日曜日, 12月 31, 2006

大晦日は歌を聴く

年の尾っぽに集まった養分。ろ紙で灰汁がどっさり出る。
大気圏突入の最中に叫びだした我ら。三十年はもうすぐ。
やぶれかぶれでフセイン殺して。
優しさ、この力、愛憎という意味を捨て、煙草を捨て。
同じ言葉でありながら、伝わってこないよ。
違う言葉だけど、伝わってくるものは同じだよ。
あの公園にも冬の朝。
大晦日は歌を聴く。

「さよならは夜明けの夢に」(詞,鈴木博文、曲,岡田徹/1977)
どうもありがとう。

http://www.youtube.com/watch?v=6QD0K1LbAps

土曜日, 12月 30, 2006

草原に帰ろう

めまいがしていた。
心のクセについてを考えていた。読み返していた。煙草を捨てて。
音楽は意味ではない。都合だけを数えていた。
胸をはっていたら、それが力。
何も無い自分が、なけなしの思いで抱きしめる力を湧かすことだけがある。
そこから、草原に帰ろう。
そう、草原に。

bnap06 で発表された、dilettantin らによる作品「HOTEL」が web で紹介されていた。
その音楽を聴き続ける。
ポートフォリオを思い出す。
草原で寝転んだ。青空の前に。
めまいはとおくに。
温かく。

http://www.dilettantin.de/hotel/

金曜日, 12月 29, 2006

日々の暦の夜

山を降りるとき、山について書かれたものを思い出した。
コメダ珈琲はいつも入りやすい。
山から町へ。
シロノワール。
味わいながら越える。

岐阜市内の旧十六銀行で行われた「HIBINO DNA AND...」のトークイベント、ムービーショーイング、クロージングパーティに向かった。
激動のプロジェクトの終わりに挨拶して、スタッフやボランティアの方も感慨深い様子。
そんななかに「こよみのよぶね」の日に撮影したビデオを流させてもらい、しばしの時間を頂いた。
藤井さんの写真、スライドショー、良かった。

読みこんでいこう。しっかり踏み込んで。
とても温かい時間だった。
来年も暦を踏むんだな。
いい暦を呼んでいこう。

http://www.dnaand.org/

木曜日, 12月 28, 2006

脆弱性

谷澤氏より「百代の過客」(監督,原将人/1995)を見せてもらった。
それで勢いをつけて、五時間分の ミニDVを取り出した。
しっかし、iMovie での映像編集はやはりキツイ。保存して再起動したらバグったり、外付けHD にアクセスするとバグったり、何よりキツイのは書き出し中にバグること。なんの前触れもなくデジタルノイズが走ると、それまでの録画時間がパアになってし まう。50分、15分、5分の三段階のバージョンを順に作ったので、段々ラクになっていく。「3分までの映画祭・SEPM」をやろうと言い出した理由は iMovie 環境というのも起因しているはず。そういえばあれは年末行事だった。バグを回避するための先手を打ちながら作業する。こういうときにアプリケーションの脆 弱性と呼ぶのである。何べんも書き出しにトライ。終えてから、直したいところが浮上してくる。うわぁ。これは人間のせい。いや本当はさいしょっから。

やみくもに 我が脆弱性 年の暮れ

水曜日, 12月 27, 2006

仕事とは、日々に価値を持たすこと

晩に遠征し、violets の面子で忘年会。

そのまえにびょういんとびよういんでさんざい。

先生の仕事。野球の仕事。美術かどうか見極める仕事。福祉の仕事。生きる為の仕事。

はなしながらせかいのかちをおとすようなひびだが。

私達の仕事。物真似には新しいことを望む。冴え渡る行いが続く。活動時間は異なる。

すこしずつかわっていくのをみつめよう。

煌めく為に話す。いくら意見を唱えても馬鹿なことには変わりはないよ。

このメンタリティ。

あくしゅ。

火曜日, 12月 26, 2006

ドラッグアンドドロップで日が暮れる

部屋に籠って一日中編集仕事。親の仇のごとく、鼻をかみ続ける。猫の鬱が落ち着かない。来年はなんとかしろと噛み付いてくる。買い物をしながら、仕事のこ とを考えるという前進方法を試してみる。晩に家電話で話したことには「試す」という単語をよく用いていた。正論で僕を落とし、君を傷つけるつもりはない。 意味を唱えていたなと考え直す。遅くまでさわっていることができず、保存の処理を待っている間に寝てしまった。君の時間を撫でる時間を思ってみる。紅茶を 入れることを教えてくれて、先日からそんな時間を試している。無垢なままでは編集が終わらない。守るために噛み付く。そうしないと。

月曜日, 12月 25, 2006

それははじまる言葉

搬出搬入は続く。頭上を囲む線は、空間を規制してしまっていた。
愚痴を言ってもはじまらない。
白い部屋の営みのために。
それははじまる言葉となるか。
とんとん拍子で帰って、真坂氏を囲んでの会へと流れた。
その前に病院と美容院を周る予定が、病院だけで疲れてしまって、今日は継続の意志で終える。
西山氏のアトリエで、壁一面に貼られた絵のなかで、一枚の写真がこちらを見つめてきていた。
そのかけがえのなさを。五月蝿いのは二十代後半のオヤジなり。

騒ぎは続く。「ジョゼと虎と魚たち」(監督,犬童一心/妻夫木聡、池脇千鶴/2003)を野郎だけで見る。見入る。フツーの学生の妻夫木氏には参った。く るりはかけがえのなさを慈しむ音楽。夜はとんとん拍子で帰れない。外は冷え込み、急に十二月らしくなってしまって、クリスマスソングは立ち寄ったコンビニ が最後だった。ここの裏にある長屋を曲がったところに、おそらくジョゼはいる。
映画を終えて、佐内正史の写真がスライドショーになる DVDのメニュー画面にずっとしておいて、僕らはビールを飲んでいた。
今年ドイツに行き、持ち帰ったのはアートワークだけではなく、捨てていくものはアートワークだけではない。アートという言葉だけにすれば、そこにワークも入る。それ以上の言葉も。
象徴として輝く映画よ。詩は全てをやさしく言い当てる。そして言葉自身が言葉を待っている。

きれいな夢よ、さよならって、そんなにきれいになれるか。自分の弱さが露になって。情けなく参って、力を持って。
もう二度と会うことはないんだと彼は言っていた。
傷つけたくないと言う彼を知っていた。
妻夫木氏自身もそんなふうのコメンタリーを聞き、笑ったり、黙ったり。黙るコメンタリーというのが良かった。審美眼も剥き出しに見る。思えば、俺達はコレクターのような目で見ていたのだ。
西山氏が言った。
「今日の映画鑑賞会を終わります。」

http://jozeetora.com

日曜日, 12月 24, 2006

ババロア山越えて

クラムボンの彼女の声。
冬だけどサマーヌードを歌った。
車に乗って、現像を出しに行った。僕はドイツに送らなきゃいけないメールを今朝まとめて、十何時間かの睡眠の後で、現象を捉えて洗濯機を回していた。
猫の鬱が少し外でコロコロして、ドラえもんでクリスマスの話を読もうと思っても、すぐに出てこなくって。吉本ばななが藤子F不二雄について書いたエッセイを思い出した。
一年前の今日はちょうど「おじいさんに会いに行く、冬。」を豊橋のファミリーマートで朗読していた。
読み返すと、声や笑顔が思い浮かぶ。

夜に食べたババロアはとても美味しかったけど、胃が緊張してしまったのかも。
帰りにお腹が痛くなってしまった。

アートフェチにて伊藤正人氏の個展「Royal Blue Mountain」を見た。言葉による山は遥かにて青い。
見て伝わるものと読んで伝わるものを併せ持っている山は、言葉を森と呼んで、それを散策するというつくりを持っていた。

高速道路で帰ると、猫の鬱は肉付きが良く、お腹は食べ過ぎでぱんぱん。
ケンタッキーフライドチキンに並んでいた駅前の人々。
サンタは一年に一度しかやってこない。
日々は冠や名前などなくとも、一度しかないもの。
けれどそれは常に呼ばれるものではないから、誕生日を思い出す手がかりにしていたのだ。
僕は愚かで、数えずに喜ぶことをする思いを通せるかということで。
言うはやすし、行うがきよし。
笑って眠る。
言葉によるこの夜。
さんまは喋り。尽きぬことを生きることとし。掛け合いは遠い神様までのこと。
優しく休み。
そう言うよ。

http://jinmurata.jpn.org/301/101/ojiisanniainiikufuyu.html

土曜日, 12月 23, 2006

長良川の町より

朝と朝と朝と朝と朝と朝と朝と朝と朝と朝と朝と朝。

レジデンスより出て、お風呂には入れなかったけれど、旧十六銀行徹明支店での「16 art bank」の展示を見た。
金庫室の壁に鏡があって、自身を見つめることになるようになっていた。
創業当時の記念写真が作品と同列に並んでいるのが良かった。

吹き返るものは、町より起きた。
僕らは寝不足でありながら、満ち足りた気持ちで、
自らの胃にやさしくしようと、うどんを食べた。
すぐ前にある駄菓子屋さんで、ねり飴を買った。
そしてねりはじめるのでした。
金華山のふもとには、芭蕉の句がありました。

この間に眠るため。
見つめる日に。
来夏は鵜飼いを見に来よう。

金曜日, 12月 22, 2006

こよみのよぶね

まる一日、岐阜県長良川にて行われた「こよみのよぶね」をビデオ撮影した。
人々の意識。
ここより引き出してゆくための
浮かび上がり、流れゆく暦を見送れば、
それはぼんぼりゆえ。
貼り合わされた数の仕事ゆえ。
煌々とゆく。

夜と夜と夜と夜と夜と夜と夜と夜と夜と夜と夜と夜と。

http://www.dnaand.org/

木曜日, 12月 21, 2006

POORでFUULな一日

部屋中にくぐもった煙草を風にやり放つ。
空はすっきりとしない天気だが、時間がないので洗濯をした。
猫の鬱がプリンターと掃除機の駆動音で興奮してダッシュ。
夕方に出かける今日は気楽な身分。
決めなきゃいけない量は誰でも同じだ。

ガラリアフィナルテで長谷川繁展を見た。
不可思議な絵だが、どうも目にひっかかる。それが繊細な触感を持っていた。プロの仕事を眺め、やはりいいものを見なければだめだと自分を言い聞かせ、下校する中学生の集団を横切る。
名古屋市民ギャラリー矢田、真坂氏の個展「切り取ったロケット」の会場へ。
すれっすれの空間。とぼけているのかマジなのか?ってな、テキストを書かれそうな気がした。僕が考えるのは充分にマジな話なのだけれど、イメージすること は自由だ。アートはこう見るものなんだという解説や、詩はこう読むものなんだという解読書は、ひとまず大前提のルールで、そこから破ったりすっ飛ばしたり するのがオツってなもの。作品はそれでもタフに揺れ動かないかが試される。
社会はプレゼンテーションの連続。氏は充足した時間を経ていた。ドローイングとクリスマスカードが同列で喜ばれていた。ブレーメンの外れにあるゲオーグの部屋で、フレームに入った絵は前を見ているはず。罰点が転がる理由を野暮ながら今度聞こうと思う。

bnap06 ミーティング。年内最後。来年の三月に行う報告展の案内状についてなど。終えて、自室で福岡氏と助成団体への提出資料の確認。最近見た作品や映画の話題。 ブルーノートと iPod が今年の暮れに響く。第九を聴こう。今日はお昼すぎに「No,9」と題した「第九」を聴いた。映画を見たんだ。暮れの映画だ。「東京ゴッドファーザーズ」 (監督,今敏/江守徹、梅垣義明、岡本綾/2003)。すごく良かった。前作より断然良いと思った。「No,9」はムーンライダーズによる。確か5・1 チャンネルのSACD 出してた。すごく楽しい。暮れにはこれと「時計仕掛けのオレンジ」で聴こう。
運命みたいに偶然がぐるぐる回るのは、心がそうさせてるのかもしれないけど、それを力にしていこうとする強さが持てる映画だった。

ここまで充電して、洗濯ものも干しっぱなしなら大丈夫。
ばっちり語り尽くしたよ。
赤の他人という言葉を潜めれば、関係を見つめる精度が上がる。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~ryop_ryop/

http://www.sonypictures.jp/archive/movie/worldcinema/tgf/

水曜日, 12月 20, 2006

メリー絵画教室

今年はこれでお別れ。
残念ながら三学期まで延びてしまった僕たちのイメージ。
クリスマスソングは恥ずかしくて唄えない、みんな。
三ツ矢のスパークリングワイン、サイダー白ぶどうが溢れる。
TICO MOON 流す。
男の子だけで。
それから煙草とスパゲッティミートのなかで、如何に食うかという話をした。
詩人?
サンタクロース?
どれだけのクオリティその言葉?行為?信頼?
僕たちのメリー絵画教室。

火曜日, 12月 19, 2006

最後の公園

今年の十二月はまだ秋みたいに温かい。
木もまだ丸裸じゃない。
ここからはじまる気がしてる。
いま私の全てのことが。
この公園をどう撮るか、公園ひとつをどれだけ描写できるかを思っている。ここの空気の軽さ、寂しさを。

すぐにちっぽけなものになってしまう?とニヒルにかまえることではなくて。
どんな印象であるか?とかっこいいことには理由がある。
L・O・S・Tじゃない。
ありがとう。
すぐに十二月は過ぎ去る。しがみついているか、散乱してしまっているかどうかは二月くらいに惨く分かる。
誤解するなよ。すぐに丸裸になるぞ。

電話中に地震があった。
なんとかすぐに収まってくれた。
こんなふうに動いているんだなと会社を後にした。
地下鉄を降りてまた歩く。





月曜日, 12月 18, 2006

公園のてっぺん

送ってくれた言葉を求めて、私の月曜日はまた公園より語られる。
てっぺんに上ったら、何が見えるだろうか。そう想像してみる。いま私に最も必要なものはその力。それこそがいまここから前に進ませる力なんだ。どこに行っても、そこを向かなければ、何も変わらない。
場所や本、人、何か新しいものが大きなきっかけとなって、そこに向かわせてくれることが多い。

「麦ふみクーツェ」(著,いしいしんじ/新潮社/2002)を文庫版で、借りたのを読んでる。行き帰りの電車のなかで、とたん、とたんとはどんな音だろうか。のどかな言葉遣いが楽しい。
帰宅すると、それからはスパゲッティを茹でるときに玉葱や塩に黒胡椒をどう入れるかと、いつのタイミングでクリームソースを温めはじめるかを取り組んでみる。
たわいもない些細な段差を上っていく。
私には向上心とそれを成し遂げたときの喜びが人一倍大きいのではないか。
自己満足や、一人遊びが上手とでも批判されることか。

危ないからと言って、日本中の公園から滑り台を撤去しようとする大人たちというドラマを思い浮かべてしまった。下世話でありがちな感じだが、既に教育基本法に愛国心は植え付けられて装填されている。
あれとこれとは関係無いだろうと罵声が飛んでも、今日はてっぺんからこの文章展開だ。
あての無い市街地を歩きまわったときに、母校を思い出せるかどうかが、教育が力となって震いあがれるかどうかだと思う。
みんな勉強をしている。少しでもいい方向を見出せるように。
亘さんとの共同制作「記憶の星座化」(2004)で見つめたはずだったけど、「思い出す」というのはスキルなんだなと思った。
そこから引き出すのもスキルで、思い出すことと勉強は極めて近い。
自己学習が上手と批判される筋合いはないぞ。
ただ「ひとりでは誰も愛せない」(著,鈴木博文/創現社出版/1994)んだがね!

日曜日, 12月 17, 2006

re: re: 岐阜の犬

宅配便を待っていた午前中。確認の為に電話をすると、おばちゃんは丁寧に返してくれた。電車や車で北へ向かう日曜。日曜なのにごめんねではじまる bnap06 メールを周囲に送り、目当ての荷物も十一時半に届く。このサインはいつかの自然な息づかいを残してくれていた。
少し北へと上がるのを意識する、我々は岐阜へ。母親からの犬の話も届く。私は二十七の自称詩人の作家活動中。立ち上がる氷川きよしを撮影できなかったカメ ラマンに捧ぐ、私の学習心。たわいもない独白。作家は旗を振る存在、社会のなかで求められる存在でなければいけないから、FC岐阜は勝利した。我々は勝利 の牛丼を食べていた。つまらない意地を私ははっていた。なんとか答えを見出したかった。君はとっくに見抜いていた。どんどん北へ行ってしまうような気がし た。
「HIBINO DNA AND...」の企画、来る 22日に長良川で行われる「こよみのよぶね」で使われる ぼんぼりをみんなでつくる。犬もつくられていた。私はこっそり、犬のフレームがつくられるのを見ていた。
鼻の穴が黒くなっていた。たくさんのいろんなものを吸い込んでいた。

「無念」と「残念」という言葉について書く。
先日の日記で、「無念」という言葉を使っていたが、あれは間違いのような気がしていた。心情をあらわすには間違いだった。「無念」は、武士が切腹するとき に言う言葉。「念がもう無い」と宣言しているのではないか。本当は念があったとしても、言うことで無しにする働きがある。
「残念」は「念が残っている」という後悔の言葉で、まだ終わっていないと思っている意識だ。
だから「無念」と「残念」を混同してはいけないと思った。
ここまでは私の考えだ。
辞書を開くと、どちらにも「悔しく思うこと、さま」と同じ言葉で記述されているし、「残念無念」という言葉もあった。
「残念」は形容動詞のみであり、第一義は後悔。
「無念」は形容動詞と名詞の場合があり、後悔の意味は二番目にあること。名詞としては仏教用語で「種々の雑念を生む心を消滅させた状態」とある。
「残念無念」は昔の新造語なのかもしれないと思った。そもそも、人が「無念」になれる瞬間など理想めいた話だよという達観もそこには見える。
「念がもう無いようにしたいけど、まだ念が残っています」みたいなね。

岐阜の犬は明日からも元気にいくだろう。
誰にも新しい一週間がはじまる。





http://www.dnaand.org/

土曜日, 12月 16, 2006

今日のカミーユはちゃんと息ができた

結局、残業となって、地下鉄を降りてからも歩いて帰った。
夜は駅の近くにあった松屋で大盛り豚丼にした。土曜日のダイヤは、名鉄との連携をするつもりが一切無いようで、地下鉄線がホームに着くのとの同時に、目の前の名鉄電車が出て行くという実に不愉快な気持ちになる乗り継ぎである。松屋は味噌汁が付いているのが嬉しいなぁ。
名鉄の一区間に160円。地下鉄の遠く離れた目的地にはそこから290円。一区間分の値段が高くつくので、悔しさと、節約心と、乗り継ぎ連携が為されないことへの憤りから、夜道を歩くことにした。
通り沿いの家は、前を通過する度に自動センサーで防犯ライトが点く。それが逆に悲しい気持ちにさせる。ここは自分の家じゃないんだと自覚させられるのだ。

