日曜日, 1月 31, 2010

シンプルで丁寧な語り方は非常に高度なものだろう

郊外型デパートから帰って来て、結局いちばん安いとこは商店街でもイオンでもなくネットだったと分かり指先カチカチさせれば後は待つだけになった。
さもしい気もするが利口なのだろう。事務用品の購入に情緒を求めるのも欲張りか。持ち帰ったことがないのに、ここにある本には 寂しい感じを強く受けたから、お店で手に取って買いたいなと思っている。

そんなカチカチをしながら、テレビでやっていた映画「母べえ」(監督, 山田洋次/吉永小百合、坂東三津吾郎、浅野忠信、壇れい、戸田恵子/2008)を見ていた。途中から惹き付けられてきて、手を止める。
この映画は悲劇にあけくれるだけの お涙頂戴ものではない。
大人が持つ本音と建前、それができることとその限界。
子どもの持つ純粋無垢さ、それができることとその限界。
それらが互いに支え合って、苦しい現実に向かって生きていく関係、それが家族だと思えた。
このシンプルで丁寧な語り方は非常に高度なものだろう。
生きることは慣れることだった。言葉はその慣れを取り戻すためのものであった。言葉を放った瞬間、思いは沸騰して涙が溢れる。
ラストシーンが素晴らしい。
母べえの言葉はその関係を取り戻すべく放たれる。そして放たれたものとして語られる。
父べえのモノローグは、墨入れをされた手紙に消えた言葉だったのかもしれない。しかし書かれたものである言葉は、放たれたものとして語られるのだ。
唐突なエンドロールは、対話をはじめるためのタイミングだった。
映画とは語るべきことだけを残すための時間なのだと思えた。

http://www.youtube.com/watch?v=5BrRQ7aRoug&feature=related

土曜日, 1月 30, 2010

言っていい

少しずつほぐれるものがある。いろんなことを重ねて判断は深化される。

NHK での「問われる日本人の言語力」というドキュメントがとても興味深かった。
「言語力は、どこまで深く考えられるか」とデザイナー佐藤可士和が言う。

伝える精度についてが前にあった。
朝も昼も夜も、そのことばかり考えていたなら。

http://www.nhk.or.jp/tsuiseki/file/list/100130.html

金曜日, 1月 29, 2010

朝早く仕事の理由を問われ、幾つかは微笑む

「卒業」(詞, 能吉利人/曲, 長谷川きよし/編, 白井良明/1971-1995)聴き、
凍える星屑の溶けかたを思う。

http://www.youtube.com/watch?v=hPyK_zC8e20&feature=related

木曜日, 1月 28, 2010

白紙に落ちる

昨夜は iPad の発表をネットで追っかけた。ファミリーが増えると、できることも増えるという展開に思う。
明けて久方ぶりに机上スタジオへ。
飛散していた表面をならす。白紙のような机上をと考える。本を降ろし、鉛筆を控えさせた。

今夜、サイゼリヤの店員は眠れない。論を気取った客も眠れない。皿の下に敷いた白い紙に、口と指の先から落ちた樹液が、行為の時間に合わせて染み込んでいた。
我が儘はひとつもひるまず、実年齢を掲げている。

水曜日, 1月 27, 2010

まだ寒いうちの残響

冷蔵庫を連れて君は出て行った。
水になった製氷パックは シンクのなかにくたびれた。
励ましはエベレストへ向かう背に向けてのように吹く。
僕は寒さを気にしない質であったが、君が持ち込んだファンヒーターに寝転んだ。
猫の鬱が前足で点火しないようにコンセントを外出時には抜いておく。
冷蔵庫が無くなった部屋で、鬱はカリカリ鳴らす餌を食べていた。
珈琲を煎れるあてもなくテレビをお菓子と共に過ごした。
まだ寒いうちの残響がくる。
生ゴミを出し忘れない。

火曜日, 1月 26, 2010

再びわかりなさいという命令の1日まで

朝になるまで恋を、話したかったという。
ドイツに行って都々逸を!色紙に書く絵描きは最後まで飲んだ。
まだ何も変わっていないし、何もはじめていないよ。
キッズリターンだけまだ見てない。
リターンするのはいますぐが何年先になるのだろう。
思いを伝えるのはいますぐに限る。
彼女達はそう笑っていた。

