木曜日, 5月 31, 2007

しっかりいくぞ

希望を持ちたい打ち合わせで、市内へ行く。ハッキリした言葉で主張するのをこころがけるが、状況が努力に裏打ちされる断面があらわになってきて、わあわあ言っても取り越し苦労かなというところ。

歩いて暑い。ケンジタキギャラリーにて染谷亜里可さんの個展を見る。筆が画面上をドローすることで何が起こってくるのかということを思う。ドローひとつでたくさんの無言を語っていると思った。雨粒や流線が凝縮されていく。

名古屋駅まで歩くのを断念して地下鉄で帰宅し、荷物を下ろして「詩の作り方」(著,黒田三郎/明治書院/1969)を読了した。淡々とした語り口のなかに強靭な批評精神が渦巻く、詩人が詩を考える本だ。
作者は自作の読者になることができないということ。
詩で全てをあらわしているのであって、作者が何かを補足説明するとき、読者の想像力を奪うことになるということ。
黒田三郎は厳しくて優しい詩人だ。「夕方の三十分」(1960)が好きだ。
"オトーチャマ" という言葉が胸に残る。

晩は、bnap06 のラストひとつ前ミーティング。しっかりいくぞ。

水曜日, 5月 30, 2007

マタタビビート

思い出して、Jim Carroll を取り出す。
なんとかして自由で豊かなイメージを、育まんば!





火曜日, 5月 29, 2007

ほんとの勇気 見せてくれたら

土産に持参したチョコレートを僕自身がたくさん食べてしまう。
ぷりぷり、ここから弾けよっ。

「ロマンティックあげるよ」(作詞,吉田健美/作曲,いけたけし/編曲,田中公平/1986)を胸に。
終わりの歌は切ないのが好きだ。

http://www.youtube.com/watch?v=PDg9Ex1GXw0

月曜日, 5月 28, 2007

スーツ姿だけを去ることはできなかった

現職農相自殺。
取材陣が去った後で、テレビスウイッチを消した後で、命の淵まで語られるのか。
冷や汗をたらし、墜ちていく恐怖に。
何も帰って来ない。
朝は遠いよ。

日曜日, 5月 27, 2007

カフェオレと 68円のクラッカー

昼すぎに起きて、つくったカフェオレを就寝前まで延々と飲み続けていた一日。

猫の鬱の声が枯れてしまっていた。
ごめんねとキャットフードを買ってくる。
一緒に、玉葱と唐辛子味というクラッカーを 68円で買ったら、これがなかなか美味しかった。
絡まった洗濯ものをほどく。
必要な書類まとめを列挙することころまでする。
マグカップをシンクに持って行く。
鬱は体をひねらせて仰向け。ご満悦の顔。

土曜日, 5月 26, 2007

どんちゃん魔法

ブレーメンで遊んだ Sebastian が名古屋に来てて、みんなで食べて飲んでのどんちゃんでありました。
桃太郎神社、キワマリ荘と犬山 special place のツアー。
そして福岡食堂の選りすぐりと、中村屋の日本酒でノリ氏の英語にインドネシア語が響きわたった。
桃太郎の語りは筋書きではなく、思いである。

http://www.yha.gr.jp/momotaro/densetu.html

金曜日, 5月 25, 2007

暮らしの詩

クノールの袋入り粉スープ、たくさんじゃがいもが入ってて美味しい。
それまで僕は腹を空かしていて、血の気が引いていた。
傘さし自転車で、やっと着いた銀行では、印鑑が違うと解約を断られてしまい、雨に癇癪を吐いた。
自分が悪いんだけどね。
猫の鬱が可愛そうだからと、コンビニへ缶詰を買いに行くのを送ってくれた。
何を恐れていたんだろう。
そう思える日が来る気がした。

木曜日, 5月 24, 2007

孤独を忘れ、幸せを忘れ、くたくたになって、ようやく

ゆうべの遅くに「トニー滝谷」(監督,市川準/イッセー尾形、宮沢りえ/2005)を見た。
この映画は、書き言葉と映像による表現である。
孤独についてを染み渡らせ、心がそこから離れない。
五月蝿くない声と色。
ただ、すましたり、臆病に黙っているわけではない。
語られる書き言葉から一拍置いて、視点は歩み寄る。
話すときは鍵括弧の中にいる。
人の心は言葉であらわされる。