「機動戦士ZガンダムIII -星の鼓動は愛-」(監督,富野由悠季/声,飛田展男、池田秀一/2006)をレンタルの DVDで鑑賞した。「エイジング」と言うらしい新旧のフィルムを織り交ぜて繋ぎ合わせる編集が、やはり僕には馴染めない。ザコのキャラクターやモビルスー ツより、オープニングでバチッと格好良く美麗なZガンダムとカミーユが見たいと思ってしまう。子ども騙しなのかもしれないが、そのようにカッチョ良く賑や かでいながら、ヘビーな戦争ドラマというのが僕の好きなガンダムのバランスだと思うから。と、まったく同じ文句を三部作に続けて言っていたけど、比べると 今回が一番良かったように思う。エイジングにも覚悟はしていたし、実際に新フィルムも多く、また物語も濃厚で詰め込み過ぎなくらい畳掛けてきて、一貫して どのようなことをやっているのかを掴むことができた。もっともこの感想は、テレビ版を見ているから分かるというのが大前提ではある。映画で初見だと、展開 についていけないように思う。
ラストは騒ぐほどのものでもないが、あのシーンのイメージは大好きなので良かった。他の作品でも同様のシーンでエンディングというのがあったから、監督にはやはり思い入れがあるのだろう。最後に帰結するメインテーマだと凝視した。
僕の好きなキャラクターは、エマとファー。カミーユはすぐに文句を言う現代っ子である。アムロよりお利口さんな感じ。名鉄の一区間分くらい払っちゃうね。ブツクサ独り言は言っているだろうけど。塾帰りのひねた高校生みたいだな。

http://www.z-gundam.net/

金曜日, 12月 15, 2006

公園で

もう公園にあの人はいない。
私は目をつぶり、送った言葉を思い出そうとしたが、無念でならず、さまようだけだった。
部屋に帰って、送ること、決めることを並べ、私はゆっくり目を開く。
広がるのは、私たちの人生、私たちの世界。掛け値無しのそのもの。
だから一度きりと見る。









木曜日, 12月 14, 2006

自分が見たかったものは

その価値を見せろ。
失ってでも得たかったものを見せろ。
卑怯な心を思い出すのは、格好だけのことだ。
言葉が必要なんだ。僕には。
僕の誠実さはここにもあったはずでも、酷かったんだよ。何時になっても。

「芸術起業論」(著,村上隆/幻冬舎/2006)を読む。
悔しく、惨めな気持ちで雨の夜に寝る。
壁を叩いたクリスマス。
「抱きしめることができない人を、詩で抱きしめる」というのが作品「抱きしめる」の主題だ。
もう皆まで言ってしまった。逃げ道はどこにでもある。
その価値を見せろ。
羨ましがられるほどのものか?
自分が見たかったものは。

水曜日, 12月 13, 2006

今年の自画像

昨日、ブログに書いた 図書館利用者の公共心が問題になっているニュースを批判したからには、自分も延滞している本と CDを返さねばと、雨降るなかを自転車で返しに行った。またたくさん借りて、安心する。その足で岩倉へ。
今日の教室は「今年の自画像」と題したマジな内容。
いやいつでもマジだぞ。子どもに教えるとき、自分の問題は全て露になってしまう。だからいつでもマジになる。言葉はマジな意識を伝える。
来週はクリスマスパーティをして、年内は終了だ。
来年は油絵をすると宣言!まずは木炭デッサンからはじめるぞ。

西山氏とマクドナルドで近況雑談。そのあと真坂氏のアトリエでも続けて近況雑談す。
レンタルビデオ屋に寄って、帰宅し、教えてもらったアートのサイトをチェックした。
自分は盲目的に地図も見ずに突っ走ってしまったんだなぁ、と思った。
ドイツでベルリンに行ったときのことを思い出す。無謀なことは疲れるのだ。本当に好きなら、サポートも全力で享受しに向かわなければ。
ブログのカテゴリにある「bnap05」の数を超えるように、より向上したプロジェクトに日数を懸けていきたい。いまそれは「抱きしめる」だ。
「今年の自画像」は、みんな自分の顔になっていて良い絵だった。お世辞ではなく、良い絵を描く意識が持てている。マクドナルドでは折り鶴ひとつ折るのに、表現の問題なんだといちいち五月蝿かったが!・・・これもマジな話。


火曜日, 12月 12, 2006

いじめ自殺を無くす為に歴史の授業を強化させる!下手すると世界に達観してしまって、自殺する子が増えるか?よく言われる自殺の理由に、人生と世界に達観視してしまうというのが挙げられる。

悪霊でも吸い込んでしまったかのように、突然ガタガタと震えだし、布団に潜り込む。夜道を歩き過ぎたのか、脹ら脛の腓返りも同時に併発して、けっこう洒落にならない異常体感に。デロンギヒーターのスイッチをフルで入れながら、さっきテレビで見た「治療の順番を待つ母子」という長崎の原爆報道写真に映っていた母が、今日亡くなったという報道を思い出し、生き死にの瞬間など、こんなもんではない発狂状態なのだろうなと想像すると気が遠くなる。そんな歴史に頭を垂れ、世界はとんでもないと、身を引き締め謙虚になる姿勢から、公の心や生きようとする心が生まれてくるのだと思う。小林よしのりの受け売りのようだが、本当にそう思う。全国の図書館で切り抜きやアンダーラインを勝手に引かれる本が増加しているらしい。とある図書館では、館内で堂々と切り抜きをしている者に対し、係が注意すると「なんでいけないの!」と喧嘩になったらしい。ゾッとする。「いじめ」も無くそう無くそうと言いまくり、芸能人はこぞって昔いじめられていたと告白するが、昔いじめていたという者の意見こそ僕は聞きたい。不良キャラの方、哀川翔あたりが愛のあるパンチで抱きしめるのが見たい。安岡力也では、いまの子どもらと同世代的には響かない。哀川翔でもちょっと上か。小学生に効くのは、お笑い芸人とかかな?フジを見ていたら、今田耕司がウェンツに「もし小学校で同じクラスやったら、ガイジン〜といじめてたわ。ごめんな〜、絶対に言ってたわ〜。」と笑いにしていたのが面白かった。ウェンツは実際にそうからかわれていたので「ガイジンだぞー!って、言い返してました。」と笑顔で実体験を返すのも良かった。そう、からかいは興味のあらわれだから、実は愛情に変化できる可能性を含んでいるんだと思う。人は世界のことを全て納得し尽くしたいから、いろいろな方法で名前を付けるのだ。大人の世界もいじめだらけだ。だいたいアメリカが世界一のいじめっ子じゃないか。日本は優しいんだけど、表面的に体裁をつくろうのが裏目にでるときもある。欧米的な社会システムとの無理が常にある。いや、欧米でも全てがうまくいっているわけではないんだろう。僕も根っからの日本人だと思う。嫌というほどもうこれは変わらないし、これが脅威にもなるはずだと思う。
苦痛のなかでそんなことを思い、ドラクエ9がDSで出るのか〜、しかも四人同時プレイで戦闘はアクションで来年発売予定で、いつの間にか草薙クンがドラクエの宣伝マンになっていて、堀井雄二とすぎやまこういちと鳥山明いう巨人達を思うのであった。
「ドラゴンクエストへの道」(著,石ノ森章太郎、絵,滝沢ひろゆき/エニックス/1990)は名著であった。中村光一も凄い。DS買ったら、トルネコしたいな。

そのまま眠りにつき、福岡氏への書類受け渡しを流してしまった。いや、彼も残業になったとかで仕方なしか、兎に角、師走は思い巡らすことがまた chaos。

月曜日, 12月 11, 2006

正直な価値だけが残る

温かい思いで、朝から昼へ、そして夜へうつる。
いましているアルバイトも賞味一週間と少しで、勉強は続いていた。
スーパーで買い物をしながら、コンビニはやっぱり高いなぁと思った。

天津飯のお弁当百円引きを食べてから、テレビでたまたまやっていた映画「NANA」(監督,太谷健太郎/中島美嘉、宮崎あおい/2005)を見た。なんと なくであったのが、思いのほか引き込まれる。等身大の切なさが伝わってくる感じ。いま映画館でやっている続編はキャストが違うらしくて、残念な気持ちに。 いろいろな思惑が行き交っているのだろうなと思う。熱が冷めないうちに突っ込んだ余裕の無い感じを想像してしまう。

「イルコモンズのふた」で、文部科学大臣の作文を知った。これも余裕が無い要素が無くて突っ込んだ感じ。こういうのは子どもに痛いほど見抜かれてしまう。 読んで無いダローナー。全くの無駄だとは思わないが、逆に子どもを弱く、事故定義化してしまわないか心配だ。自分は「いじめられっ子」「いじめっ子」っ て。この文部科学大臣の言葉は正しい答え過ぎて、頼りない。そう、いまこそ「詩」なんジャロー!JYARO に電話して、詩人は勢いだけで突っ込まず、温かく抱きしめることができるか!?

今日は温かい冬の日だった。
正直な価値だけが残るんだろうなと思った。
どのようなことも。

http://www.nana-movie.com/

http://illcomm.exblog.jp/4343392

日曜日, 12月 10, 2006

re: 岐阜のアラビックヤマト

電車に揺られて、岐阜へ行く。
犬山駅から乗り継いで向かったので時間がかかり、痛恨。
日々野克彦からの企画「HIBINO DNA AND...」へボランティアワークをしに。
長良川の流れを貼ったり、「こよみのよぶね」の数字の「2」を貼ったり。
あっという間に終わりの時間になった。
親切で丁寧なスタッフの方に感動。
bnap05 のときに、ボランティアで味噌蔵に来てくれた方に接するのがどれだけたいへんなことだったかを思い出した。

岐阜市内のブックオフに寄って、帰りは「夜露死苦現代詩」(新潮社/2006)で心から笑った。横すっぽ叩かれる思いで、そんでもって抱きしめられる思いで。気合い入れっか!と落ち着いて!今夜は鍋焼きうどんとミルクプリンを食べて眠った。
猫の鬱〜、布団の中でガブリンチョ。詩人って何YO 何YO!

土曜日, 12月 09, 2006

贈り物を見届けた一日

雨は体を冷やし、僕には認めたくない変化を促した。夢から覚醒したのに、社会は地下を覗かせる姿勢で適度な会釈と共に時給相応それ以上の振る舞いを要求し ている。いや、もとい、夢は浅はかな僕の合わせ鏡なだけであったのだ。自覚するという可能性、自らが見出せばそれは酷使される関係にならぬことに気付き、 表向きは戦わずして勝利を続ける大人でいる者は、風邪をひいてしまったのではなく、風物詩として風邪をひいたのである。クラスの全員がビジネスマンやオ フィスレディになりきることは、実はできない。たとえ商業科でも、言葉は蜜の間(ま)を持っている。露悪的な電話応対に疲れたら、夜は猫になってしまえば いいのだと、お酒を飲んだようだ。もてはやされた四週間が終わり、逆に言葉足らずの日々が浮き上がった。拍手喝采、見えない花束のあとで、僕が贈ることが できるものは何であったか。中学生の時分からずっとこのような自問自答を続けている。歯を磨かず、流れる田んぼの闇に浮かぶ車のライトを電車の窓から見て いた。窓には僕の顔も映り込む。この視界自体を何かの画面に撮影することは不可能だろうなと思った。街から帰るときのことだ。風邪薬を飲んだカミーユらし い。良かった。修正され続ける、蹴落とされる時間の跳ね返りに目をつぶったのは誰だ。誰も悪くない。蜜の間(ま)を意識しているうちに、今夜は言葉を蘇ら せる言葉を唱える。
贈り物を見届けた一日。

金曜日, 12月 08, 2006

地上も地下も無く地球

お腹を満たすとすぐに眠くなり、地下社会の鉄道会社の夢を見た。ドラクエやエヴァみたいに地下に街が作られていて、そこは表社会より半額で乗ることができ る鉄道が走っているのだ。ひとつの会社がその地下社会を運営していて、地上からドロップアウトした人々が住んでいるようだった。そんな大規模なことなの に、電車が安く乗れる程度というのが、どうもみみっちく我ながらだと思う。この夢はドラマ仕立てになっていて、随所のポイントで知っている人が登場してく る。ドラマのはじまりは表社会で、有名な展覧会を僕が一人で見に行くのだが、その会場の近くにあった彫刻に日光が重なる点があって、そこから次元が歪んで 地下に滑り込んでしまうのだ。そこらへんの物理的な構造は適当で、ついにはアパートの玄関先に入り口があることにも気付く。ヤバイことを知ってしまったと 思いつつ、みんなも買っているので、僕もその鉄道のプリペイドカードを買ってしまう。だがすぐに、ここを知る客や会社員らが裏切ろうと企んでいることを知 る。僕自身も、自分だけちゃっかり利用して早いとこここから逃げなきゃと思っていたので、みんなすぐに地上に出たがるようになるんだなと頷いた。やがてド ラマは僕個人ではなく、この地下社会を運営している会社の経営陣らが描かれていくのだが、ここからは騙し合いの駆け引きと、結局は地上社会のように変貌し ていく集団劇になっていく。

目を覚ましても、残像が浮かんで気持ち悪かった。
ビデオに撮っておいた音楽番組をまとめて見て過ごす。雨の降る深夜。猫の鬱は足下で寝ていた。
MUSIC STATION に井上陽水奥田民生、僕らの音楽に森山直太朗と友部正人、POP JAM にムーンライダーズ。
オセロの松嶋尚美がボーカルをしている KILLERS が出ていて、表も裏も無くはじけていて良かった。
表社会ヅラした言葉をかいくぐって唄おう。翌朝六時に居て、次の息が楽しみだ。

木曜日, 12月 07, 2006

雨の悩み

理不尽に鼓舞される言葉に呆れてしまい、雨のなかを歩いた。
男は馬鹿だと、十九歳と二十七歳は夜の空気を吸う。
それを地で行って、思い出すことはきりがない。
会議に向かうときに聴いていたのは、中村一義で、スキップしながらにはぴったりだったのにな。
それこそ金字塔って感じでいけんもんかと。来週のミーティング休みが決まって、濡れ転がった。
雨に言い聞かせたって無駄さ。
女達は帰るよ。
そりゃそうなんだよ。
損して得とれよ。ようやく気付いたのは俺のことだよ。
遅かれ、早かれ何かを言い合うか。言い合えるんだろうか。その余地については、どんな言葉で唄えるだろうか。
というわけで、ジャンバーだけでのりきったので濡れまして、後は自宅で bnap06仕事した次第です。

水曜日, 12月 06, 2006

コラージュのちパーティ

大竹伸朗の受け売りだと宣言し、本日の絵画教室はコラージュ大会。チラシや雑誌の素材をたくさん持ち込み、みんなでハサミをチョキチョキ。異なるソースのイメージを出会わせる。
テーマは野球。楽しい野球場の俯瞰図を描いた。子どもよりも、参加していた僕や西山氏のほうが熱心になってしまったところもある。構図についてが剥き出しに問われるので、コラージュは面白くてヘビーだ。

それからポールらのアトリエにて、ピーターを囲んでのパーティ。誕生日もあってクラッカーを鳴らす。鍋にダンス、握手に指差し、再会を祝い、また願う。
この頃のことなどをたくさん話した。

火曜日, 12月 05, 2006

目がきらきらして、言葉で開いている

言葉足らずのことばかりだと、それだけじゃ分からないし誤解されてしまうこともあるしで、対立し合うのも実は全てそんな理由なのかもしれない。
でも、ここからも思うのは、人はひとつの言葉から莫大なことを想像することができるということ。
活字中毒者というのは、もしかしたら言葉から想像することを快楽にしているのではなくて、想像することが実はあまりできない状態なのかもしれない。もしくは、想像することができない貧しい言葉だけにしか囲まれていないか。
この反応についても、逃れられない原則だと考える。

夜は あんかけスパとお茶をした。NHK で国民健康保険制度の行き詰まりをドキュメントしているのを見て、先の小泉政治は二極化現象を何も本気で捉えていなかったんだなと思った。がんばって、 ちゃんとして、安心できるようにしないと。ドキドキワクワクできるように。僕も、控除が溶けるぞ。

月曜日, 12月 04, 2006

原則から逃れることはできない

気付けば、朝五時の名古屋駅。
眠気と寒さで、逃げるように無理せず帰宅、二時間だけ睡眠をとる。
この判断が正しくて、身体がとてもラクで良かった。
やっぱり睡眠だなと。
物理的な現象の反応で身体は動き、それで言葉を扱い、ものごとを考えているんだなと。当たり前のことを思う。
この頃は本当にそう思う。
表現についていくら大きなことを吠えても、こんな原則から逃れることはできない。
でも短い睡眠時間だったので、バイト後には、帰ってすぐに突っ伏して寝てしまった。
よく言われることだけど、名古屋はやはり、行き交う人がゆっくりしている。
環境も原則。
ここで起こってくることを受けとめていこう。

日曜日, 12月 03, 2006

東京歩き、僕は、僕は、僕は

まるで申し合わせたかのように、早朝の渋谷には誰もいない。確かあの BYG は道玄坂にあったはずだと思い出したが、見つけることはできなかった。
ゴミ回収車と叫び合うホームレスを路上に見て、ひとり歩き続け、「煙草路地」(作詞作曲, 山本浩美/1974)を唄う。

恵比寿の「写真新世紀」展へ。いい展覧会だった。丁寧な仕事ぶりは、鑑賞者の目に届く瞬間まで続くことを思った。見ることができて良かった。
アートフロントギャラリー、シェル美術賞展とそのまま歩く。代官山のあたりは裕福な感じだ。
電車で両国に向かい、荒木経惟「東京人生」展へ。IXY を握った新作「色夏」は現在進行形であると思った。
意図は理解できるものの、江戸東京博物館の展示空間に混ざっている関係には戸惑う部分もあった。bnap05 のときにトヨタの産業技術記念館内で展示を行ったことを思い出す。博物館鑑賞と、美術鑑賞は似ているようで異なるから。

携帯電話の電池が切れたので、秋葉原で安い手回し充電器を買うが、うまく動かないので、諦めて携帯ショップにお願いしに行く。快く引き受けて頂き、待ち時 間にオタク街を社会見学。情報では知っていたが、生で見る現象は迫力が凄い。ネットアイドルの路上パフォーマンスは、見ている野郎のほうがパフォーマーの ようだ。この全体自体を見ている人もたくさんいた。タケノコ族も見せ物化してたであろう。
三十分百円という激安ネットカフェを見つけたら、メイドネットカフェと書いてある。入ると、一人だけが申し訳なさそうにメイドの格好をしていて、後は古び た漫画喫茶だった。ネットは Windows95 時代のようなノートPCでやってくださいという無茶な仕組み。それだけでも変な空間なのに、目の前でアラブ系のカップルが抱き合いながらネットサーフィン をしているというのも凄い。ここが一番カオスだったように思う。

充電を終えて、無事に秋葉原を脱出。名古屋の大須もオタク街だけど、お祭りっぽい感じは比べ物にならないと思った。ソウルを回ったときに、大規模な都市ほ ど地域毎に専門化を進めて個別に発展していくということを学んだが、東京はまさしくそうで、渋谷と恵比寿、代官山、両国に秋葉原は全て異なる。東京に住ん でいる人でも、ぜんぜん行かない街もあるだろう。
そして新宿に戻った。深夜のバスで名古屋に帰還する。アルタ前まで歩くときに、駅の南口でやっていた工事の囲いに、おそらく写真家による企画作品がプリン トされているのを見つけた。面白いなと思っていたら、路上スナップのシリーズに、森山大道や電撃ネットワーク、鈴木慶一もいるではないか。嬉しくなって、 電池が不安な携帯でパチリ。後で調べたら、これは吉永マサユキによる写真のプロジェクトだった。

十一時までやっている喫茶店に入って、今回の東京の話をたくさんした。
今日見て来た展覧会の話もたくさんした。
話は尽きぬこと無かったが、バスのリクライニングを倒すと、眠気は襲いかかってきた。