月曜日, 1月 25, 2010

美大のときからの親友へ、彼は声を吹き込み続けていた

映像編集の手伝いを連発で強行。iMovie は '08 と '09 でかなりやれることが違うのを知った。'09 のほうがいい。iLife はどれも良くなっているのだろう。

帰宅しても映像漬けだ。「悪魔とダニエル・ジョンストン」(監督, ジェフ・フォイヤージーク/2005)を見る。
若き哲学者に薦めてもらったのだが、これは傑作。
アメリカのシンガーソングライター、ダニエル・ジョンストンの半生を丁寧に綴ったものだが、テープ音源や、ライヴ映像、スタジオレコーディング、関係者インタビューなどの要点を 抜群に引き出すことのできるタイミングで繋げてくる。監督自身がダニエルのファンなのであるが、興奮に偏ることなく、何が面白いところなのかをうまく話すことができている。そんなことは当たり前のようでいてなかなか成し得ることができない。ミュージシャンやアーティストのドキュメント映画にはつきものだ。
そしてダニエル・ジョンストンの狂気と天才性ばかりを描いているようで、実は家族や仕事を通してのつながりを追っているところが良かった。天才は周囲に迷惑をかける。そんな日々の生活感から、失ったものとそれでも守りぬいているものが 語られていた。
どんなにジャンキーや躁鬱に狂って入退院を繰り返しても、彼が帰る家には、小言は多いだろうけれど音楽や絵を描く環境があった。個を重視するアメリカだと思うと同時に、その家族を繋げているキリスト教の存在がある。その信心への傾倒がまたダニエルを霊的世界に持っていってしまうのが皮肉めいて見えた。
この環境があってこそのダニエルの歌世界だった。
宅録で、ひきこもりで、思い続けている。
美大のときからの親友へ、彼は声を吹き込み続けていた。

iMac はおむすびのかたちをしていて、iPod は白黒だったね。iLife はまだ呼ばれていなかったけど、どうだったかな。

http://www.tornadofilm.jp/movies/akuma-daniel/

日曜日, 1月 24, 2010

ばんざい!と開いていく

「監督・ばんざい!」(監督, 北野武/ビートたけし、江守徹、岸本加世子、鈴木杏/2007)を鑑賞。
この「ばんざい」は 自信を持って胸を張った「バンザイ!」でも、連帯させ鼓舞する「万歳!」でもない。
狂った先に一人になって、哀しくても可笑しくやっていく「ばんざい!」だった。

「TAKESHI'S」(2005)が「鬱」で、本作は「躁」だ。
狂気は躁鬱を経て、平穏ではなく、自らの胸を開いていく。
全編に満ちている崩壊をたくわえた姿。フィットするのはバイオレンスだった。その型を封印し、ひととおり形式をなぞったあと、モゴモゴと暴れはじめる。どこにも着地できない自我を開いていく。

http://www.office-kitano.co.jp/banzai/

土曜日, 1月 23, 2010

迷いの無い嘔吐は見事である

三回も膨らむ
晩も朝も昼も。
風呂に入るべきだと思ったのは夕方。
道にもたれて、乗り換えに急ぐ彼女を呼び止めようと
携帯のメールを何度も立ち上げたが
ホームには誰一人いない。
泣き方を学ぶという
仕草に酔って。
膨らんだぶん萎む。
水は道を支えていた。
濾過した一杯を飲み
三回は思いを出せ。
迷いの無い嘔吐は見事である。
猫の鬱を讃える送信。

金曜日, 1月 22, 2010

絵を描く姿

あいちトリエンナーレ2010 のトリエンナーレスクールにて、絵描き 浅井裕介氏のトーク。
満員で立ち見だったが、壁に貼った紙へ向かって絵を描きながらのトークであったため、逆にその様子がよく見えた。
輪郭や残すところが浮き上がってくるようだった。