潔い姿が強い。

http://www.tonytakitani.com/

水曜日, 5月 23, 2007

おっとそれは言わない書かない

たいへんだ、難しい、ばかり言っててはいかんいかん。
昨晩から問題が数えきれず、呆然とする。
おおもとは何かと正せば、自分自身に返ってくると考えよう。
憲法改正も、貧富の二極化も、政教分離も、過当競争も、活断層の上に建てられた原発も、たいへんだ、難しい。おっとそれは言わない書かない。今日は、たくさん法律が成立し、猫も人もみな眠った。

二ヶ月ぶりに絵画教室へ顔を出した。
紙粘土で猫と鹿と車を作る。
エアコンを付けるよりも、窓を開ければ風が吹き込んできて気持ちいい。
西山先生と、たいへんだ難しいを言わないようにしながら、表現の話をした。ベンチに座って、紙コップのコーヒーを頂いた。

火曜日, 5月 22, 2007

Emily Dickinson from university

四年ぶりに Nancy 教授とお会いした。短い時間だったけれど、作品カタログなどを渡して、またと話した。講演の後で批評会と続く。教鞭は丁寧な通訳をして頂いていた。後半で 批評はお小言ではありませんと語られていて、アドバイスという言葉が選ばれていた。教育プログラムの詳細よりも、その意識が興味深い。
米は進んでいるなぁうんうんって、わけじゃなく、ボーリングを繰り返していた学生らを思い出せば何も変わらぬ。学生らに取り入る画商やギャラリストへの問 題視自体が問題になる学生、卒業生らにとって、講演で提示された問題はケースバイケースだと終始されれば身も蓋も無い。ならばはじめから自分の場合として を聞きたくなってしまう。

詩人、エミリー・ディキンソンの生まれ故郷ニュー・イングランドという田舎の農村に、フォーマルな家があって、表現が大きな戒律の基に佇んでいる。それはディキンソンのごとくに見えた。
ディキンソンは教えとして詩を書いたわけではない。真剣にうたいあげた言葉の持つ厳しさだ。それも重ねて見れば、言葉は人を導く力を持つと知る。

月曜日, 5月 21, 2007

second life blues

高層ビルの根っこでユーロを替えてもらった。おもちゃみたいなものに振り回されている気持ちになる。
彫り込まれた「定礎」の二文字がコピペされたように見えた。

パソコン室にてブルース。
second life は仮想ではなく、どこも空間が感じられるから、頭をぶつけそうだとは恐れない。
剥き出しのビルには身をすくめている。
感じる情報量が大きく異なる。
人の言葉は、より情報を意識していく。
優しく落ち会う、ケータイにだってかける。
海を超えて。
この海とは、頭の中でジェットが上空から捉えていく映像とは限らない。海は海だ。
この文脈の中で語られている海。
構造を意識する。

日曜日, 5月 20, 2007

以後、濃密な世界に

お昼前に起きたら、馬よりKとKの声が留守電に入っていた。
明るく弾んだ声だった。
独より、Gのメールも嬉しい。六時に駅で待ち合わせだから、その前にメールをタイプしてくれたようだ。
今日は所用の後で、名古屋市内のギャラリーを回ったJである。

大須のアートフェチにて三周年のグループ展を鑑賞。ビルの上階へ展示空間を巡っていくのはやはり楽しい。メンバーの作品がミックスされた・・・これは DMみたくワインじゃなくて、ちゃんぽんの醸造待ち? 蜜柑酒が無言で灯っていた。
意味と伝わり方についてが、議題となろう ポスト 3years 。
ついつい刺激を求めてしまう自分の癖を露呈しつつ、お茶を頂きではまた。