さあ、煙草に火を点けて
どこへ、どこへ、行こう
さあ、煙草の煙をくゆらせて
どこへ、どこへ、行こう

破れズックをつっかけて、穴開けポッケに手を突っ込んで
のばした髪を風になぶらせて、小便臭い路地を行けば

何にも考えはしないけど、僕は、僕は、僕は
何にも話はしないけど、僕は、僕は、僕は

僕のこの心の奥底から、汲めど尽きないものが湧きいづることを

さあ、煙草に火を点けて
・・・

(作詞作曲, 山本浩美/1974)

http://www.shinjuku-ss.jp/

土曜日, 12月 02, 2006

全ての景色を言う

宇宙にはあと一歩だった。
そんな僅かな、でも本命の望みを追うようにして、バスは走った。

「大竹伸朗 全景 1955-2006」展を見に、朝七時、東京都現代美術館のある清澄河の町に立つ。
少し歩くと、「宇和島駅」という看板が屋上に付いているのを発見する。はじめての町だから、本当にあるのかと疑うが、明らかにおかしい。既にこれははじまっているのだなと思った。
そんな早くには開いていないし、待ち合わせ時間まで三時間もあったから、迷わずファミレスに入ってモーニングを食べた。お代わり自由のコーヒーと杏ソーダ を飲みながら、「海馬 脳は疲れない」(著,糸井重里、池谷裕二/ほぼ日ブックス/2002)を読み終えた。前向きになれる対談が、丁寧に、それでいて堅 苦しくならない言葉で収められていた。
教育にも、サブカルチャーにも、容易に自己定義しようとしていないところが「ほぼ日」の糸井重里らしい。やろうとしていることはただの対談であって、変に 気負うところは無いというか、大義名分や意味を掲げるのは置いておこうという姿勢が、この本の中で後半に出てくる「あとで修正するかもしれないけど、いま 自分が考えていることはこういうことです」という言葉に出ている。これは更新を共有していこうとする、気負わない姿勢だ。
読み終えて、根拠の無い自信を持ってがんばろうと思えた。
脳は「べき乗」でうなぎ上りするのだから。

十一時、美術館に入ると今日の昼から大竹伸朗と湯浅学の対談イベントがあると知る。「幻の名盤解放同盟」「時代の体温」の!あの方かっ!と興奮する。その イベントが三時から六時まであるという長丁場ものなので、終わってから展覧会を見ることができない展開だ。急ぎ足で見ねば!
と、思っても、この展覧会は多く話されているとおり、大規模な回顧展であり、総作品数二千余というフルボリュウムで迫ってくる展覧会だったのだ!しかも大 竹伸朗の作品は、濃厚多層イメージのハイアンドロウだから、すごいすごいすごい。興奮止まぬまま、後半泣く泣くペースを上げ、三時には企画展示の全てを見 たが、常設作品展と、大竹伸朗の選書展という別企画は見れなかった。

エレキギターぐわんぐわん振り子状に鳴り響く「零景」のあるエントランスの宇和島駅より、地下に下ると、講堂からクリスマスソングが流れていた。壇上にレコードセットとスピーカーが組まれている。
やがて湯浅学と大竹伸朗の両氏があらわれて、対談のタイトルは「歌謡曲相撲」というハイパー脱力企画がはじまった!
これでもかというくらい、当時ガキの今おじさん世代は感涙ものの歌謡曲レコードを流しまくり。
間にぶっちゃけ本音トークを話すという、何の気負いも無いリッチな時間であった。母親に勝手に捨てられないように作品が大きくなっていったんでしょうと湯 浅学が突っ込んだり、こうやって描けばこれが出来るなと思ってしまうと冷めてしまうから、一歩踏み込むんだと画家の情熱を大竹伸朗が返したり。最後は何の 対談なのかわからなくなってきて、谷岡ヤスジは凄い!と強く言っていた。

そこからダッシュして、、小山登美夫ギャラリーで蜷川美花の個展、シュウゴアーツで森村泰昌の新作を見た。同じタイミングで同世代くらいのカップルがエレ ベーターに駆け込んできた。男子は「靴を踏むなよ、殺すぞう!」と女子に言い、女子は「私の靴は踏んでもいいよ!」と返していた。

地下鉄を降りて渋谷に出ると、街はやはり狂っていたが、そこでは東京の幻影を見ている者だけが騒いでいるように思えた。
十一時半、携帯電話の電池が切れた。
僕らには来年の手帳を、両方が持つという望みがあると思う。
あと一歩の宇宙も、ここから望もう。

http://shinroohtake.jp/

金曜日, 12月 01, 2006

LOST、あるいは!

まだ三千円くらい残っていたユリカを無くした。鞄や財布をひっくり返しても出てこない。今日の朝の出勤のときに使ったのが最後で、改札を出たときに左のケ ツポケットに入れたまでは覚えているのだが。どこでどうなったのか無くなってしまった。落としたか、あるいはすられたか。

僕自身、先日にあった飲酒の機会からの傷は癒えていなかったようだ。それからまた何かを無くした。あるいはそのぶん、得ようとしたのか。いまいちど強い力 で抱きしめようとした。もがけばもがくほど、やさしい気持ちからは遠のいていった。朝焼けの公園で、缶コーヒーを握りながら悩んでいることを聞くような行 為に落とし込みたかった。切ない想いを肯定でもしなければ、それも自分自身がそこを力にもっていけないようじゃ、世界中のセックスは全て欲望のはけ口に なってしまう。そんな定義の仕方こそ、オヤジくさいと罵られる。川と町について、僕と彼女が見ていたもの。あるいは彼と彼女が車で通り過ぎた風景の流れの なかに、何もきらめくものは無かったとでも言うのか。
彼が彼女の絵を描くことをしないのを、僕はどう考えていて、僕自身はどうなのか。
沈んでいくだけの憶測はこれで終わり。
僕は逃げるように、深夜の高速バスに乗り込んだ。
シートを倒すためのレバーが壊れていて、背もたれがずっと垂直になってしまっていて寝苦しい。
思い出すための夢も見れない。

木曜日, 11月 30, 2006

どんべえ食べたかな

シートを倒して
水を飲み
コーラにした。
何かを焦っても
何も変わらなかった。
髪の毛を撫でる手は
いつもは自転車で回っている町を
動きにくそうに
行ったり来たりしている
今日の、落とし前の
行為だ。
部屋がとにかく汚くて、明日の朝にはゴミを出したくて、出さなきゃいけなくて、それでも愛しい気持ちが消えず、猫の鬱に噛み付かれる。ならどうしてお前はそこまでに脆弱なのかと。そのまま強く貫きなさいと。
どんべえ食べたかな。

水曜日, 11月 29, 2006

Progress・このままじゃ生きていけない

キャバクラ嬢がコンビニ前でたむろしている朝、僕らは搬出のバイトの為にお茶を買った。雑居ビルには何でも入っていて気持ち悪い。ここには都合が堆積している。
欲望で作られた都合である。都合で欲望は作れない。この部屋の欲望はアートとデザイン。ここいらではマイノリティだけど、欲望には変わりない。
段ボールを壁から海へ、そして母校の火の中へ。いつしか汗だく。
忍法を宣言するのは馬鹿だった。そんな忍者はすぐにやられる。
悪口は自分に言っていることの裏返し、根拠の無い自信をもっと語ろう。不安はデフォルト。即で筋が通り、有り難し、名鉄内で一眠り、直で絵画教室へ。

蜜柑を握る図で一枚、皮を剥いて一枚、そんで食べるという欲望を満たす教室。
終わってから、写実的に子どもが絵を描けない場合どうするんだい?と向かいのカナダ人に聞かれたので、自然な描線が最も大事だと思っていると答えた。美術教育の矛盾って単語で言うより、その困難と言う。

帰宅してすぐに爆睡し、遅くに目が覚めた。「プロフェッショナル 仕事の流儀」(NHK/2006-)を見た。
筋が通った大人の仕事に勇気づけられる。カーデザイナー奥山清行氏の言葉が力強い。スガシカオが唄う主題歌の歌詞をテロップではじめて読んで、いいなと思った。等身大なポップ。背中を押す。

http://www.nhk.or.jp/professional/index3.html

火曜日, 11月 28, 2006

光の円恵

君が豆乳を買いに来て、
目をつむって、
いよいよであった。
お世話になりましたと言い、八年前の自分をなだめる。
茫漠とした日々は何のためだ?
と言わてもいい。
罵倒は面倒。
いやな疲れは呆れているあらわれで、
思い出しながら解き放たれる。

外には霧が立ちこめていて、商店街の明かりが無かったら先には進めなかった。

月曜日, 11月 27, 2006

雨はセクハラなどしない

公園は雨に濡れた赤とオレンジと黄色の葉がたくさん
あって落ちて散らばっていたので昼代は二百円限り。
昨晩飛ばし過ぎ自業自得で彼は倒れた?丸出だめ男と
呼ばれることもない、あんな調子じゃ。傘と五百円玉
二枚、ヘルプのバイトのお知らせ。朗報の予感。今年
こそは宝くじを買うぞ。三億円当てて番狂わせだ。い
や本当は何も変わらない。恐ろしいほどに何も変わら
ないはず。いくらペイしても、ギターや英語がうまく
なるわけじゃない。時間をペイして買うことができる
?詩は時間をかければいいわけじゃない。一行は時空
が凝縮したもの。煮詰めて萎縮した演奏はのれない。
雨がつくるものについてを語ろう。罵り合った夢など
つまらない。可能性があるかないかなんてどうでもい
い。レビューを読むな。現物を見ろ。雨がつくるもの
のように居ることができるか。何度も繰り返し回るも
のの強さ。回っていないもの、流れが悪いものは一瞬
で見てわかる。キレイじゃない。それは。酷く言われ
てしまうだろう。それでも愛があればと泣きつくのは
そこからだが、汚い泣き方で殴る蹴るならとにかく逃
げろ。ナイフを潜めたカメラなんて無い。カメラを潜
めたナイフはある。講釈は語り合うことではない。言
葉はときにみじめなものだ。人間は悪口ばかり言い、
好きだとばかり言って泣いたりする。セクハラは己の
弱さの証拠。酷く言われても、気持ちについてを語っ
ているか?好きか嫌いかを押し殺す講釈はやめろ。思
いのほか傷があった。ナイフを握った彼もそうであろ
う。カメラレンズから涙が落ちる。公園は雨に濡れた
赤とオレンジと黄色の葉がたくさんあって落ちて散ら
ばっていたのでお昼代は二百円限り。スカンピン唄う。

日曜日, 11月 26, 2006

確立してこそのロック、これがロックと言っていることがロック

福岡氏とポールとハイエースでゴー!
春日井文化フォーラム「美系優秀」展と、air's box での「やさしいロックなやつら」展をはしご。やさしいロックには両氏と岡本氏が出品しているので、搬出の手伝いもする。
車中でも、ラーメン屋でも、搬出後の福岡宅での飲み会でも、話すことは表が自信で裏がエゴと書かれたカードだった。
朝の五時まで飲んで、帰る。
あまり爽やかな朝ではなかった。
コーヒーを飲むと言って、コーヒーを飲むのもワイルドレモンを飲むのも、どちらでもいいんだぜ。どちらもつまらないと言われることではない。自分自身がそれを思っているなら。

展覧会場を出るときの気持ちは、ライブ会場を出るときと違うだろう。
絵も音楽も詩もみんな同じだと思いもするが、いきなりフュージョンやミクストメディアに賭けるのは、僕は少し疲れてきたんだと自覚した。
それはロックをジャンル分けしたりする醒めたこととは違う。
鈴木慶一は「ロッカーはギターの練習なんてしない」と言っていたらしいが、それは練習と呼んでいないだけで、確立していなければ、あんな音楽のプロにはなれない。

ポールの、あの憧れのワーゲンにはじめて乗った。
バチバチきて最高。
郊外の交差点でおかまをほるやつはいない。

土曜日, 11月 25, 2006

お昼

ここ毎日、バイトのお昼は公園で食べている。
パンをお腹に詰め込んでから iPod で音楽を聴いたり、本を読んだりしている。
それから写真を撮るのが常だ。
この小さな公園にいると、何故か無性に写真を撮りたくなる。
それをいつも数枚送る。
正午の光を電子情報に換えて、手のひらで再生し合う。
一時間足らずの後の、ずっと。



金曜日, 11月 24, 2006

道徳を語る資格は行う責任と共に起こる

先日、朝日新聞に連載されている「いじめらている君へ」という欄に対し、「いじめている君へ」も要ると書いたが、本日 第一面を見たら、それが載っていた。交互に変えているのかもしれない。事実確認もせず批判的に書いたことを反省する。「いじめている君へ」はタレントのソ ニンが書いていた。
では次は「いじめを見て見ぬふりしている君へ」だ。

テレビのゴールデンアワーで「太田光の私が総理大臣になったら・・秘書田中。」(日本テレビ/2006)がまた いじめ自殺問題を取り上げていた。朝生でも議題になっていたらしい。
文部省に送りつけた自殺予告など、僕自身がテレビを見ていなかった時期のせいもあって、僕は乗り遅れていたが、世相は深刻さをようやく自覚してきたという 感じなのかもしれない。飲酒運転をこれでもかと取り上げまくったことで、郊外の飲み屋が売り上げを落とし、ボジョレー・ヌーボーの試飲をスーパーがやらな くなったように、非常に分かりやすいかたちで表面に提示されるのが世相の姿だ。企業はその変化に敏感に対応している。マクドナルドはロハスぶるのをこなし ていく。いじめ自殺もそんな提示がポンと来そうな気がする。

死なないようにだけ守られる?
いや、よく生きるように
楽しくできれば自殺なんてしない。
頭を撫でる音、あなたを抱きしめる音。
目を閉じて、思い出が上書きされるように。

木曜日, 11月 23, 2006

esquisse じゃない。下絵も行動そのもの、即ち drowing。

僕が抱きしめられなかったもの
画面の前に、俯き
そのままわかちあえず
理由が無く、果てていった。
居なくなってしまうことに理由を見るのは人間の力、
でも同時に理由なんて無いと見ているのも人間の力。
四角い窓。空が映る画面、
君の目を通すイメージを並べる。

紙に焼き刻まれた図、
敷き詰められた光の砂は、
網膜の上で水に浮く。

でも、
もう、
前を向いて。

水曜日, 11月 22, 2006

膨らむ、及ぶ、ここにあるイメージ

パラッパッパッパー 終わり!

自分でつくった歌を唄う子ども。ススキを堤防より拝借した私。
丁寧に描こうねとしながら、火を噴いたり、竜巻が起こったりと膨らんで、最後は点と点を結んで絵を作る遊びに。掛け合って、答え合って。
すぐに暗くなるこの頃、帰りに福岡氏宅に立ち寄り、bnap06 について簡単な打ち合わせ。灯油ストーブの前でコーヒーをもらいながら。
アートの話から家族の話まで及ぶ。
週末に、福岡氏がいま出品している企画展に向かいます。

ここにあるイメージ掴んで、抱きしめて、はがいじめにして、離さないで。
俺の言葉がつくった恐怖、救い、優しさを、一歩引いて見つめよ。
そして飛び込め。

http://columbia.web.fc2.com/airsbox/

火曜日, 11月 21, 2006

川沿い、や、池周りで、金は無い

bnap06 仕事に追われ、時間と労力が押し寄せられる。
何て無神経で、何て非力な!・・。
ここで試されるのだと思った。
会社の中で、上へ下へと動いて、バイトながらに構造を見る。

晩に「桃源郷の人々」(原作,青木雄二、作画,佐藤量/2003-4)を読む。
大人は生きることを剥き出しにしている。
具体的に転がっているそれは観念では無く唯物、お金はだからこそ批判対象にされるが、賞を責める者はいない。そのくだりに胸を打たれる。
貫かれ続ける青木雄二の言葉。
濃縮度の高い短編、中編には河川敷を舞台にしたものが多いことに頷く。

もちもちチョコと一緒に買った、きなこパンを食べたら、これにも もちが入っていた。
もちもちだらけだ。
僕らがそこに居たことを思い出す。
明日でも昨日でもなく、それは今日。
川沿いでの漫画、池のある公園でを唄う歌。
「ゆうがたフレンド」(詞,糸井重里、曲,白井良明/2006)ムーンライダーズを唄う。

http://www.1101.com/friend/index.html

http://www.naniwa-kinyu-dojyo.com/club117.html

月曜日, 11月 20, 2006

esquisse3「再度、警告す。詩人の良識に逃げるな。」

福岡氏との助成仕事に着手する余裕の無いまま、日曜の夜は寝た。週のはじめである今日は、時間給労働に当たる。慣れてきたのはいいけれど、個人的な仕事に はいろいろ追っつかないことばかり。来月の調整をしはじめようぜ!と明日発売の雑誌群が手招いていた。東海ウォーカーの表紙には、一ヶ月前から準備する X's mas!とある。
やはりこの国は消費経済第一優先なのだ。
最近は、ハロウィンもそんなイベントの対象で、どんどん騒ぐようになってきた。いまの大学一年の子らは仮装パーティをしたって言ってた覚えがある。おそら く数十年昔の日本では、クリスマスなんて関係無いという風潮だったろうし、理由をつけて楽しんでいたのは若者だけ。ハロウィンもそうなるんだろう。僕らは そこまでマジになれないかもしれない。世代論を信じればね。
消費経済に迎合せず、でも弾かれもせず、僕は詩人ですとか言えるのか?かの街で、日本一だけではなく世界一の気狂い都市で。

詩人とは、詩を書いてお金を稼ぐ人のことです。
プロで食っている詩人は一人もいませんとよく聞くが、一円でも稼いでいる人は尊敬する。兼業でもいい。詩人の体験は僕が希求している仕事なのだ。

日曜日, 11月 19, 2006

esquisse2「落としどころについて。日々の、言葉。」

郊外の駅、消費者金融の無人店が立ち並ぶロータリーの前にあるカポックの花壇に、立て札があって「花と仲良くしてください」と書いてあった。
僕らの時間、音楽はオザケンに、サニーデイ、ベルベットアンダーグラウンド、曽我部ソロ。
北上した。紅葉が並ぶ、魅惑の山地、岐阜へ。
岐阜県美術館での、日比野克彦個展 HIBINO DNA AND… 「日比野克彦応答せよ!!」を見に。雨が降っていて、駐車場が離れたところにあって走った。濡れた。屋外に展示されていた様々な船は、屋根の下に運ばれて いた。段ボールで作られたこれらと、美術館のメインラウンジには長良川が作られるワークショップが行われている。敷き詰められた段ボールが温かい。落ち着 いた優しい色合いの中で、日々野克彦の作品群を一望する。80年代から00年代までの、それらはリ・マスタリングされたベストアルバムだ。編集は現在の感 覚で行われている。バブリーじゃない、落ち着いた視点、スローライフ的な視点とも解釈することもできるだろう。そういう落としどころについても、ポップな 強度を感じる。段ボールを剥がして構成する造形も、絵の具を引っかいて刻む言葉も、ナイーブなようでいながら図々しく HIBINO と書かれているのだ。彼はアーティストだ。四十過ぎても、子どものように段ボールを切って何かを作っている。制作風景を写したビデオの中で「やりながら次 の一手を考えている。それが楽しいんだ」ということを言っていた。
それから岐阜駅のアクティブGを見て、潰れてしまったパルコの前を通ったら、囲いにペインティングのデザインが施してあった。1234と船の頭に数字が並んでいる。やはり HIBINO であった。
夕食にラーメンを食べて、お昼は美術館のレストランでパスタだった。くつろいだ話をすることができて、帰った。雨は止まず、僕は十一時には寝てしまってた いたように思う。優しい気持ちで、くつろいでいたことまでを覚えている。運転はとても疲れるのだ。だから優しい気持ちで、僕は顔の輪郭を撫でるように描い た。
二人で掌を並べ、雨粒が作る水玉模様を写真に撮ろうとレンズを向けた。
心のなかで手を振り、部屋に戻って布団に入った。