少し前に見たテレビのバラエティー番組で、清水アキラが 絵を描きながら物まねの歌を歌っていたのを思い出した。それには無理を感じていたが、淺井氏の描くことは全く異なって「ショー」ではなかった。
絵を描く姿はその人自身を暴いている姿だから、清水アキラには大道芸としての落としどころしかなく、でもそれが上田正樹のブルースでやろうとしてるもんだから、妙に気持ちが入った歌唱だったりしてちぐはぐだったのだ。
話すことと描くことは同じ方向を目指しては走らない。
話しの背中をなぞりながら、絵は起こる。

http://d.hatena.ne.jp/asaiyusuke/
http://aichitriennale.jp/triennale_school/

木曜日, 1月 21, 2010

オンライン(仮想)とオフライン(現実)が区別できなくなってきているという批判は役に立たないだろう

ベランダみたいなところで鍋をやっているときにも「Twitter ってどうよ?」とゆー 話になって、一通りは返すのだけれど、どうも月並みなメディアにもてはやされているようなことしか言えない。

実際のところは Twitter を自分が活かしているか、これから活かせるようになるのかはよく分からない。
触りはじめの興味や情熱は過ぎ去って、ルーチンワーク的に書くのもどうかと躊躇われるようになった。
百人、千人単位でのフォロー状況になっている人とは根本的に見えるものが違うのだろう。ブログもアクセス数が多かったり、コメント欄で議論などが起こっていたら違ってくるのだろうけど、Twitter は呟きとか言っておきながら実はフォローする特定多数を相手にしている前提がある。ブログは不特定多数を持って書いている。Twitter のようにタイムラインの状況に反応しているわけではない。自分の場合、ブログのほうがもっと一人語りだ。
当初は Twitter にその要素が強いのではないかと思っていたが、実は目に見えて存在するフォローという読み手の存在が、安心感であると同時に開放的ではないようになってきた。
先日、Twitter でフォローし合っている友人が目の前でログインしていたときに、そのタイムラインを見せてもらった。すると彼のタイムラインにはフォローしているなかで最も細かくツィートしていた自分の顔だけが ずらずらと並んでいたのだった。
その画面は、自分にはとても気持ちの悪いものに見えた。
互いに自我の肥大を認め合ったとき、相手に自分の利己的な発言はあんなふうに映るのかと思った。もっとも、タイムラインとはナルシズムが溢れて然るべきの川なのであろうとも思う。

イルコモンズのブログにて「Web上で自殺したあとは、何をすればいいですか?」というエントリを読む。「web2.0 自殺マシン」というツールを使えば、ただソーシャルネットワークものから脱退するのではなく、アカウントは保持しながら二度とログインできなくさせるという墓状態にさせるところが面白い。これでリアルな世界に生き返ることができて、面倒な web上の自分におさらばできる。
Second life に一時期ハマったとき、オンラインでの体験も実際の経験であって、区別するのは面白くないと思っていた。いまもそれは思い続けている。
オンラインから吹いてくる風が強くなれば強くなるほど、デジタルに区別することは困難になる。
web上で自殺したくなるという衝動も分かる。風はオフラインの我が身をさらし、蝕む言葉であるから。
オフラインで自殺をして楽になろうとするのと同じ衝動なのだ。
オンラインでも二度とその命が戻れないという構造がいい。もっとも、オンラインは別名で生まれ変わることができるし、オフラインがどうかは知らないが。

オンラインとオフラインが区別できなくなってきているという批判は役に立たないだろう。
オンラインもオフラインも、アナログに全てが繋がっているリアルな世界だった。
むしろその区別を強めて、別人格だと興じるほうがおかしくなってくる。

mixi は その区別を心地よいものだと考えた上で、オンライン上に関係を仮想に作り上げるツールであった。自分は面倒くささと気持ち悪さで脱退した。Twitter は、その区別がまだ薄いように感じる。例えば Twitter のフォロワー同士のオフ会は、出会ったその場でも Twitter で会話をしていたりするとかいうネタのような話は本当にあるのだろう。それがその者たちの関係のリアルな実感なのだから、いまやオフラインに切り替える必要も無いのだ。
この類いの話をしていると、だいたい眉をひそめられてしまう。例えば文通で知り合った男女が実際に会ってみたけど、その場でも手紙を書いて渡し合って書き文字で会話していた。なんてエピソードだったら「微笑ましいね」なんて反応なくせにっ!