続いて東山線の本郷駅へ行くはずが、本陣駅と見間違えてしまい、無駄な往復をかます。地下鉄一日券にあぐらをかいた格好だ。お金よりも時間の浪費が勿体ないぜとダッシュ。
L Gallery F-1 にて Veronika Dobers さんの個展。精密さと無邪気なイメージが同居した、奇麗な絵だった。ガラスの裏に鏡絵として描くという手法が、精密さを生んでいるのだろう。
アーティスト御本人とパートナーの方から、独 ブレーメン在住であったと聞く。おおっ!と驚く。
クンストラハウスでも制作していたときがあると写真を見せてもらう。行きましたよ!と話す。ブレーメン空港の展望台スペースにも大きな絵がかかっているらしい。
話題はクラブやバーの多いエリアの話になる。洗濯機のテレビCF をしてたという詩人が経営していたクラブについてなど。
次に自分の作品ファイルを見せて、これがブレーメンで作った作品ですと紹介すると、あれ?とテレビの中の詩を朗読しているドイツ人の顔を覗き込み、「この顔を知ってるぞ!カフェでよく話すよ!」と言うので、大びっくり。
紹介してくれた Jenny のカフェで繋がっていたのだ。
「世界は小さいね」と笑う。
そして、Tschus 。

興奮覚めやらず、文脈繋がらぬが吉野家で夕飯を食べた。
煙草が依然続くMへの賛辞と激励。発表はすぐだ。アトリエより先に来る。
六時に駅の待ち合わせはうまくいっただろうか。
独にメール飛ぶ。
現実を世界と見ることが議題となるであろう ポスト 2.5years 。

http://artfeti.main.jp/index.html

http://www.dobers-art.de/

土曜日, 5月 19, 2007

フーちゃんと春夏秋冬

猫のフーちゃんをビデオに撮った。
帰りの飛行機の確認電話が、まったく英語で通じなかった。
フーちゃんは何も口にせず、用を足しに畑を往復した。通り雨の後だったので、足の裏は泥だらけになって帰ってきた。数日後には迎えに行く。フーちゃんのビデオは取り込んでおこう。
猫の前で操り続けた、俺の勝手なる言葉たち。この遊戯は、真剣な感覚の遊戯だ。それが黙するとき、俺達は十年を放ってしまうと感じる。フーチャンの眼光を前に、俺はまた帰って行く。
あばよとも言わない。
十年すら俺が勝手に言っているだけだ。
猫の鬱がお腹を空かして待っていたので、餌をあげた。
テレビに泉谷しげるが出ていて、嬉しくなった。
秀逸なのは「春夏秋冬」(1972)の、当分照れ笑いが続く・・。

http://www.youtube.com/watch?v=ckhTGPx8QHE&mode=related&search=

金曜日, 5月 18, 2007

フーちゃんと俺

キャットフードをお湯でふやかして、袋から錠剤を出しておいて、背中をさすり、腕をさすり、逆仕送りなんぞの果てに、昼夜を問わず求めていたのだ。
立てこもりの暴挙に呆れながら、名古屋駅より南下する。俺は武装などしないが、言葉で失わせてしまうことを悲しむ。
十年前より家族に訪れた猫のふうきちは、風前の灯火となり。肩で息をしながら、俺にかまうなと言っていた。犬はほがらかだ。俺はふやかした刺身のことも思い出すが、十年間は恐ろしい風であった。

木曜日, 5月 17, 2007

ひっくるめて Katze 届くまで Schreiben

詩人とコラムニストは相反しない!
言葉の届け方で区切るなかれ。
兎にも角にも、勉の強が続くぜ。
西山氏と昼食。近況のけだるさから、どう解放されるか。そんなブルーの画面。
帰宅した僕は掃除の際に、豆球ひとつ点けた。

