悪い癖で、これは僕自身の社会性や、表現能力に深く関わる問題の一端なのだと帰り道に思う。
でも早川さんに感動しましたと言えて、嬉しかった。
大切な人と、大切な歌を聴くことができて嬉しかった。
HONZI のソロCD を部屋で聴こうと盛り上がって歩いたが、プレイヤーだと思っていたのはテレビのチューナーだった。でもまた聴くことができる。
もっきりやにまた行こうと話すだろう。

http://www.soraaruki.com/
http://www.spacelan.ne.jp/~mokkiriya/
http://www15.ocn.ne.jp/~h440/
 

日曜日, 8月 26, 2007

蝉よさらば

物干竿の下にある
木製の白い台座の上で
抜け殻になっていたのを
発見した。
誰もいなくて、全てを終えたあとだった。
後日、あるなと思っていたのに、シャツを干してすぐに足を後ろにやったとき、バリリと踏んでしまった。
何も言わずに、箒でそれを履き、今夏はようやく秋に向かいつつある。

針路を決めよ。そなたは鉛筆で定めよ。
蝉よさらば。



土曜日, 8月 25, 2007

常滑焼きまつり

ガラスの向こうで、競艇用ボートが旋回を続けている。
回る回数は決められているだろうし、選手もそれを数えているだろう。けれども、ガラスのこちら側からは、あての無い運動にそれは見えた。
スタンド席で、焼きそばとどて焼きを食べた。案内の地図がわかりにくくて売店があることがわからず、屋台の出店で買ってしまった。ボートを目で追いかけながら、僕らの運動についてを話した。ここにガラスは見えない。無い。
これからはじまるレースのために、旋回運動はあったのだ。献血を断られたのは、あなたに倒れられてしまっては困るから。本末転倒だ。
競艇場で行われている「第41回 常滑焼きまつり」に行った。ここで既製品を買うのも本末転倒な気がする。でもいま欲しいという自信があるのなら、それでもいいというのも頷ける。促される 社会規範や、自己規制はときにリアルな本能を見失わさせる。昨晩 話していた「私的/公的」の問題はここにあるのだろうなと思い直す。
公的に用意されたまつりを、私的に楽しむ僕ら。交通安全を促すスーパーマリオのアニメに釘付けだ。大型工房での市もいいけど、若手作家コーナーに反応して しまう。またぶり返してきた陽射しの下で、テント出店しているのはすぐに汗だくだ。そんな姿も若く、それを選ぶお客さんらも若さに喜んでいた。「くさのう つわ」という陶器が素敵だったのを覚えている。

まつり会場を後にして まねき猫のレリーフ前を通り、散歩道のほうに出て、閉店間際のお店を物色。
そこで偶然通りかかった「rin」という大学の工房と併設したスペース前で谷澤氏にばったり。しかもいまから展覧会のオープニングパーティもあるというの で、それに参加することに。丹羽康博さんの個展「ひくとみちる」を見る。常滑に一ヶ月 滞在制作をしたもの。歩き回ったりして拾い集めたものを、見せるという仕事だった。ウレタンフォームで作られた石も拾ってきたそれだったのだが、僕はてっ きり作ったものだと思ってしまった。
貝殻のウェーブが奇麗だ。「ただ見せる」だけに徹しようとする仕事は進む切り口だと思った。
オープニングで肉じゃがなどをたくさん頂き、そこに居合わせた面々と話をした。秋に多くが参加する企画展があるらしく、元焼き釜のスペースや工房跡地を広く使うものになるらしい。
さっきまでいた常滑焼きまつりでの花火が打ち上がった。rin は高台にあるので、窓から花火を望むことができる。
駅に向かう間も、花火は続き、光の後はドンッという音が衝撃となって路地に響いていた。



http://www.toko.or.jp/maturi/maturi.html
http://blog.goo.ne.jp/tokonameyasuhiro
 

金曜日, 8月 24, 2007

冷凍庫の霜取りは、ほほえみの国への前夜祭のために

ほほえみの国に向かう御一行様の一名は、更にほほえみを求めていてどこまでも追いかけるんだとやって来た。崩壊寸前の雑居ビルにボロアパートは、それを聞いて自癒本能を発揮し出す。
寝起きに冷凍庫の霜取りをはじめた。内壁にこびりついた、食べることのできない氷を剥がしとるために、できるだけ少ないお湯と短い時間できれいにしたい。 大型鋏をコンロの火で熱してから壁との間に差し込んでみる「ファイヤーソード!」と叫んでみるが、敵にはあまり効果が無かった。加熱補助の無いかたちで も、鋏での執拗な攻撃が一番いいようだった。お湯を部分的にかけて、そこからじわじわガリガリやる。溶け出すものは、何かのメタファーであると思えた。何 かのメタファーになり得る作業であった。霜の固まりがボゴッと剥がれ落ちる瞬間は実に呆気ない。急所を刺す一発まで、冷凍庫の中身と、上に置いてあった電 子レンジに小物類をよそに動かしておき、コンセントを抜いていた。早くしないと冷蔵庫の中身が危ないぞと自分を急かす。剥がれ落ちた敵のボディの固まりを 台所のシンクに並べ、手に入れた経験値を勘定しているとき、久々に西山氏が部屋に訪れた。足下が濡れていると思うと告げた。

彼より地元のお土産を頂き、先日の絵画教室の報告、作品のコンセプトについてを話す。新しく出たばかりの「あいどんわなだい」(銀杏BOYZ/2007)を聴かせてもらう。ジャケに写るちひろちゃん(?)を見ていると、すぐに喉がカラカラになる。

今晩の会に、西山氏も誘ったが、夜に別件があるからと帰り、iTunes には銀杏が残った。
ほほえみの国への前夜祭は、ぶっちゃけ壮行会で、取り締まり対象。純粋な根拠としての彼氏彼女自作との関係性が、はじめて語られていたように思う。
ミュートで流しっぱなしにしていたのは「ラブ&ポップ」(監督,庵野秀明/三輪明日美/1998)。
ほほえみの国へ行くには。
冷凍庫の中に潜んでいた憎むべき霜を倒しても、そのメタファーを効果的に引用しなければ、それは表現にはならない。でも、手続きに終止するだけのものは、姑息に感じられる。どこまでも ほほえみを求める者は、それ故にぶっ倒れていたのだ。

http://www.youtube.com/watch?v=iG5bMLgN7j4
http://www.gainax.co.jp/anime/pop/index.html
 

木曜日, 8月 23, 2007

水曜日, 8月 22, 2007

いつまで待ちわびられているんだ?