僕の図々しさのひとつに、この日記を挙げる。
この日記がさりげなく詩のような顔をして、日記と定義できないところで、行ったり来たりしてみたらどうだろう。

http://www.dnaand.org/

土曜日, 11月 18, 2006

esquisse1「詩と批評。そうやって僕の日は戻ってくる。」

朝日新聞朝刊の一面に「いじめられている子へ」という連載コーナーがあった。各著名人、有名人が、タイトル通りにメッセージを綴るというもの。今日は林家 こぶ平の回で、「話す」ということは大切で気持ちの良いものですよと優しく語りかけていた。内容に賛成はするが、いま渦巻いている状況は「いじめている子 へ」という連載も必要ではないかと思う。大人社会が放置しているもの、その全てが端的に子ども社会に流出している。勝ち組、負け組という言葉を用いて存在 を固定化させる空気を、そのまま子どもらは吸っている。どんどん子どもは知恵を付けていく。固定化させる知恵もちゃっかり身につけてしまう。用意周到に、 怒られないようにうまくかいくぐっていき、知らずに姑息の域だ。その歪さを自覚させる大人の行為に抱きしめられなかった子は、そのまま落ちてしまうのだろ うと思う。

バイトの合間に、NHK で先日深夜にやっていた宇宙ステーションとの生中継を、また再放送でやっていた。時間が遅かったことと、津波警報のテロップが入ってしまっていたことが理 由かもしれないが、生放送じゃないじゃんとツッコミつつそれを見ていたら、漫画家の江川達也の発言が完全にカットされていた。
「ハイビジョン放送だから、宇宙からの映像もすごく奇麗なんですよね。でも普通のテレビで見ている人は意味ないね。あ、そんなこと言ってちゃいけなかったか。」

詩と批評。そうやって僕の日は戻ってくる。
一日ずつ階段のようだ。上がっているか、下がっているか、地下室でも屋上でもいいよ。気持ちいい空気で、君と話ができたら。

金曜日, 11月 17, 2006

皆の鬱は猫として眠る no,3

融通が効くようになった俺の脳味噌
いつまでも shuffle
もう飽きたの
ステーション、夢を引っ張るのはギャラクシィ、多くの優しい男たちを思い出して
宇宙(そら)に女の顔を描く
いつまでも my mind
それからだけど
それだけじゃない
床に這いつくばった自由
床や天井に広がる言葉
読みあげる声
俺の、私の、声、この言葉は、この詩は自分自身の声で
読む
ドイツより読みあげた
電話口での詩
あなたの文字はあなたの顔
輝きは失われない
ピッピちゃんは飛んだ
俺の行いは続き
共に
僕の努力も続く
do do do
どうなっても君は生きていけるよと皆に言われ、
君のことが心配でならない
君の住む町まで自転車を走らせても、
それだけでは僕の自己満足
自殺も自己満足なんだよ
言えないようにさせる自己完結
奇麗なままで、目を閉じないで
休むことを覚えて
宇宙に行ける頃
君の年齢なら間に合う
identity card
ガキに叩かれるのが仕事
前に出ていき、たくさん叩かれるんだ
俺の詩
読んでくれよ
聞いてくれよ
みうらじゅんが不倫だって落ち込むなよ DT
だってロックだー
サブカルよりも
明日も公園でお昼する

「日本を愛せないから自殺します」とかいう遺書を考えてしまった。
next 1 years after.
Right on.
白髪頭のロックミュージシャンの顔
猫の鬱の鼻くそを取ってあげる
ゆっくりした電話で
温かい

木曜日, 11月 16, 2006

これからの、それぞれの

バイトを休んだ。
風邪なんだと自覚して、回っていかない物事も自覚した。
bnap06 の、しなければいけない仕事を行って、これからの、それぞれの命題を話した。
そう。
これからの、
それぞれの命題。

今夜は、温かくして、風邪薬を飲んで寝ます。
積もり積もった話はまた明日。

水曜日, 11月 15, 2006

そのままの言葉で

昼まで眠る。新しいバイトの関係にて水曜は「逆はんどん」のような扱いで、夕方まで休みという変則スケジュール。あんまり体には良くないことを認識する。 夜はゆっくりできるというほうが自然で断然良い。これも走らせてみないと分からないことだ。そんなことばっかりだったろ?
猫の鬱に言われる。めずらしく、鳥のおもちゃ ピッピちゃんでそばえて遊びだす。口にくわえていると、本物の鳥にみえる。

自転車ひとつでいろいろ億劫になったりしながら、bnap06 仕事の後に絵画教室。
みんなで描いたオリジナルトランプの作業工程を紹介する。それから公園に座り、空を描く。すぐに暗くなってきたので、引き上げてきて、絵でしりとりなど。今日は西山氏に来てもらった。今後の展開に必要なことを挙げて、夜に別バイト。なんかきりなし。

ビデオに撮っておいた宇宙ステーションからの生中継を見る。ちょうど津波警報が出ていて、画面右下には日本地図の警告図が出ていた。それが見にくいのでは なくて、地球や世界の仕組みや構造を異なる側面から放送しているように思えた。宇宙ステーションの窓から、サハラ砂漠の地表を眺める映像が流れた。ハイビ ジョンでは世界初ですと NHKは騒いでいたが、画質に関係無く、この画が生で見れることに感動する。スタジオゲストの安めぐみが、あの砂漠の映像を見て「あんなところに私達が生 きているんだなと思うと、不思議な感じがしました」と言っていたけど「俺達はサハラ砂漠には生きていないんだけど、地表って意味でそうだよね」と、横にい た漫画家の江川達也は思っていたに違いない。直接的ではない言葉は宇宙開発の背中を押してくれないだろう。ダイレクトな感動を話す言葉こそが、私達が至 急、語り語られることが要されている。いま地表では、ふとした拍子にみんな死んでしまうところにいるようなのだから。
自殺の報道は、新たな自殺を呼んでしまっている。
勝ち組はずっと勝ち続け、負け組は底無し沼であるとされるように、言葉は自己催眠の魔力を持っている。本当は人間、勝ったり負けたりなのだが、金持ちほど乞食を恐れるから、わざわざ勝ち誇ったバリアを張ったのだ。
いまあなたを包む言葉をもっと疑い、あなたが見たいものを語ろう。その力は生まれながらにして必ず持っている。変換を用いないダイレクトな言葉のみが、心に息をさせることができる。
パソコンは変換だらけの大人の言葉。
詩はそのままの言葉。何の理由や魂胆も無い、卑怯な剥き出しの。

火曜日, 11月 14, 2006

影を慕いて

まぼろしの
影を慕いて 雨に日に
月にやるせぬ 我が思い
つつめば燃ゆる 胸の火に
身は焦れつつ 忍び泣く

わびしさよ
せめて痛みの なぐさめに
ギターを取りて 爪弾けば
どこまで時雨 行く秋ぞ
振音(トレモロ)寂し 身は悲し

君故に
永き人生(ひとよ)を 霜枯れて
永遠に春見ぬ 我が運命
ながろうべきか 空蝉の
儚き影よ 我が恋よ

「影を慕いて」(作詞,作曲、古賀政男/1928)

愛国心という言葉を教育基本法に入れるのは間違ってる。白々しい言葉だよ。
気持ちは、悲しかったり、愛しかったり、生々しく綴られるものだから。

月曜日, 11月 13, 2006

もっと

もっとやさしくなりたい。

もっとつよくなりたい。

自分だけが変えていくことができる。

自分だけが守ることができる。

自分だけが愛することができる。

それに満ちた日々。

私は夜につぶやく。

一遍の姿を見つめるために

私が話したこと。

私の夜を伝える。

もっとやさしい声で

もっとおおきな言葉で

いく。

日曜日, 11月 12, 2006

はるのはな

温かいと書いて、微笑む。
木々は影を落としていた。
温かいジャスミン茶を飲む。それにクッキーとチョコレート。
ゆっくり歩いて、横になって眠った。
命のなかで息をしていた。
花を買った。
大きくなったら花屋さんになりたいと、女の子はみんな言っていたのがよく分かった。花屋さんでバイトとかはたいへんだろうけど、気持ちは悪くならなさそう。
花は息をしているから。
僕らも息ができる。
ずっと見ている。
温かい息を吐いて吸って、目を拭う。
命のなかで抱きしめている。
帰宅して、鍋で紅茶を入れてくれた。
キャラメルが染み込んだ薄いベルギーワッフルのクッキーに、チョコレート。
体を温めて眠った。

土曜日, 11月 11, 2006

over asian lovers

朝、ウウくんと握手をして別れた。
今日はカッチャンと大須に行って帰るのだ。僕は日中にバイトなので見送りに行くことができない。
アジア人どうしらしく、ハグはしないけど、握手や言葉がそうなんだ。

バイトを終え、カッチャンからのメールで無事にウウくんが旅立ったことを知り、そのまま電車で、布袋まで行く。先日の bnap06 報告会で声をかけていた梅村さんもパンを持って来て頂く。+Gallery での日韓交流展のオープニングパーティ。僕がソウルに行ったときに、一緒に展覧会をしたジミンとジオンが来ていた。
「オヒサシブリネ!」とジミンの日本語が流暢になっている。梅村さんと紹介し合い、ハングルトークを聞く。最初の一言が緊張するというのに頷く。
二階では「+ビデオアワード」の展示も行われていた。水たまりを口で移し替える行為の映像が面白かった。時間が前後するが、ジミンの歌パフォーマンスの 後、河村さんの飛び入りパフォーマンスはすごく良かった。iPod のイヤホンを耳につけ「世界でひとつだけの花」を爆音で聴きながら、ひとりで歌うというもので、おそらく彼女には自分の歌声が聴こえていない。痛々しくも 切実な声が、不安な意識を剥き出しにしていて良かった。選曲も泣かせるチョイスだと思う。
ジミンとジオンを紹介し、落ち着いて懇談をした。
ソウルに遊びに行きたいねと話した。今回は、男性が来ていなかったから、ヒョンヨルにボン、グィスンらは元気だろうか。マッチョで優しい韓国男子にまた会いたい!
ジミンに、日本人の男子はみんな痩せていると言われた。前に日本で会ったときは、マヨネーズ味が多くて気持ち悪いと言っていたっけ。
別れ際、ジオンに、ヒョンヨルと三人で川辺で過ごした時間はすごく良かったねと言った。
アジア人どうしらしく、ハグはしないけど、握手や言葉がそうだった。

それから、部屋で「抱きしめる」ということについてをはじめた。
来年の春に行う個展のお知らせは、絶対にみんなに送る。

http://homepage3.nifty.com/plusgallery/

金曜日, 11月 10, 2006

ウウくんの手料理

少しずつ新しいバイトにも慣れてきたかもしれない。
昨日、一昨日なのに、展開が早すぎる?
なにかと濃厚days な自分であった。
大切な君へのメールや連絡は絶やさず。昼は公園と公園で、糸電話のように、携帯の画面に表示された言葉を見つめる。
ウウくんと、夜な夜な話をした。恋人たちの話に終わりはない。
でもやはり時間が無くて、ウウくんともっと遊びたかったが、こんなのも面白く感じている。一人だと淋しく落ち込んでしまったはず。

ウウくんが明日の昼に帰ってしまうので、今夜は僕の部屋でウウくんの手料理を囲んでの食事会。日本人に合わせて辛さを押さえてくれると言う。
おでんみたいなスープに、卵の和え物、グリーンカレーはうどんを入れて、レッドカレーとトムヤンクン。どれもすごく美味しい。いくらでも食べられる。
カッチャンとウウくんのタイ語会話が、何を言っているか分かる気がした。
辛さのおかげで鼻水を排出して、みんなで煙草をふかす。
大勢が帰ってから、猫の鬱がウウくんに甘えてくる。
ウウくんは、鬱と名前の音が一緒だ!と喜んだ。



木曜日, 11月 09, 2006

僕たちの関係のために

ウウくんに鍵を渡して、市内でのバイトに向かう。
ずいぶん緊張して、ずいぶん疲れた。
思えば、会社での内勤はほとんどはじめての体験である。数年前にコニカの工場で年賀状バイトをしたとき以来だ。今回も年賀状関係なのだけれど、前みたいに パソコンいじっていればいいわけじゃない。苦情や問い合わせの行き交うところで、ヘトヘトになってしまうかもしれない。図太く構えて、勉強する気持ちで向 かおうと思う。
お昼に、また公園で音楽を聴く。
仕事に戻ったら、紙に「その人の言いたいこと」と書いた。

今夜は別のバイトは無い。ゆっくりしたい気持ちもあったが、bnap05 よりお世話になっている味噌蔵で出会った皆さんへの bnap06 ドイツ報告会。ウウくんも連れて向かう。写真アルバムを持っていく。ひとりずつの挨拶では、感情が先走ってしまって、自分の体験を具体的に言葉にすること ができなかった。どのようなものを自分が見てきて、どのように変わっていることを実感しているのか、それをわかりやすい言葉で他の人に語ることができなけ れば、それをアートプロジェクトと言って位置づけることなどできないのだ。感動を互いに意味のあるものにし合わなければ、アーティストはただのエゴイスト だ。
ウウくんは会場にいた全ての女性にプレゼントをあげていた。なんてやさしい奴なんだ。

モラトリアムにまみれる恐れのある木曜日。これからは、村上隆の「芸術起業論」(幻冬舎/2006)を真に受けてみてもいいんじゃないか?!これからだぁーっと。
味噌蔵についての本を作りたいと思った。
僕たちの関係のために。





水曜日, 11月 08, 2006

ウウくんが来た

昨晩、一時までのバイトを終えてから、駅前でカッチャンとポール、ウウ氏ことウウくんと落ち合う。明日もはやいからと別れ、畳の部屋に案内した。
暖房がデロンギヒーターしかないので、僕の部屋はすごく寒い。僕もウウくんもそれざぞれ毛布にくるまり、凍えながら眠った。

朝は、彼がタイラーメンとスープを作ってくれた。でも、朝からのタイ級の辛さにやられ、僕は全部を食べることができなかった。

水曜のバイトは絵画教室と夜の二件だけだから、ウウくんと大学に向かい、間借りしているというアトリエにお邪魔する。あんまり全てを案内するのも疲れてし まうだろうし、僕も bnap関係の仕事があったりして、犬飼さんに手伝ってもらって洋画のパソコン室に入り、メールを振り分ける。大崎さんが脚立に上って本を取っていた。手 を滑らせて落下した本を指して、あれが僕だったらどうしようと楽しんでいる。「仁さんが受けとめてくれますよ。」とわんちゃんが言ってくれた。

寝坊してきたカッチャンの予定は流れたので、ウウくんを連れて絵画教室へ行く。
スペシャルゲストのタイから来た先生。想像だけで描くバンコクの町並みと、それからウウくんとカッチャンをモデルにして。写真も撮りまくっていて、子ども らと楽しく過ごせた。ウウくんは絵をもらって喜び、子どもは「僕のが選ばれたんだよ」とお迎えのおじいちゃんに話していた。
駐車場でそれを見送り、僕らは少しの時間だけ お好み焼き屋で食事をした。タイでのこと、日本でのこと、様々な思いを語っている時間だった。ウウくんは熱燗で酔っぱらい、アトリエの面子は集まってきた。
僕は後ろ髪を引かれながら夜のバイトに向かった。







火曜日, 11月 07, 2006

公園より

昨日から新規バイトがはじまっていた。二日間の研修内容を頭に詰め込む。
慣れてしまえばどうってことはないと自分で自分に言い聞かせる。
深夜までの、もうひとつのバイトがあったとしても、どうってことはない。
お昼を公園で食べた。有り難いことに、会社のすぐ横が公園なのだ。

仕事を終えたら、ゴールデンバンコク2で遊んだ ウウ氏が大学に来ているというメールが入っている。ウウ氏にはカッチャンと呼ばれている 田中さんからだ。今日から週末まで僕んちに泊まれないかということ。泊めてほしい話は聞いていたけど、二十何日とかの覚えが、え?言い間違えてたの?









月曜日, 11月 06, 2006

作詞・作曲 : YO-KING

二人で見た夢は 月の先っぽに引っかかり
上昇気流にさらわれて空へと消えていった

口から出た言葉は そのときだけの音だけで
僕の心を少し震わせて 静けさに飲み込まれる

今でも優しい気持ちになれるよ 君を思えば
淋しい、苦しい、どう思われようと もう一度君に会いたい

いぇええ
君が大事にしていたものをを 僕が好きだった君のことをを
ずっと、ずっと引きずってゆくよ
胸が熱くてのたうちまわる 流れ星のように

二人で手にしたものは、あの頃だけの夢なのか?
君と歩いた近道を、避けて帰る夜を重ね

心が張り裂け、痛くて、痛くてたまらないよ
夜空へつづく坂道かけあがり 泣いた

ウォーオオ
君が大事にしていたもの ぼくが好きだった君のこと
そっと、そっと消さないでくれ
悲しみ深く染み込んでゆく 流れ星のように

ぎゅっと、ぎゅっとつかんで、離さない
いつも、いつまでも輝いてくれ 流れ星のように

日曜日, 11月 05, 2006

優しい庭

財布を忘れて、遅れてしまった。
もっと精度を上げろ。お兄。
暑いくらいの陽射しのなかで、線路沿いの坂道を上る。
「GARDENS」豊田市美術館へ。若い層中心にお客さん多く、賑やか。エントランスに展示された「FRONT」による花の作品イメージが全体を包んでいる印象。これがセンス良く、どれも適度にテーマとの関わりを持っている。
個人的には高木正勝の映像作品と、ロイス&フランツィスカ・ヴァインベルガーの雑草プロジェクトのドキュメント展示に惹かれた。操作が意識的であることに期待感が生まれる。次はどんなイメージ、展開を見せてくれるのだろうかと。

サイゼリヤでお肉とサラダを食べた。距離があるから、早く帰って、自室で明日からの新規バイトに備えて、バーバー&マッサー&ムービー の時間。
チョーシにのっていたんじゃないのか!?と己を疑う。
強くなりたい気持ちで兜に尾を締める。
ホームの向こうから、帰るのを見送りながら、己を省みる。
世界の縮図が力になるはず。
力は良い方向にも、悪い方にも拡散してしまうことを改めて思う。
そこを丁寧に、意識的に見つめられるかだ!