届けられる猫と向き合い、僕らはこうしてイメージを取り戻さんとす。
革命だとか神様だとか、手を挙げなくても、響くのはずっと。

水曜日, 5月 16, 2007

詩人が陥りがちな思考

「読ませる技術」(著,山口文憲/マガジンハウス/2001)を読んだ。カルチャーセンターで講師をされているプロのコラムニストによる教えが並ぶ。副題 は「コラム・エッセイの王道」。文体もコラム・エッセイ調で、読んでいて楽しい。「自分が書きたいことを書くな、ひとが読みたいことを書け」って、耳が痛 いな。
どうやら自分史ブームがこの頃は来ていたようで、それは否定もしきれないけれど、困ったと書いてあるのが面白い。いまなら間違いなくブログブームが対象に なるであろう。コラム・エッセイと完全に線引きしてるかも。このブログはなんなんだと言っている暇もない。一億総ブロガーだかんね。読むのが追っ付かない 文章がどんどん公のネット空を舞って行く。私のもそのひとかけらに過ぎず、そういう在り方は言葉の感覚に何をもたらすかというのも興味深い話ではある。開 き直ったように、「読まれなくてもいい技術」だと見切れば、これはまた別の何かを照射しているだろう。
とても惨めで独りよがりな、僕たちの日記・・・・。
何じゃこりゃあ!

詩人とコラムニストは相反しない!
言葉の届け方で区切るなかれ。

火曜日, 5月 15, 2007

猫の鬱によるエスキース

トイレの砂を新しく取り替えてやると、すぐに猫の鬱が飛んできて用を足した。今日も日中暖かかったので体中がぽかぽかであった。よしよしと犬のように撫で てやる。プイとされる。iBook の画面の角に顔をこすりつけて掻いている。砂と共にスーパーから買ってきたワンパック四つ入りのベビーチーズを開けてもしゃもしゃと食べた。鬱にも少しや る。指先にへばりつけたかけらを美味しそうにたいらげた。さっき頂いた瓶のウェルチを飲み干す。中原中也といま併読しているのは「うちの子がオウムに!」 (著, 有田芳生と「シリーズ人間」取材班/光文社/1995)という本。大正と平成を行ったり来たりだ。いつの時代も若者は思い悩み、現状をひっくり返そうとも がく。猫は何も言わず眠っている。全てをただじっと見ている。

月曜日, 5月 14, 2007

囚人のジレンマ

そうやってまた、寝込む羽目になってしまうようだ。中原中也のように嘆きも叫びも綴り倒して、語勢というものを信じ、やっていくしかない。宛は無い。全く 以て保障が無い。詩人はホームレスより質が悪い。「ああどうすればいいのだ」それだけが生きる手だてだ。その感嘆すら無くなったとき、本当に生きることは 終わってしまう。裏切りは最低なことだ。もう戻ることはできない。全てを見ている猫に任せて、信じていることを綴らねばならぬ。背を向けることなんて間 違っていた。これらの言葉はひたすら軽い。吐き気に任せて、もう立ち上がる力を見つめることができたから。ただひたすらに弱く、か細く、何もできず、不幸 を気取るのはいけない。間違ってはいけない。間違ったことを間違ったままにしていてはいけない。ゲーム理論だ。囚人のジレンマだ。生き延びるためには。最 後に残るとき、洒落臭いことは無い。もうどうしようもなくなったときに縋るのは信じることだけだ。

日曜日, 5月 13, 2007

イメージが息苦しくないのは、どこからくるんだろう

いいかげん返却しなければいけないと思い、図書館へ読みかけの中也を持って行った。入れ替わりに文学全集ものを開いてみる。
中原中也が29歳のときの写真が載っていたので、借りる。

「祝魂歌」(編,谷川俊太郎/ミッドナイトプレス/2003)という本も目に止まった。死についての詩を様々なところから集めたアンソロジー。詩人に紛れ てプエブロ族やチョンタル族の言葉も入っている。収録された詩はどれも素晴らしい。わずか数行に、無限のイメージがあり、言葉が簡潔でおおきい。ひとつの 文化や宗教観に帰結しない自由な自律があるのだ。

イメージが息苦しくないのは、どこからくるんだろう。
寝っころがりながら読む。なんだか不自由な日曜だった。

http://www.chuyakan.jp/01chuya/gallery/01main2.html

http://www.midnightpress.co.jp/publish/book/071.htm

土曜日, 5月 12, 2007

イメージのリズム

何かの本で「全ての芸術は音楽に憧れる」という言葉を読んだことがある。
視覚表現にも活字表現にも、あらゆる表現にはリズムが存在していて、構図や段落などの構成要素によって、それを操作している。
平面表現においては、一つの画面に対して何をどう配置していくかということ、即ち「構図」でリズムが生まれる。

