土曜日, 7月 07, 2018

一人万引き家族

このブログは、ずっと更新しておらず放置されていた。
 先日「Markdown 記法」というものを一人で勉強したので、それを実行するために、自慢げに書いたことで、再開した。
かなり経っている気もする。
そもそも、Markdown のような装飾的な記述は行ってこなかったブログであった。

日付を見ればすぐに分かる。
2016年は3つ、2017年は1つのエントリーしかない。 2011年は365日で、少しずつ減っていく。
グラフにできれば、比例して SNS、特に
Twitter への投稿が増えているのだろうと思う。 本題はこれじゃない。

これもまた久々に映画館に行った。
昨年「アウトレイジ最終章」(北野武 / 2017) を画家の新谷さんと見に行って以来だ。帰国のタイミングでデートをしていたのだ。
その前は元彼女と入れ替わり制で見た「シン・ゴジラ」(庵野秀明 / 2016)だから、一年ずつ映画館に行っているという体たらくである。
特に記載はしていなかったが、元彼女という呼称で妻のことを呼ぶのが好きなおじさんの自慢げな話法を横取りしようと私はいま、つまらぬ罪を犯した。
横取りは万引きとも言うか?
商品を間引いて盗むことから間引きとはじめ呼ばれていて、そこに「ん」が入って「万引き」らしい。いま検索した。

以下、ネタバレを含みます。

「万引き家族」(是枝裕和 / 2018)を、レイトショーで一人鑑賞した。
西日本は豪雨で大荒れの一日だった。
私は詩の教室を終え、ミズベリングの飲み会に行きそびれ、気持ちが晴れず、雨のなか一人映画館まで歩き、ちょうど新谷さんとアウトレイジを見に行ったところと近く、映画館の店員は「はい、万引きですね!」と元気にチケットを売ってくれた。
わかっていても泣けてしまうのは、家族の物語だからだ。
嫌が応でも、自身の家族のことを思い出す。
映画の主題にそのまま迫れるのは、凄いことだ。なかなかできない。余計な話が邪魔をしてしまうことが多いが、是枝監督はそんな遠回りをしていないように見えた。
わかりやすく提示されていた。
シンプルに、無駄な話はしないように。

自然体でいられる、異常な人と人の関係が語られる。
はなればなれになってしまう瞬間、家族の間に法が入り込んだとしても、暮らしは残り、通じ合った言葉は残る。
尊厳を持ち合うこと、語りつくせぬ視線と視線がスクリーンにはあった。
極めてプライベートでパブリックな映画。
私たちはどうしてこうなっているのか。
理詰めで本当の家族が設定される。
ビールを飲みたくなった。
長く語りたくなった。
無駄な話も、行為も通して、刑期を終えて、やり直せるかもしれなかった。
アーティストの佐竹氏より、一人で家に帰れますかと電話を頂く。
帰り道、名古屋市内はありがたいことに降っていなかった。
爪が靴の中に入っていたのをリズミカルに投げる親父の動きにリアリティがあった。
馬鹿を言える場所で、変わっていてもいいじゃないかと、ここで繋がっているんだろうと、 お婆さんだけには話すねと、抱き合う姿が大きく映る。どこにもいけない男が抱きしめられたところで泣いた。
私たちの傷ついた姿に捧げられていた。
町で、また会えるか。
ゴミ捨て場で「空気人形」(是枝裕和 / 2009)が寝ている場面を連想した。
あれから十年近く経つ。
私たちの社会は家族をずっと探しているのだろう。
「大きな物語」に回収されないよう、自ら語り続けなければ、通じ合った心を蔑ろにすることになる。

ビールは黒ラベルにした。私は親父で、大人になっていたのだ。
親父に「わざと捕まったんだ」と語る息子。
私の本当の名前。
再生は私たちだけではできない。
それを認めて、弱さを認めて、贖罪を通して、ここにいた。
心無い言動がどうして起こるのか。
家族は自分たちの姿をどうやってかたちづくるのか。
親父の本当の名前。
「愛のむきだし」(園子温 / 2009)も思い出した。
いま、私が名古屋造形大学で担当している「映像論」の最終回のテーマは、「今日(こんにち)の映像」で、こんにちに語らなければいけない主題は「家族」である。
2011年の 震災以降、「絆」という言葉が白々しく舞ってしまっているのだと、徐々に気づきはじめ、「万引き家族」では、それを歩道橋で語らせていたのだ。
人工的な家族の物語。
正も負も追いあう私たちの姿。
逃げたことを認める。
愛は引力を持ち、それを受けた者は繰り返す。
人間は、自分がされたことを誰かに返そうとする生き物だと思う。

http://gaga.ne.jp/manbiki-kazoku/

木曜日, 7月 05, 2018

考えやすくなるために