僕はもっと強くなって、もっと安心できるようになる自信がある。
明日から fjk chapter2 。
NHKスペシャル「ラストメッセージ」で手塚治虫をやっていた。
その強さをきっかけに泣く。
「充実した人生を送ってください」と読者に書いた手紙に BJ の顔。
ピノコからの電話。
ときに僕らは優しい庭に居る。
四角い窓からそれを覗いている。
この家で、僕らは強くなっていく。



http://www.museum.toyota.aichi.jp/japanese/exhibition/gardens/index.ht

土曜日, 11月 04, 2006

おやすみロック

「完全消化できなくていいんよ。次ができなくなる」
中山氏が別れ際にプレゼントしてくれた。

抱きしめてほしいって、ムラムラしている少女の立場。
抱きしめてくれって、くだをまく男は罵倒される優しさ。
抱きしめたあとの、あの娘は綾波レイが好き。
抱きしめてもらったねと、彼女の目はハートマーク。
抱きしめてがんばってと、恋人たちの cry cry cry。love のなかで眠って。涙にくれてるあの娘に DJ 伝えて、今夜は奴のデビューコンサート。
抱きしめさせて抱きしめて、ガキはエロスにまみれてゲップもん。
抱きしめてもらうからにはと、事務は若いうちを認めない。
抱きしめて、トゥクトゥクに乗ってやってきた。
抱きしめてる、花があるね。何しても。
抱きしめるために、一気なんて時代遅れだから、繰り返すネタは鮮度を失うよ、オヤジは清算したがる。己の時代を、生きた証を。自分たちが大人になれることをやっと知った。
抱きしめる、ほぐすことは、ほぐされること。
抱きしめる、Money is nothing. と目を見て言ってくれた。
抱きしめて、I'll go to Thailand. 僕は言った。
抱きしめる、やっぱりガムテープがあればなんでもできるんですね。
抱きしめる、朝までバンコクで眠る。生きるよって話した。
抱きしめる、四角い窓の外に、ようやく冬が。

朝がやってきて、赤いマフラーを君は折り畳んだ。昼はガラガラ声で奉仕のように おでんを盛ってあげて。夜は生ベジータが掛けられた座敷で、ここは穴場だねと天ぷらを食べた。
プレゼントは続く。
手を振って、送ってもらって、また手を振って。今度ある展覧会の話をして。
優しいロック?
気分はロックしたりずなんつって、野郎だけにメールと電話代を払ってもいいなと思い、気持ち悪い村上隆の顔した本を選んでみる。俺だけの為に。共感していた峯田の日記本のほうは、音楽聴いてからでもいいなと思っていたら、ひげさん改め坊さんがちょうど入っていたよ。本屋の前で、また少し飲んでもいいかなと思っていたけど、発泡酒売り場の前でゲンナリして、コエンザイムアイスとやらを人数分買った。全部で 150円。さすがはトップ1。

奈良美智の灰皿を囲んで、銀杏BOYZ をCDウォークマンから外部スピーカーでかけながら、今夜は一滴も飲まずシラフで、プレゼントの話をしたのだ。
このアルバムは一曲目から「セックス」と歌っているのがいい。

贈る件名はおやすみロック。
トップ1は真心かかってたよ。声が優しいね。

タイのネックジッパーがラクでいい。

金曜日, 11月 03, 2006

ゲップもんには負けない

厳戒体制の夜にサーディカー。
マックスサウンドなんです。どうぞよろしくね。
でも、だからって自分で自分を萎縮させることが、いちばんよくないことなのかもしれない。
再び生きるって書いて、再生のキーを押していいかな!
はるばる、ワンマンショーです。
楽しんでくれよ。

カッコイイ。

御愛顧頂きましてコープンカーップ。
誰が言ったか、芸祭は世界の縮図。
またディフォルト。

タノーム氏からの see you next year. 。
店長からの御挨拶。
拍手喝采。

木曜日, 11月 02, 2006

男ってバカね。ウフッ。

思わぬアンプラグドで第五位!
魚市場風ですねと女の子に言われて、嬉しいのにどうしたもんかなって思った。
この歌が終わったら、犬のような漫才師に戻るって。

♪お〜と、こには〜、じ、ぶ、んの〜せ〜か〜いがある〜

酒と煙草がドラッグのように扱われているこの国で!

おまっとうさんでした!
今週、第二位はオリコンチャート二十六位になってしまいましたが、ハガキリクエスト第一位、電話リクエスト第一位、携帯メールリクエスト第一位、2ちゃんねるでの age 第一位、You Tube アップ率第一位、掲示板 res 第一位!ニューシングルです!

もう網膜に焼き付いて離れないよ!
彼女たちが離れないよ!

さあ永遠の第一位!
盛り上がってくれよ〜!

水曜日, 11月 01, 2006

フリマのち絵画教室のちショウ

共有できること。それ自体がアートだよね!

オリコンとかでは一位よりも二位をチェックしなきゃ!ってのは知ってるよね!
なぜかって、二位は一位に上ることができるからね!
二位は頑張ったら来週、矢印を上にすることができるけど、一位は一位のままでも矢印が横になるだけだからね!

コープンクラーップ!

火曜日, 10月 31, 2006

玄関先で転がって、壁を貼り合わせて、お金を握って、本棚を紐解いて、君はもう眠っているね、猫の鬱も。

洗濯ものを干しているときに、猫の鬱を外に出してやった。
今日はやけに鳴いて訴えてきた。
急に可愛そうに思えてきて、ドアを開けてやった。
相変わらず玄関先でごろごろ転がっているだけなので、洗濯ものを干す合間に少し目を配る。干し終えて、そろそろだぞと捕まえにいくと、体勢を変えて逃げるのであった。
またあの廃墟に行ってしまったら嫌だなと思っていたら、その入り口付近で鬱は立ち止まって、違う隙間に入り込んだ。あまり追いかけ回すと、余計に逃げるから、気にしていない振りをする。少しして、またもやトコトコと戻ってきたところを御用した。
部屋に戻すと、気分良く。座った足に乗って眠りだす。この頃は夜冷えてきたからか、毛布の中に入って小さくなっている。
蹴飛ばさないように、人間様が体を斜めにして眠っていたりする。
ドアを開け放って、空気の入れ替えにもなって良かった。

大学に向かい「ゴールデンバンコク2」の設置作業。段ボールの壁でテントを囲む。他の店はほとんど出来上がってきていて、しかも鉄骨やら木材を大量に使用 していたりして、小奇麗な店も多く盛り上がっている。我らが「ゴールデンバンコク2」が最も安価で作られているに違いない!という自信が胸を熱くさせた。 タノーム氏がリサイクルだねと笑って答えた。段ボールに囲まれた空間は妙に温かい。負けじと盛り上がっているのは勿論のこと、続々と顔を出してくる洋画の 面子が、何かありそうと嗅ぎ付けてきてる感じも充満していた。今日はタイから豊橋に住んでいるウウ氏も来ていて、一緒に段ボールを貼り合わせた。相変わら ずウマ氏のテンションが舞い上がりすぎて暴走するので、とうとうタノーム氏がツッコミチャランボを入れた。それを見て一同爆笑。
昨日と同じくバイトをして、深夜帰宅。
猫の鬱がニャーニャー鳴く。
末井昭氏の写真日記を見る。

http://sueiakira.com

http://www.1101.com/editor/2004-06-02.html

月曜日, 10月 30, 2006

We're making golden bangkok. We're standing front of the art core.

用事を持って大学に行くと、亘さんに偶然出会う。恒例となった「ゴールデンミルク」の場所にて、段ボールを貼り合わせる面子数名に合流。学内は二日後から はじまる芸祭ムード一色。毎年、準備が早くなっている。手の込んだ店が多数並ぶ。今年の企画「ゴールデンバンコク2」は、ぜんぜん進まず、超スローペー ス。タクジ氏とウマ氏がああでもないこうでもないと手順を話していた。タイより来られたタノーム氏も一緒に段ボールを貼り合わせていた。「We're cheep carpenters.」。
西山氏にも声をかけて、遊ぼうようと話す。
亘さんプロデュースによるトゥクトゥクの勇姿に打たれ、みんな俄然やる気に、各自マイペースに入っていった。あんまし血気盛んとか、強情に押し進めないところが洋画ノリかも。黙って、心の中でメラメラ。いろいろ考える。
学内でも、一番 面倒なことを話すことが多かった交差点で、また面倒な話をしていた。どうもあの交差点には、何か鬼門のようなものがまとわりついている気がする。
明日もコチョコチョする。
終えてから向かったバイトは順調であったが、交代の人が一時間近く遅刻してしまったので延長を余儀なくされてしまい、それが辛かった。
けれど、これからやってくる祭りが楽しみに比べれば、なんてことない。
この魔法でいろんなことを更にクリアにできるはず。

大昔の芸祭は、もっとダーティだったって誰かが呟いてた。
飲酒はかろうじて残せてる。たとえ小奇麗になってても、コアなところは何も変わっちゃいないと思う。
大昔の先輩に悔しがられるぜ。本当は。
詩人のイベントも、大詩人たちに悔しがられなくちゃ。谷川俊太郎が、のたうち回って悔しがる 79年生まれの仕事を!
みせちゃる。
コアなところ、メラメラ。

日曜日, 10月 29, 2006

明日はどっちだ!

これからどうするかは、はっきりしすぎていて、もう何を言われるわけでもなく、俺はこんな歳なわけで、何も嘆くことは無い。物置きに溜め込んであった、小 中高と大学一年のときの絵画を破棄していいかを見る。小学校一年のときに描いた絵は、さすがに記憶が無かった。弟か俺の絵かどうかは、見てすぐに分かる。 中学のときのクロッキーは、漫画っぽさとデッサン調が合わさっていて面白い。数冊持ち帰ることにして、他はデジカメに撮った。油絵はよく燃えるだろう。俺 はこれから数ヶ月で幾ら稼げるか? fjk、fjk、全てはクリアな視野にある。俺の仕事、研究分野、どこまで具体的に話してくれるのか? そう電話口で問われ、光栄な気持ちにもなって震える。春のはじめのような秋の終わり、河川敷のはじめにある公衆電話で。また橋を超えた。弟はどこまで車で 走っていくんだろう。前に飼っていた犬は、この河川敷に眠っている。
それと、中学のときに大学ノートに書き溜めた、恋愛ベースの詩。実にこっぱずかしく、もう読み返したりはしないと思い、捨てる。大量の悶々とした言葉たちよ。さらば。そしてお帰り。
一泊二日のプチ帰郷を終える。祖母の会話はますます進行していた。僕にどんな説教をしたかったのだろう。
それから、電車の中では途中から「よさこいソーラン」のおばちゃんチームとそのガキ集団で五月蝿く、苛立ちながら眠る。数枚のノートに手紙を書いて、名古 屋駅に着くと、前の座席の女の人は携帯電話のメールを打っている格好のまま眠りに果てていた。よさいこい は終点まで騒いでいた。
駅の電気屋で巻き取り機能のあるイヤホーンを購入した。猫の鬱にまたコードを噛み切られていたのだ。早速、名鉄の帰りに iPod へ刺して「明日はどっちだ!」(真心ブラザーズ/2001)。

俺はまだ死んでないぜ 未来はまだ輝いてるぜ 君はまだ俺を好きか
俺はまだ燃えているぜ もっとすげぇことやってやるぜ 君はまだ俺を好きか

作詞・YO-KING

土曜日, 10月 28, 2006

尊い時間の為に

時間給仕事の後は、一時間でも尊いものとなる。僕の考えることと、発せられる言葉の間、そこを行き来しているのは尊い時間であった。
考えること、見極めることはどれだけでも丁寧にして、書くときは一瞬と読んだのと、君は言った。
シャッターを切るときも一瞬だ。
丁寧にして。
翌朝、歯を磨く。
電車のなかでまた小説を開いた。読みたい部分だけを読んだ。隣の席の男は、忙しそうに弁当をかき入れていた。酢飯の匂いがプンとしていた。僕は「抱きしめ たい」ではなくて「抱きしめる」なんだと言ったことを思い出した。それは現在形、願望や希望ではなく、状態だけを示す言葉であるから、僕は持つのである。 そして丁寧に、帰ったら部屋を掃除する。
山ほどの、読まなくてもいい言葉が、有り余っていると思う。
尊い時間の為に。



「でももしそうだとしても僕の残り半分は君の耳ほど輝かしくはないさ」
「たぶん」と彼女は微笑んだ。「あなたは本当に何もわかってないのね」
彼女は微笑みを浮かべたまま髪を上げ、ブラウスのボタンをはずした。

「羊をめぐる冒険」(村上春樹/1985)上巻、71ページより

金曜日, 10月 27, 2006

泣きながら起きて

たけしとアラーキーが画について語っているのを見たと思ったら、蛭子さんがピンクコンパニオンと野球券をしていた。どちらも本気でビデオに録る。
今朝早く、小松氏は旅立った。
僕は牛乳を飲んで、昼まで寝た。
昨晩は布団と畳の間でモゴモゴしていて、しっかり眠れなかった。
ないものねだりは向上心〜? 中学生日記のぶっちゃけ本音トークスペシャル、テーマ恋愛編のゲストに出ていた飯島愛はやはり大人の女。そして男子よりも女子は常に大人だ。だから男子は 頑張るしかない。ときにモゴモゴしたり、ピキピキしたり、、七転八倒と七転び八起を抱きしめてひっくり返し続ける。必要な言葉だけが待っていてくれる。
喉を涸らしながら、バイトをした。
帰宅後は睡魔にやられた。
昼まで眠ったときは、弟の夢を見た。
女子の言葉がキレイだ。
みんなうまくいくよと答えた。

木曜日, 10月 26, 2006

立ち上がってくるものは、もっと別のもの

卒なく面接を終えて、名古屋駅で小松氏と合う。
ここのところ、会合はコメダ珈琲と決まっているなって展開。そのまま西春まで一緒に来て、bnap06 のミーティング中に彼は他で過ごして、少し初対面の面子と大学内で立ち話なんぞをしたりして、周囲は学生らが芸祭の準備をしていて、店の骨組みを作ってい たりした。俺達は学生気分プレイバックで元気、元気。
俺が発表すると公言していたラブソングはど〜なった?シリアスなのは最初だけかい?
嘲笑から逃れたいから、こんなことを言っているんじゃない。本当の気持ちがここで立ち上がるだけ。小松氏と部屋で発泡酒を一本だけ飲む。すぐに酔いが回って、話すことは変わらないが、三十歳に向けてのビジョンだ。立ち上がってくるものは。
アダルトサイトは履いて捨てるほどあって、どれも出先は同じ。だからどこに登録し直してもお金は同じところに行ってるって顛末だ。Maybe。じゃないビジョンは、ビジョンの話は。本当の気持ちのことだけ、話すのは。

ブルーマヨネーズ、再起動? 立ち上がってくるものは、もっと別のもの。身勝手な衝動と同じだけ重たくなる言葉。
大丈夫だと言う。階段に座って。

http://www1.odn.ne.jp/b.mayo/k4/Coram1-2.html

水曜日, 10月 25, 2006

果実味を残せ! Vieilles Vignesってど~よ! Re: 俺の詩で書くだけだ

面接と面接の間に HMVへ走って「MOON OVER the ROSEBUD」(ムーンライダーズ/2006)手に取る。本日発売の新譜なり。
世界をぶつ切りにして、この町の断面を横切る。
プロジェクトは多面的に機会を与えてくれるもの。
言葉があらゆる方向より読まれるもの。
そうでなければ、くだらないモラトリアム。それだけさ。
横切って、ぶち切って岩倉。
絵画教室ではトランプを作る。ハサミチョキチョキ、こいつは切りにくい、二つだけのハサミじゃ時間かかる。発想いよいよほぐれてくる感じに、あの手この手で導いて。

なんとかなるさ。
なんともならない。
同じ強さの言葉で君を抱きしめる。
その方法についてを思い返しながら、線路沿いを歩く。
夜はすぐに眠れるだろう。
村上春樹がノーベル賞を取れるかどうかなんて、どうでもいい。未だに「充電」シーンは発見できないんだから。俺の詩で書くだけだ。

明日は小松氏と会合。
それと滑り止めの面接に、bnap06 のミーティング。
ど〜よ!
果実味を残せ!
俺の日記、言葉は俺の断面を横切って。

http://info.hmv.co.jp/p/t/1251/893.html

火曜日, 10月 24, 2006

fjk

本やがらくたで埋まっていた机を奇麗にした。
机に向かって、ノートを開く。
ノートの名前は「過去へのノート」と「ここがわからないんですよノート」。
二つ合わせて何と呼ぼうか。
そしてふっ切れ、新規プロジェクトを発足させた。
具体的に経験を生かしていく!どんどんいくぞ。
と意気込む。
夜八時頃、久々に小松氏と電話をした。
愛とお金についてを話した。
元気になってバイトをする。
手紙の文字から、君の声がして、君の顔が見えた。

いま制作中の作品題が「抱きしめる」だと小松氏に告げると、
「歳をとると、表現が率直になるよね。若い頃は抽象的な表現に酔うけど」と言ってくれた。
ベルリンで、彼の詩「HOTEL BERLIN」を読んだよと伝えた。
明日は新規アルバイトの面接が二件ある。それと絵画教室だ。
深夜に片足突っ込んだバイトは、もうすぐやめる。

がむしゃらに行くけど、見失わないように、何かを備えようと思った。明日も考える。
時間は続く。

月曜日, 10月 23, 2006

見極める力が俺には要る

新潟県中越地震で、土砂崩れの中から子どもが救出されて、今日で二年らしい。復興が行われている事故現場に子どもが訪れ、元気に歩いていた。子どもは、亡 くなった家族は天国に行ったんだよと聞いていて、いつかロケットの操縦士になって会いにいくと答えたらしい。そのテロップをじっと見つめた。

今日は、焦っちゃだめだと自分に言い聞かせ、怠けちゃだめだと自分に言い聞かせ、たとえ数分でも明確に進むことにもがく。バイトの予定も決める。
映画「Dolls」(監督,北野武/西島秀俊、管野美穂/2002)を DVDトレイに入れた。見たことがあるけど、強くリアルに感じられた。過ちと、守りたいものと、人を生かしているものは愛だった。切なく、惨く、美しい。
見極める力が俺には要る。

昨晩は、福岡氏が購入した「チョムスキー 9.11」(監督,ジャン・ユンカーマン/2002)を見て、その鏡を見る公正さに打たれた。どこまでも前向きに、右にも左にも傾いていない。賢者であった。
最後の砦だと僕は言った。

http://www.office-kitano.co.jp/dolls/

http://www.cine.co.jp/chomsky9.11/

日曜日, 10月 22, 2006

ここ、そして、そこ

金券ショップでチケットを買うことを覚えた。
電車の中では小説を開くことにした。

藤本由紀夫展「ここ、そして、そこ」を見に行く。
名古屋市美術館のある白川公園で、僕は一度も弁当を広げたことはないけれど、もし仕事をここいらですることになったら、一度穏やかな昼休みを過ごしたいと 思った。地区民運動会の声が聞こえる。僕は失った音に耳をすまし、失った色を見つめるために、この美術館で時間を過ごす。
言葉に降りていく者は、真顔である。何も特別な理由はない。素直な気持ちに生きることがどれだけ勇気の要ることで、必要なことだろうかと思う。
取り乱した者には、ここも、そこもない。
言葉を書くとき、発するとき、最も立ち上がってくるものは、ここ、か、そこ、かだ。
生きる者は、それを見て、聞いて、歩いていく。

デュシャンによる詩の朗読。音楽と共に流れ、エンドロールのよう。
吊り下げられたシンセサイザーが、吊り下げられる故に鳴り続けるのが、悲鳴であり、祈りに思えた。ソファに座って、言葉を読む。
分離「SEPARATION」と結合「CONJUNCTION」について。
新しい結合。耳と目はこれを繰り返す。その可能性。
「HERE」はここにあり、「THERE」のための「T」は、そこにある。文字通りのことがある作品。言っていることと、行っていることが同じということが、強くて美しい。気取ったところはひとつもなく、言葉を持っている。
遠回りなことはなにもない。
僕は進むことを覚えた。
言葉を読むことを覚え、いつか書くことを行う。
それを繰り返し、ひとつでも確かなことをわかりたい。
それだけだ。

