火曜日, 10月 31, 2006

玄関先で転がって、壁を貼り合わせて、お金を握って、本棚を紐解いて、君はもう眠っているね、猫の鬱も。

洗濯ものを干しているときに、猫の鬱を外に出してやった。
今日はやけに鳴いて訴えてきた。
急に可愛そうに思えてきて、ドアを開けてやった。
相変わらず玄関先でごろごろ転がっているだけなので、洗濯ものを干す合間に少し目を配る。干し終えて、そろそろだぞと捕まえにいくと、体勢を変えて逃げるのであった。
またあの廃墟に行ってしまったら嫌だなと思っていたら、その入り口付近で鬱は立ち止まって、違う隙間に入り込んだ。あまり追いかけ回すと、余計に逃げるから、気にしていない振りをする。少しして、またもやトコトコと戻ってきたところを御用した。
部屋に戻すと、気分良く。座った足に乗って眠りだす。この頃は夜冷えてきたからか、毛布の中に入って小さくなっている。
蹴飛ばさないように、人間様が体を斜めにして眠っていたりする。
ドアを開け放って、空気の入れ替えにもなって良かった。

大学に向かい「ゴールデンバンコク2」の設置作業。段ボールの壁でテントを囲む。他の店はほとんど出来上がってきていて、しかも鉄骨やら木材を大量に使用 していたりして、小奇麗な店も多く盛り上がっている。我らが「ゴールデンバンコク2」が最も安価で作られているに違いない!という自信が胸を熱くさせた。 タノーム氏がリサイクルだねと笑って答えた。段ボールに囲まれた空間は妙に温かい。負けじと盛り上がっているのは勿論のこと、続々と顔を出してくる洋画の 面子が、何かありそうと嗅ぎ付けてきてる感じも充満していた。今日はタイから豊橋に住んでいるウウ氏も来ていて、一緒に段ボールを貼り合わせた。相変わら ずウマ氏のテンションが舞い上がりすぎて暴走するので、とうとうタノーム氏がツッコミチャランボを入れた。それを見て一同爆笑。
昨日と同じくバイトをして、深夜帰宅。
猫の鬱がニャーニャー鳴く。
末井昭氏の写真日記を見る。

http://sueiakira.com

http://www.1101.com/editor/2004-06-02.html

月曜日, 10月 30, 2006

We're making golden bangkok. We're standing front of the art core.

用事を持って大学に行くと、亘さんに偶然出会う。恒例となった「ゴールデンミルク」の場所にて、段ボールを貼り合わせる面子数名に合流。学内は二日後から はじまる芸祭ムード一色。毎年、準備が早くなっている。手の込んだ店が多数並ぶ。今年の企画「ゴールデンバンコク2」は、ぜんぜん進まず、超スローペー ス。タクジ氏とウマ氏がああでもないこうでもないと手順を話していた。タイより来られたタノーム氏も一緒に段ボールを貼り合わせていた。「We're cheep carpenters.」。
西山氏にも声をかけて、遊ぼうようと話す。
亘さんプロデュースによるトゥクトゥクの勇姿に打たれ、みんな俄然やる気に、各自マイペースに入っていった。あんまし血気盛んとか、強情に押し進めないところが洋画ノリかも。黙って、心の中でメラメラ。いろいろ考える。
学内でも、一番 面倒なことを話すことが多かった交差点で、また面倒な話をしていた。どうもあの交差点には、何か鬼門のようなものがまとわりついている気がする。
明日もコチョコチョする。
終えてから向かったバイトは順調であったが、交代の人が一時間近く遅刻してしまったので延長を余儀なくされてしまい、それが辛かった。
けれど、これからやってくる祭りが楽しみに比べれば、なんてことない。
この魔法でいろんなことを更にクリアにできるはず。

大昔の芸祭は、もっとダーティだったって誰かが呟いてた。
飲酒はかろうじて残せてる。たとえ小奇麗になってても、コアなところは何も変わっちゃいないと思う。
大昔の先輩に悔しがられるぜ。本当は。
詩人のイベントも、大詩人たちに悔しがられなくちゃ。谷川俊太郎が、のたうち回って悔しがる 79年生まれの仕事を!
みせちゃる。
コアなところ、メラメラ。

日曜日, 10月 29, 2006

明日はどっちだ!

これからどうするかは、はっきりしすぎていて、もう何を言われるわけでもなく、俺はこんな歳なわけで、何も嘆くことは無い。物置きに溜め込んであった、小 中高と大学一年のときの絵画を破棄していいかを見る。小学校一年のときに描いた絵は、さすがに記憶が無かった。弟か俺の絵かどうかは、見てすぐに分かる。 中学のときのクロッキーは、漫画っぽさとデッサン調が合わさっていて面白い。数冊持ち帰ることにして、他はデジカメに撮った。油絵はよく燃えるだろう。俺 はこれから数ヶ月で幾ら稼げるか? fjk、fjk、全てはクリアな視野にある。俺の仕事、研究分野、どこまで具体的に話してくれるのか? そう電話口で問われ、光栄な気持ちにもなって震える。春のはじめのような秋の終わり、河川敷のはじめにある公衆電話で。また橋を超えた。弟はどこまで車で 走っていくんだろう。前に飼っていた犬は、この河川敷に眠っている。
それと、中学のときに大学ノートに書き溜めた、恋愛ベースの詩。実にこっぱずかしく、もう読み返したりはしないと思い、捨てる。大量の悶々とした言葉たちよ。さらば。そしてお帰り。
一泊二日のプチ帰郷を終える。祖母の会話はますます進行していた。僕にどんな説教をしたかったのだろう。
それから、電車の中では途中から「よさこいソーラン」のおばちゃんチームとそのガキ集団で五月蝿く、苛立ちながら眠る。数枚のノートに手紙を書いて、名古 屋駅に着くと、前の座席の女の人は携帯電話のメールを打っている格好のまま眠りに果てていた。よさいこい は終点まで騒いでいた。
駅の電気屋で巻き取り機能のあるイヤホーンを購入した。猫の鬱にまたコードを噛み切られていたのだ。早速、名鉄の帰りに iPod へ刺して「明日はどっちだ!」(真心ブラザーズ/2001)。

俺はまだ死んでないぜ 未来はまだ輝いてるぜ 君はまだ俺を好きか
俺はまだ燃えているぜ もっとすげぇことやってやるぜ 君はまだ俺を好きか

作詞・YO-KING

土曜日, 10月 28, 2006

尊い時間の為に

時間給仕事の後は、一時間でも尊いものとなる。僕の考えることと、発せられる言葉の間、そこを行き来しているのは尊い時間であった。
考えること、見極めることはどれだけでも丁寧にして、書くときは一瞬と読んだのと、君は言った。
シャッターを切るときも一瞬だ。
丁寧にして。
翌朝、歯を磨く。
電車のなかでまた小説を開いた。読みたい部分だけを読んだ。隣の席の男は、忙しそうに弁当をかき入れていた。酢飯の匂いがプンとしていた。僕は「抱きしめ たい」ではなくて「抱きしめる」なんだと言ったことを思い出した。それは現在形、願望や希望ではなく、状態だけを示す言葉であるから、僕は持つのである。 そして丁寧に、帰ったら部屋を掃除する。
山ほどの、読まなくてもいい言葉が、有り余っていると思う。
尊い時間の為に。