「昨日は一日中、家にいたから今日は出かけよう。」
「せっかくの休みだから、美術館に行きましょう。」

ネットからプリントアウトした割引券分で、ナンバーズを買おうという提案を忘れた。
暑さは少し収まってきてくれていたが、公園の子どもが遊ぶ水場には 水が全く無かった。
その横を通り抜けて、名古屋市美術館でやっている 中村宏展「図画事件 1953-2007」を見た。サインの移り変わりを見てとり、引き込ませる動きに酔う。
それからずっと、甘い覚え書きと、噛み潰した苦虫の存在が交互に続いた。
書店で、出たばかりの森山大道のヌード写真集を手に取る。古屋誠一の、ヴァンジ彫刻庭園美術館で行われた展覧会の写真集も。

どれだけの時間を置いているのか。
僕たちが共有しているものを並べようとした。
それらは、みんな墓の中まで持って行くものだ。
光、色と、音、どこかで言葉に聞こえ。
たったいまも「僕たち」と呼んでいる。
「いつまで待ちわびられているんだ?」

http://zugajiken.jp/index.php
http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2007/nakamura/index.html
http://www.powershovelbooks.com/kagero/
http://www.vangi-museum.jp/002_kikaku/furuya.html
 

火曜日, 8月 21, 2007

シャンプー

猫の鬱をシャンプーした。彼女がいままで生きてきたうちで、二回目となる入浴だった。彼女は家のなかにずっといるので、突然の夕立に打たれたりしたような 経験がない。ビショビショになって浴室から出たが、すぐに日向でゴロゴロし始め、グルーミングを入念に行っていた。数時間後にはそこで飲み込みすぎた自ら の毛を吐き出すだろう。すぐに乾いて、ふっくらした毛並みに戻っていく。彼女の今日一日の仕事は終わった。
近づくと、美容院の香りと、仏壇に立てられた線香の匂いがする。シャンプーを選んできた僕のセンスが非難された。いろんなその他のことに比べたら、たわい もない失敗だったので、気軽に流した。行いが蓄積され、いまの顔をつくりあげている。今日もその一部である。寝ても覚めても、世界中で事件が起こってい る。猫の鬱がシャワーの勢いで抜け落とした毛は、排水口の毛止めに溜まって、指先で掴める大きさになっていた。

月曜日, 8月 20, 2007

火事

家族からの電話。誰か、芸能人が亡くなったよね? と訊かれるが、わからず。また改めて電話を返すと告げると、ちょうど真後ろで火事の通報を受け、向かう消防車が発進するところに出くわした。友人は俺も手 伝いますと自ら後ろの荷台に乗り込んだ。慌てて後を追いかけるが、見失う。
数十分後に、焼け跡に着いた。煙ではなく、湯気が立っていた。ありがとうごぜえますだと地元に住む老夫婦が寄りかかってきている。友人は何も言わなかっ た。おそらく彼が乗り込むとか乗り込まないとかやっていた数秒間のロスは、この消火活動に何らかの支障を与えていた。そう直感として感じてしまったから、 自分も何も言わなかった。この老夫婦たちは、燃え尽きた家の住人ではないようだし、この全焼ぶりは明らかだ。空港での事故も信じられないが、この顛末にも 絶句する。こういうときにフォローする言葉をかけても、それはフォローとして迎えられて、後始末をしている消防隊員らには、ずいぶん面倒な話に覚えられて しまうかもしれない。否応無しに、帰路は用意された。友人はようやく、こっちの車に乗り込んだ。いまは、あらゆるものが分担制である。彼の仕事は何だった か。彼の下の名前は何だったか。まぁ今はよそう。帰ってから、部屋でゆっくり話せばいいのだ。すぐに眠くなるのも予想されるが、今は話したくない。考えた くない。勝手なもんだ。友人の他は、皆 ただの野次馬だった。でも仕方ない。どちらが正しいとか振りかざして大きな声で威嚇している場合ではない。朝、起きてパソコンを点ける。山口小夜子が亡く なったことを知る。

私は、あなたのことがわからない。
それだけが不安。
それだけが動機。

日曜日, 8月 19, 2007

家族の物語

来年の為のミーティングで、十年ぶりに母校の美術室へ行った。
モチーフとか、設備とか、何も変わっていないように見えた。汗を拭いながら絵を描く高校生らも変わっていないと思った。
全ては目に焼き付いた残像なのかもしれないと思えたほどだ。

行き帰りの電車の中で「家族解散」(著,糸井重里/新潮社/1989)を読む。
傑作で、楽しい。
この前後あたりに「MOTHER」を作っていたのかと思うと、感慨もひとしお。
読み終えると、名古屋に着くまで熟睡してしまった。
名駅タカシマヤの書店で、久しぶりに雑誌「CONTINUE」(太田出版/2001-)を購入。表紙は綾波レイ、エヴァンゲリオン特集。新作前に、また見たい。

前々から、見たいと切望していた 映画を借りていた。
「極私的エロス・恋歌1974」(監督,原一男/1974)だ。
じっくり見る。
度肝を抜かれた。
愛故に殴り合い、惹かれて分かち合っていた。

並べてしまえば、どれも家族の物語だった。
家族は、最初で最後の場所だ。

http://www.ohtabooks.com/continue/index.shtml
http://docudocu.jp/movie.php?no=3
 

土曜日, 8月 18, 2007

その男、凶暴につき

うまく場を生かすことができない。テーマは続く。
地下鉄の駅から、家まで歩き倒す。

「その男、凶暴につき」(監督,北野武/ビートたけし、川上麻衣子/1989)をビデオで見た。とても後味が悪いが、つまらないのではなく、薄気味悪さに 震えたのだ。この美学は危険だ。川上麻衣子が可哀想だと、お芝居なのに思った。たけしは、どうしようもなくヤバい人だ。居合わせたくない危険人物。この徹 し方は、異様だ。

人から異様と思われるほど、語り倒し、このテーマは続く。

http://www.youtube.com/watch?v=1C2hTZ4RKhU
http://www.office-kitano.co.jp/contents/MOVIE/WORK/first.html
 

金曜日, 8月 17, 2007

Summer when something is requested.

いま、僕たちは、日本でいちばん暑い夏に生きてる。
この暑さに倒れぬよう、
逃げて。
これは天災と同じ。
まともに動くことができる暑さではないよ。
「死ぬ〜!」
とよく言うけれど。
冗談にならない。
これも地球温暖化のひとつなのでしょーか。そこらへんの見解を知りたし。
もう暑さで考えるのも億劫だ。
何か飲もう。何か食べよう。
何か見よう。何か聴こう。

http://www.youtube.com/watch?v=oE5LB3CkvVc
http://www.youtube.com/watch?v=gG47bDXoDcY
 

木曜日, 8月 16, 2007

幻の季節

お盆で帰省している 現在の先生の替わりに、午前中は絵画教室のピンチヒッターをした。防火と緑化のポスターを描く夏休みの宿題を見た。水彩で塗り進めるのは、ときに鬱陶しく 感じることもあるだろうと、色鉛筆やパステルの併用も提案する。消防車から吹き出す水は、これの白色で炎まで軌跡を描いてやれと。水は青色なんてしていな いぜと。
教室後、僕らの残してきた癖と仕事をフローリングの床に並べた。
陽射しは今日も恐ろしく強い。タオルケットを窓に重ねて、日除けを更に強くする。扇風機は部屋にいるあいだ、回しっぱなしだ。僕らは降りてきた山のことを話しながら、目の前にある海を見ていた。
握手をして別れる。夜道は火照ったままで、車が絶えないカーブを、閉店間際のジャスコまで歩いて、曽我部恵一の歌を呟いた。

