日曜日, 9月 09, 2007

海だけがないということ

「名称未設定の手紙」をよく手に取る。light note というアーティストユニットが発行している写真と文章による定期刊行のフリーペーパーだ。昨日ももらってきた。
紙切れ一枚を積み重ねるだけで、深いことになるのを思う。
その、light note で文章を書いている 伊藤正人氏の小説がある。
少し前に、読書感想文を書く。

八月の恐ろしく暑い晩に、僕は「ひとひらの声」(著,伊藤正人/2006)を読んだ。
ちょうどいろんな我が身の騒ぎが、終息はしないというのを知った頃で、慎重にページをめくった。
本の中の「僕」は「彼女」とマンションの一室にいる。その部屋には彩りというものが欠けていて、外を走り続ける車の騒音と、向かいのビルの同じ高さにある オフィスの灯りだけがもたらされている。文字通り灰色の部屋で、ふたりは毛布にくるまって、孵化するのを待っている。季節は、冬だった。
冬でなきゃ、そんなふうにはならないだろうなと思う。コーヒーも、朝焼けも、そう簡単に彩りにはなってくれない。クーラーも無い部屋で汗だくだとしたら、「邂逅なんだよ」などと、彼女もつぶやいてくれない。
何かを待つには絶好だったのだ。
彼女は僕を導いてくれる。と、「僕」は見ている。・・・と読者の僕は読む。
だがその声は、本当はわからないものだと思う。
わからないからこそ、僕らは海に向かう。
そこで、海だけがないことを知り、その欠落を受け入れる。
聞こえそうで聞こえない声は、欠落している形状から聴こえてくるのではないかと思えた。

「海だけがない」と言う彼女に、「仕方がないさ」とはたして僕は言うだろうか?
きっと、僕はその声を飲み込み、灰色の部屋にいるだろう。
我が身の騒ぎが終息しないことに、読者の僕は叫んでしまう。
聴こえていたはずの声はかき消されて、生まれ変わることもできなくなるのに。
海はおあつらえでも、持ち帰ってくるべきなのか。
「海だけがないということ」を、持ち帰るのに海へ行くってのは、なんて切ないのか。

http://lightnote.blogspot.com
http://royalbluemountain.blogspot.com