小雨は止んでくれた。右翼がうるさかった道を帰った。
僕は、関係についてを信じる。
ここ、がなければ、そこ、もない。
そこ、がなければ、ここ、もない。
駅についてを語ろう。
駅には、見送る夢などない。
駅には、帰るための次しかない。
駅を降りて、僕は関係についてを、またはじめる。
だめだったから次に行くのではない。
僕は駅の名前を覚えて、
路線図を知る。
全天を走る。
夕暮れが輝き落ちる。
ドアはノックされ、僕は待っている。
全天と路線図について、ここからのそこを話しながら、砂丘のある海に行きたい。
家族の名前に会うために。

http://www.art-museum.city.nagoya.jp

http://homepage1.nifty.com/caption/homepage/fujimoto/fujimoto%20home.htm

土曜日, 10月 21, 2006

一年後はたくましくなっていく

日本シリーズ初日で賑わう名古屋ドーム矢田駅。
エスカレーターをちょうど上ったところでパチンと男一人。一年後はたくましくなっていく。
本日は「next station」展、アーティストトーク。観覧に向かう。カタログマガジンの反応が楽しみ。多くの解説を聞いて、また懇談をした。
次に広がっていくことを思う。
閉じていくために、作品も人も待っていない。
次に向かう目を見たのだ。

打ち上げで飲酒後、地下鉄で帰宅し、次の駅に帰る。
NHK で Cocco のライブをやっていて、ぐっとくる。

金曜日, 10月 20, 2006

ラブ・ゼネレーション

早川義夫にやられる。もう、曲名リストが歌になっている。

 身体と歌だけの関係(4/4)
 堕天使ロック
 風月堂
 屋上
 「愛人(ラ・マン)」のように
 ラブ・ゼネレーション
 花火
 いい娘だね
 あと何日
 ひまわりの花
 身体と歌だけの関係(6/8)
 僕らはひとり

「ひまわりの花」(早川義夫/1995)より。

バイトを終えてから、押し入れの衣装ケースに入れた CDを出して、むさぼり聴く。
You Tube の映像が権利関係でたくさん消されたと聞くけど、全力で歌う姿は消されていなかった。

僕も全力で歌うんだ。

http://www.youtube.com/watch?v=WOsUjsiUQU0

木曜日, 10月 19, 2006

花は言葉に向かって開いている

ドイツで、僕の作品制作サポートをしてくれたジェニーの作品「HOTEL」についての文章を書く。彼女から日本語で書いてほしいと頼まれていたもので、光 栄な気持ちで取り組んだ。やや客観性を欠くものの、盛り上がっていく熱い内容に到達することができた。bnap06 ミーティング前に、谷澤氏と福岡氏に読んでもらい、客観性を欠くポイントを整理する。ミーティングは、来年の二月に大学ギャラリーで行う報告展についてが 主。スナップや資料展示は問題無く決まるが、再現不可能な作品展示をどのように考えていくかを話し合って決める。再現不可能だから新しい作品のようになっ てくるんだけど、報告という意志に基づいて作品を展開するという意図になる。当たり前なんだけど、明らかにすることが気持ち良い。ようやくプロジェクト最 後にしてミーティングの方法が理解できてきたのが嬉しい。

「ここがわからないんですよノート」を本当に書く。
そんなふうに言葉を聞くことをようやく思う。
真っ黒でも、その真っ黒はきっとキレイだ。
キレイなものを見たいから、僕らは強くなっていく。
ゆっくり、ノートを開くことができる幸せ。
希望に満ちた夜。

ミーティングルームの、テーブルの上にあった赤い薔薇。
公園にて膝の上で、蜜柑の花が開く。
打ち上げられたのを僕らは発見した。
僕らの言葉が開いていくのを。

水曜日, 10月 18, 2006

パンを描く、あなたを描く

朝だと意気込んでいた新規バイトの面接は、お昼からだった。履歴書と作品ファイルをバッグに入れて、市内中心地にあるデザイン会社に向かう。定刻ちょうど に着くと、三名の集団面接ということで、奥の部屋に通される。でも来たのは僕ともう一人だけで、面接官二名に、志望者二名で質疑応答が行われた。
作品ファイルには、紙にペンや色鉛筆で描いたドローイングをまとめて入れた。後半部に、デザインの仕事という項目を作り、DTP 仕事も一通り可能ということも示す。
「ドローイングをもっと見せてもいいのに」という言葉を思い出していたのだ。
面接は三十分ほどで終わった。
やりきった気持ちで、ビルを後にする。
昼過ぎの市内中心地を縦断し、スーツ姿の同年代と多くすれ違う。三越のある交差点で、老人がトラメガを持って何かを演説気味に叫んでいた。それは政治的な 内容であるらしかったが、僕にはしらじらしく聞こえてしまった。国を抱きしめるのは国じゃあない。と思って、ここで叫ぶより、僕は誰かと話しをしようと 思った。しかし老人の姿は、姿そのものが言葉になっており、僕は学生画廊企画で行った市内でのパフォーマンスイベントを思い出した。あのとき、僕も同じよ うにブツブツと路上で詩を読んでいた。

その足で「ROOA GALLERY」へ。同時代表現研究コース1年のメンバーによる企画展「room」を見る。小原さんと話す。ファイルを見せてもらったので、さっきのドローイングファイルを見せる。頑張って話した。
「ちらかすと、まとめたくなって、まとめてみると、ちらかしたくなるもんだよね」と言った。展示はまさしくそれで、賑やかそうで、しっとりしている印象だった。
また来ますと挨拶をして、地下鉄へ戻る。
しっとりとした絵を見て、心のどこかが落ち着いた。

自転車で岩倉市駅前まで走り、絵画教室へ。順次企画「トランプをつくろう」は、今日はお休み。西山氏が遊びに来てくれたので、みんなでモチーフを囲んで デッサンをした。大小様々なパンを新聞紙の上に置いて、それをモチーフとした。子どもは、食べていい? としきりに訊いてくる。賞味期限が切れているから駄目だよと言い、パンはモチーフと化した。続いて、西山氏に十五分だけモデルになってもらい、みんなで顔 を描く。パンよりじっくりと描いているのがよく分かった。絵が良くなってきているのを実感し、嬉しくなる。
子どもらを見送ってから、西山氏と自転車並走して帰宅。夜七時着。ブログ書く。九時よりバイト開始の暫しの時間。猫の鬱と話す。行為や可能性についてを話す。

http://rooa.weblogs.jp/

火曜日, 10月 17, 2006

どん詰まり

昨夜は夢を見なかった。
昨夜は気持ちのなかで過ごした。
目が覚めてもそれは続き、携帯電話とにらめっこをしてしまう。
「どん詰まり」だと吐いてみる。
少しラクになって、数件のメールを読む。
どれも僕ひとりでは意味のない内容ばかりだった。
写真を数枚開き、眺めてみる。
僕はようやく黙ることができて、ようやく洪水のような時間のなかで立っていることが自覚できて、声をかけることが気恥ずかしくなくなり、目くじら立てるこ ともなくなった。時間給仕事が過ぎ去るとき、一日には何も残らず、電波もメールも届かなくなっている。ATM は営業停止の文字を照らしている。一円も降ろせず、あの郊外の駅から僕は歩いて帰らなければいけなかった。しかも何故か服を一枚も着ていない。知らない町 を歩いていたのだ。見覚えのある角を曲がり続けていたのだ。僕は弱すぎた。何かに追われている。そんな辛い夢を、小さい頃からよく見る。いじめられていた わけではない。僕はスネ夫とのび太を足して二で割ったような小学生だったのだ。
だが見ているものは、しずかちゃんだけだったのだ。
笑うせぇるすまんにドーン!とされた後の、三十代。いまはそんな気分だ。
「どん詰まり」で、黙ることができない。
黙ると死んでしまう魚である。
馬鹿なことを考えすぎる。余計な描線が多いクロッキーを捨てにいかなくてはいけなかった。改心して、固く凍った花の蕾を一枚、一枚、開かなくてはいけなかった。
誰かのカーステレオ、iPod に入っている何曲かを聴きたがっていた。
それもワイヤレスでは奇麗に聴けないんだと分かったとき、それはいま、僕の行くところは使い道の無くなったケーブルの一時置き場でしかない。
箱の中には何も無いが、そこに何かがあると考える。それだけ。
ずたずたに轢き殺されたテロリストを誰が看取っているのだろう。
哀しみを怒りに変えさせているのはどこの誰か。
気が遠くなった。
矢野顕子「行かないで」を聴く。

力を変えていくものも力。
力を与えていくものも力。
どん詰まり、"Dead End"。
死ぬか帰るか、ここまで来てしまったんだよ。
俺はなんとか帰るよ。
こんなところはいやだ。

月曜日, 10月 16, 2006

愛する勇気

愛は冷凍保存できない。
どこかの瞬間で決定的に、あ!そうだ!こうしよう!というときが必ず来るはず。
いま思っていることを「次」の為に取り繕う付き合い方をするんではなくて、いまの気持ちに正直にいくしかない。
僕はそういう意味で「次」の為にと頭を高速回転と起動させすぎた。
彼女はそれを全て見抜いていた。
愛することは勇気が要ることで、僕にはその勇気が足りなかった。
僕はすべてを愛していかなきゃいけなかったんだ。
それは損とかそういうことではない。
それこそが浮気ではなくて荒木なんだ。
荒木はきっと、全てを愛することをしているんだ。
いま僕は全部分かった。
本当に、自分100%に振り回して傷つけた。
部屋は廃墟のようにがらんとしていて、猫の欝が寝ている。
そしてこの猫の鬱こそが、僕らの愛の魂なのだと思う。
もうだめかもしれないけど、いま目の前で眠ってくれているので、なんとか生きる力が湧いてきてしまう。血と骨は残酷に栄養価を吸収する。
芋のケーキを食べて、泣きたいのに泣けない。
昔の日記や写真を見たら、少し泣けるかもしれない。
涙を報告するなんて真似はしたくない。
いま考えて、言葉にすることができて、言いたいこと、伝えたいことだけを書いている。いま作っている作品は「抱きしめる」で、それはもうこの毎日そのものだ。

彼女からもらった「ミュージック・マガジン」にあった鈴木慶一の写真を、破いて壁に貼った。白髪頭に無精髭を生やしてこちらを見ている写真である。

日曜日, 10月 15, 2006

静かな夜に眠りたい・みんなの鬱は猫として眠る(2)

その夜、僕は直子と寝た。そうすることが正しかったのかどうか、僕にはわからない。二十年近く経った今でも、やはりそれはわからない。たぶん永遠にわから ないだろうと思う。でもそのときはそうする以外にどうしようもなかったのだ。彼女は気をたかぶらせていたし、混乱していたし、僕にそれを鎮めてもらいた がっていた。
(中略)
全てが終わったあとで僕はどうしてキズキと寝なかったのかと訊いてみた。でもそんなことは訊くべきではなかったのだ。直子は僕の体から手を離し、また声も なく泣きはじめた。僕は押し入れから布団を出して彼女をそこに寝かせた。そして窓の外を降りつづける四月の雨を見ながら煙草を吸った。

「ノルウェイの森」(村上春樹/1987)文庫版 76ページより


それから、猫の鬱は体に寄り添ってきた。
ぬるい朝の空気が窓から入ってくる。光は均等にあり、僕はしなければならないことを転がしていた。
「ビビっているだけじゃん」
「うん、ビビっている」
これらは対極な位置に浮かぶ星座である。離れながら二つの星座は関連している。いや、天体、この空において、全ての星座は連なりを持っている。星の光は数万年前のものでも、ちゃんとその輝きを届けているのだ。
言葉がいつ届くのかは知らない。
僕の言葉も、君の言葉も、はたしていつ届くのかは分からない。

僕は文庫版の「ノルウェイの森」を開いた。どこをいくらめくっても、ドイツで散々話した「充電」の場面はあらわれない。
帯には「限りない喪失と再生の物語」とある。
僕の探し方が悪いのか。
ただの勘違いなのか。
そもそも想像していただけなのか。
やみくもに、この言葉に降りようとする自分を自覚する。


こちらを見てくる君の
声を待っている僕の
静かな夜に眠りたいだけの
こと

土曜日, 10月 14, 2006

ここがわからないんですよノート

「わからないところを書き留めておくための、「ここがわからないんですよノート」を作ったらどうかって話したの」
と、彼女は言った。
僕の「ここがわからないんですよノート」は真っ黒だよと返す。
ドイツにて、ビデオカメラの前で「人は心を見せることができないから言葉を使うんだ」と僕は言っていたが、それは自分でも自分の心を見ることができないからだと、いま反芻していた。あのときに言った言葉は、それも含んでいただろうか。
「ここがわからないんですよノート」は今日も真っ黒だ。
このブログ日記は、そこから切り開こうとする言葉である。
「仁さん、最近 "抱きしめる" ブームなんですよね!」
と、先日、後輩の子に言われ、薄気味悪い顔色を振る舞って半笑いで返事をしてしまったのを思い出す。

「CONTACTS」(監督,ウィリアム・クライン/2001)を晩に少し見た。
写真家が、自作の写真を画面に流しながら自作を語るというインタビュー形式のドキュメントで、余分なものが全く無くて力強い。ソフィー・カルと、ナン・ ゴールディンの回を見終わったところで、自分はなんて人生を楽しむ力が無いのだろうかと悔しくなる。ただ素直に生きていることが、最も力強いのだと思う。 生きる苦しみと喜びが写真には写されていた。チャプターを飛ばして、アラーキーの分を見る。
「写真は日記なんだよ」と言っていた。
「冬の旅」のなかにある、最後の握手の写真は弟に撮らせたものらしく、「冷たいとか言われるんだけど」と、声が首をひねっていた。
冷たくなんかない。
「アタシは双子座だから」と続けていた。

表現とは、もう一人の自分を遠くに行かせて、自分がよく見える位置に立たせることではないかと思う。そこから、自分がいまいるところを見つめてみること。
遠くに行ってみる残酷さは、こちらをよく見ることができるという優しさを持ってくる。

ブームと言われることは、嬉しいことだ。ブロガー冥利に尽きる。
言葉は僕のものではない。
「詩が良かったです」と言われたとき、僕は嬉しくて詩人冥利に尽きてるんだけど、その喜びは言葉が勝手に読まれて再生するものであって、僕が与え続けるものではないのだと思う。
作家の説明など無くとも、自然に再生できる作品を作る為に自分を遠くにやるという行為は、残酷なようで、愛する故だ。伝える為だ。
詩は妄想ではない。
詩は死刑宣告文である。
詩は日記のようで、日記より日記らしい。
日記は詩になりやすい。詩より詩らしい。
僕の「ここがわからないんですよノート」は、詩の台本だ。
詩が死刑宣告文だから、言わば罪状にあたる。
生きることにもがく罪。
それを裁くことは、誰にもできない。

もう疲れてきたから、詩を書こう。
言葉を読むことができれば、何度でも生まれることができる。
死んだあとに、生まれるものがあるように、死刑宣告文は作られる。
そうやって、生きるということを明らかにしていくのだ。
それが罪なのか、何なのかという根本から。
自殺は、罪から逃げているだけで、言葉を読んだことにはならない。
明日は日曜日で、僕はこの頃、高校生から二十七歳になったばかりだ。

http://www.nowondvd.net/products/CONTACTS/index.html

金曜日, 10月 13, 2006

「僕と君」、そう唄い始めると

朝まで飲んでいて、一日中だるいなんてゆー、自業自得な有り様。
声にすると立ち消えてしまうものがあるのか?
ブルーマヨネーズのときには思わなかったことを思う。
声にしなければ消失してしまうと思っていた。
あのときは必死だった。
いまも頑張っていると自負はするが「必死」と呼ぶかどうは別な気がする。
僕も小松氏も、死ぬことに意味を見出すような柄ではなくなったはず。
生きることにも、意味など持ち出さず、嬉しいと送り合うだけになれた。

「僕と君」、そう唄い始めると、
ラブ・ストーリーに彷徨う。
このストーリーはいつか終わっても、
ラブについては終わらない。
いつも、ラブ・ゼネレーションの仕草になっているのだ。



私の大切な踊り子よ
もしも私がたった一人で
唄いながら遠くまで行こうとしたら
この手を取って
引き止めてくれ

「私の踊り子」(友部正人/1994)

木曜日, 10月 12, 2006

奇跡な僕ら

昼から夜に変わる時間を夕方と呼ぶが、
朝から昼に変わる時間には名前が無い。
季節は夏から秋 そして冬に至る。

僕らには僕らの時間があって、君には君の時間がある。

時間は言葉を自然に生んでいくと思う。
無理に作りだされるものではない。
あぶくのようなものから、
水流で削られていく 川のなかの石のようなものまで、
これらをひっくるめて僕らは 言葉と呼んでいる。
言葉を使って僕らは関係を作り、
僕らの時間を過ごしている。

いまそう思った。

水曜日, 10月 11, 2006

ドラゴンズ優勝と、北朝鮮の核実験が同時に報道されるテレビを前にしてから、出かけた

小雨が降っていて、家には持って歩けそうな傘が一本も無くて、買うのも悔しいんだけど、銀行なんぞ行ったついでに、いま風邪をひきたくはないなと発起し て、百円ショップで黒い傘を求める。いつもの塩化ビニール製半透明はあえて選ばなかった。大人らしく黒で決めようと、百円ごときの買い物にも真剣さを絶や さない。おかげで小雨でも濡れることを防ぐことができて、ついでにパソコンのUSBからケータイに充電できるコードまでゲットできた。探していたんであ る。「二時間以上充電するな」と大きく警告が刷らされているパッケージ。相当にきな臭い雰囲気だが目をつぶる。先日、猫の鬱にまた充電器のコードを噛み切 られてオジャンになっていたところだ。ちょうどいい。

福岡事務所再起動の顛末、bnap06 助成申請への報告書、現状の資料で行けるところまで完成させる。ブレーメンに打診。写真とか送ってもらえば、すぐにでもゴーサイン状態に漕ぎ着けてスッキ リ。福岡氏と、飲酒運転は駄目なのだけれど、いまの報道はマスコミが煽り過ぎで、公職の仕事に就く人を叩こうというネタが見えるという話をする。ついでに いまの管理者会化、人間関係の類型化を防ぐ為に中村師童を応援しようという時事ネタを取り出すが、この話題はあまり盛り上がらなかった。スピードウエイの ボーカルだから!という理由で寄り切ることはできなかった。「アイデン&ティティ」を思い出すくらいで、今日は熱弁手前に終える。

福岡氏に海の生き物の絵が描かれているトランプを借りて、それを子ども絵画教室に持っていく。子どもらのイマジネーションがいい感じで刺激されているのが伝わってきた。「子どもは言葉で絵を描かない」という庄司先生の言葉を反芻する。それは真実だと思う。
トランプ制作を走らせながら、今日のモチーフとして、さつま芋を色鉛筆で描く。久しぶりに直接 目で見て描くことをじっくりしたので、新鮮だったようでいつも以上に真剣に取り組んでいた。色を塗るのではなくて、色で線を引き、それで描くという認識に なることができる色鉛筆という選択もちょうど良かったようだ。

火曜日, 10月 10, 2006

日々の趣旨・next station

福岡氏宅で DVDレコーダーを使わせてもらい、ドイツでのデジカメ写真を記録する。待っている間に bnap06 の助成報告のまとめなどをするが、気乗りせず、進行が遅い。
営業的な仕事の話が浮上してくるものの、最優先項目に該当しないとする僕の主張は変わらなかった。この頃、日々の趣旨を明確に設定している。意味を求めて いるのではなく、コンセプト、趣旨。何を大切に、第一義に考えて動いていくかということにのみ、気持ちを許したい。それをおろそかにすることが、一番勿体 ないことだと、これもまたようやく気付く。