http://illcomm.exblog.jp/10648402/

水曜日, 1月 20, 2010

似たものどうしは眠る

就寝前にお借りした漫画本「おやすみプンプン」(作, 浅野いにお/2007-)の第六巻を読んだ。

人はそれぞれ異なる不具合を抱えている。
どうしても、思ってしまうという足かせになるか、
どうしても、思うことができるという能力になるかは紙一重だろう。

似たものどうしは眠る。部屋は違えど同じ屋根だった。

火曜日, 1月 19, 2010

夜が明けたら

高校の美術部の先生が教えてくれた歌だった。
「夜が明けたら」(詩, 曲, 浅川マキ/1969)。

浅川マキは、自らの歌の言葉を 詞ではなく、詩と記していたという。

切符を用意してちょうだい
一枚
でいいからさ
今夜で
この町とは
さよならさ
一番
速い電車に乗るのよ
いい人が
できるかもしれないし
そう
夜が明けたら

一語一語の歯切れ良さが意志の姿よ。
「情念」は「根性」で得られるものじゃない。
「表現」は「感度」に基づくゆえ。

http://www.youtube.com/watch?v=QU2eG1Zh6Hg

月曜日, 1月 18, 2010

重力と磁力

NZ にてライヴパフォーマンスにゲスト参加させて頂く。
加圧式の自作楽器を持ち込んだ 渡邉充哉氏と、映像を提示しての詩。
課題が「重力と磁力」だったのは偶然だった。貨物機が空港に墜落した模様を伝えるニュースの映像は以前から抱えていた。
そして指先の圧、唇の震え、言葉と音に広がるかも課題になる。

http://mitsuya.otodo.net/

日曜日, 1月 17, 2010

ひとつずつ

遠方から来て頂いた方々と市内で会い、昨夜からのことを話した。
ひとりひとりがいろんな感触を思うのを 寄せられるのは嬉しく有り難い。

思い続けていたことを照らし合わせるのには尽力が要る。要らない力と言われても、話し方は皆違う。
遠くの町へは時間を要するように、お茶をいれる間でも要するように。

駅に隣接する食料品店でワインとチーズなんぞを買ってみる。ふんぱつすると美味しいんだろうなという期待通りにンマーイ。ゆっくり話すべきことへひとつずつ。

土曜日, 1月 16, 2010

心音

タテさんと円形の間に立った。
共に立つことを、互いが持つ間を呼ぶ。
音楽、歌、詩、混ざるものは尽きない。
混ざれないものにも聞く。

温かく見守って下さった源さん、スタッフの皆様、寒いなかを お越し頂いた皆様、ありがとうございました。

http://www.tatetakako.net/
http://live-gen.musical.to/

金曜日, 1月 15, 2010

聞いて思う

抽象造形への根拠には、具体的な変換が要る。
作家の仕事はそれを勝ち取るべくの動きだと聞いて思う。
聞いて思う。
意志のつらぬきを
日々の選択を
読み、書き、
これがまぁねとかける声の言葉を。
語りはじめの。

明日はいよいよタテタカコさんと「心音(こころね)」を聞く日です。

http://jinmurata.jpn.org/301/101_information_010_korone.html

木曜日, 1月 14, 2010

本当の

言葉は使い分けられる。
twitter とブログと チャットと2ちゃんと、メールと、手紙と、電話と、そして 出会って話す。
会議、打ち上げ、トークショー、アジテーション、商談、密談、愛の囁き、誰かと。
そして そして そして、
本当の独り言。

水曜日, 1月 13, 2010

厳しい風を起こすにはどうすればいいだろう

朝からメールソフトがちゃんと動いてくれない。
昨日まで楽しかった Twitter がしらじらしい。
真摯たる振る舞いを問うている卑劣さ。
葛藤もみな、たいしたことはないと思ってしまう。そう思ってしまう葛藤。

昨夜に NHK のプロフェッショナルで見た「研究者 浅川智恵子氏」には気持ちが入った。
ラボへ通って仕事に打ち込む姿に見入った。
厳しい風を起こすにはどうすればいいだろう。
小林秀雄よろしく問うているのが答えで、ただ、自身のことからでしかない。

http://www.nhk.or.jp/professional/backnumber/100112/index.html

火曜日, 1月 12, 2010

相性の話

音楽と言葉、それはあまりにも仲良し過ぎるが故に喧嘩するような友達どうしみたいなもの。
写真と言葉は、かち合うところはなくて、とても相性のいい恋人だ。
絵と言葉は兄弟かもしれず、これまた愛故に喧嘩の絶えない親子かもしれない。