「でももしそうだとしても僕の残り半分は君の耳ほど輝かしくはないさ」
「たぶん」と彼女は微笑んだ。「あなたは本当に何もわかってないのね」
彼女は微笑みを浮かべたまま髪を上げ、ブラウスのボタンをはずした。

「羊をめぐる冒険」(村上春樹/1985)上巻、71ページより

金曜日, 10月 27, 2006

泣きながら起きて

たけしとアラーキーが画について語っているのを見たと思ったら、蛭子さんがピンクコンパニオンと野球券をしていた。どちらも本気でビデオに録る。
今朝早く、小松氏は旅立った。
僕は牛乳を飲んで、昼まで寝た。
昨晩は布団と畳の間でモゴモゴしていて、しっかり眠れなかった。
ないものねだりは向上心〜? 中学生日記のぶっちゃけ本音トークスペシャル、テーマ恋愛編のゲストに出ていた飯島愛はやはり大人の女。そして男子よりも女子は常に大人だ。だから男子は 頑張るしかない。ときにモゴモゴしたり、ピキピキしたり、、七転八倒と七転び八起を抱きしめてひっくり返し続ける。必要な言葉だけが待っていてくれる。
喉を涸らしながら、バイトをした。
帰宅後は睡魔にやられた。
昼まで眠ったときは、弟の夢を見た。
女子の言葉がキレイだ。
みんなうまくいくよと答えた。

木曜日, 10月 26, 2006

立ち上がってくるものは、もっと別のもの

卒なく面接を終えて、名古屋駅で小松氏と合う。
ここのところ、会合はコメダ珈琲と決まっているなって展開。そのまま西春まで一緒に来て、bnap06 のミーティング中に彼は他で過ごして、少し初対面の面子と大学内で立ち話なんぞをしたりして、周囲は学生らが芸祭の準備をしていて、店の骨組みを作ってい たりした。俺達は学生気分プレイバックで元気、元気。
俺が発表すると公言していたラブソングはど〜なった?シリアスなのは最初だけかい?
嘲笑から逃れたいから、こんなことを言っているんじゃない。本当の気持ちがここで立ち上がるだけ。小松氏と部屋で発泡酒を一本だけ飲む。すぐに酔いが回って、話すことは変わらないが、三十歳に向けてのビジョンだ。立ち上がってくるものは。
アダルトサイトは履いて捨てるほどあって、どれも出先は同じ。だからどこに登録し直してもお金は同じところに行ってるって顛末だ。Maybe。じゃないビジョンは、ビジョンの話は。本当の気持ちのことだけ、話すのは。

ブルーマヨネーズ、再起動? 立ち上がってくるものは、もっと別のもの。身勝手な衝動と同じだけ重たくなる言葉。
大丈夫だと言う。階段に座って。

http://www1.odn.ne.jp/b.mayo/k4/Coram1-2.html

水曜日, 10月 25, 2006

果実味を残せ! Vieilles Vignesってど~よ! Re: 俺の詩で書くだけだ

面接と面接の間に HMVへ走って「MOON OVER the ROSEBUD」(ムーンライダーズ/2006)手に取る。本日発売の新譜なり。
世界をぶつ切りにして、この町の断面を横切る。
プロジェクトは多面的に機会を与えてくれるもの。
言葉があらゆる方向より読まれるもの。
そうでなければ、くだらないモラトリアム。それだけさ。
横切って、ぶち切って岩倉。
絵画教室ではトランプを作る。ハサミチョキチョキ、こいつは切りにくい、二つだけのハサミじゃ時間かかる。発想いよいよほぐれてくる感じに、あの手この手で導いて。

なんとかなるさ。
なんともならない。
同じ強さの言葉で君を抱きしめる。
その方法についてを思い返しながら、線路沿いを歩く。
夜はすぐに眠れるだろう。
村上春樹がノーベル賞を取れるかどうかなんて、どうでもいい。未だに「充電」シーンは発見できないんだから。俺の詩で書くだけだ。

明日は小松氏と会合。
それと滑り止めの面接に、bnap06 のミーティング。
ど〜よ!
果実味を残せ!
俺の日記、言葉は俺の断面を横切って。

http://info.hmv.co.jp/p/t/1251/893.html

火曜日, 10月 24, 2006

fjk

本やがらくたで埋まっていた机を奇麗にした。
机に向かって、ノートを開く。
ノートの名前は「過去へのノート」と「ここがわからないんですよノート」。
二つ合わせて何と呼ぼうか。
そしてふっ切れ、新規プロジェクトを発足させた。
具体的に経験を生かしていく!どんどんいくぞ。
と意気込む。
夜八時頃、久々に小松氏と電話をした。
愛とお金についてを話した。
元気になってバイトをする。
手紙の文字から、君の声がして、君の顔が見えた。

いま制作中の作品題が「抱きしめる」だと小松氏に告げると、
「歳をとると、表現が率直になるよね。若い頃は抽象的な表現に酔うけど」と言ってくれた。
ベルリンで、彼の詩「HOTEL BERLIN」を読んだよと伝えた。
明日は新規アルバイトの面接が二件ある。それと絵画教室だ。
深夜に片足突っ込んだバイトは、もうすぐやめる。

がむしゃらに行くけど、見失わないように、何かを備えようと思った。明日も考える。
時間は続く。

月曜日, 10月 23, 2006

見極める力が俺には要る

新潟県中越地震で、土砂崩れの中から子どもが救出されて、今日で二年らしい。復興が行われている事故現場に子どもが訪れ、元気に歩いていた。子どもは、亡 くなった家族は天国に行ったんだよと聞いていて、いつかロケットの操縦士になって会いにいくと答えたらしい。そのテロップをじっと見つめた。

今日は、焦っちゃだめだと自分に言い聞かせ、怠けちゃだめだと自分に言い聞かせ、たとえ数分でも明確に進むことにもがく。バイトの予定も決める。
映画「Dolls」(監督,北野武/西島秀俊、管野美穂/2002)を DVDトレイに入れた。見たことがあるけど、強くリアルに感じられた。過ちと、守りたいものと、人を生かしているものは愛だった。切なく、惨く、美しい。
見極める力が俺には要る。

昨晩は、福岡氏が購入した「チョムスキー 9.11」(監督,ジャン・ユンカーマン/2002)を見て、その鏡を見る公正さに打たれた。どこまでも前向きに、右にも左にも傾いていない。賢者であった。
最後の砦だと僕は言った。

http://www.office-kitano.co.jp/dolls/

http://www.cine.co.jp/chomsky9.11/

日曜日, 10月 22, 2006

ここ、そして、そこ

金券ショップでチケットを買うことを覚えた。
電車の中では小説を開くことにした。

藤本由紀夫展「ここ、そして、そこ」を見に行く。
名古屋市美術館のある白川公園で、僕は一度も弁当を広げたことはないけれど、もし仕事をここいらですることになったら、一度穏やかな昼休みを過ごしたいと 思った。地区民運動会の声が聞こえる。僕は失った音に耳をすまし、失った色を見つめるために、この美術館で時間を過ごす。
言葉に降りていく者は、真顔である。何も特別な理由はない。素直な気持ちに生きることがどれだけ勇気の要ることで、必要なことだろうかと思う。
取り乱した者には、ここも、そこもない。
言葉を書くとき、発するとき、最も立ち上がってくるものは、ここ、か、そこ、かだ。
生きる者は、それを見て、聞いて、歩いていく。

