土曜日, 10月 14, 2006

ここがわからないんですよノート

「わからないところを書き留めておくための、「ここがわからないんですよノート」を作ったらどうかって話したの」
と、彼女は言った。
僕の「ここがわからないんですよノート」は真っ黒だよと返す。
ドイツにて、ビデオカメラの前で「人は心を見せることができないから言葉を使うんだ」と僕は言っていたが、それは自分でも自分の心を見ることができないからだと、いま反芻していた。あのときに言った言葉は、それも含んでいただろうか。
「ここがわからないんですよノート」は今日も真っ黒だ。
このブログ日記は、そこから切り開こうとする言葉である。
「仁さん、最近 "抱きしめる" ブームなんですよね!」
と、先日、後輩の子に言われ、薄気味悪い顔色を振る舞って半笑いで返事をしてしまったのを思い出す。

「CONTACTS」(監督,ウィリアム・クライン/2001)を晩に少し見た。
写真家が、自作の写真を画面に流しながら自作を語るというインタビュー形式のドキュメントで、余分なものが全く無くて力強い。ソフィー・カルと、ナン・ ゴールディンの回を見終わったところで、自分はなんて人生を楽しむ力が無いのだろうかと悔しくなる。ただ素直に生きていることが、最も力強いのだと思う。 生きる苦しみと喜びが写真には写されていた。チャプターを飛ばして、アラーキーの分を見る。
「写真は日記なんだよ」と言っていた。
「冬の旅」のなかにある、最後の握手の写真は弟に撮らせたものらしく、「冷たいとか言われるんだけど」と、声が首をひねっていた。
冷たくなんかない。
「アタシは双子座だから」と続けていた。

表現とは、もう一人の自分を遠くに行かせて、自分がよく見える位置に立たせることではないかと思う。そこから、自分がいまいるところを見つめてみること。
遠くに行ってみる残酷さは、こちらをよく見ることができるという優しさを持ってくる。

ブームと言われることは、嬉しいことだ。ブロガー冥利に尽きる。
言葉は僕のものではない。
「詩が良かったです」と言われたとき、僕は嬉しくて詩人冥利に尽きてるんだけど、その喜びは言葉が勝手に読まれて再生するものであって、僕が与え続けるものではないのだと思う。
作家の説明など無くとも、自然に再生できる作品を作る為に自分を遠くにやるという行為は、残酷なようで、愛する故だ。伝える為だ。
詩は妄想ではない。
詩は死刑宣告文である。
詩は日記のようで、日記より日記らしい。
日記は詩になりやすい。詩より詩らしい。
僕の「ここがわからないんですよノート」は、詩の台本だ。
詩が死刑宣告文だから、言わば罪状にあたる。
生きることにもがく罪。
それを裁くことは、誰にもできない。

もう疲れてきたから、詩を書こう。
言葉を読むことができれば、何度でも生まれることができる。
死んだあとに、生まれるものがあるように、死刑宣告文は作られる。
そうやって、生きるということを明らかにしていくのだ。
それが罪なのか、何なのかという根本から。
自殺は、罪から逃げているだけで、言葉を読んだことにはならない。
明日は日曜日で、僕はこの頃、高校生から二十七歳になったばかりだ。

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