君が話す速度と同じに、そこまで行けるかだけ。
でもそれだけがたいへんで素敵なこと。
すっ飛ばして口づけるわけにはいかぬ。
布団から出るのすらたいへん。これが素敵かは別。

iPhone の app「モンブランpen」(2009)を用いて、猫の鬱を描く。
誰かと居るからいろいろ揺れる。

http://www.uei.co.jp/montblanc/

月曜日, 1月 11, 2010

テイストの統一はラクだけど

腰から落ちて眠る。カッターの刃を付け替えながら眠る。昨年末に金沢のあうん堂で購入した「朗読 声の贈りもの」(著, 松丸春生/2001)を読む。お堅いテイストだけど、真摯に勉強にはなると思う。朗読について考えるということにおいての材料として。
自分自身がこのテイストに立脚はしないであろうが、テイストはテイストだけ。趣味趣向の世界を構築するのは表現の本分じゃないと思っている。テイストの統一はラクだけど実は貧しさも引き起こす。

日曜日, 1月 10, 2010

ンマーイ!にトホホ

連続新年会第二夜の日。日中は名古屋市内の尼ケ坂というサロンへダンス「踊画 トキワ荘」を見に行く。タナカアリフミさんによる 踊らないダンス「サイレンスダンス」の展開。昭和の時代とトキワ荘を描くと聞くと、否が応でもバイアスがかかってしまう。
知っている、参照できるということはときに感じることを邪魔するのかもしれない。それも含めて感じているという考え方で僕は行きたいと思うから、主題を告げる言葉は重要だと思う。

帰還してホームタウンで新年会の第二夜。それこそトキワ荘のごとき漫画本に溢れる畳間ですき焼きと大富豪に興じる。すき焼きンマーイ!
大富豪は初めて面子ばかりで、僕がルールを教えたのにも関わらず惨敗でトホホ。
お気に入りの漫画本が日焼けしないように本棚の奥に入れておくのには恐れ入った。
トキワ荘は漫画家たちが青春を過ごしただけじゃない。ひとつのアパートのなかで 本になる前の漫画原稿が大量に生まれていたんだ。

http://web.me.com/amagasaka/2010/%E8%B8%8A%E7%94%BB%E3%83%88%E3%82%AD%E3%83%AF%E8%8D%98_%E8%B8%8A%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%A7%E6%8F%8F%E3%81%8F.html

土曜日, 1月 09, 2010

変換の算段

自室の机まわりを片付ける。聴いてもいないのに焼くだけ焼いた CD-R を分別する。処分するのも悔しい。カセットテープはもっと厄介だ。捨てるのは簡単だが、たまに聴きたいときもある。詩の朗読を録音したものなどは、全て取っておくが、これも取り出しやすいかたちに変換しておかないと困ることが多い。小松氏と共同購入した携帯テレコは少し動きが悪くなった。ICレコーダーの良いものもアマゾンの欲しいものリストに入ろう。さっぱりしてきた頃、気付けばあたりは暗い。別室で詩集の印刷。福岡氏に呼ばれて深夜の小新年会。穏やかなる四名。これも気付けば翌朝の六時。自転車で帰宅。口がしっかり閉まっておらず、レモン水が瓶からビニル袋内に溢れていた。自転車籠に甘酸っぱい匂い。

金曜日, 1月 08, 2010

コードは無くなり

地面は揺れて、コードは無くなり、ビデオのどこを使うかという話を続けてる。
とにかく東京へ行くのと言い出した子は聞かない。
窓がまだ明るいうちに出て行く。
帰ることができれば御の字だと確かめ合う。
足音ひとつ立てぬ馬よ。
もういい加減と騒ぎ始めるために、レモンを飲もう。

木曜日, 1月 07, 2010

とんでもないことがおきても、見てる。

例えばとんでもないことがおきても君は笑っていてほしいとホフディランは歌っていた。
日曜のこち亀のエンディング。
その例えばが起こって、僕らは笑うしかないと笑った。
電話口では笑えない声が突っ立っていて、
フロントガラスは凍り付く一歩手前さ。
肉まんにパック寿司、餅を入れたポトフで寝よう。
とんでもないことがおきても、見てる。

http://www.youtube.com/watch?v=EdyHSJj39HY

水曜日, 1月 06, 2010

why cry.