デュシャンによる詩の朗読。音楽と共に流れ、エンドロールのよう。
吊り下げられたシンセサイザーが、吊り下げられる故に鳴り続けるのが、悲鳴であり、祈りに思えた。ソファに座って、言葉を読む。
分離「SEPARATION」と結合「CONJUNCTION」について。
新しい結合。耳と目はこれを繰り返す。その可能性。
「HERE」はここにあり、「THERE」のための「T」は、そこにある。文字通りのことがある作品。言っていることと、行っていることが同じということが、強くて美しい。気取ったところはひとつもなく、言葉を持っている。
遠回りなことはなにもない。
僕は進むことを覚えた。
言葉を読むことを覚え、いつか書くことを行う。
それを繰り返し、ひとつでも確かなことをわかりたい。
それだけだ。

小雨は止んでくれた。右翼がうるさかった道を帰った。
僕は、関係についてを信じる。
ここ、がなければ、そこ、もない。
そこ、がなければ、ここ、もない。
駅についてを語ろう。
駅には、見送る夢などない。
駅には、帰るための次しかない。
駅を降りて、僕は関係についてを、またはじめる。
だめだったから次に行くのではない。
僕は駅の名前を覚えて、
路線図を知る。
全天を走る。
夕暮れが輝き落ちる。
ドアはノックされ、僕は待っている。
全天と路線図について、ここからのそこを話しながら、砂丘のある海に行きたい。
家族の名前に会うために。

http://www.art-museum.city.nagoya.jp

http://homepage1.nifty.com/caption/homepage/fujimoto/fujimoto%20home.htm

土曜日, 10月 21, 2006

一年後はたくましくなっていく

日本シリーズ初日で賑わう名古屋ドーム矢田駅。
エスカレーターをちょうど上ったところでパチンと男一人。一年後はたくましくなっていく。
本日は「next station」展、アーティストトーク。観覧に向かう。カタログマガジンの反応が楽しみ。多くの解説を聞いて、また懇談をした。
次に広がっていくことを思う。
閉じていくために、作品も人も待っていない。
次に向かう目を見たのだ。

打ち上げで飲酒後、地下鉄で帰宅し、次の駅に帰る。
NHK で Cocco のライブをやっていて、ぐっとくる。

金曜日, 10月 20, 2006

ラブ・ゼネレーション

早川義夫にやられる。もう、曲名リストが歌になっている。

 身体と歌だけの関係(4/4)
 堕天使ロック
 風月堂
 屋上
 「愛人(ラ・マン)」のように
 ラブ・ゼネレーション
 花火
 いい娘だね
 あと何日
 ひまわりの花
 身体と歌だけの関係(6/8)
 僕らはひとり

「ひまわりの花」(早川義夫/1995)より。

バイトを終えてから、押し入れの衣装ケースに入れた CDを出して、むさぼり聴く。
You Tube の映像が権利関係でたくさん消されたと聞くけど、全力で歌う姿は消されていなかった。

僕も全力で歌うんだ。

http://www.youtube.com/watch?v=WOsUjsiUQU0

木曜日, 10月 19, 2006

花は言葉に向かって開いている

ドイツで、僕の作品制作サポートをしてくれたジェニーの作品「HOTEL」についての文章を書く。彼女から日本語で書いてほしいと頼まれていたもので、光 栄な気持ちで取り組んだ。やや客観性を欠くものの、盛り上がっていく熱い内容に到達することができた。bnap06 ミーティング前に、谷澤氏と福岡氏に読んでもらい、客観性を欠くポイントを整理する。ミーティングは、来年の二月に大学ギャラリーで行う報告展についてが 主。スナップや資料展示は問題無く決まるが、再現不可能な作品展示をどのように考えていくかを話し合って決める。再現不可能だから新しい作品のようになっ てくるんだけど、報告という意志に基づいて作品を展開するという意図になる。当たり前なんだけど、明らかにすることが気持ち良い。ようやくプロジェクト最 後にしてミーティングの方法が理解できてきたのが嬉しい。

「ここがわからないんですよノート」を本当に書く。
そんなふうに言葉を聞くことをようやく思う。
真っ黒でも、その真っ黒はきっとキレイだ。
キレイなものを見たいから、僕らは強くなっていく。
ゆっくり、ノートを開くことができる幸せ。
希望に満ちた夜。

ミーティングルームの、テーブルの上にあった赤い薔薇。
公園にて膝の上で、蜜柑の花が開く。
打ち上げられたのを僕らは発見した。
僕らの言葉が開いていくのを。

水曜日, 10月 18, 2006

パンを描く、あなたを描く

朝だと意気込んでいた新規バイトの面接は、お昼からだった。履歴書と作品ファイルをバッグに入れて、市内中心地にあるデザイン会社に向かう。定刻ちょうど に着くと、三名の集団面接ということで、奥の部屋に通される。でも来たのは僕ともう一人だけで、面接官二名に、志望者二名で質疑応答が行われた。
作品ファイルには、紙にペンや色鉛筆で描いたドローイングをまとめて入れた。後半部に、デザインの仕事という項目を作り、DTP 仕事も一通り可能ということも示す。
「ドローイングをもっと見せてもいいのに」という言葉を思い出していたのだ。
面接は三十分ほどで終わった。
やりきった気持ちで、ビルを後にする。
昼過ぎの市内中心地を縦断し、スーツ姿の同年代と多くすれ違う。三越のある交差点で、老人がトラメガを持って何かを演説気味に叫んでいた。それは政治的な 内容であるらしかったが、僕にはしらじらしく聞こえてしまった。国を抱きしめるのは国じゃあない。と思って、ここで叫ぶより、僕は誰かと話しをしようと 思った。しかし老人の姿は、姿そのものが言葉になっており、僕は学生画廊企画で行った市内でのパフォーマンスイベントを思い出した。あのとき、僕も同じよ うにブツブツと路上で詩を読んでいた。

その足で「ROOA GALLERY」へ。同時代表現研究コース1年のメンバーによる企画展「room」を見る。小原さんと話す。ファイルを見せてもらったので、さっきのドローイングファイルを見せる。頑張って話した。
「ちらかすと、まとめたくなって、まとめてみると、ちらかしたくなるもんだよね」と言った。展示はまさしくそれで、賑やかそうで、しっとりしている印象だった。
また来ますと挨拶をして、地下鉄へ戻る。
しっとりとした絵を見て、心のどこかが落ち着いた。

自転車で岩倉市駅前まで走り、絵画教室へ。順次企画「トランプをつくろう」は、今日はお休み。西山氏が遊びに来てくれたので、みんなでモチーフを囲んで デッサンをした。大小様々なパンを新聞紙の上に置いて、それをモチーフとした。子どもは、食べていい? としきりに訊いてくる。賞味期限が切れているから駄目だよと言い、パンはモチーフと化した。続いて、西山氏に十五分だけモデルになってもらい、みんなで顔 を描く。パンよりじっくりと描いているのがよく分かった。絵が良くなってきているのを実感し、嬉しくなる。
子どもらを見送ってから、西山氏と自転車並走して帰宅。夜七時着。ブログ書く。九時よりバイト開始の暫しの時間。猫の鬱と話す。行為や可能性についてを話す。