「幻の季節」(曽我部恵一/2006)。
人参のスープとジンジャーと茄子の肉炒め、美味しかった。

http://www.youtube.com/watch?v=V4ImJ1i7ZMs&mode=related&search=

水曜日, 8月 15, 2007

終戦の日

言いたかった言葉は、いつまでも残る。
数日どころか、五、六十年経っても残っている。
言葉でなくても、伝えられることもたくさんあるが、やっぱり言いたかった。詩人でなくとも、人はそうだと思う。言葉は基であり、全てだ。
今日は終戦記念日だ。六十二年目の言葉が、古ぼけたものに聞こえぬよう、今どきの言い回しに迎合ばかりせぬように。
郡上おどり は「英霊を慰める」と言って、終戦日にも軍の中止命令を跳ね返して踊ったそうだ。だから今日も徹夜踊りをしているだろう。
お家から頂いた野菜を用いて、ゴーヤカレーを食べた。元気を出して、暑さを乗り切らねば。
録画しておいた戦争関連の番組を見た。
「鬼太郎が見た玉砕」(NHK/2007)は、とても良かった。滑稽なくらい悲惨な視点が、何の媚を売ることもなく語られていた。原作となった漫画も読もうと思う。
同じく NHK から録画しておいた歌番組にて、元ちとせが広島の原爆ドーム前から歌う企画があり、その曲は坂本龍一と手がけた「死んだ女の子」だった。高石友也も歌って いた、トルコの詩人 ナジム・ヒクメットが広島で死んだ女の子のことを書いた詩「KIZ COCUGU」(1956)を歌にしたものだ。原題は「小さな女の子」らしいが、「死んだ女の子」という訳は強くて惹き付けられる。読み上げる度に、口元 がヒクつくような鋭さを持っているのが、この詩の凄みだ。
そして、歌も良かったが、坂本龍一が NYのグラウンド・ゼロの前で挨拶をしていて、WTC より大きなビルの建設が決まったというここに鳴り響いている工事の音がうるさく、この音は希望の音なのかと問いかけ、「僕には復讐の音に聞こえてしまう」 と言っていたのが良かった。
広島、長崎の グラウンド・ゼロ はそう呼ばないようにされていく。
誰も望んでいないことが続いている。
いくらニュースが速く届いても、誰が酷いか分かったとしても。
動かせなければ同じになってしまう。

http://www.nhk.or.jp/nagoya/kitaro/
http://www.youtube.com/watch?v=EmsRNQ57f1M
http://www.geocities.jp/livanelistkyj/hikmet.html
 

火曜日, 8月 14, 2007

白鳥おどり

友だちのお家にお泊まりで、はじめて岐阜県の郡上、白鳥おどりへ行った。
郡上八幡と白鳥という二つの地域でやっているらしく、白鳥おどりのほうがテンポが速くて若者向けらしい。友だちは白鳥の出身なので、そこへ向かうことができた。
浴衣と下駄に決め込んだ面々で向かうと、駅前からの一本の道に輪ができている。山車のようなやぐらが出ていて、上には複数の奏者が太鼓と三味線、そして踊 りの唄を歌い上げる浴衣のおじさんと兄ちゃんがいた。誰が入ってもよく、うまい下手で下ろされることもない。「シッチョイ」、「源助さん」「猫の手」「神 代(ドッコイサ)」と、踊りの種類は幾つかあり、やぐらに取り付けられている表示板に次の踊りが示されている。
輪に入って、見よう見まねでテンポに合わせて踊っていると、なんとか合わせられるようになってくる。延々と踊りのハイを味わっているうちに、曲が変わって しまい、またヨタヨタとなってしまう。友だちはすぐに身体が反応して、次の踊りに入っていた。僕らもその後ろについていく。輪をつくっているのは、地元の 見知った顔ばかりらしい。踊りの節に唄われる言葉は祈りの内容であるように聞こえた。歯切れ良く、小気味良い。はじめは、唄い手が即興で作っているのかと 思い、その滑らかさを堪能していた。
訊ねると、歌詞は決まっているそうで、聞いていればいつ終わるかが分かるそうだ。何度も何度も繰り返す踊りに、トランス状態になっても苦しくならないのは、前へ前へと進んで行く歌詞があるからだと思えた。繰り返す主旋律の奥で進行するメロディの構造だ。
この輪はいつまでも続く。
踊ることで、祭りがあった。勝ち負けを決めるものでも、見せ物でもない。
伝承される節には、ギトギトした添加物など入っていない。
朝の三時まで踊る。



http://senshohamada.hp.infoseek.co.jp/minyou/minnyou-sirotoriodori.
 

月曜日, 8月 13, 2007

導入不足のゲド戦記

昨日に引き続き、今日も一日中 掃除。またこれも昨日に引き続き、モスバーガーに焦がれつつ、スーパーで おつとめ品のパンを買った。一人でモスバーガーを買いに行くという行為がどうも勿体なく思えて仕方ない。外で食べに行く機会に取っておく貧乏性。

掃除が一段落したところで 晩に、レンタルで「ゲド戦記」(監督,宮崎吾朗/声,岡田准一、手嶌葵/2006)を見た。
映画公開時に周囲の感想などを聞いていたので、それに振り回されないように見ようと思ったが、周囲の感想に納得してしまった。全くグッと来ず、消化不良で 終わった。肩に力が入っていて、理屈のみで伝えようとしている。原作はファンタジーの名作で、扱おうとしている題材は魅力のあるものだと思う。
しかし冒頭のシーンが呆気なさ過ぎて、ファンタジーの世界に引き込まれていくことができなかった。それから続く魅力ある要素の連続に、ぞくぞくすることができない。既にどこかで見知った物語の類似品に思え、それらは劣化コピーで、白々しい。
問題は、導入不足だ。ついていくことができないのは、マニアック路線で行くならそれでもいいとは思うが、おそらくこの映画は広くやろうとしているだろう。 「宮崎駿の妄想ノート」(大日本絵画/1984-1990)を思い出す。マニア雑誌に連載されたそれは軍事マニアっぷり全開で、導入など知ったことではな かった。その徹底が逆に引き込む要素であったりした。宮崎駿の映画は己のマニア熱をうまく調整して、一般に広く受け入れられるように、それでも媚を売るわ けではなく上質に昇華している。その舵取りの良さこそが、宮崎駿のプロとしての凄さなのだと思う。やはり比べてしまっているのだが、比べらても仕方ない作 品だと思う。
数日前に、ビデオ屋で「ゲドを読む」(スタジオジブリ/2007)という文庫本のフリーペーパーを手に取っていた。これは宣伝パンフなのだが、監修が糸井 重里で、ブックデザインが佐藤可士和、執筆陣も中沢新一や河合隼雄など凄い。内容は薄い感触もあるが、この宣伝としての導入はとても巧みだと思う。
「ゲド戦記というのは今回の映画で判断がくだされるような代物ではなく、あれはあくまで一パターン、原作は偉大なんだよ」と言っているように読んだ。糸井重里と言えば、「導入」を仕事としたプロ中のプロではないか。

http://club.buenavista.jp/ghibli/special/ged/about.jsp

日曜日, 8月 12, 2007

暑さを共有したい

一日中 部屋の掃除。模様替えをしたくて考え込む。暑さにやられて、料理をするのも億劫になり、モスバーガーでも食べたいと出かけるが、勿体ない気がしてドラッグ ストアでパンや廉価菓子を買って済ます。食べながら頭のなかではモスバーガーのことを考えている。生活食料品を買うときに、自分でも怖いくらに迷って、店 内を行ったり来たりしてしまう。不審な客と思われていることだろう。家政婦の猫村さんのように うまい買い物を目指すが故だ。買い物ひとつにもコンセプトが重要である。いや、買い物とはコンセプトと向き合うことである。

昨晩に引き続き、second life で話し込む。音声チャットを試すが、まだ動きが鈍いので止める。
試したことで、テキストチャットのほうが良いなと思った。相手を読むということが、コミュニケーションにはあると仮定する。
second life もリアルも、総じて現実だ。
人と人が向き合うとき、それはあるだろう。こうした日記を読んで誰かと向き合うように。

土曜日, 8月 11, 2007

銀と黒の私は、大きく見せる天才です

もう吹っ切れて
取り返すべきもののために走るように
冷静で適切な助言を聞いて
朝のうちに勤めを終え
無人駅でブラジル人と親子連れに挟まれ
だらだらと汗を流しながら
スーツのズボンが冬ものなのを悔い、ペットボトルの水を飲み干す。
ズボンよりも悔いているものは!

