土曜日, 9月 08, 2007

セカイ系と呼ばれて

アートフェチにてカトウトクハル氏の個展「欠伸をする度に世界は拡がってゆく」を見る。煌煌と路上を照らすものは、パースがかかった横断歩道の先にあっ た。溢れてくる光は救いではないように思える。あれはただの電灯のはず。コンビニエンスストアの形に白が抜け落ちて、看板も入り口も輪郭でしか判断ができ ない。彼の暗室に溜められた時間が、ここいらの世界だった。

最近覚えたての「セカイ系」という言葉を口に出していた。
「ぼくときみ」が抱えている出来事が、社会領域をすっ飛ばし、そのまま世界の存続に関わってくるという物語を指す言葉らしいのだが、どうもその呼称に批判的な何かを感じてしまう。むず痒いのだ。
「世界」をどう捉えるかということと直結してくる。世界をくまなく上空から見渡し、把握することなどできないのだから、自己のリアリティに基づくしかない。
自殺する若者が増えているという社会問題と、いま降り出した雨に困ったということを天秤にかけ、雨のほうが問題だと唄ったのは井上陽水だったが、テレビの 向こうにだけ世界があるわけではなく、実は「ぼくときみ」がとどうやっていくかが世界に繋がっていくんだよとするのはずっと以前からの主たる物語ではな かったか。
その自己のリアリティのみで世界を把握していくことが特別視され、ときに批判されるとするならば、それもまた何ら新しい認識でもなく、当時の「傘がない」 (1972)への批判と何も変わらないのだが。・・・・どうなのだろう。なんでもかんでもセカイ系になってしまう気がする。この言葉を用い出すバックボー ンにあるものが、僕には気になる。
社会領域をすっ飛ばすということから考えれば、「ぼくときみ」の問題をそのまま世界の問題とし、何のプランも関係も無く、素人の日本人カップルがイラクに 行ってしまうような、所謂 自己中心的で非常識な認識がそこにはあるのか。だが、そのような方法でしか世界のリアリティを持ち得ることはできなかったとしたら・・・、それも、そもそ も貧しい価値観点からはじまっているとも言えるが・・・、この心理を持つ表現を「セカイ系」と呼びはじめることで、人の何かが閉じる もしくは裏返り背を向けてしまうのではないかと考える。
いや、そもそもそういった概念の言葉と対峙するものを、作家は実際に具現化していかなければならないのだろう。

http://artfeti.main.jp/
http://members.at.infoseek.co.jp/toumyoujisourin/jiten-sekaikei.htm
http://iwatam-server.dyndns.org/kokoro/sekai.html
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1012474625