http://rooa.weblogs.jp/

火曜日, 10月 17, 2006

どん詰まり

昨夜は夢を見なかった。
昨夜は気持ちのなかで過ごした。
目が覚めてもそれは続き、携帯電話とにらめっこをしてしまう。
「どん詰まり」だと吐いてみる。
少しラクになって、数件のメールを読む。
どれも僕ひとりでは意味のない内容ばかりだった。
写真を数枚開き、眺めてみる。
僕はようやく黙ることができて、ようやく洪水のような時間のなかで立っていることが自覚できて、声をかけることが気恥ずかしくなくなり、目くじら立てるこ ともなくなった。時間給仕事が過ぎ去るとき、一日には何も残らず、電波もメールも届かなくなっている。ATM は営業停止の文字を照らしている。一円も降ろせず、あの郊外の駅から僕は歩いて帰らなければいけなかった。しかも何故か服を一枚も着ていない。知らない町 を歩いていたのだ。見覚えのある角を曲がり続けていたのだ。僕は弱すぎた。何かに追われている。そんな辛い夢を、小さい頃からよく見る。いじめられていた わけではない。僕はスネ夫とのび太を足して二で割ったような小学生だったのだ。
だが見ているものは、しずかちゃんだけだったのだ。
笑うせぇるすまんにドーン!とされた後の、三十代。いまはそんな気分だ。
「どん詰まり」で、黙ることができない。
黙ると死んでしまう魚である。
馬鹿なことを考えすぎる。余計な描線が多いクロッキーを捨てにいかなくてはいけなかった。改心して、固く凍った花の蕾を一枚、一枚、開かなくてはいけなかった。
誰かのカーステレオ、iPod に入っている何曲かを聴きたがっていた。
それもワイヤレスでは奇麗に聴けないんだと分かったとき、それはいま、僕の行くところは使い道の無くなったケーブルの一時置き場でしかない。
箱の中には何も無いが、そこに何かがあると考える。それだけ。
ずたずたに轢き殺されたテロリストを誰が看取っているのだろう。
哀しみを怒りに変えさせているのはどこの誰か。
気が遠くなった。
矢野顕子「行かないで」を聴く。

力を変えていくものも力。
力を与えていくものも力。
どん詰まり、"Dead End"。
死ぬか帰るか、ここまで来てしまったんだよ。
俺はなんとか帰るよ。
こんなところはいやだ。

月曜日, 10月 16, 2006

愛する勇気

愛は冷凍保存できない。
どこかの瞬間で決定的に、あ!そうだ!こうしよう!というときが必ず来るはず。
いま思っていることを「次」の為に取り繕う付き合い方をするんではなくて、いまの気持ちに正直にいくしかない。
僕はそういう意味で「次」の為にと頭を高速回転と起動させすぎた。
彼女はそれを全て見抜いていた。
愛することは勇気が要ることで、僕にはその勇気が足りなかった。
僕はすべてを愛していかなきゃいけなかったんだ。
それは損とかそういうことではない。
それこそが浮気ではなくて荒木なんだ。
荒木はきっと、全てを愛することをしているんだ。
いま僕は全部分かった。
本当に、自分100%に振り回して傷つけた。
部屋は廃墟のようにがらんとしていて、猫の欝が寝ている。
そしてこの猫の鬱こそが、僕らの愛の魂なのだと思う。
もうだめかもしれないけど、いま目の前で眠ってくれているので、なんとか生きる力が湧いてきてしまう。血と骨は残酷に栄養価を吸収する。
芋のケーキを食べて、泣きたいのに泣けない。
昔の日記や写真を見たら、少し泣けるかもしれない。
涙を報告するなんて真似はしたくない。
いま考えて、言葉にすることができて、言いたいこと、伝えたいことだけを書いている。いま作っている作品は「抱きしめる」で、それはもうこの毎日そのものだ。

彼女からもらった「ミュージック・マガジン」にあった鈴木慶一の写真を、破いて壁に貼った。白髪頭に無精髭を生やしてこちらを見ている写真である。

日曜日, 10月 15, 2006

静かな夜に眠りたい・みんなの鬱は猫として眠る(2)

その夜、僕は直子と寝た。そうすることが正しかったのかどうか、僕にはわからない。二十年近く経った今でも、やはりそれはわからない。たぶん永遠にわから ないだろうと思う。でもそのときはそうする以外にどうしようもなかったのだ。彼女は気をたかぶらせていたし、混乱していたし、僕にそれを鎮めてもらいた がっていた。
(中略)
全てが終わったあとで僕はどうしてキズキと寝なかったのかと訊いてみた。でもそんなことは訊くべきではなかったのだ。直子は僕の体から手を離し、また声も なく泣きはじめた。僕は押し入れから布団を出して彼女をそこに寝かせた。そして窓の外を降りつづける四月の雨を見ながら煙草を吸った。

「ノルウェイの森」(村上春樹/1987)文庫版 76ページより


それから、猫の鬱は体に寄り添ってきた。
ぬるい朝の空気が窓から入ってくる。光は均等にあり、僕はしなければならないことを転がしていた。
「ビビっているだけじゃん」
「うん、ビビっている」
これらは対極な位置に浮かぶ星座である。離れながら二つの星座は関連している。いや、天体、この空において、全ての星座は連なりを持っている。星の光は数万年前のものでも、ちゃんとその輝きを届けているのだ。
言葉がいつ届くのかは知らない。
僕の言葉も、君の言葉も、はたしていつ届くのかは分からない。

僕は文庫版の「ノルウェイの森」を開いた。どこをいくらめくっても、ドイツで散々話した「充電」の場面はあらわれない。
帯には「限りない喪失と再生の物語」とある。
僕の探し方が悪いのか。
ただの勘違いなのか。
そもそも想像していただけなのか。
やみくもに、この言葉に降りようとする自分を自覚する。


こちらを見てくる君の
声を待っている僕の
静かな夜に眠りたいだけの
こと

土曜日, 10月 14, 2006

ここがわからないんですよノート

「わからないところを書き留めておくための、「ここがわからないんですよノート」を作ったらどうかって話したの」
と、彼女は言った。
僕の「ここがわからないんですよノート」は真っ黒だよと返す。
ドイツにて、ビデオカメラの前で「人は心を見せることができないから言葉を使うんだ」と僕は言っていたが、それは自分でも自分の心を見ることができないからだと、いま反芻していた。あのときに言った言葉は、それも含んでいただろうか。
「ここがわからないんですよノート」は今日も真っ黒だ。
このブログ日記は、そこから切り開こうとする言葉である。
「仁さん、最近 "抱きしめる" ブームなんですよね!」
と、先日、後輩の子に言われ、薄気味悪い顔色を振る舞って半笑いで返事をしてしまったのを思い出す。

「CONTACTS」(監督,ウィリアム・クライン/2001)を晩に少し見た。
写真家が、自作の写真を画面に流しながら自作を語るというインタビュー形式のドキュメントで、余分なものが全く無くて力強い。ソフィー・カルと、ナン・ ゴールディンの回を見終わったところで、自分はなんて人生を楽しむ力が無いのだろうかと悔しくなる。ただ素直に生きていることが、最も力強いのだと思う。 生きる苦しみと喜びが写真には写されていた。チャプターを飛ばして、アラーキーの分を見る。
「写真は日記なんだよ」と言っていた。
「冬の旅」のなかにある、最後の握手の写真は弟に撮らせたものらしく、「冷たいとか言われるんだけど」と、声が首をひねっていた。
冷たくなんかない。
「アタシは双子座だから」と続けていた。

表現とは、もう一人の自分を遠くに行かせて、自分がよく見える位置に立たせることではないかと思う。そこから、自分がいまいるところを見つめてみること。
遠くに行ってみる残酷さは、こちらをよく見ることができるという優しさを持ってくる。