格好をつけるのが、裏打ちされているのがいい。
格好よくなりたいと仕事をするのがいい。

ハルカリ氏に感謝。決めたら早い。ここからはじめるのだ。Mid 2007 (MA876J/A) 求める。移項と共有を終え、ある意味で終わった。
ああだこうだと思案すべきことはまたどんどん湧き上がる。
行けよ。
本棚の部屋から。

金曜日, 8月 10, 2007

呼びかけられた人は、呼びかけた人を見る

スタッフ参加した伊藤氏とそのままか帰って爆睡。まさしく 眠っていいとも してしまった。暑さに目が覚める。夢のなかで いいとものテロップサウンドが鳴っていた。

ウエストベスコヅカで中野克俊さんの個展を見る。
目に見えないだけで、人は擬態しているようなもの。それをアーティストは見えているんだというわけではなく、見ようとしているというのが作品だった。帰りにそんな青いことを思い返す。いや、マジな話。
人形たちはどこを見ているのだろうか。自らの擬態には気づいていない、知ろうともしていないようにどこかを見ている。ほんとうは、ここはいつでも、どこでもない。

帰って、録画しておいた「ぼくらの」(GONZO/2007-)を見た。
病んでいるとか、悲しいとか、一人であまり言うとそれでどうでもよくなって吸収されてしまうんだなと思った。
嘆く顔で叫んでいても、それは一人言に思われたらそれまで。
ぼそぼそと聞こえなくても、それが響く言葉であることもある。

http://www.japan-net.ne.jp/~shouken/
http://bokurano.jp/
 

木曜日, 8月 09, 2007

眠っていいとも!

転げても、震えても、読み上げても、もういっちょ!

昼には うんずステーション入り。
零時からの番組「山田 KOアワー 眠っていいとも!」。
テレフォンショッキングに、コーナーは眠談。CM は熱田神宮会館。
あっという間の三十分。生放送はたいへんで楽しい。
全体のエンディング間際に古池さんとの即興ヤクザ寸劇。
うんずステーションのキャスト、スタッフの皆様に感謝。
放送をご覧いただいた皆様、ありがとうございました。
後日、また録画したものを掲載します。
改めて、放送というものは面白いと感じた。

水曜日, 8月 08, 2007

0809深夜!インターネット・ストリーミングライブ TV・うんずステーション!夏休みスペシャル!

information です。
急ですが、明日(8/9)の深夜(日付上は 8/10)に web上でのストリーミングライブ放送に参加します。


「うんずステーション6時間生スペシャル」内 番組

日時・2007年 8月10日(金)早朝 0:00〜0:30(生放送の為、少し時間が前後する場合があります)
視聴方法・http://www.nzu.ac.jp/%7Esouzou/LIVE/live.html
にて視聴可。無料。
※Mac での視聴は、ブラウザ Safari を使用して下さい。要 Real player。
※サーバーが混み合ったとき、接続しにくい場合があります。

「うんずステーション」の全体は、8月9日(木)の、21:00〜 翌朝3:00 の6時間生放送で、様々な番組が企画されています!
その中での一番組に参加します。番組名、内容は放送までのお楽しみ!


自分がすべき仕事を考える日。
たくさんの声を頂き、ありがたく、省みる。深呼吸。

火曜日, 8月 07, 2007

独り夕暮れ族

今年の八月は実に八月らしい気がする。ここのところ毎日、かんかん照りだ。
辿り着いた先の、駅前のブックオフはショボかった。帰りにはカレーを食べ、放心状態で、窓から空を眺めていた。
そしてまた単線を乗り継ぎに、屋外へ出た。

「夕暮まで」(著,吉行淳之介/1978)を読み終え、その綿密でねっとりとした場面の連続に酔う。
自らの口の中で、
「厄介なことになったな」と
「厭ねぇ」
を繰り返し呟く。

月曜日, 8月 06, 2007

62年前の今日

ば、彼らは都合良く許していってしまうだろう。
炎天下を歩きながら、62年前に人々を引き裂いたものを考えた。
いまの僕らと何も変わらぬものが、散り散りになってしまった。
戦後の今日が、戦前の今日にならぬように。
全ては解釈によって、たやすくはじまる。

日曜日, 8月 05, 2007

強い日にうだる

お中元解体セールにて買ったキムチラーメン。静岡のスーパーでワゴン売りされていたパインのシリアル。どちらも五十円也。強い日にうだる。いろんなものを 奪う暑さ。牛乳と CCレモンと米を買い、今夏はちゃんと食べる。安くても足りなくてはだめ。吉行淳之介 読む。半分ほど。

土曜日, 8月 04, 2007

時間が惜しくなり途中退場する

ほとんど寝ていないという昨晩の面子らと、愛知芸文センターでやっている「アート・アニメーションフェスティバル」を見に行った。だが、プログラムの確認を怠ってしまっていて、今日は以前に見た作品と重複が多かった。時間が惜しくなり途中退場する。
喫茶ユリの後に、アートフェチで近藤さん、渡辺氏らの個展を見る。「clipping」とは、視点がテーマになってくる絵画だった。実際に見ているものか、見ていたものか、見ようとするものか。

http://www.aac.pref.aichi.jp/bunjyo/jishyu/2007/animation/index.html
http://artfeti.main.jp/EXHIBITION.html
 

金曜日, 8月 03, 2007

ようやくのようやくで

車を返して、自転車乗って、ようやくのようやくで幾つかの打ち合わせ。
胃が小さくなったみたい。
岩倉ガストのドリンクバーですぐに飲めなくなった。閃きや想像力もいまいち震わないが、それでも仕切り直して、繋がるように考える。
部屋の仕切りは外して、風通しをよくした。猫の鬱が嬉しそうに転がりだした。
鬱の胃袋も小さくなったのか、静岡に出ていた日数分と盛っておいたキャットフードを残していたから。
晩は、ノリクンも来て先生のお土産を囲んでの飲み会。
ホッケが美味しい。伊藤氏らと上機嫌。
墓場の鬼太郎から美術収集家についてと、浮かれた話。

木曜日, 8月 02, 2007

朝と夜、静岡にて

昨日の朝ーーーー
目が覚めると安堵に包まれ、富士山麓のガストでドラえもんホテルと千円札を二枚拾う。突き返される期限付きの海老煎餅は僕のものではないが、いま拾ったよ うに僕が扱える代物と化していった。次から次へと人に会い、現状調査を重ねる毎に優しくなっていく。一人ではこうはいかない。

昨日の晩ーーーー
閉場間際の砂浜で、時間いっぱいまで海に入っているサーファーらを見ていた。立て続けで車中泊は辛いから、民宿で素泊まりをする。地元の居酒屋で酒は飲ま ず料理だけ。昼に続けてお刺身。遅くまでやっているスーパーで静岡産の食材を買う。クリームを挟んだどら焼きがとても美味しかった。テレビで阿久悠が亡く なったことを知る。