夕刻、福岡氏と大学に行き高橋さんにお会いし、ドイツのチョコレートをお土産に写真を広げて懇談する。僕個人としては、詩を掲載してもらった企画展のカタ ログを受け取る仕事も進める。その企画展名は「next station」。来週の水曜から市民ギャラリー矢田で行われるもので、僕は出品するのではなくカタログの編集員として関わった。カタログが雑誌形態で作 られており、作家紹介にとどまらない内容で広がっていこうとするものを「趣旨」にしている。
前向きな話に終始し、駐車場で別れた。ちょうど庄司さんが帰宅されるところに会う。自転車で夜の中に滑り込んで行く。

バイトの後の、夜一時過ぎに雨が降ってきた。
電話口では趣旨を持った言葉が求められる。時間が勿体ないから。
学校の帰りには、スーパーで食料品の買い物をした。



<next station—次の美術駅へ>展のご案内

下記詳細にて、名古屋市民芸術祭2006主催事業・美術部門企画展<next station—次の美術駅へ>展を開催いたします。ぜひご高覧いただきたく、ご案内いたします。

「駅」は通過するところでもあり、目的地として降り立ち、あるいは「出発」する旅立ちの場所でもあります。<next station—次の美術駅へ>展では、美術の流行(モード)にとらわれず、自作を真摯に見つめて、“次の駅”を模索する、様々な手法で制作を展開する作 家6組の最新作を紹介します。
さらに、展覧会開催に関連して、「next station」と題した雑誌(マガジン)形態の印刷物を発行し、展覧会が多くの鑑賞者へと伝達されることを目指します。

■開催期間  
2006年10月18日(水)〜29日(日)9:30〜19:00
 *23日(月)休館、22日(日)、29日(日)は17:00まで

○10月21日(土) 13:00〜15:00 
 アーティストトーク(無料)
 *展示会場において各作家によるトークを行います。ぜひご参加ください。

■会場    
名古屋市民ギャラリー矢田 第1〜第7展示室
名古屋市東区矢田南1丁目番10号 カルポート東
TEL:052-719-0430 
地下鉄名城線「ナゴヤドーム前矢田」駅より徒歩3分

■主催    
名古屋市民芸術祭実行委員会、名古屋市、(財)名古屋市文化振興事業団、
<next station—次の美術駅へ>展実行委員会

■参加作家  
小島久弥、吉本作次、城戸保、杉山健司、
大石暁規、安原雅之&中野良寿(ノーヴァヤ・リューストラ)

■企画委員  
設楽知昭、村越昭彦、高橋綾子

■関連出版  
マガジン「next station」
企画編集:高橋綾子
編集構成:永澤こうじ、村田仁、すすきめぐみ、黒野靖子、安野亨、
     カワカタミカコ、よし子-Chan

■デザイン  
田端昌良(ゲラーデ舎)

■事務局   
亀山よう子、花村珠美(office tre punte) 

http://www.gallery-yada.jp/nextstation.jpg

http://www.gallery-yada.jp

月曜日, 10月 09, 2006

タカダワタル的を見る

すき焼きの余りの野菜をビニール袋に詰めてもらってきてあって、それをお昼の焼きそばに放り込んだり、夜の豚汁でちゃんぽんにしたりした。
ドイツの巻き煙草をまた吸う。
ゾンヤと交換したシガレットケースに入れてある。僕はパンダのシャツをあげた。それは彼女からのものだったから、ケースを彼女にあげた。いま、DVD プレヤーの上でおとなしくしている。
昨日、買い取ってくれなかったゲーム類を駅前の古書店に持って行く。数百円程度にしかならなかったが、諦めて了承し、吉本ばななの本を買った。いま読んでおきたい気持ちになった。
帰ると、「諸国空想料理店」(著,高山なおみ/1995)を見せてくれて涙腺が緩む。本のなかの「うどん」のくだりのように、豚汁が煮込まれていた。

大根もたっぷり入った豚汁をほくほくしながら、DVD で映画「タカダワタル的」(監督,タナダユキ/高田渡、柄本明/2004)を見る。
65分ほどの、小さいこの時間にぐっとくる。
テレビも 14インチと小さいのだが、まるで高田渡のライブに二人で来ているような錯覚を受けた。ご飯も頼めるライブハウスで、豚汁をつつきながら向こうのステージ 上で演奏をはじめた高田渡を見る感じ。それくらい、空気感を閉じ込めた丁寧で小言を言わぬ映画だった。これを見た人は、違う歌も聴きたいなと思うだろう。 そしてゆっくり口ずさむことができる映画だ。それは高田渡の歌そのもの。これから冗談みたいに亡くなったのかと思うと、何が映画で何がそうでないのか分か らなくなってくる。歌もそんな立ち位置で、何も変わらない。メッセージや主張ではなく、空気そのものに徹した映像の切り口がそうさせるのだろうと思った。 このタナダユキさんという監督は、高田渡を解釈したり論じようとしているのではなく、ただ見ていることに勤めているのではないかと思う。風景を記録してい くのではなく、ライブを見に来ているただの一人の観客の目線となって。
筑紫哲也と高田渡の対談映像を You Tube で見つけた。これには、ツクシ的に解釈をけしかける言葉が迫っていって、それをひょいとかわす高田渡が映っていた。

見ている最中に、田中さんが手がけている bnap06 のドキュメント映画ってのはどんなものになるんだろうかと思った。僕自身が随分と説教臭いことをカメラに向かって吠えていた記憶があって、恥ずかしい気もするが、すごく楽しみになった。
ドキュメントだからと色眼鏡で迫った自分に気持ち悪くなるかもしれない。
とかく、自己解釈が強すぎるのだ。
そうやって愛してと迫ってばかりいることを思う。これは反省や追求ではなどの意味を持つ言葉ではなく。

それからアルバイトで、寝る前に作品のことなどを頭ひねって。
猫の寝言を繰り返して。

http://www.altamira.jp/takadawataru/

http://www.youtube.com/watch?v=Us6queMsQ3Q&mode=related&se

日曜日, 10月 08, 2006

動いた分だけ・みんなの鬱は猫として眠る(1)

秋晴れの涼しい風が吹く。
音楽は真心ブラザーズ。図書館で「青い影・ベスト」(プロコルハルム/1968-70)を借りる。
洗濯機をようやく回した。
嘘のなかに本当のことがあって、本当のことのなかで嘘はどうでもよくなっていた。
ドイツから荷物を送るのに、中田さんから頂いた段ボールにスーパーファミコンのカセットを放り込み、リサイクルショップで一気に売っ払った。憑き物を落とすように部屋を掃除する。
僕は、車の助手席で優しくなるのが好きだ。

「フィネガンズ・ウェイク1・2」(著,ジェイムス・ジョイス/訳,柳瀬尚紀/河出書房新社/1991)と「ラブホテルで楽写」(著,荒木経惟/白夜書房 /1981)を購入。それぞれ百円という破格値。「フィネガンズ・ウェイク」は脅威。言葉の城。森の奥深くにそびえ立つ極地の閻魔だ。わけがわからない壮 絶感。ただ呆然と衝撃に耐える喜び。「同3・4」は既に本棚に仕込んであるので、これから超絶読書の秋となりそう。
「ラブホテルで楽写」のほうは、写真集ではなく、アラーキーが撮影するときの言葉のやりとりをライブとして記した異色本。写真はホテルの入り口しか載って いない。言葉のみを通してアラーキーに迫るという、この本の決断の鋭さに興奮する。さあどこまで人生を謳歌し、恋に溢れているのだろうか。ヨダレのような 冷や汗と共にこれも読む。
ああ勉強家。
言葉が降りてきて、気付くまでに時間要するのかな。

すき焼きと野球中継、巨人は永遠に巨人。お父さん、お母さんも永遠にそれ。
穏やかな夜、猫が帰ってくる家。

駅まで送ってもらって、一眠りし家に戻ると、我らの猫、ウッチャンマン飛び出す。転がっているだけかなと思うと、勢い良く走り出して夜の路地に消えてし まった。おいおい、こいつはヤバイんでねーのと、追いかけるが暗くてよく分からない。懐中電灯持ってきて照らすがおらず、小一時間ばかりこんなことははじ めてだぞうと内心焦りながら周辺を探しまわる。このアパートに四年ほど住んでいるが、いままで入ったこともない塀と塀の隙間に潜り込むと、奥が開けていて 廃墟となった中庭があった。bnap05 のときに荒川さんが展示していた薬局の裏手だ。味噌蔵みたく瓦礫が散乱している。入り込むのは保留して他の路地も探すが、車の走る道に出るようになってい るので、もしこっちへ飛び出していたらもうお手上げかもしれんなと思う。しかし、短時間でここまで出そうにないし、猫の鬱は外では恐る恐る動くからそれは ないだろうと思い、やはり廃墟スペースじゃないかと一度戻る。泣き出しそうな彼女に、帰ってくるさと手を取る。
懐中電灯を右左と振り回す彼女の、今日 写真屋から取ってきたプリントは格好良く奇麗だった。僕の部屋にはどんどん愛する人の作品がたまる。スーファミを売った分だけ、動きやすくなるかもしれない。僕の作品も愛する人に渡すから。
一度 落ちついて、また探すしかないかと思って角を曲がると、さっきの隙間から鬱がトコトコ出てくるではないか。のほほんとちゃっかり玄関の前まで歩いて行く。 「無視してやろうよ」と彼女はくやしがった。ゆっくり背後から近づき、扉を開けると鬱はさも当然のように家に入った。僕は苦い笑顔を彼女に見せた。鬱は上 機嫌で家の中をうろついていた。
やがて僕らは糞をされた毛布も奇麗に洗い流したから、今日は涼しい風のなかで静かに眠った。
あしもとで鬱が丸くなっているのを感じた。
僕は生理と満月についての詩を書こうと思った。
「中秋の名月」という言葉を教わる。二十七にして。
いつか、ようやく言葉が降りてくる。
動いた分だけ、僕らは僕らに近づいていくことができる。

土曜日, 10月 07, 2006

こんやもまんげつ

電車に乗ったら、ブーケを抱えた女性がいた。
花嫁の友人が空に投げたもの。
絶対に投げないもの。

バイトを終えて、また iPod でイヤホーン爆音にする。月が今夜も丸く、大きく照らしている。
女の目も丸く、また大きい。
そのなかできらめいているものを、見つめていた。

連休でも仕事帰りの人が行き交い、したいことをしようとしていた。
一言も恥ずかしいことは言っていないと、僕は言った。

家を猫の鬱が守っている。
玄関を開けると、飛び出てはコンクリの上で寝転ぶようになった。
僕の耳は「Sweet Bitter Candy」に転がった。


満月が 真ん中で 明るすぎて
ぼくらのあいだ 距離が よく見えない
いつの日か 苦い思いは ロケットに
乗せて 飛ばせるような 男になる

Candy 夜が明ける ゆっくり大人に
なってゆくぼくら なにかを 決めなきゃね
アルプスが 遠くに 見えたような
気がして 電車に乗って 河を渡る

(作詞,鈴木慶一、白井良明/1998)

金曜日, 10月 06, 2006

つき

ちょっとくらいお酒とか飲んでたほうが、感覚が研ぎすまされるなぁ〜。と思った。
バイトで一日過ごしたあと、部屋でごろごろ、やんなくちゃいけないことをしているうちにすぐ深夜になる。
リリーフランキーが出てる音楽番組を見ながら、発泡酒を飲んで、槇原敬之が良くなっていることを見て「そうだよマッキー!」と一人で頷く。リリメグなんかにもしっかり癒されちゃったりして。

今夜、日本は十五夜で満月が見れる。夕方に降り続いていた雨もやみ、強い月光で空が明るかった。
それでもこの町からでは、まわりの街灯が明るすぎて、見にくい感じがして、ブレーメンからだったら、もっとくっきり見れるんだろうなとも思う。
そのときにやはり「明るい夜」なんだなと思い、僕もシャッターを切った。

大丈夫と何度も言う。
とてもキレイな夜。
そのまま寝る。

木曜日, 10月 05, 2006

だきしめる

朝、「だきしめる」という詩を書き、それから真逆のことを言ってしまう。
意味は似せやすいが、言葉を似せるのは難しいという本居宣長の言葉を思い出す。

昼、アルバイトの求人応募を数件行い、すぐに帰ってきた返事が胡散臭く、戸惑ったので一件断る。どうしようもない気持ちのなかでもがき、改めて大切なものを探し出そうとする。外は強い雨。

夕、ドイツ帰国後初の bnap06 ミーティングの前に、大学のギャラリーで企画展のオープニングを見る。手の仕事を「MANUAL」と名付けた本の仕事は洗練されつつ、大切なものを掴んで いた。二階の小さな部屋にてミーティング。久々の面子と会えて安心する。写真をアルバムに入れて閲覧。カタログの校正をしっかり行う。朝のことを後悔す る。

夜、真坂氏に五百円を借りて定食屋で夕食をとる。僕が帰ってからのブレーメン話を聞く。ひどくナーバスな気分になっていたが、いろいろ話しているうちによ うやく一番大切なことに気付く。これは二十七年間生きてきてようやく気付いたことで、当たり前のことだった。また本居宣長の言葉が頭に浮かぶ。意味を分 かったつもりでいるのは、言葉を分かっていることではないと知る。言葉では分かったつもりだったのだ。愛を抱きしめるなんていうこっぱずかしい言葉が。意 味と言葉は一体だから、意味など忘れて、言葉は言葉でだけあればいいのだ。だから愛を抱きしめるだけだ。言葉巧みなテクニックなどではない。それが大切な ことだと言う言葉を示すだけだ。
車で家の前まで送ってもらう。また来週と手を振る。

深夜、言葉を示し、動く。そんなふうにちゃんと頑張る君が好きなんだよと彼女は言った。心につかえたトゲが取れて良かったと声に聞いた。僕もまさしくそう で、あらゆる大切な関係には必要な言葉があることを知る。言葉は剣やミサイルのように人を攻撃し、制圧しようともするが、間違ったものから人を守ることも できる。必要な言葉の裏には不必要な言葉があって、それらは示されない限り、この世界には現れないのだ。好きだから言いたいというのはエゴだが、エゴをテ クニックや良識で圧殺するのではなく、その言葉が必要かどうかは、その関係を愛でているかたちを見つめることから現れてくる。そのとき愛は試されていて、 人は自らの愛の前に立っているのだ。
電話口で、僕は自らの愛の前に立っていた。
彼女も同じように、電話口で言葉を見つめていただろう。
今朝、書いた詩を読み直す。


だきしめる


四角い窓の向こうを見ていた
そっちの天気はどうか
風が吹いていくと思う
窓を開ければ
そっちでよく眠れるはず
空を見ててと
僕は思った
川岸で
あなたは噴水を見ていた
あなたの笑顔
そっちの天気
窓は開いているだろうか

あなたが夢を見ているうちに
あなたのための言葉が
すべてもどってくるように
あなたのための天気を
風がはこんでくるように
あなたの声を待つために
僕は声を持つ
ここにそれを書き
あなたをだきしめる

あなたのために
四角い窓の
空にうでをひろげる

水曜日, 10月 04, 2006

シャッフル終わらぬ

僕はとんでもなく馬鹿な感じ。
頭では何も分からないみたい。

写真とトランプと遊戯王のカードをいっしょくたにしてシャッフルするような、それはあらゆる思いをシャッフルするシンキング(思考)のような。気持ちになる。
駐車場を子どもが一人で走り回っているのを見ていた。
夜がすぐにやって来る。
写真はどれもキレイだった。
ドイツに行く前に撮った僕らの写真もすごくキレイだった。
カードにして配られる思い。
それは書かれた言葉の姿である。
書かれた言葉を手で掴んで配り、僕らは会話をする。残酷で無様な僕の振る舞いで、ポーカーフェイスで紳士のように七並べをする。
iTunes で「The world of MOTHER」(鈴木慶一+田中宏和/1989)を聴く。
僕のしたい冒険。
ぼく、おんなのこ、おとこのこともだち1、おとこのこともだち2。
みんなを呼んで。
名前で呼んで。
歩いていく。

先生は先生という姿をみせることが仕事なんだと気付く。
愛は愛という姿をみせるための「out put」なんだ。

火曜日, 10月 03, 2006

あらゆるキレイなものが流れ出てしまわないように

そして今日もまた先生に会った。偶然のように出会った。
ドイツで撮った写真ができあがっていて、それを机に並べて話をした。
あらゆるキレイなものが流れ出てしまわないように、あなたはしっかりと抱きしめる必要がある。
そう自分に言い聞かせて考えた。
バイトの後の深夜一時過ぎに、福岡氏宅に伺い、雑談と、帰りの飛行機の中で何故か画面が割れてしまったプロジェクト iBook のバックアップ作業。液晶が潰れて、黒い葉っぱが覆いかぶさっているようだった。

久しぶりの風景。あれからのドイツ話を聞く。また写真を並べた。帰ってアルバムに入れよう。梨を頂く。

帰り道は 60km/h で飛ばした。
夜のなかで眠る、やさしいあなたの顔を、またアルカイックスマイルと呼びたくなる。
僕は東京まで、あと何日で行くのか。

月曜日, 10月 02, 2006

Virginity、港について

雨の日。iPod にイヤホンを刺して「Virginity」(MODERN MUSIC/1978)を聴く。
鈴木慶一の声が、俺の代わりに、俺の心が騒ぐのを歌ってくれる。
音数の少なさは、貧しさではなく必要な数だ。
どうしても切なくなる。
僕ではなく、俺と使いたくなる。
俺には無茶なことが多く、俺は何が意味を持ち、何が無意味となるのかを忘れた。
そんなものは必要が無い。
だからこう、あなたは苦しんでいる。
曲は「Modern Lovers」に進む。雨の空港を想像して、俺はようやく同級生の友人を「先生」と呼ぶことの崇高さと空しさを知る。
誰が呼び始めたのか、ドイツでプリー氏をプリー先生と呼び、中山氏を中山田先生と呼ぶ。そこには敬意のようなものと軽易のようなものがブレンドされていた。ジョークはいつもマジであるからジョークになることができる。
「俺は男だから」
そんな一言で話は笑えたり、笑えなかったり。
実際には「僕」と発言していただろう。
フロントガラスに雨は打ちつけなくなった。
僕は先生と呼ばない。
僕は先生と呼ばずに、あなたが格好よいと言ったり、背筋が伸びる言葉で話すだけだ。言葉はタダで、タダより高いものはない。
「タダマンはひとりだけじゃー」と微笑んでいた「カンゾー先生」の清水美砂、麻生久美子。
僕の夢はまるで小学生の幸福な教室。男女全員が出席しているお別れ会。先生は何かをフンパツしてくれている。お金ではない何かを。
子どもの僕にはそれを信じることができたから、大人の僕にもそれを信じることができる。

最終曲「鬼火」の後で、急いでホイールを回し「恋人が眠ったあとに唄う歌」(詞,曽我部恵一/曲,鈴木慶一/1998)をかける。
音量は最大に。
一瞬で曲は終わる。
声は呼び止め、さよならと言い、解き放った。
末尾の演奏が常に格好良い。
俺はあなたの煙草を盗んだが、あなたに言葉をあげることができたか。
そもそも言葉をあげるなどという考えはどういうことだ?
共有するなんて言葉は幻想だ。
俺たちはいつも奪い合って、与え合っている。
家はその残酷な愛する現場で、彼女は眠るのだ。風邪はすぐによくなる。
二人で住んでいると、何が何だか分からなくなるときがある。
愛はいつも最大級に愛を用いる。
出し惜しみは愛の仕事ではない。

必要なことだけを書く。
書くことが書くことを呼ぶ。
厄介でありながら、これこそが生きていける力だ。
「out put」は大人の仕事。
愛するという仕事。

港についてを語ろう。
おつき合い願えるなら。
B面みたいな気持ちで書く。
詩のようなものを詩と呼ぶ。
先生のようなものを先生と呼ぶ。
夢のようなものを夢と呼び、
人生のようなものもまた然り、
海はこの国にとって面倒なラインにすぎない。
トラウマはそう簡単に消えない。
言葉は追い込んでしまう。俺たちは人生を損していると。
恋人のようなものを恋人と呼ぶ。
言葉でしか触れられないものを、
疑いだすと気が狂う。
人はこの面倒なラインを好かぬ。
ここに限界があって、
だからこそラインを見ようとするのだ。
「線路は終電なのかな」と聞き、見上げると高架はぶつ切れになっていたので、時間と空間が同じようだと考える。
その言い方は間違っていて、
その言い方はあなたの素敵なところなのだ。
詩人は獣のような人だ。
素敵なところだけを貪る、心の中に巣食う獣。それを治めるように人は、獣を殺さないように言葉をかける。言葉の中で獣はあらゆるものを貪り食う。言葉の中 から襲いかかってきて、言葉の中に引きずりこむ。詩人は骨だけで良い。獣だけがたらふく太り、筋肉朗々として詩人の血肉だと見せてくれる。
では骨だけになるには、どうすればいいのか?