ブームと言われることは、嬉しいことだ。ブロガー冥利に尽きる。
言葉は僕のものではない。
「詩が良かったです」と言われたとき、僕は嬉しくて詩人冥利に尽きてるんだけど、その喜びは言葉が勝手に読まれて再生するものであって、僕が与え続けるものではないのだと思う。
作家の説明など無くとも、自然に再生できる作品を作る為に自分を遠くにやるという行為は、残酷なようで、愛する故だ。伝える為だ。
詩は妄想ではない。
詩は死刑宣告文である。
詩は日記のようで、日記より日記らしい。
日記は詩になりやすい。詩より詩らしい。
僕の「ここがわからないんですよノート」は、詩の台本だ。
詩が死刑宣告文だから、言わば罪状にあたる。
生きることにもがく罪。
それを裁くことは、誰にもできない。

もう疲れてきたから、詩を書こう。
言葉を読むことができれば、何度でも生まれることができる。
死んだあとに、生まれるものがあるように、死刑宣告文は作られる。
そうやって、生きるということを明らかにしていくのだ。
それが罪なのか、何なのかという根本から。
自殺は、罪から逃げているだけで、言葉を読んだことにはならない。
明日は日曜日で、僕はこの頃、高校生から二十七歳になったばかりだ。

http://www.nowondvd.net/products/CONTACTS/index.html

金曜日, 10月 13, 2006

「僕と君」、そう唄い始めると

朝まで飲んでいて、一日中だるいなんてゆー、自業自得な有り様。
声にすると立ち消えてしまうものがあるのか?
ブルーマヨネーズのときには思わなかったことを思う。
声にしなければ消失してしまうと思っていた。
あのときは必死だった。
いまも頑張っていると自負はするが「必死」と呼ぶかどうは別な気がする。
僕も小松氏も、死ぬことに意味を見出すような柄ではなくなったはず。
生きることにも、意味など持ち出さず、嬉しいと送り合うだけになれた。

「僕と君」、そう唄い始めると、
ラブ・ストーリーに彷徨う。
このストーリーはいつか終わっても、
ラブについては終わらない。
いつも、ラブ・ゼネレーションの仕草になっているのだ。



私の大切な踊り子よ
もしも私がたった一人で
唄いながら遠くまで行こうとしたら
この手を取って
引き止めてくれ

「私の踊り子」(友部正人/1994)

木曜日, 10月 12, 2006

奇跡な僕ら

昼から夜に変わる時間を夕方と呼ぶが、
朝から昼に変わる時間には名前が無い。
季節は夏から秋 そして冬に至る。

僕らには僕らの時間があって、君には君の時間がある。

時間は言葉を自然に生んでいくと思う。
無理に作りだされるものではない。
あぶくのようなものから、
水流で削られていく 川のなかの石のようなものまで、
これらをひっくるめて僕らは 言葉と呼んでいる。
言葉を使って僕らは関係を作り、
僕らの時間を過ごしている。

いまそう思った。

水曜日, 10月 11, 2006

ドラゴンズ優勝と、北朝鮮の核実験が同時に報道されるテレビを前にしてから、出かけた

小雨が降っていて、家には持って歩けそうな傘が一本も無くて、買うのも悔しいんだけど、銀行なんぞ行ったついでに、いま風邪をひきたくはないなと発起し て、百円ショップで黒い傘を求める。いつもの塩化ビニール製半透明はあえて選ばなかった。大人らしく黒で決めようと、百円ごときの買い物にも真剣さを絶や さない。おかげで小雨でも濡れることを防ぐことができて、ついでにパソコンのUSBからケータイに充電できるコードまでゲットできた。探していたんであ る。「二時間以上充電するな」と大きく警告が刷らされているパッケージ。相当にきな臭い雰囲気だが目をつぶる。先日、猫の鬱にまた充電器のコードを噛み切 られてオジャンになっていたところだ。ちょうどいい。

福岡事務所再起動の顛末、bnap06 助成申請への報告書、現状の資料で行けるところまで完成させる。ブレーメンに打診。写真とか送ってもらえば、すぐにでもゴーサイン状態に漕ぎ着けてスッキ リ。福岡氏と、飲酒運転は駄目なのだけれど、いまの報道はマスコミが煽り過ぎで、公職の仕事に就く人を叩こうというネタが見えるという話をする。ついでに いまの管理者会化、人間関係の類型化を防ぐ為に中村師童を応援しようという時事ネタを取り出すが、この話題はあまり盛り上がらなかった。スピードウエイの ボーカルだから!という理由で寄り切ることはできなかった。「アイデン&ティティ」を思い出すくらいで、今日は熱弁手前に終える。

福岡氏に海の生き物の絵が描かれているトランプを借りて、それを子ども絵画教室に持っていく。子どもらのイマジネーションがいい感じで刺激されているのが伝わってきた。「子どもは言葉で絵を描かない」という庄司先生の言葉を反芻する。それは真実だと思う。
トランプ制作を走らせながら、今日のモチーフとして、さつま芋を色鉛筆で描く。久しぶりに直接 目で見て描くことをじっくりしたので、新鮮だったようでいつも以上に真剣に取り組んでいた。色を塗るのではなくて、色で線を引き、それで描くという認識に なることができる色鉛筆という選択もちょうど良かったようだ。

火曜日, 10月 10, 2006

日々の趣旨・next station

福岡氏宅で DVDレコーダーを使わせてもらい、ドイツでのデジカメ写真を記録する。待っている間に bnap06 の助成報告のまとめなどをするが、気乗りせず、進行が遅い。
営業的な仕事の話が浮上してくるものの、最優先項目に該当しないとする僕の主張は変わらなかった。この頃、日々の趣旨を明確に設定している。意味を求めて いるのではなく、コンセプト、趣旨。何を大切に、第一義に考えて動いていくかということにのみ、気持ちを許したい。それをおろそかにすることが、一番勿体 ないことだと、これもまたようやく気付く。

夕刻、福岡氏と大学に行き高橋さんにお会いし、ドイツのチョコレートをお土産に写真を広げて懇談する。僕個人としては、詩を掲載してもらった企画展のカタ ログを受け取る仕事も進める。その企画展名は「next station」。来週の水曜から市民ギャラリー矢田で行われるもので、僕は出品するのではなくカタログの編集員として関わった。カタログが雑誌形態で作 られており、作家紹介にとどまらない内容で広がっていこうとするものを「趣旨」にしている。
前向きな話に終始し、駐車場で別れた。ちょうど庄司さんが帰宅されるところに会う。自転車で夜の中に滑り込んで行く。

バイトの後の、夜一時過ぎに雨が降ってきた。
電話口では趣旨を持った言葉が求められる。時間が勿体ないから。
学校の帰りには、スーパーで食料品の買い物をした。



<next station—次の美術駅へ>展のご案内

下記詳細にて、名古屋市民芸術祭2006主催事業・美術部門企画展<next station—次の美術駅へ>展を開催いたします。ぜひご高覧いただきたく、ご案内いたします。

「駅」は通過するところでもあり、目的地として降り立ち、あるいは「出発」する旅立ちの場所でもあります。<next station—次の美術駅へ>展では、美術の流行(モード)にとらわれず、自作を真摯に見つめて、“次の駅”を模索する、様々な手法で制作を展開する作 家6組の最新作を紹介します。
さらに、展覧会開催に関連して、「next station」と題した雑誌(マガジン)形態の印刷物を発行し、展覧会が多くの鑑賞者へと伝達されることを目指します。