今日の朝、昼ーーーー
早々に仕事を終えて、御前崎から遊泳禁止の砂丘を回る。
地図帳で見つけた「ねむの木こども美術館」へ着いたが、それは以前の場所だった。北上し、掛川市の「ねむの木村」へ。森の中に立つ美術館は美しく、地面か ら生えているよう。建築家 藤森照信のよる通称「どんぐり」。そのなかは温かい白で、絵は四季と愛情の色を持っていた。その広がりのある色を見ていると、四季だと呼びたくなる。気持 ちを露にしながら、整いのある構えだ。
続けて、村内にある「吉行淳之介文学館」へ。横に並べられた赤と黒の椅子を見た。愛用の机と椅子にモビールが、渋くも愛嬌のある男を垣間見させた。

そして今日の夕方と夜ーーーー
愛知に急行し、用事の後、蒲郡で温泉に入る。男と女は互いの人生を懸けて理想を具現するのだなと思う。
サウナにテレビが無いのが良くて、落ち着くことができた。
高速のサービスエリアでカレーを食う。
降りると、台風の風を感じる。見知った町を走る。
翌朝レンタカーを返す為に、ガソリンを入れたり、車内を掃除したりする。
落ちるように深く寝た。







http://www.nemunoki.or.jp/
 

水曜日, 8月 01, 2007

どんぶりくん

蕎麦を食べたのは昨日、今日は清水港で海鮮ものをと市場へ行くが、あいにくの定休日で市場の建物が閉まっていた。
だが、駐車場の脇隅のトイレ奥から 地元のサラリーマンや漁師らが出入りするのを見つけた。壁に手書きで「どんぶりくん」と店名がある。これは行かねば!

入るなり、おばちゃんがまくしたててくる。
「そこカウンター、入り口だから座れないから、空いてるとこに座って!」
「下の白い紙のメニューはすぐ出来る。上の色が付いた紙のメニューは時間かかるよ。」
「言って!言って!」

店内はおじさんらで満席。給仕のおばちゃん、調理と会計係のおばちゃん、カウンター前で洗い物をするおばちゃん、Tシャツにキャップで調理をする小太りの おっちゃんがせわしなく動いている。給仕のおばちゃんが「言って!」と急かすのは注文だが、要求しながらも我々の近くにはおらず、別のお客さんに提供をを しながら聞いている。
恐る恐る大きな声で言うと、注文が通った。
「バチにシラスひとつずつー!」
おばちゃんの大きな声。バチマグロ定食と、シラス丼。どちらも下段に並ぶ、早くできるというもの。よく出ているだろうから、これらが一番ベストだろう。
しかしメニューをよく見ると、シラス定食という類似した料理があったり、海鮮ものに混じってハンバーグ定食や、カレーライスまである。どんぶりくんと言っているわりには丼が少ない。
と思っていたら、中年のサラリーマンが、上の段にあるコロッケカレーを頼んだ。
「コロッケカレー、時間かかるよ!」
おばちゃんの声色が強くなった。
「コロッケするのー?」
台所から おっちゃんが聞いてくる。フライパンに油を入れる手前で止めながらだ。
客は注文を変えた。
「コロッケしないよー!」

バチマグロ定食は人気だ。それからバチの連呼だった。
「バチなくなったよー!」
慌てて、おばちゃんがバチマグロの紙を外す。しかしそれからすぐして別の客に、
「バチのこりひとつで終わりねー」
と提供していた。先にバチを注文した客には行かず、後注文の客に出してしまっていた。おばちゃんは威勢良く動き回っているから、凄いのかと思いきや・・。
さっきから皿が足りないという声が聞こえる。カウンター前のおばちゃんは無言でせっせと洗っている。食器洗浄機など無いので、たいへんそうだ。いや、食器が足りなさ過ぎるのだろう。一つのメニューには小鉢がたくさん並べられている。
「バチ!バチ!」
と言う声のなか、食べたバチマグロとシラス丼は実に美味しい。シラスは山盛りで、イクラと相性も良く、バチマグロは脂がのっていた。
「言って!言って!」
「カキフライ時間かかるよー!」
途中、入ってきながら止めると出ていった客がまた入ってくるという迷惑な展開があり、追い返しているような場面も。
しかしいや、本当に美味しいので、この状況も活気なのだ。
調理補助のおばちゃんがホールに出てきたりと、次から次へと限界ギリギリのオペレーションが続いていた。
食べ終えて会計を済ましたとき、僕は気付かなかったのだが、壁には おばちゃんたちが富士高原で笑う爽やかな記念写真が飾ってあったという。

店を出てからも、頭から「バチ!」が離れなかった。

火曜日, 7月 31, 2007

車のなかで

静岡にて車中泊。
樹海はもうすぐ、なんていやだが、何かをケチったわけではなく、どこかで取り組みたかったんだ。窓を開けて夜風を入れて、星を見ていた。森の向こうに高速 道路が走っているようで、空が薄明るい。山奥なのに残念だ。木製のサッカー台で遊んだのは一年前以来、僕たちは山のふもとで寝る。カーナビは何も言わな い。

月曜日, 7月 30, 2007

大きな岐路

祭りのあと、テレビをつけて驚いた。
自民がこんなに負けているのをはじめて見た。
負ける要素はたっぷりあったので、やはりなと思いながらも、こいつはすごい。総理は続投を宣言したが、厳しいはず。あの選挙は大きな岐路だったと語られるようになるか?!
逆に何も変わらなければ、国民の選挙離れが更におこってしまうのではないかとテレビで懸念されていたが。
目が離せない~。こ、こいつはまるでゲーム?

日曜日, 7月 29, 2007

おいでん

美術館を出たあと、豊田駅にて「豊田おいでん祭り」で踊り回っているのを見た。
おいでん みりん おーどろーまい
が 18年間エンドレス。
人ごみのさなか、伊藤氏と合流し 踊らずやビール頂く。
それが土曜の夜。サッカーの歯痒い負けを惜しむ。(シャレではない)
日曜は面子が随時入れ替わりつつ、バケツのパフェや植物園に足漕ぎボートで周遊した。
そうしてまた戻ってきて、おいでん祭りの花火大会へ。人の多さは昨夜の比ではないくらい賑わっていた。それでも近くで、すごく大きい打ち上げ花火だ。視界は花火ひとつになる。
ドン!ドン!と響く。
最後のスターマインは空が真っ白だ。拍手喝采。見上げる人々の顔も、パッと照らされた。

土曜日, 7月 28, 2007

ここは宇宙の中だから、宇宙を見ることができない

豊田へ。
松澤宥をめぐる常設特別展「宇宙御絵図」と、その関連企画の鼎談を見た。
河原温の「百万年 未来」(1980-95)があった。
同じ部屋に北山義夫。
高い壁には滅亡を掲げる松澤宥の言葉。
「宇宙見えず」という確信は、宇宙を描かせる。

鼎談では「プサイの部屋と私」という題で、松澤宥の生家にあるという、それ自体が作品のような部屋を中心に語られる会だったが、段取りより気持ちが先行している展開で、なんだかついていけず、前半 寝てしまった。こういったトークイベントなどは、あまりに司会者が紋切り型な方向に持っていったり、まとまりが無くても辛い。だいたいは、終わりが近づくに連れ体裁が整ってくる。その空気が生イベントの面白さだが。
写真家の安齊重男さんが「シビアな地点で笑いが出せる表現者は凄い」と言っていた話が良かった。

http://www.museum.toyota.aichi.jp/japanese/exhibition/uchu/index.html

金曜日, 7月 27, 2007

憤慨しても叫ばない

横に座ってきた男は小太りで、このくそ暑いのに厚手のネルシャツを着ていて、猛烈に臭かった。
こらえきれずに途中下車をして逃げる。
息苦しくて、気持ち悪く、まだ臭いが残っていて、なんなんだ。
バス停の名前は変更されていたのに、何の案内も無く不親切だったのも酷い。
こんなこと、短絡的なものなのだけれど、もっと憤慨すべきことが数多くあるのだけれど、参ってしまった。
もっと憤慨すべきことは、テレビが伝えてくれる。テレビの中はそんなことばかり。
道端では選挙ポスターの列が、強い陽射しを照り返していた。