思い出すと醒めてしまうようだが、構図にとって大切なのは、一つの画面を感じさせることだと最近思う。
つまり、ここからここまでが画面なんだなということが伝わらない限り、リズムは生まれない。
終わりが見えなきゃいけないというわけではない。終わりが意識されていれば、それは伝わる。
映画の長さを知らずに見るか、知らされて見るかという話ではなく、大筋でそろそろ終わりかが分かってくるかでもない。
意識されているかどうかは全く別。それによってリズムが生きもするし死にもする。

では、とんでもなく長い、脈絡の無い詩はどうなるのか。
脈絡が無いことと、リズムがあるかどうかは別だ。
終わりが意識されているかというのは、どういうことなのか。
いやもっと具体的にしきり直そう。
平面表現の話からどんどん離れていっているんじゃないのと突っ込まれ、いや「全ての芸術は」なんだよ云々と答えるのであった。

金曜日, 5月 11, 2007

ハンブルグ時代と呼ぶように

「In My life」(詞, 曲, Lenon=McCartney/1965)とは。
ジョンかポールか、どちらがつくったかでもめているらしい。
誰もが分かりながら、納得はいかないふりをしている。
それもみな さざ波のなかに寝そべるだろう。
いままでの年月は君に還るため。
あのハンブルグ、港町で、Beatles と呼びはじめた。そしてまたリバプールへ。
僕も日々を回るだろう。

http://www.youtube.com/watch?v=Ym0x3vTw6yc

木曜日, 5月 10, 2007

花火のかたちをした時計よ

そして緑の iPod で、
「僕らが旅に出る理由」(詞,曲,小沢健二/1996)を聴いた。

電車は海沿いを滑って行く。
髭を剃ってワイパーはまた乱れた。
アクセルに体を合わせて、彼は帰る。
面倒に感じられることが少なくなっていくことを恐れていた。
花火のかたちをした時計よ。僕らの言葉を針に掛けていってくれ。
何も答えることはしない。言葉に理由は無い。
表裏一体に浮かびあがった光を覗き込む。
温度を抱きしめて、足を大きく組んで。

http://www.youtube.com/watch?v=JKzukgl9KtI

水曜日, 5月 09, 2007

地図の手紙 introduction

旧仮名遣いというだけで仰々しい。かといって、イマドキ語訳の中也というのもくだらない。友川かずきが唄ったものを聴かなきゃ。
送られてきた写真は美しく、四角形のなかに空間がある。
地図を指でなぞるように、窓に触れようと向かっていく間がある。
その光へありつこうとする間が、僕らが愛でて、慈しむものだ。

火曜日, 5月 08, 2007

メロディ

道がわからなくても、どんどん走っていく。
君に電話して、ゆっくりと着実に、前にしていく。
猫の鳴き声を語尾に付け、晩まで息をひそめていた。
安心してよく寝よう。ここで神妙な顔をして唄いだそう。
僕は百円ショップに腰掛けて、1ユーロショップを言い直す。
残酷な便りを焼かない。
メロディでやりこめるのはしょーもない。
どの町でも猫が、道など無く歩いてる。
何の文句も垂れずにやって行くんだ。

http://www.youtube.com/watch?v=hqmvlNZI374

月曜日, 5月 07, 2007

ズツー

連休明けの脳味噌はぼんやりと優れず。
サーバーの真横に机が動いて、電磁波どっぷり脳味噌優れず。
寸前でどんでん返しの書類が飛び散る、一枚も拾わない脳味噌は優れず。
紙に手でものを書く仕事にようやくありつき、脳味噌が旋回しはじめる。
怠慢しとれるかっ!