■開催期間  
2006年10月18日(水)〜29日(日)9:30〜19:00
 *23日(月)休館、22日(日)、29日(日)は17:00まで

○10月21日(土) 13:00〜15:00 
 アーティストトーク(無料)
 *展示会場において各作家によるトークを行います。ぜひご参加ください。

■会場    
名古屋市民ギャラリー矢田 第1〜第7展示室
名古屋市東区矢田南1丁目番10号 カルポート東
TEL:052-719-0430 
地下鉄名城線「ナゴヤドーム前矢田」駅より徒歩3分

■主催    
名古屋市民芸術祭実行委員会、名古屋市、(財)名古屋市文化振興事業団、
<next station—次の美術駅へ>展実行委員会

■参加作家  
小島久弥、吉本作次、城戸保、杉山健司、
大石暁規、安原雅之&中野良寿(ノーヴァヤ・リューストラ)

■企画委員  
設楽知昭、村越昭彦、高橋綾子

■関連出版  
マガジン「next station」
企画編集:高橋綾子
編集構成:永澤こうじ、村田仁、すすきめぐみ、黒野靖子、安野亨、
     カワカタミカコ、よし子-Chan

■デザイン  
田端昌良(ゲラーデ舎)

■事務局   
亀山よう子、花村珠美(office tre punte) 

http://www.gallery-yada.jp/nextstation.jpg

http://www.gallery-yada.jp

月曜日, 10月 09, 2006

タカダワタル的を見る

すき焼きの余りの野菜をビニール袋に詰めてもらってきてあって、それをお昼の焼きそばに放り込んだり、夜の豚汁でちゃんぽんにしたりした。
ドイツの巻き煙草をまた吸う。
ゾンヤと交換したシガレットケースに入れてある。僕はパンダのシャツをあげた。それは彼女からのものだったから、ケースを彼女にあげた。いま、DVD プレヤーの上でおとなしくしている。
昨日、買い取ってくれなかったゲーム類を駅前の古書店に持って行く。数百円程度にしかならなかったが、諦めて了承し、吉本ばななの本を買った。いま読んでおきたい気持ちになった。
帰ると、「諸国空想料理店」(著,高山なおみ/1995)を見せてくれて涙腺が緩む。本のなかの「うどん」のくだりのように、豚汁が煮込まれていた。

大根もたっぷり入った豚汁をほくほくしながら、DVD で映画「タカダワタル的」(監督,タナダユキ/高田渡、柄本明/2004)を見る。
65分ほどの、小さいこの時間にぐっとくる。
テレビも 14インチと小さいのだが、まるで高田渡のライブに二人で来ているような錯覚を受けた。ご飯も頼めるライブハウスで、豚汁をつつきながら向こうのステージ 上で演奏をはじめた高田渡を見る感じ。それくらい、空気感を閉じ込めた丁寧で小言を言わぬ映画だった。これを見た人は、違う歌も聴きたいなと思うだろう。 そしてゆっくり口ずさむことができる映画だ。それは高田渡の歌そのもの。これから冗談みたいに亡くなったのかと思うと、何が映画で何がそうでないのか分か らなくなってくる。歌もそんな立ち位置で、何も変わらない。メッセージや主張ではなく、空気そのものに徹した映像の切り口がそうさせるのだろうと思った。 このタナダユキさんという監督は、高田渡を解釈したり論じようとしているのではなく、ただ見ていることに勤めているのではないかと思う。風景を記録してい くのではなく、ライブを見に来ているただの一人の観客の目線となって。
筑紫哲也と高田渡の対談映像を You Tube で見つけた。これには、ツクシ的に解釈をけしかける言葉が迫っていって、それをひょいとかわす高田渡が映っていた。

見ている最中に、田中さんが手がけている bnap06 のドキュメント映画ってのはどんなものになるんだろうかと思った。僕自身が随分と説教臭いことをカメラに向かって吠えていた記憶があって、恥ずかしい気もするが、すごく楽しみになった。
ドキュメントだからと色眼鏡で迫った自分に気持ち悪くなるかもしれない。
とかく、自己解釈が強すぎるのだ。
そうやって愛してと迫ってばかりいることを思う。これは反省や追求ではなどの意味を持つ言葉ではなく。

それからアルバイトで、寝る前に作品のことなどを頭ひねって。
猫の寝言を繰り返して。

http://www.altamira.jp/takadawataru/

http://www.youtube.com/watch?v=Us6queMsQ3Q&mode=related&se

日曜日, 10月 08, 2006

動いた分だけ・みんなの鬱は猫として眠る(1)

秋晴れの涼しい風が吹く。
音楽は真心ブラザーズ。図書館で「青い影・ベスト」(プロコルハルム/1968-70)を借りる。
洗濯機をようやく回した。
嘘のなかに本当のことがあって、本当のことのなかで嘘はどうでもよくなっていた。
ドイツから荷物を送るのに、中田さんから頂いた段ボールにスーパーファミコンのカセットを放り込み、リサイクルショップで一気に売っ払った。憑き物を落とすように部屋を掃除する。
僕は、車の助手席で優しくなるのが好きだ。

「フィネガンズ・ウェイク1・2」(著,ジェイムス・ジョイス/訳,柳瀬尚紀/河出書房新社/1991)と「ラブホテルで楽写」(著,荒木経惟/白夜書房 /1981)を購入。それぞれ百円という破格値。「フィネガンズ・ウェイク」は脅威。言葉の城。森の奥深くにそびえ立つ極地の閻魔だ。わけがわからない壮 絶感。ただ呆然と衝撃に耐える喜び。「同3・4」は既に本棚に仕込んであるので、これから超絶読書の秋となりそう。
「ラブホテルで楽写」のほうは、写真集ではなく、アラーキーが撮影するときの言葉のやりとりをライブとして記した異色本。写真はホテルの入り口しか載って いない。言葉のみを通してアラーキーに迫るという、この本の決断の鋭さに興奮する。さあどこまで人生を謳歌し、恋に溢れているのだろうか。ヨダレのような 冷や汗と共にこれも読む。
ああ勉強家。
言葉が降りてきて、気付くまでに時間要するのかな。

すき焼きと野球中継、巨人は永遠に巨人。お父さん、お母さんも永遠にそれ。
穏やかな夜、猫が帰ってくる家。

駅まで送ってもらって、一眠りし家に戻ると、我らの猫、ウッチャンマン飛び出す。転がっているだけかなと思うと、勢い良く走り出して夜の路地に消えてし まった。おいおい、こいつはヤバイんでねーのと、追いかけるが暗くてよく分からない。懐中電灯持ってきて照らすがおらず、小一時間ばかりこんなことははじ めてだぞうと内心焦りながら周辺を探しまわる。このアパートに四年ほど住んでいるが、いままで入ったこともない塀と塀の隙間に潜り込むと、奥が開けていて 廃墟となった中庭があった。bnap05 のときに荒川さんが展示していた薬局の裏手だ。味噌蔵みたく瓦礫が散乱している。入り込むのは保留して他の路地も探すが、車の走る道に出るようになってい るので、もしこっちへ飛び出していたらもうお手上げかもしれんなと思う。しかし、短時間でここまで出そうにないし、猫の鬱は外では恐る恐る動くからそれは ないだろうと思い、やはり廃墟スペースじゃないかと一度戻る。泣き出しそうな彼女に、帰ってくるさと手を取る。
懐中電灯を右左と振り回す彼女の、今日 写真屋から取ってきたプリントは格好良く奇麗だった。僕の部屋にはどんどん愛する人の作品がたまる。スーファミを売った分だけ、動きやすくなるかもしれない。僕の作品も愛する人に渡すから。
一度 落ちついて、また探すしかないかと思って角を曲がると、さっきの隙間から鬱がトコトコ出てくるではないか。のほほんとちゃっかり玄関の前まで歩いて行く。 「無視してやろうよ」と彼女はくやしがった。ゆっくり背後から近づき、扉を開けると鬱はさも当然のように家に入った。僕は苦い笑顔を彼女に見せた。鬱は上 機嫌で家の中をうろついていた。
やがて僕らは糞をされた毛布も奇麗に洗い流したから、今日は涼しい風のなかで静かに眠った。
あしもとで鬱が丸くなっているのを感じた。
僕は生理と満月についての詩を書こうと思った。
「中秋の名月」という言葉を教わる。二十七にして。
いつか、ようやく言葉が降りてくる。
動いた分だけ、僕らは僕らに近づいていくことができる。

