水曜日, 10月 19, 2022

さよならテレビ

二日前(10/17)に、名古屋大学の「日本を表象する」特別授業 にて、『さよならテレビ』上映会へ。阿武野勝彦プロデューサーの話もあり、面白かった。テレビ的なるものを脱するわけではなく『こんにちは You Tube』にはならない。という意識を見た。

鼻息荒い質問をしてしまったが、阿武野さんは答えてくださった。
それから、ずっと考えていて、Twitter にもそれを書いていた。
このブログにも残そうと思い、コピペをしたが、Twitter 用に一言ずつ放っているものと、文章は別なので、改めてまとめようとするが、思考は先に進む。ひとまず、Twitter のリンクも載せる。

ドキュメンタリー映画は、実際にあるものを撮るしかできないので、それを具体的に提示して話す。だから理解しやすい。それは "つきつけられている"。
しかしその原動力は言葉である。
形而上的なものを、言葉だけで提示しきろうとするものが文筆であり、私にとっては「詩」ならば、映像と行き来するものがある。
言葉は文字や声、何らかの姿を経て人に届くからだ。
スピリチュアルなものだけが儚いのは、届くだろうと信じきって甘えてしまって、表現の力が弱いのだ。信じなければ表現できないが、甘えてはいけない。何によってその表現が裏打ちされていくかを理解しなければいけない。ドキュメンタリー映像においては、それは 実際にあるものをつきつけることであり、現物に即して語ることである。現物を映した像から放たれる言葉をそのまま放つに任せることが表現である。
詩は言葉そのものが文字となり、声となり、現物になる。何を捉えて見つめるか。形而上的なものも何かしらのモチーフを通して現れる。そこで甘えずに、具体的な言葉を通せるかだ。

https://sayonara-tv.jp/

https://honto.jp/netstore/pd-book_30968138.html

https://twitter.com/murajin79/status/1581977217931759617