日曜日, 5月 06, 2007

壁を塗り固める男

ああ言えば上祐の新団体は、何も変わっておらず、ああ言えばに固執し続けているだけに見えた。自らで積み上げた城を降りることなどしない。自己正当化に尽きる世界だった。テレビアーカイブによれば、サリン事件前のころ、彼らはギャグとしてサブカルに位置していた。
メディアにデジタルツールの活用は、彼らの世代感に根ざしている。
科学は根底にある絶対的信仰で、愛情か憎しみかのソフトで起動するのを待っている。ギャグより出てて希有な存在になるか、テロ集団になるかは紙一重だ。

中原中也が現代に生きていたら喜んでメールを打っていただろうというように、詩人も宗教家もいまはブログで吐いている。詩は答えではないと考え、壁を塗り固める男を横目に、私は窓枠を運んでいく。
雨は夕方まで降っていた。
たくさんの人があのとき悲しんだ。
いまも床が軋んでいるようだ。

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1733/aum/nakazawa-1.html

土曜日, 5月 05, 2007

Drunkard more

朝、駅西の広場が酒臭い。
花壇より、ぷおんと熱気が立ち上る。蜜の香りに昨晩の酒盛りが混ざってくる。

オーロラの窓を持ったシングルで、醸造する音が聴こえてくるはず。
夢を持ったまま、硬直はしない。
沼より去るべくして去った。

夜、家に電話をかける。
母親とメールを打つ。
スピナーかドライかを尋ねる言葉より、泡の姿を伝えるべく。
"world" の綴りを探しはじめた。

金曜日, 5月 04, 2007

中原中也、来る

18歳の頃の中原中也の写真はよく見る。
目に光が灯っていて、こちらを見ている。
それから何年かのち、詩人は麦藁の上で昼寝をしているところを撮られていた。
顔は疲れをみせていて、言葉は圧倒的に熟していた。
「悲しみからはじまる」(著,佐々木幹郎/みすず書房/2005)を読んでいる。
今年で、中原中也生誕百周年だ。
さあごろんとしよう。

http://www.chuya100.jp/

http://www.bokusui.jp/topics/20050526/index.html

http://www.longtail.co.jp/~shoshi-y/j0208.html

木曜日, 5月 03, 2007

日常の為の OS

とある合宿へ陣中見舞い。アイスは PARM。並んで食べれば立体に見えるよ。右と左、それぞれの目で見ているということを思い出して。
足湯と飲酒へテレポート。憲法記念日に自分の OS を振り返ろう。日本国憲法はこの国の OS だといつか答えたことがある。
憲法のない国はもっとえげつなく、10分で1ドルだと耐えなくてはならない。あってもなくても同じだと誰かが言う。そんなことはないぜとリリックが続く。あれもこれも、誰かの手によると思い出して。

水曜日, 5月 02, 2007

首都圏への一往復を航海と呼ぶ

昨晩ビデオに録っておいた NHKスペシャル「高速ツアーバス 格安競争の裏で」にて、働くことの凄みを見る。
運転手らは昼夜完全逆転で、家に帰れるのは月に三度ほど。大勢の命を預かる緊張と疲労。事故の報道が頭を過る。安さの裏には切り捨てているものがやはり多くあった。
運転手のおじさんが首都圏への一往復を「航海」と呼んでいた。三航海のシフトになったら、一週間は家に帰れないことが確定するらしい。
休憩時に、ケータイで家族と送り合うメールを楽しみにしていると笑った。

連休の再来に気持ち明るく帰る私。
途中の国道の上では、高速道路が働いていた。

http://www.nhk.or.jp/special/onair/070430.html

火曜日, 5月 01, 2007

五月雨、シチュー

ユーウツな雨 めちゃっくちゃっ降る むぅやみやたら
降り、続ける
さーーみぃーだーーーれー
さーみーだれー
トゥットゥトゥー
脇目もくれず いちもくさん
五月雨集めて帰りみち

「五月雨」(詞 曲,大瀧詠一/1972/表記は異なる)

ユビキタスは導き出される歌にあって、僕は言葉に引き寄せられる。雨合羽までは買いたくはないけど傘で片手が埋まれば、メールは打てず。今日明日は労働だ。雨が降ろうと向かうのみ。
晩はシチューで温まる。ここから見出していこう。五月雨の裏ではクジラが飛んでいたと、引っ張られながら。

http://www.t3.rim.or.jp/~t_abe/niagara/single/happyend.html