泣くことはないというのは簡単で、
何故に泣くのかを思いたくて。

どうして詩をやっているのかは、時系列を出発点にして話しはじめて、本当の求めていることに着地するべき話だ。
夜道は当然 冷たい空気になっている。
帰宅してもまたラップトップを触っていると猫の鬱がファンヒーターの電源ボタンを前足で押して切った。cry。

火曜日, 1月 05, 2010

森にはひとり、声が起こっている

「あいちアートの森」堀川沿い展示を鑑賞。
「場」との対話が生い茂る。
からみついてくるのを
年明けに開けるんだ。

帰りは歩いて名古屋駅の方を経由。
しばし迷い込んだのは森じゃなく、街のケイオス。
NHK FM 名古屋にて、タテタカコさんが「心音」の話をして下さった。

森にはひとり、
声が起こっている。
遠くからとは限らない。

http://aichiartnomori.com/free/horikawa
http://blogs.yahoo.co.jp/kanbutzya2046/31263048.html

月曜日, 1月 04, 2010

リバーシブルのコは笑った

リバーシブルのコは笑った。
登る山はどこだろ。
相次ぐ生存の知らせ、居間に毛を散らす猫に寄り添いながら聞いて。
布団のシーツも裏表
もれなく夜露に濡れている。
肉はゆがけばやわらかくなるよと聞く。
名古屋は明日 雪とも聞く。
そう聞くと夜は余計に冷え込む。

日曜日, 1月 03, 2010

紫が映える

君の買い物、朝のうちに生き抜き、
自転車乗り初め。
いろんな風が吹いてくるだろう。
穏やかなうちに年賀状を書いておくんだ。
色鉛筆を自由に使うぞ。
テレビはまだ五月蝿いと変えたら
いろんな国の町を、予定に追われず歩いてみたいと語られる。
NHK で、素敵なことはずっと追われる。
龍馬伝は盛り上げタイプの青春調。画面の色味がCG的だ。
君の買い物、紫の暖をとる。
紙の上でも紫が映える。

土曜日, 1月 02, 2010

中身の見える福袋

祖母の部屋で起きた。それから十年目の自室へ。
テレビは小さくなったけど暖房は増えた。
駅ビルでの初売りは異様な人ゴミで、通路だろうとおかまいなしに座り込む子ども年寄り多い。DS みんな持ってて、たいへんだなぁと思う。僕も似たような動き方か。
無印良品で中身の見える福袋ファブリックを購入。スリッパが欲しかったので嬉しい。お買い得度の高い格子編みの膝掛けを火燵にかけたら、早速 猫の鬱が丸くなった。

夜は近々の企画展に出品する友人の制作テクニカルサポート。新年気分欲しく、彼自ら芋焼酎を持参して来る。Mac にデータ処理をさせているうちに高円寺で買って来た「素人の乱」(監督, 中村友紀/松本哉、山下陽光/2008)見る。
革命の無い国、日本の話。NHK でしつこく騒いでる坂本龍馬らは少し違うか。

http://keita.trio4.nobody.jp/eiga/index.html

金曜日, 1月 01, 2010

三頭の犬と一匹の猫と四人で年越して正月

2010年 あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

寅年なので猫をあしらった年賀状にしようと思っていた。越南でこさえてもらった木彫りの猫判子を使用。
レトリバー犬茶毛のサラちゃんにおめかし。ナデナデ。
ケーブルテレビで映画「THE 有頂天ホテル」(監督, 三谷幸喜/役所広司、松たか子、佐藤浩市、YOU、篠原涼子、角野卓造、西田敏行/2005)を夜中に見た。映画にできる表現としての間口を広げず、演劇視点を敢えて残した切り口が逆に映画に快活なテンポを与えていると思った。大晦日の夜に何かが起こるという群衆劇は昔から多いのではなかろうかと Twitt。