日曜日, 10月 22, 2006

ここ、そして、そこ

金券ショップでチケットを買うことを覚えた。
電車の中では小説を開くことにした。

藤本由紀夫展「ここ、そして、そこ」を見に行く。
名古屋市美術館のある白川公園で、僕は一度も弁当を広げたことはないけれど、もし仕事をここいらですることになったら、一度穏やかな昼休みを過ごしたいと 思った。地区民運動会の声が聞こえる。僕は失った音に耳をすまし、失った色を見つめるために、この美術館で時間を過ごす。
言葉に降りていく者は、真顔である。何も特別な理由はない。素直な気持ちに生きることがどれだけ勇気の要ることで、必要なことだろうかと思う。
取り乱した者には、ここも、そこもない。
言葉を書くとき、発するとき、最も立ち上がってくるものは、ここ、か、そこ、かだ。
生きる者は、それを見て、聞いて、歩いていく。

デュシャンによる詩の朗読。音楽と共に流れ、エンドロールのよう。
吊り下げられたシンセサイザーが、吊り下げられる故に鳴り続けるのが、悲鳴であり、祈りに思えた。ソファに座って、言葉を読む。
分離「SEPARATION」と結合「CONJUNCTION」について。
新しい結合。耳と目はこれを繰り返す。その可能性。
「HERE」はここにあり、「THERE」のための「T」は、そこにある。文字通りのことがある作品。言っていることと、行っていることが同じということが、強くて美しい。気取ったところはひとつもなく、言葉を持っている。
遠回りなことはなにもない。
僕は進むことを覚えた。
言葉を読むことを覚え、いつか書くことを行う。
それを繰り返し、ひとつでも確かなことをわかりたい。
それだけだ。

小雨は止んでくれた。右翼がうるさかった道を帰った。
僕は、関係についてを信じる。
ここ、がなければ、そこ、もない。
そこ、がなければ、ここ、もない。
駅についてを語ろう。
駅には、見送る夢などない。
駅には、帰るための次しかない。
駅を降りて、僕は関係についてを、またはじめる。
だめだったから次に行くのではない。
僕は駅の名前を覚えて、
路線図を知る。
全天を走る。
夕暮れが輝き落ちる。
ドアはノックされ、僕は待っている。
全天と路線図について、ここからのそこを話しながら、砂丘のある海に行きたい。
家族の名前に会うために。

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