土曜日, 10月 07, 2006

こんやもまんげつ

電車に乗ったら、ブーケを抱えた女性がいた。
花嫁の友人が空に投げたもの。
絶対に投げないもの。

バイトを終えて、また iPod でイヤホーン爆音にする。月が今夜も丸く、大きく照らしている。
女の目も丸く、また大きい。
そのなかできらめいているものを、見つめていた。

連休でも仕事帰りの人が行き交い、したいことをしようとしていた。
一言も恥ずかしいことは言っていないと、僕は言った。

家を猫の鬱が守っている。
玄関を開けると、飛び出てはコンクリの上で寝転ぶようになった。
僕の耳は「Sweet Bitter Candy」に転がった。


満月が 真ん中で 明るすぎて
ぼくらのあいだ 距離が よく見えない
いつの日か 苦い思いは ロケットに
乗せて 飛ばせるような 男になる

Candy 夜が明ける ゆっくり大人に
なってゆくぼくら なにかを 決めなきゃね
アルプスが 遠くに 見えたような
気がして 電車に乗って 河を渡る

(作詞,鈴木慶一、白井良明/1998)

金曜日, 10月 06, 2006

つき

ちょっとくらいお酒とか飲んでたほうが、感覚が研ぎすまされるなぁ〜。と思った。
バイトで一日過ごしたあと、部屋でごろごろ、やんなくちゃいけないことをしているうちにすぐ深夜になる。
リリーフランキーが出てる音楽番組を見ながら、発泡酒を飲んで、槇原敬之が良くなっていることを見て「そうだよマッキー!」と一人で頷く。リリメグなんかにもしっかり癒されちゃったりして。

今夜、日本は十五夜で満月が見れる。夕方に降り続いていた雨もやみ、強い月光で空が明るかった。
それでもこの町からでは、まわりの街灯が明るすぎて、見にくい感じがして、ブレーメンからだったら、もっとくっきり見れるんだろうなとも思う。
そのときにやはり「明るい夜」なんだなと思い、僕もシャッターを切った。

大丈夫と何度も言う。
とてもキレイな夜。
そのまま寝る。

木曜日, 10月 05, 2006

だきしめる

朝、「だきしめる」という詩を書き、それから真逆のことを言ってしまう。
意味は似せやすいが、言葉を似せるのは難しいという本居宣長の言葉を思い出す。

昼、アルバイトの求人応募を数件行い、すぐに帰ってきた返事が胡散臭く、戸惑ったので一件断る。どうしようもない気持ちのなかでもがき、改めて大切なものを探し出そうとする。外は強い雨。

夕、ドイツ帰国後初の bnap06 ミーティングの前に、大学のギャラリーで企画展のオープニングを見る。手の仕事を「MANUAL」と名付けた本の仕事は洗練されつつ、大切なものを掴んで いた。二階の小さな部屋にてミーティング。久々の面子と会えて安心する。写真をアルバムに入れて閲覧。カタログの校正をしっかり行う。朝のことを後悔す る。

夜、真坂氏に五百円を借りて定食屋で夕食をとる。僕が帰ってからのブレーメン話を聞く。ひどくナーバスな気分になっていたが、いろいろ話しているうちによ うやく一番大切なことに気付く。これは二十七年間生きてきてようやく気付いたことで、当たり前のことだった。また本居宣長の言葉が頭に浮かぶ。意味を分 かったつもりでいるのは、言葉を分かっていることではないと知る。言葉では分かったつもりだったのだ。愛を抱きしめるなんていうこっぱずかしい言葉が。意 味と言葉は一体だから、意味など忘れて、言葉は言葉でだけあればいいのだ。だから愛を抱きしめるだけだ。言葉巧みなテクニックなどではない。それが大切な ことだと言う言葉を示すだけだ。
車で家の前まで送ってもらう。また来週と手を振る。

深夜、言葉を示し、動く。そんなふうにちゃんと頑張る君が好きなんだよと彼女は言った。心につかえたトゲが取れて良かったと声に聞いた。僕もまさしくそう で、あらゆる大切な関係には必要な言葉があることを知る。言葉は剣やミサイルのように人を攻撃し、制圧しようともするが、間違ったものから人を守ることも できる。必要な言葉の裏には不必要な言葉があって、それらは示されない限り、この世界には現れないのだ。好きだから言いたいというのはエゴだが、エゴをテ クニックや良識で圧殺するのではなく、その言葉が必要かどうかは、その関係を愛でているかたちを見つめることから現れてくる。そのとき愛は試されていて、 人は自らの愛の前に立っているのだ。
電話口で、僕は自らの愛の前に立っていた。
彼女も同じように、電話口で言葉を見つめていただろう。
今朝、書いた詩を読み直す。


だきしめる


四角い窓の向こうを見ていた
そっちの天気はどうか
風が吹いていくと思う
窓を開ければ
そっちでよく眠れるはず
空を見ててと
僕は思った
川岸で
あなたは噴水を見ていた
あなたの笑顔
そっちの天気
窓は開いているだろうか

あなたが夢を見ているうちに
あなたのための言葉が
すべてもどってくるように
あなたのための天気を
風がはこんでくるように
あなたの声を待つために
僕は声を持つ
ここにそれを書き
あなたをだきしめる

あなたのために
四角い窓の
空にうでをひろげる

水曜日, 10月 04, 2006

シャッフル終わらぬ

僕はとんでもなく馬鹿な感じ。
頭では何も分からないみたい。

写真とトランプと遊戯王のカードをいっしょくたにしてシャッフルするような、それはあらゆる思いをシャッフルするシンキング(思考)のような。気持ちになる。
駐車場を子どもが一人で走り回っているのを見ていた。
夜がすぐにやって来る。
写真はどれもキレイだった。
ドイツに行く前に撮った僕らの写真もすごくキレイだった。
カードにして配られる思い。
それは書かれた言葉の姿である。
書かれた言葉を手で掴んで配り、僕らは会話をする。残酷で無様な僕の振る舞いで、ポーカーフェイスで紳士のように七並べをする。
iTunes で「The world of MOTHER」(鈴木慶一+田中宏和/1989)を聴く。
僕のしたい冒険。
ぼく、おんなのこ、おとこのこともだち1、おとこのこともだち2。
みんなを呼んで。
名前で呼んで。
歩いていく。