クレーンにくすぐられ
タンカーに身震いする
同じ名前の車が並ぶ
でも道路端に止まっている車だけ名前が違う
名前の色が違う
意味や無意味を忘れている
逃げた家族はこのまま突っ込む
一度止まって
理由より優しさを確かめて
そして帰ろう
警察に捕まる前に
クレーンについて書いた僕の詩をここに引用しよう。
音楽はシャッフルの設定だったようで、また「Virginity」だ。


女達の逸話


視界の底から 影が突き出す。
あざ笑うのは、僕のクレーン。

地下鉄は唸っている。
いい加減、空に抜けたいと。

川沿いの夕闇に終われ、
沈黙を抱えこんだ女達を知っている。
僕はその音を ききたかったけど、
逸話の為に、きいてはいけない。
(夕闇はひどく個人的なもの。)

サーチライトをみつけるのと同時に、
女達は居なくなり、
僕は 雨の先っぽを掴む。

地下鉄も、
クレーンも、
逸話だけでは 何にもならないのに。

(1999)

日曜日, 10月 01, 2006

僕らの家で

愛知県美術館で今日までやっている企画展「愉しき家」を見に行った。

雨が降る中を彼女と歩いていると、道沿いにあった結婚式のプラン店はカップルでごった返していた。みんな日曜でないと互いの都合が合わないのだろう。
これもまた「愉しき家」だなと思い、巨大なテーマ「家」を前にしようと鑑賞に望んだ。それは愛知県美術館主催の現代美術企画展という、また大きな取り組みであったようだった。常設展示にも企画作品が組み込まれていて、一体となって見ることができるのも面白かった。
やなぎみわ、ゴードン・マッタ=クラークの各作品に強く惹かれる。この二作品からは作家の理屈や構想や詳細は二の次で、家に対する裏切りや許し、これらの発見に触れた。

寄り道はせずに帰って、僕らの家は今夜も嬉しいことにカレーなんぞを食べ、映画を見ることができたのだった。
「マグノリア」(監督,ポール・トーマス・アンダーソン/ジェレミー・ブラックマン、トム・クルーズ/1999)。これも「家」をふだんに含んでいる「人 生」についての映画だった。過去に向き合うことが突きつけられているのは、未来に向き合うことが突きつけられているのと同じ。
多層的に、切実に、言葉がやってきて、それを放送や天候という状況で包んでいく構造が好きだ。
僕は、描く世界を行毎に飛ばしながらも、これらが繋がっているんだと思って詩を書いている。

愛は何よりも強い。
愛は何よりも。

ソファーに座れば猫の鬱がよく甘えてくる。でも寝るときは別々だ。冬はどうなるだろう。

土曜日, 9月 30, 2006

まけんきのつよいおなごじゃ

偶然バイト先に真坂氏が立ち寄ってくれたので、久々の再会にハグをする。帰国してすぐの反動に体がフラフラしているようだったが、他の皆も無事に帰ってきたということで良かったと笑う。

帰宅後、ワインなどを開けてレンタルの映画を見た。
「カンゾー先生」(監督,今村昌平/柄本明、麻生久美子/1998)。
日本の隠蔽体質にこれでもかとまとわりついていくのだが、それがしつこくなく、常に爽やかに明るく描かれているところが凄く面白い。
愛情が貫かれている。
麻生久美子が魅力的で見入ってしまう。

金曜日, 9月 29, 2006

詩人の良識に逃げるな

バイトに行く前に「まっている」という詩を書いた。
鉛筆で紙に書いたあとで手紙のように机に置いておき、続いてホームページのタイトルにも載せた。タイピングをするときに、句読点を抜き取ることにした。
すごく単純で素直に語ることがいちばん難しいと思った。

いまだテレビに細木和子が出ていて、良識の押し売りをしているのを見て嫌な気分になる。
いつだったかの詩の朗読イベントで、僕が人の詩を読んだら、舞台に上がってきて「自分の言葉を読めよ」と迫られたのを思い出す。
正しい詩人とそうでない詩人について、いまだに納得がいっていないのは僕自身のせいなのか!

木曜日, 9月 28, 2006

君が言葉を追いつめてくれている

日々は濃厚。ドイツで、100%ジュースは「saft(ザフト)」と呼んだ。とても美味しくて、僕はそれが大好きだった。「自分100%」は既に当たり 前。いまや、気持ちは何を見てもザフトと呼ばせる。濃縮還元で無理に満たすのではなく、自然に濃い。そしてこれからまだまだ美味しくなるだろう。

ゲオーグにメールを送る。ノリクンにメールを送る。mixi 内をうろうろしてみる。原付でフィルム現像をお店に出しに行く。英語で現像出しを何て言うのか分からなくなる。駅ビルのデパートが改装して、ダイソーが 入っていた。もうこれでセリアという既存の百円ショップには行かん!と豪語する。中山氏らは知っているであろうか。本屋もレコード屋も大きくなっていた が、一番のトピックスはダイソーの登場だ。こりゃあ、セリアは厳しいぜ。パッとしなかったもん。
とかなんとか、やはりしつこい。

一つの鍋に味噌煮込みうどんを作って二人でつつく。

1954年、詩人の黒田三郎が「ひとりの女に」という詩集を出版した。それは夫人となった女性との恋愛を綴ったもので、優れて美しい詩集であったが。
その女性は、自分一人に捧げてくれたらいいのだけれど、公表してしまったと言って、プンプン怒ってしまったらしい。(※1)

「自分のためだけにでもひとつの本を作ったら」という彼女の言葉を聞いて。
その話を思い出す。

僕はおそらくまだ、セックスをセックスとでしか捉えていない。
これはレジャーやスポーツの類いではない。ひとつの本を作るとき、僕は黒田三郎に憧れるだろう。これはアートの為にはインスタレーションみたいなことをすればいいと考えている節を蹴散らす。
詩人とは何であるかを忘れる為に、綴じられた頁をめくる為に、花柄の布団で包む為に、僕は言葉を待っているのだ。
その方法がようやく、こねくり回すだけの段階を終え、オーブンに入れたり、沸騰した湯に浸けてみようかという発見に繋がっていた。
君が運を追いつめてくれている。(※2)

※1、名著「詩のこころを読む」(著,茨木のり子/1979)より。
※2、「運命の遺伝子UNA」(著,赤瀬川源平/2005)より。

水曜日, 9月 27, 2006

ぼくたちの方法(トランプを描いて)

子どもらの間で、遊戯王なんとかマスターカードが流行りだした。遊んでいるのを横目で見ていて、面白い部分は理解できたが、同時にシンプルではないゲーム の構造に首をかしげた。相当にややこしいルールが継ぎ足されているようなゲームで、すぐに諍いの原因となるような遊びである。商品として売り続けていくと いう時点で、ゲームとしての精度より、キャラクターやレア度の魅力で引っ張っていくしかないという印象である。80年代の「ビックリマン」、「カードダ ス」の類いにゲーム性は極めて希薄であった。「ビックリマン」など「貼って、貼られて、貼り返されて!?」という文句でしか遊びが提示されていない。切手 収集のような想像のゲームだ。いまの子どもは数値とか効果みたいなところに考えが行ってしまいがちになるかも。ならば数値や規則のもっとディープなところ に行こうぜと「トランプ」を前に出す。大富豪 知ってる?と聞くと、低学年の二人は知らなかったのだが、ルールを教えるとすぐに覚えた。

二学期は、この「トランプ」を各自が一つずつマークを担当して作ることをする。
これは継続企画として作り続けて、毎回別に各モチーフの絵を描くこともしていく。十二月までに完成するようにして、年末年始は家族でトランプしてねという 感じに流していく行程だ。ようやく子どもらに無理なく絵を描くことを導入していく方法が分かってきた気がする。教室を特別扱いさせないように。

五時半から半時間だけ、図書館横の公園で遊ぶ。鬼ゴ(鬼ごっこの略)をして走る。ドイツでプリーらとしたサッカーのときと同じく、僕はサンダルでドンくさくダッシュ。

彼女と英語だけで話す時間をつくった。
ムーンライダーズの新譜が発表された。「ゆうがたフレンド(公園にて)」(作詞,糸井重里、作曲,白井良明/2006)。
とっくに夕方を終えた道を、ビデオを借りに二人で歩く。

http://www.1101.com/friend/index.html

火曜日, 9月 26, 2006

この夏で会得した計り知れないこと

彼女が録画していた「タモリ倶楽部」を見てひとり爆笑する。赤瀬川源平が NHK に出ていたものも続けて見る。安西肇とみうらじゅんは本当に仲がいいなぁ〜。
ニッポンのサブカル美味しい処だなっと思う。ピーターがプラスギャラリーで泊まり込みの企画展をズッキーらとしていたときに、毎週末は「探偵ナイトスクープ!」と「タモリ倶楽部」を続けて見ていて「一番好きな番組だ」と話していたのを思い出す。
赤瀬川源平は半端ナイし、いま彼女のマイブームで赤瀬川本にハマっているようなので便乗して僕も読んでみようかと思う。
ドイツであれだけ口が酸っぱくなるほど話していた村上春樹の抱きしめる「充電」場面が、何故か発見できず、読んでいればいつか出てくるだろうと気長に小説をめくっているのも少し疲れてきた。
感傷的な気分は過ぎて、いまは実際に何を見て何を食べて、何を聴き、何を読んでいるかに意識を持ってきている。それは子どものように、目の前にあるもの、 いまの自分が立っているところに何があって、ここで自分はどう遊べるかという実践だけであった。言いたいことを言いあう先が、互いに傷つけ合ってしまった というところに辿り着けば、そこからなんとか分かり合えるのかもしれない。だからひとり勝ちしているいまのアメリカはまずいのだと思う。返り血の苦しみを 向こうの詩人は唱えているかもしれない。
と、相変わらず暴走トークをしていたら彼女に、
「やっと日本に帰ってきたね」
と言われた。

力強く抱きしめることを覚えた bnap06 面子たち。「彼女と会ってすぐに抱きしめました。もちろん人前で」という谷さんの携帯メールに勇気づけられる。

久しぶりに自分のホームページを更新した。今回、ドイツで制作した作品「鉛筆はミサイルとロケットを持っている」の記録を載せた。
向こうで作ってきた NTSC形式の DVD もちゃんと見れたのでバッチリだ。

バイトから帰ってきて、猫の鬱に味付け海苔をあげる。この夏で、猫らしく甘える方法を会得していた。

月曜日, 9月 25, 2006

二度と手に入らないものを食べて生きている

本当の心だけしか伝えることはできない
伝わってくるものも、本当の心だけ
もしも嘘をつけば
その嘘は伝わらずに
汚れた息づかいが
伝わってしまうだけ

「恥ずかしい僕の人生」(早川義夫/1997)



でも後悔とかではなく、すごく嬉しくは思っているんだ。
あらゆる気持ちが嘘ではない。この全てを受け入れていくことはおそろしくタフなことだ。
そんな無理までして、何を掴みたいのか。
僕は君に気持ちを話したということで、らくになっている自分を実感している。
本当に「抱きしめる」という主題で作品を作ろうと考えている。帰りの飛行機のなかで、僕はいままでつきあってきた女性のことをずっと考えていた。
あほですな。
あわてふためいてとっ散らかしていろんなことがよく分かった。
クリアな視点が続いていく。
この国にも、どの町にもそれはある。
変わらないものとして。
もう太らない。
二度と手に入らないものを食べて生きている。

日曜日, 9月 24, 2006

あらゆる正攻法の嘘をつかぬ癒し

猫の鬱が日向ぼっこをしていたので、それを写真に撮ろうとしたら、僕のより彼女のほうが良かった。「女は近づいて撮らないと」と言われた。猫の鬱はメスで、実際にそれだけで良くなる気がした。
そんな簡単なことが一番難しい。

電車に乗って、犬山のキワマリ荘「アートドラッグセンター」最後の展覧会へ行く。デートにはちょうどいい距離で、遅くまでやっているのも嬉しい。道ばたにデジカメを向けて、ごろ寝している猫や、植木などを撮る。
有馬さんの個展「キワマリ荘の住人Ⅴ楽画鬼の引っ越し」を見る。十年間に渡る作品群。実際に絵の数は多いのだけれど量に圧倒されるという感じではなく、もっと一貫して同じ絵を見ている感じ。
可愛い奇形児に愉快な蛆蟲。生き物の中身は優しくない。だから優しくしようとする。そこに言葉が書かれて、生き物はようやく落ち着いて目をつぶることができる気がした。
あらゆる正攻法の嘘をつかぬ癒しを僕はこのアパートで見た。夜にみんなで食べにいった中華料理屋で、彼女は胃を痛めてしまったけれど。「楽しかったね」と言って帰った。
有馬さんより藤井貞和の詩集を頂いた。

僕は引っ越しについて考える。それは同時に、あらゆる正攻法の嘘をつかぬ人生についてだ。
そうやって言葉ははじまっていた。







土曜日, 9月 23, 2006

夜の散歩

愛を模索する旅。
本当はその只中にいる。
気付かない展開は心の常。
言葉は消せない。言葉を直す為に言葉を書くのだ。
ドイツの巻き煙草を彼女と吸った。
二本目くらいで、奇麗に巻いていた。
夜に猫の鬱に首輪をつけて散歩に出ようとするが、鬱は怖がってしまい玄関先で転がるだけだ。
臆病な理由を並べていた。
味噌蔵の裏を二人で歩いた。
夕食の親子丼はとても美味しかった。
それぞれが歩いて、つきあうということをしている。
顔を向かわせる言葉だけが本当のこと。

金曜日, 9月 22, 2006

何かが、まだ来ない

一ヶ月半の間に凝固してしまった氷の塊。それが少しずつ溶け始めていた。
私は言葉を選び、言葉を捨てることを行おうとする。
リハビリ内リハビリのように、帰ってきてから初のアルバイト。ナーバスな気分になって、クラクラする。ドイツのチョコレートは冷凍庫に眠らせて、帰る。
一人で、いまだ片付けない荷物の前で横になる。
何かが、まだ来ない。

それは海にあるのさ。男が唄っていた。

木曜日, 9月 21, 2006

next station はどこ?

なんでこんな寂しい街になってしまうんだろう。
人々はとにかく急いでいる。愛に飢えている。
栄駅の構内にたむろするホストたち。彼らが最も生き生きしているように見えてしまった。でもそれは錯覚だとすぐ意識する。彼らの背後にある金銭という理由、後ろ盾。それを踏み倒している者はおそらく少なからずいるだろう。テレビの密着ドキュメントなどは、その姿を求めているから見るのだ。
いまはまだ、僕には行き先があるから良い。
行き先だけのための街だった。
この街に広場は無い。

名古屋市民芸術祭2006「next station」という企画展のカタログ編集会議に出席。
雑誌の形態をしたカタログが発行される。僕は編集に関わりつつ、ドイツに行っていたので非常に御迷惑をおかけしてしまった次第。
詩「次の駅」を書いた。
頭を垂れる。

http://www.bunka758.or.jp/ga/art/art1018.html

水曜日, 9月 20, 2006

また会えて嬉しい

久々にみんなに会う。子どもたちはやっぱり日に焼けて元気だった。良かったと笑ってお土産なんぞを渡す。
「せんせい、トラブルとかあった?」
と聞かれて、たいへんだったよ~ん。と笑う。空港で荷物の重量オーバーしてしまった話をした。
鈍った手を慣らそうと、顔をまた描いた。みんないい絵を描いていた。どんなにうるさく騒いだとしても、ちゃんとしなくちゃいけないところでちゃんとしてくれていたら、むげに怒る必要はないなと素で思えた。
夜は彼女とグリーンカレーを食べた。

火曜日, 9月 19, 2006

世界にファミレスから

亘さんと落ち合って、ファミレスでだべる。
タイ、マレーシア、ドイツ。世界は常に未知だ。同じく人生も未知だ。
「ADOLF」(Osamu Tezuka/1963-83)をプレゼント。タイのルームパンツを頂く。
これがドイツ語訳されているなんて、天国で手塚先生は喜んでいるだろう。
でも「MANGA」がオタクイメージと判断されて「COMIC」でないと、まともに取り扱ってもらえないという言葉の現状には残念がるなと、亘さんは言った。

http://en-f.tezuka.co.jp/manga/sakuhin/m103/m103_01.html

月曜日, 9月 18, 2006

帰還

「日本へ旅行する」と言って僕はみんなと別れた。見送りに来てくれた皆とハグをして、握手をした。
嘘みたいに飛行機は空に浮き上がり、僕ら(僕と谷澤氏と田中さん)はバラバラの席に座った。フランクフルト空港ではまったく時間が無く、買おうと思っていた免税チョコが買えなかった。いろんなものを鵜呑みにし過ぎていたようである。昨晩、マレーナが話してくれた「TOKIO HOTEL」というドイツ版ジャニーズJr, が載っている雑誌を買う。紙媒体ばかり買っていることに気付き、寂しくなる。

国際線の機内で、横になったドイツ人のおじさんと話をした。相当に込み入った個人的な話までしてしまった。英語を使いたくて仕方がなかった。おじさんはとても優しく、ライターを生産している日本企業のドイツ支部局長らしかった。ビジネスで一週間ほどの滞在らしい。日本人とは会議が難しいんだという話に笑った。彼らは何でもすぐに決めることができないとおじさんは言った。
笑顔で別れることができて、僕はおじさんが眠っている間に「ダビィンチ・コード」(監督,ロン・ハワード/トム・ハンクス、オドレイ・トトゥ/2006)を見ることもできた。充実したフライトだった。機内食で食べた白米に、ほろりときて、終わりの食事はドイツ料理風というのも演出が効いていた。

成田で田中さんと別れる。谷澤氏と二人で小さな飛行機に乗り込む。機体までは送迎バスに乗って向かう。上空から東京湾に東京が見てとれた。平日の夕方、雲は木曽山脈のほうから流れてくる。台風は反れていってくれた。皇居のところだけ黒く見えた。あの街に大勢の人々が居て、あの仕切られた空間に天皇が居て、これから向かう街に彼女が居て、いままで居た国にまたみんながいるのかと思うと気が遠くなった。

中部国際空港の出口で彼女を抱きしめた。
僕たちは信じられない世界に居る。全てが奇跡の産物だった。