朝、「だきしめる」という詩を書き、それから真逆のことを言ってしまう。
意味は似せやすいが、言葉を似せるのは難しいという本居宣長の言葉を思い出す。
昼、アルバイトの求人応募を数件行い、すぐに帰ってきた返事が胡散臭く、戸惑ったので一件断る。どうしようもない気持ちのなかでもがき、改めて大切なものを探し出そうとする。外は強い雨。
夕、ドイツ帰国後初の bnap06 ミーティングの前に、大学のギャラリーで企画展のオープニングを見る。手の仕事を「MANUAL」と名付けた本の仕事は洗練されつつ、大切なものを掴んで いた。二階の小さな部屋にてミーティング。久々の面子と会えて安心する。写真をアルバムに入れて閲覧。カタログの校正をしっかり行う。朝のことを後悔す る。
夜、真坂氏に五百円を借りて定食屋で夕食をとる。僕が帰ってからのブレーメン話を聞く。ひどくナーバスな気分になっていたが、いろいろ話しているうちによ うやく一番大切なことに気付く。これは二十七年間生きてきてようやく気付いたことで、当たり前のことだった。また本居宣長の言葉が頭に浮かぶ。意味を分 かったつもりでいるのは、言葉を分かっていることではないと知る。言葉では分かったつもりだったのだ。愛を抱きしめるなんていうこっぱずかしい言葉が。意 味と言葉は一体だから、意味など忘れて、言葉は言葉でだけあればいいのだ。だから愛を抱きしめるだけだ。言葉巧みなテクニックなどではない。それが大切な ことだと言う言葉を示すだけだ。
車で家の前まで送ってもらう。また来週と手を振る。
深夜、言葉を示し、動く。そんなふうにちゃんと頑張る君が好きなんだよと彼女は言った。心につかえたトゲが取れて良かったと声に聞いた。僕もまさしくそう で、あらゆる大切な関係には必要な言葉があることを知る。言葉は剣やミサイルのように人を攻撃し、制圧しようともするが、間違ったものから人を守ることも できる。必要な言葉の裏には不必要な言葉があって、それらは示されない限り、この世界には現れないのだ。好きだから言いたいというのはエゴだが、エゴをテ クニックや良識で圧殺するのではなく、その言葉が必要かどうかは、その関係を愛でているかたちを見つめることから現れてくる。そのとき愛は試されていて、 人は自らの愛の前に立っているのだ。
電話口で、僕は自らの愛の前に立っていた。
彼女も同じように、電話口で言葉を見つめていただろう。