先生は先生という姿をみせることが仕事なんだと気付く。
愛は愛という姿をみせるための「out put」なんだ。

火曜日, 10月 03, 2006

あらゆるキレイなものが流れ出てしまわないように

そして今日もまた先生に会った。偶然のように出会った。
ドイツで撮った写真ができあがっていて、それを机に並べて話をした。
あらゆるキレイなものが流れ出てしまわないように、あなたはしっかりと抱きしめる必要がある。
そう自分に言い聞かせて考えた。
バイトの後の深夜一時過ぎに、福岡氏宅に伺い、雑談と、帰りの飛行機の中で何故か画面が割れてしまったプロジェクト iBook のバックアップ作業。液晶が潰れて、黒い葉っぱが覆いかぶさっているようだった。

久しぶりの風景。あれからのドイツ話を聞く。また写真を並べた。帰ってアルバムに入れよう。梨を頂く。

帰り道は 60km/h で飛ばした。
夜のなかで眠る、やさしいあなたの顔を、またアルカイックスマイルと呼びたくなる。
僕は東京まで、あと何日で行くのか。

月曜日, 10月 02, 2006

Virginity、港について

雨の日。iPod にイヤホンを刺して「Virginity」(MODERN MUSIC/1978)を聴く。
鈴木慶一の声が、俺の代わりに、俺の心が騒ぐのを歌ってくれる。
音数の少なさは、貧しさではなく必要な数だ。
どうしても切なくなる。
僕ではなく、俺と使いたくなる。
俺には無茶なことが多く、俺は何が意味を持ち、何が無意味となるのかを忘れた。
そんなものは必要が無い。
だからこう、あなたは苦しんでいる。
曲は「Modern Lovers」に進む。雨の空港を想像して、俺はようやく同級生の友人を「先生」と呼ぶことの崇高さと空しさを知る。
誰が呼び始めたのか、ドイツでプリー氏をプリー先生と呼び、中山氏を中山田先生と呼ぶ。そこには敬意のようなものと軽易のようなものがブレンドされていた。ジョークはいつもマジであるからジョークになることができる。
「俺は男だから」
そんな一言で話は笑えたり、笑えなかったり。
実際には「僕」と発言していただろう。
フロントガラスに雨は打ちつけなくなった。
僕は先生と呼ばない。
僕は先生と呼ばずに、あなたが格好よいと言ったり、背筋が伸びる言葉で話すだけだ。言葉はタダで、タダより高いものはない。
「タダマンはひとりだけじゃー」と微笑んでいた「カンゾー先生」の清水美砂、麻生久美子。
僕の夢はまるで小学生の幸福な教室。男女全員が出席しているお別れ会。先生は何かをフンパツしてくれている。お金ではない何かを。
子どもの僕にはそれを信じることができたから、大人の僕にもそれを信じることができる。

最終曲「鬼火」の後で、急いでホイールを回し「恋人が眠ったあとに唄う歌」(詞,曽我部恵一/曲,鈴木慶一/1998)をかける。
音量は最大に。
一瞬で曲は終わる。
声は呼び止め、さよならと言い、解き放った。
末尾の演奏が常に格好良い。
俺はあなたの煙草を盗んだが、あなたに言葉をあげることができたか。
そもそも言葉をあげるなどという考えはどういうことだ?
共有するなんて言葉は幻想だ。
俺たちはいつも奪い合って、与え合っている。
家はその残酷な愛する現場で、彼女は眠るのだ。風邪はすぐによくなる。
二人で住んでいると、何が何だか分からなくなるときがある。
愛はいつも最大級に愛を用いる。
出し惜しみは愛の仕事ではない。

必要なことだけを書く。
書くことが書くことを呼ぶ。
厄介でありながら、これこそが生きていける力だ。
「out put」は大人の仕事。
愛するという仕事。

港についてを語ろう。
おつき合い願えるなら。
B面みたいな気持ちで書く。
詩のようなものを詩と呼ぶ。
先生のようなものを先生と呼ぶ。
夢のようなものを夢と呼び、
人生のようなものもまた然り、
海はこの国にとって面倒なラインにすぎない。
トラウマはそう簡単に消えない。
言葉は追い込んでしまう。俺たちは人生を損していると。
恋人のようなものを恋人と呼ぶ。
言葉でしか触れられないものを、
疑いだすと気が狂う。
人はこの面倒なラインを好かぬ。
ここに限界があって、
だからこそラインを見ようとするのだ。
「線路は終電なのかな」と聞き、見上げると高架はぶつ切れになっていたので、時間と空間が同じようだと考える。
その言い方は間違っていて、
その言い方はあなたの素敵なところなのだ。
詩人は獣のような人だ。
素敵なところだけを貪る、心の中に巣食う獣。それを治めるように人は、獣を殺さないように言葉をかける。言葉の中で獣はあらゆるものを貪り食う。言葉の中 から襲いかかってきて、言葉の中に引きずりこむ。詩人は骨だけで良い。獣だけがたらふく太り、筋肉朗々として詩人の血肉だと見せてくれる。
では骨だけになるには、どうすればいいのか?

クレーンにくすぐられ
タンカーに身震いする
同じ名前の車が並ぶ
でも道路端に止まっている車だけ名前が違う
名前の色が違う
意味や無意味を忘れている
逃げた家族はこのまま突っ込む
一度止まって
理由より優しさを確かめて
そして帰ろう
警察に捕まる前に
クレーンについて書いた僕の詩をここに引用しよう。
音楽はシャッフルの設定だったようで、また「Virginity」だ。


女達の逸話


視界の底から 影が突き出す。
あざ笑うのは、僕のクレーン。

地下鉄は唸っている。
いい加減、空に抜けたいと。

川沿いの夕闇に終われ、
沈黙を抱えこんだ女達を知っている。
僕はその音を ききたかったけど、
逸話の為に、きいてはいけない。
(夕闇はひどく個人的なもの。)

サーチライトをみつけるのと同時に、
女達は居なくなり、
僕は 雨の先っぽを掴む。

地下鉄も、
クレーンも、
逸話だけでは 何にもならないのに。

(1999)

日曜日, 10月 01, 2006

僕らの家で

愛知県美術館で今日までやっている企画展「愉しき家」を見に行った。

雨が降る中を彼女と歩いていると、道沿いにあった結婚式のプラン店はカップルでごった返していた。みんな日曜でないと互いの都合が合わないのだろう。
これもまた「愉しき家」だなと思い、巨大なテーマ「家」を前にしようと鑑賞に望んだ。それは愛知県美術館主催の現代美術企画展という、また大きな取り組みであったようだった。常設展示にも企画作品が組み込まれていて、一体となって見ることができるのも面白かった。
やなぎみわ、ゴードン・マッタ=クラークの各作品に強く惹かれる。この二作品からは作家の理屈や構想や詳細は二の次で、家に対する裏切りや許し、これらの発見に触れた。

寄り道はせずに帰って、僕らの家は今夜も嬉しいことにカレーなんぞを食べ、映画を見ることができたのだった。
「マグノリア」(監督,ポール・トーマス・アンダーソン/ジェレミー・ブラックマン、トム・クルーズ/1999)。これも「家」をふだんに含んでいる「人 生」についての映画だった。過去に向き合うことが突きつけられているのは、未来に向き合うことが突きつけられているのと同じ。
多層的に、切実に、言葉がやってきて、それを放送や天候という状況で包んでいく構造が好きだ。
僕は、描く世界を行毎に飛ばしながらも、これらが繋がっているんだと思って詩を書いている。

愛は何よりも強い。
愛は何よりも。

ソファーに座れば猫の鬱がよく甘えてくる。でも寝るときは別々だ。冬はどうなるだろう。