木曜日, 7月 26, 2007

いまは奇跡で、できている。

僕は綴る紙を選んだ。
はかない顔にならぬよう
それをつなぎとめるよう。
詩はこれから溢れ、優しさと恐怖は反作用をし合って、何もバイアスをかけなくなるように。
夢がそれだけになったとき、輝きは力になって、見るものになるだろう。
 

水曜日, 7月 25, 2007

負けてしまった

負けて悔しい。冷静になれるかどうかも実力なんだな。暑くて、頭がおかしくなって、大負けをした。ここから行くしかなく。這い上がるしかない。どうして負けたかを省みなければ、これは続く。悔しさをバネにするのは、がむしゃらにもがくことだけではない。なんとか プット・アウトを。そこに実力を。

火曜日, 7月 24, 2007

無花果の天ぷらと一耕

鰻を求めて、辿り着いたのは 無花果の天ぷら。
塩で食べるというのが美味だ。
ミネラル粉末、さらりと溶ける。
言葉も静かになる。
その部屋に行けば、そうなるもの。
帰ってから、ヤングに「一耕」を持って行く。
0079 を見んかいと絡み付いてしまった。0087 生まれなんだから知らないのも仕方ないんだけれど。
それでガンダムを語るなっ!ともなる。
プラモ欲しさに小学生が圧死してしまったというくらいだから・・・。
圧死はせぬよう、息吹き込む。
一番 難しくて、一番 面白いことを続け得るんだ。

月曜日, 7月 23, 2007

付くことであらわれる場

連句において、先の句を受けて繋げることを「付く」と言う。イメージをどう引き伸ばすか、あるいは真逆に返していくのか「付く」ことは重要である。他者の句をどう読むかが試される。
連詩として展開したとき、この要素は「詩は誰に向けて書かれ、はたしてそのように読まれているのか」という現代的な課題を露にするのだった。
「連詩の愉しみ」(著,大岡信/岩波新書/1991)にそうあった。
そして連詩は、皆で一つのテーブルを囲み、長い時間をかけて綴り合うらしい。その場では、詩とは閉じられた孤独空間で書くものだという牙城が破壊される。
個がその極地から あらわれるのだ。
最終章に書かれた「自由な創造性交換の場」という小見出しがいい!

日曜日, 7月 22, 2007

リアルを探して

昨晩、一点入れられたその二分後に、すぐ入れ返した高原のシュートに震えた。PK 戦は見ないというオシムの哲学にも。

それから、映画作家 河瀬直美の対談ドキュメント「リアルを探して」(NHK/1997)を見て、そのうちに寝てしまった。
起きてから続きを見る。原一男、福田克彦、庵野秀明らとの対談。
何度 見ても新鮮な対談だと感じる。予定調和では決してない、向き合うことによって探りだしていく真っ直ぐな対談だ。
続けて同じく河瀬直美を取材したドキュメント「生きたいから撮る」(NHK/2002)と、今年、カンヌ受賞後にスタジオパークに出ていた回の録画を見た。
取材に答える姿を通して、生きる時間によって培われていくものがあった。
次は映画を通して、人のそれを見つめたい。

夕食にはチャーハンをつくった。昨晩のカレーをつくるときに余った野菜を用いて、サッとモグモグ。
少し外を歩いて、さあ探しに行こうと背伸びをした。

土曜日, 7月 21, 2007

Lights in the Dusk

バジルのスパゲッティで体内を殺菌。書店を巡って、読欲を再構成。
千種から今池では、いつも背筋を伸ばす気持ちになる。

シネマテークでお昼のプログラムを鑑賞した。
「街のあかり」(原題, Lights in the Dusk/監督, アキ・カウリスマキ/2006)。
かくもどうしてこう男は愚かなのか。
女は優しい。
男は朽ち果て続けるのを、ただずっと黙っているだけ。
女は賢く、生きようとする。
生きさせようとする。
ようやく、最後に、男は死なないとは言った。
「ここでは死なない」。
北欧の渇いた町並みと風に吹かれ、男は煙草を吹かすだけ。女も常に吸う。
天才と野良犬は、紙一重の男達は殴り、許し合うことのないまま。もし殺しがうまく行っていたら、男は更にどん底だったのであるから、男は何も分かっておらず。
・・・原題の「薄明かりの中の光り」で呼びたい。
カウリスマキの言葉は、本当にそのままの姿で示されているから。
小洒落た装飾や、隠喩ではない。

帰宅してカレーつくる。自転車でひとっ走りしてエビスビールを買ってくる。
猫の鬱の餌を切らしたので、コンビニで猫缶も買う。
映画のように、黙ろうと思ったが、私は煙草を吸わない。

http://www.machino-akari.com/

金曜日, 7月 20, 2007

選挙から

原発を、やめること。
選挙で誰もそんなことは言っていない。
各党の政見放送を見ていたら、党員一言紹介や、Q&A形式の寸劇など、お遊びパフォーマンスだった。良い事しか言わないのだから。
レースとしては面白いが、まるで家電製品の競合みたいに思えてきてしまう。

本当にこの選挙が大きな岐路になるのか?

木曜日, 7月 19, 2007

原発など

原発を、やめることはできないのか。
電気の使用量を制限するようなことをしたら、経済は滞ってしまう。
それでも国が止めねば、止める手だてはないと思う。
今回の地震で、完全にセーフティな原発施設など無いことが明らかになった。
これから大丈夫ですよということが貫かれて、ほとぼりが冷めれば、誰も騒がなくなるのだろう。
恐ろしい。
なんなんだこの有り様は・・・。

水曜日, 7月 18, 2007

家に帰れ

この建物は残り三分で爆発しますと警告が流れても、なんとか脱出できるのが SFものの常で、そのように、どんな山奥からも帰ってきた。バスは四十分後に来ると書いてある。コンクリのブロックに腰掛けて、自動車の排気ガスをまともにくらう低さに顔をやり、呆れ果てていた。バスが迎えに来てくれて、今日は打ち止めだ。いつか帰れなくなるときがあるのかと想像しても、車両に乗り込んでしまうと後は何も見えない。建物も過ぎ行く風景に過ぎなくなる。落下するコロニーは宇宙の塵と化す。乗組員全員が脱出できた。有害な未知の生命体をコロニーごと吹き飛ばすことができた。そんな設定で、今日もやれたわけか。山奥から山奥へ、なんとか家に着く。嫌いな番組は「田舎に泊まろう」(テレビ東京/2003-)。仕込みか何か知らないが、田舎でも息倒れはあるぜ。「田舎に泊まろうとしてのたれ死のう」とか「漫喫に泊まろう」という肉迫したドキュメントが見たい。芸能人が田舎から去るとき、コロニーは落ちた。ロケバスは現実に帰る。帰る先には、ロリヲタやチーマーや援交ギャルや天下り官僚が生き延びている。とても元気だ。顔が青白い。田舎こそ閉鎖的。わざわざ田舎に泊まりに行くな。家に帰れ。家に。

