月曜日, 10月 02, 2006

Virginity、港について

雨の日。iPod にイヤホンを刺して「Virginity」(MODERN MUSIC/1978)を聴く。
鈴木慶一の声が、俺の代わりに、俺の心が騒ぐのを歌ってくれる。
音数の少なさは、貧しさではなく必要な数だ。
どうしても切なくなる。
僕ではなく、俺と使いたくなる。
俺には無茶なことが多く、俺は何が意味を持ち、何が無意味となるのかを忘れた。
そんなものは必要が無い。
だからこう、あなたは苦しんでいる。
曲は「Modern Lovers」に進む。雨の空港を想像して、俺はようやく同級生の友人を「先生」と呼ぶことの崇高さと空しさを知る。
誰が呼び始めたのか、ドイツでプリー氏をプリー先生と呼び、中山氏を中山田先生と呼ぶ。そこには敬意のようなものと軽易のようなものがブレンドされていた。ジョークはいつもマジであるからジョークになることができる。
「俺は男だから」
そんな一言で話は笑えたり、笑えなかったり。
実際には「僕」と発言していただろう。
フロントガラスに雨は打ちつけなくなった。
僕は先生と呼ばない。
僕は先生と呼ばずに、あなたが格好よいと言ったり、背筋が伸びる言葉で話すだけだ。言葉はタダで、タダより高いものはない。
「タダマンはひとりだけじゃー」と微笑んでいた「カンゾー先生」の清水美砂、麻生久美子。
僕の夢はまるで小学生の幸福な教室。男女全員が出席しているお別れ会。先生は何かをフンパツしてくれている。お金ではない何かを。
子どもの僕にはそれを信じることができたから、大人の僕にもそれを信じることができる。

最終曲「鬼火」の後で、急いでホイールを回し「恋人が眠ったあとに唄う歌」(詞,曽我部恵一/曲,鈴木慶一/1998)をかける。
音量は最大に。
一瞬で曲は終わる。
声は呼び止め、さよならと言い、解き放った。
末尾の演奏が常に格好良い。
俺はあなたの煙草を盗んだが、あなたに言葉をあげることができたか。
そもそも言葉をあげるなどという考えはどういうことだ?
共有するなんて言葉は幻想だ。
俺たちはいつも奪い合って、与え合っている。
家はその残酷な愛する現場で、彼女は眠るのだ。風邪はすぐによくなる。
二人で住んでいると、何が何だか分からなくなるときがある。
愛はいつも最大級に愛を用いる。
出し惜しみは愛の仕事ではない。

必要なことだけを書く。
書くことが書くことを呼ぶ。
厄介でありながら、これこそが生きていける力だ。
「out put」は大人の仕事。
愛するという仕事。

港についてを語ろう。
おつき合い願えるなら。
B面みたいな気持ちで書く。
詩のようなものを詩と呼ぶ。
先生のようなものを先生と呼ぶ。
夢のようなものを夢と呼び、
人生のようなものもまた然り、
海はこの国にとって面倒なラインにすぎない。
トラウマはそう簡単に消えない。
言葉は追い込んでしまう。俺たちは人生を損していると。
恋人のようなものを恋人と呼ぶ。
言葉でしか触れられないものを、
疑いだすと気が狂う。
人はこの面倒なラインを好かぬ。
ここに限界があって、
だからこそラインを見ようとするのだ。
「線路は終電なのかな」と聞き、見上げると高架はぶつ切れになっていたので、時間と空間が同じようだと考える。
その言い方は間違っていて、
その言い方はあなたの素敵なところなのだ。
詩人は獣のような人だ。
素敵なところだけを貪る、心の中に巣食う獣。それを治めるように人は、獣を殺さないように言葉をかける。言葉の中で獣はあらゆるものを貪り食う。言葉の中 から襲いかかってきて、言葉の中に引きずりこむ。詩人は骨だけで良い。獣だけがたらふく太り、筋肉朗々として詩人の血肉だと見せてくれる。
では骨だけになるには、どうすればいいのか?

クレーンにくすぐられ
タンカーに身震いする
同じ名前の車が並ぶ
でも道路端に止まっている車だけ名前が違う
名前の色が違う
意味や無意味を忘れている
逃げた家族はこのまま突っ込む
一度止まって
理由より優しさを確かめて
そして帰ろう
警察に捕まる前に
クレーンについて書いた僕の詩をここに引用しよう。
音楽はシャッフルの設定だったようで、また「Virginity」だ。


女達の逸話


視界の底から 影が突き出す。
あざ笑うのは、僕のクレーン。

地下鉄は唸っている。
いい加減、空に抜けたいと。

川沿いの夕闇に終われ、
沈黙を抱えこんだ女達を知っている。
僕はその音を ききたかったけど、
逸話の為に、きいてはいけない。
(夕闇はひどく個人的なもの。)

サーチライトをみつけるのと同時に、
女達は居なくなり、
僕は 雨の先っぽを掴む。

地下鉄も、
クレーンも、
逸話だけでは 何にもならないのに。

(1999)