火曜日, 7月 17, 2007

古書センターと構造体

「古書センター」という名前は、どうも公的な響きがある。民間のチェーン店なのだろうけど、出先で見つけると ついつい寄ってしまう。黄色と青のチェーン店より硬派な品揃えだ。ワゴンセールのような掘り出し物はあまりないけど。
雨に降られたあと、じっくり物色。

それから広場にあった構造体。
時間ギリギリに通り過ぎた町並みと、見上げてた。
「古書センター」からはしごをしていた。

月曜日, 7月 16, 2007

artificial paradise

橋を渡れば、あつらえた楽園。
帰りには何も言わない。
メメクラゲに刺された後にだけ、本当のことを言った。不利になっても話したかった。
夢に見そうなくらい、憧れた暮らし。庭いじりをして、風呂場で足を伸ばす。
砂浜では場違いながら、行き交う子犬を追いかける。
ホームに並ぶ僕たちへ、笑い返してくれた。
僕らは廃墟をも待つだろう。
帰りも、同じ橋を渡ったのだ。

日曜日, 7月 15, 2007

ヤーチャイカ

NHK教育で ETV特集「いのちをうたう言葉 ~詩人 谷川俊太郎・覚和歌子~」を見た。
スチルカメラの画像と詩の朗読による新しい映画制作を中心に、二人の詩人を追って行く番組だった。
覚和歌子の詩「ヤーチャイカ」を原題に、映画は構成される。「ヤーチャイカ」とはお囃子か何かかなと思っていたら、1963年に人類で初めての宇宙に飛んだ女性飛行士 テレシコワが宇宙船から通信時に言った言葉で、ロシア語で「私はカモメ」になる。これはテレシコワのコールサインが「チャイカ(カモメ)」だったので、宇宙からの第一声が「ヤー(私は)チャイカ」になったものだという。詩人はこの言葉を受けて綴っていたのだった。
テレビ画面はそのエピソードを説明する際に、当時の宇宙からの映像を流した。
二人の詩人の仕事には、様々な課題が存在していて多くの感想を持ったが、テレシコワの映像が持つ 言葉の存在感に圧倒されてしまった。
空の上から「ヤーチャイカ」と言う声、荒れた通信画像のマッチングは強靭な映像詩だと見えたのだ。

http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2007/0715.html

http://www.youtube.com/watch?v=iBvl9qI81-o&mode=related&search=

土曜日, 7月 14, 2007

alternative space artfeti

アートフェチで伊藤文さんの個展「Island of wrist」と、加藤優一さんの個展「曖昧な記録」を鑑賞。
一階は伊藤さんの個展で、小鳥が踊る"ように見える" 作品が豊かなイメージを内包していた。ここでの "ように見える" が重要なテーマだと思う。イメージのはじまりがそのままある。小鳥への視線がそのまま。
加藤さんの個展は、絵画と立体による静かな構成。封印されたうごめきが、向こう側で光っているのを見た。

オルタナティヴスペースで複数の展覧会を同時開催するというのは大変だろうけど、見る方としては楽しい。場自体が元気な印象を受ける。
近くにメイドカフェも出来ていたので、サブカルスポットとして盛り上がるよと冗談混じりのマジを言った。

http://artfeti.main.jp/EXHIBITION.html#next01

金曜日, 7月 13, 2007

ポテシュート

日本のサッカーには、良くも悪くも「キャプテン翼」(作,高橋陽一/1981-)の影響で、ゴールとは、ドライブシュートやタイガーシュートのようにパワーで決めるんだという深層心理が根付いてしまっているのではないか。

昨晩放送されていた U20 日本×チェコでの PK戦で、ラストに決められたシュートは、地面を転がるポテシュートだった。実際には高度な技巧や速度がかかっているのだろうが、テレビ画面で見る限りはポテシュートだ。
緊張感で力んでいるキーパーに対して、コロコロとボールは入って行く。
その瞬間に実力と余裕の違いを感じるのだ。

今晩は日本代表が戦うアジアカップ、日本×アラブ(UAE)の試合があった。
試合後半、中村俊輔がゴール際の接戦で放ったポテシュートに感動した。
惜しくもキーパーが止めたけれど、いままでの日本戦での瀬戸際はどこかに強く蹴りだしてしまうような、そんなイメージが強い。
周囲に囲まれながら、速い動きの中で焦らずにポテシュートを出していくのは至難の技だろう。
どうしても強く押し込みたくなる気がする。
ポテシュートの後に解説は「キーパーを誉めてあげたいくらいですね」と言った。
その中村俊輔は、フリーキックでがっちりシュートも決めている。
高原のシュートも華麗だった。
試合には勝ったが、UAE の執念も恐るべしであった。

キャプ翼で、ポテシュートで決まるゴールはあるのだろうか?
ポテシュートを放てるかどうかで、深みがまったく違う。

http://annex.s-manga.net/tsubasa/index.html

木曜日, 7月 12, 2007

豪雨と人

日中、瞬時にダークアウト。
豪雨が地面を叩きつけた。
それは何かの罰のごとく。
世界の終わりはこれが隕石か。
いや、雨でも止まなければ脅威だ。
町並みごと転覆だ。
選挙や、大学や、将来や、地デジも。
それだけさらして、屋内へ居残ることができるか。
正当化する思考など、原始人にはあったのか。
こんな豪雨に見舞われたときに、避けようとはしただろう。
知恵は自らを守り、前に進ませるものだ。
原始人に知恵の概念が育まれたとき、
原始人が終わったのではないか。

水曜日, 7月 11, 2007

プシャーン

グリーンに漬けられた鴨は決して怯えていない。
堂々と東の国で差し出した。その身を。
飛行機ではなく船でやってきた。
時間ばかりあって、お金が無かったから。
その間ずっとグリーンのなかで、
ぽこぽこと気泡を出しながら
国があるということを思い浮かべていた。
鴨には国をイメージするのがたいへんなことだった。
大学の研究では、鴨の脳にはそれを認識することはできないとなっている。
またもや男の蘊蓄が飛び出し、
テーブルにはやっと言葉がぽつりぽつり。
それから、男と女の胃袋のなかで、
グリーンを放つ。
鴨は、自分が鴨であったことを胃液に任せたが、
国のイメージだけは手放さなかった。

火曜日, 7月 10, 2007

そんなもの、ちっぽけなもの、respects もの

降り続けていた雨が、より散々たるものに思えて。
コップ数杯分の水をこぼす。
ラーメンには卵ひとつ落とす。
励ましも、侮辱も、暴露も、みんな言葉は常に「ということがあった」と形骸化させる力を持っている。だからこそ、信じられよう。それが本当の正体ではなく、言葉だけでしかないから。
こう書いてみても、実際は呑気にかまえている。
傘をさして自転車をこぎ「怖いんだ」と言う。
遅くに、野良猫が部屋の外で鳴いていた。
か細い声で、子猫のように思えた。
猫の鬱は起きてきて、キョロキョロしていた。
でもすぐに体勢を直してゴロッと寝直した。
もう明日になれば忘れているだろう。
とてもちっぽけなことだ。

「サラリーマン NEO」(NHK/2006,7)を見て、NHK が NHK自身のスタイルをパロディーにするというのは、任天堂の「メイドインワリオ」(2003)を思い出させる。あれは確か若いスタッフらの手による任天堂リスペクツものだった。NEO もそんな印象。

テレビ消したら、雨も止んでた。
さっき、わざわざ傘さし運転で頑張ったのにな。

http://www.nhk.or.jp/neo/

http://www.nintendo.co.jp/n08/azwj/index.html

月曜日, 7月 09, 2007

たいせいをたてなおしている!

チャンスをピンチに変える無様っぷり。
つ、ついてない展開。目的の一つ前の駅で降りるや、引き落とし手数料を余計に取られるや。ポイントカードを気にし過ぎて、欲しいものもろくに買えず。小銭がやがて大金に、冗談がマジになって、忘れられ、無かったことになって行く。
そんな光景を凝視している。
躁鬱病のように、世界にはあてがない。
「失う」と呼ぶにはたやすい。
それは呼ぶことのできる姿かたちをしていない。微かに、わずか微かに、欠けているの箇所を、見つけて、その欠け方を呆然と見ているのだった。

慌てて、誰かに電話やメールで通信を試みる。
何もせずに座っていられない。すぐに電車は着いてしまう。

今夜は
「たいせいをたてなおしている!」
と表示されていた。

日曜日, 7月 08, 2007

避けるべくしてレモンズレモン

キレートレモン(ポッカ)と C1000 タケダ(ハウスウェルネスフーズ)の互いのいいとこ取りな印象の レモンズレモン(大塚ビバレッジ)を求める。
ちょっちレモン酢が強いけんども、なにやらシャキッとするわー。

相変わらず、猫の鬱を野外でポフポフ叩けば、毛がどんどん出てくる。
すると一瞬、お腹の縞模様が薄く見えた気がしたので、手を止めた。
何食わぬ顔で元気に転がり回っている。
レモンズレモンをもう一本飲むとするか。

日曜はけだるく、哀しいよ。
いつも土曜日だけが楽しく嬉しい。

土曜日, 7月 07, 2007

浮き雲

布団のシーツを干した。
生活のあらゆること。実はそれらにみんないろんなことが左右されている。

「浮き雲」(監督,アキ・カウリスマキ/カティ・オウティネン/1996)を鑑賞。
なんでもないことや、なんでもない生活の時間に悲喜こもごも。
嘘っぽさを微塵も感じさせない夫婦は、床に座って計算し、コーヒーを飲む。
ソファーを持っていかれたから、どうしようもない。
したらしたで、しなければしなかったでのまま。おかしさに愛しむ眼差しがあった。

http://www.leninimports.com/akikdc.html

金曜日, 7月 06, 2007

久しぶりに、少し酔っぱらって

はじめて、クラムボンのライヴに行く。会場のダイアモンドホールもはじめて。
堂々たるグッドミュージック。
最新アルバムの「Musical」(2007)は とても渋くて、チラシにも書かれていたけど「聴けば聴くほど」味の出てくる音楽ばかりだ。
そのとおりに、じっくりと聴かせてくれた。じんわり繋がっていく歌と歌が奇麗だった。
愛や恋を歌ってほしい声に、骨太の演奏が深みを持たせてくる。

「酔っぱらって」という言葉遣いが、いいな。

http://www.clammbon.com/

木曜日, 7月 05, 2007

ンマーイにとどけ

鼻水がとめどなく流れ出て、苦しいところから安息す。
キシリートレモンより C1000タケダかもなと飲み比べる。
昨日とは打って変わっての上天気で、風もあり涼しかったので、布団干しと洗濯に掃除機をかけた。
晩はゴーヤの卵ソーセージ炒めと もろきゅうの豆板醤和えに、ご飯と味噌汁。ンマーイ!

猫の鬱を表に出して、櫛で梳いてあげると、もさっとした毛の固まりが生まれる。
それを手にとって、ふうっと一息で飛ばしてみせた。
「宇宙連詩」がまた新しくはじまるという。とある市で現代詩の公募も。

http://iss.jaxa.jp/utiliz/renshi/

水曜日, 7月 04, 2007

突っ込む先は

泊まりに来た鈴木氏と、家のテレビで「3-4x10月」(監督,北野武/小野昌彦、石田ゆり子/1990)を鑑賞した。
我々は軽自動車でギャラリーに突っ込まない。大炎上。俺はやるしかないんだと呟き、それから搬出に。
俺は何をやっていたんだと床を叩くまでを、語る。
百万年の本を開いた。
壮絶だった。
献辞の言葉は生きている。
帰りは、席を共にした中山氏の車を運転して帰った。

http://www.youtube.com/watch?v=PfanoYQZBVM

火曜日, 7月 03, 2007

クローバー亭

since 大正時代という 洋食屋に入った。店員のおばさんの振る舞いが堂々としていて奇麗だった。テーブルに落ちていた目に見えないくらいのゴミをつまんで床にサッと捨てていた。運ばれてきた食事も素晴らしく、スープに果物のデザート付きと、嬉しかった。
僕自身は生憎の鼻風邪勃発で、俯くだけで流れ出る鼻水をかみきるのに、お手洗いを行ったり来たりでせわしない。ちゃんと食べて薬を飲んで、ついにはヒアルロン酸配合のティッシュまで購入する。
声は優しく、向かうべきところを数え、僕らの正午からはとめどなく続く。
落とすわけにはいかない。
食べきるときにクローバーがあらわれるのを、教え合う。

月曜日, 7月 02, 2007

夜道を向かう

駅前に自転車を置いてけぼりにしてしまったので、いったん帰宅したにもかかわらず、迎えに行った。
着替えて、Tシャツに長ズボンにサンダルになって夜道を何か考えようとしながら。
結局、ストII の新作はどんなのが良いかなぁとか、しょーもない。
辿り着いた自転車置き場で、無事に自分の車を見つける。
それから同じ道を今度は、滑走して帰っていった。
そのときに、いろんなものが戻ってくるような、そこに入っていくようだった。
風はスピードに比例して向かってきて、家はどんどん頭上にずれ込んでいった。

日曜日, 7月 01, 2007

単なるハコではなく

昨晩は +Gallery にて 「 JICPB Cube Gallery」プロジェクトの展覧会、「キューブ・レトロスペクティヴ」を見た。
透明な箱から解き放たれた(?)作品らは、バリアのように周囲の空間を立方体に意識させる要素を持っているように思えた。そこにあったものなんだという前提を知っているから かもしれないけれど、そうすると見えない箱はけっこう大きく感じられる。
「JICPB」という名前は、それぞれの町の頭文字を取ったもので、このプロジェクトは、それらの町の立方体を空間移動していく。
今回の展覧会は、いままでの日本作家(一宮市の "I")をレトロスペクティヴしていたが、webサイトや資料で他の町に置かれた立方体を見ると、この作品がそのままその空間だけワープしていくのだなと、想像できて面白い。
作品を取り巻く環境が、一変するだけで新鮮だ。
いまや当たり前のように行われている美術館での巡回展には、サービスとしての便宜性しか思わなかったけれど、展覧会や作品は、文化や意識をひっさげて 環境を行き来しているんだなと思い直す。
美術館は透明な立方体ではなく、単なるハコで、環境の違いを遮断する要素も持っているけれど、そこを解体していけば、新鮮なロードムービーに映ることができるなと思う。

だとすると、小説や詩などの言葉による表現が環境を行き来することは、一般に翻訳することで行われるのだけれど、それは遮断するものを持っている。どの言語に乗せるかということを、本とか声とかハコとか媒体の違いと同じく捉えることで、単なるコピー&ペーストに取られない構造にできるだろう。

作品の交換はもっとダイナミックなもので、何の感慨も無く行き来するのは WinとMac 間のデータ交換であればいいんでは。いや、それこそダイナミックか。

http://homepage2.nifty.com/cube_project/indexes/cube_index.html