月曜日, 3月 08, 2021

書き出すだけが人生だ

「これから書こうと思っている作品は頭の中にあるんで大丈夫です!」と言ってくる大学生の言動を私は信じない。
 自分がそのようにしたときに何も進ませられなかったことを知っているから。
 舌が肥えていくように、アニメや映画を観る眼も肥える。本も読んでいると深まるものだと思う。具体的に、目の前に、手に取れるものになっていると、場は動くし、行き交う人間も思考を手にとるのだ。
 手にとられるかどうか、どのように持ち帰られ、捨てられ、向かうのか。それを意識しないと、表現はできない。好き嫌いで集める消費者のままでいるならば、それはそれで間違いではない。
   大学は鼻を折られ、このままではだめだと焦り奮起するための場所なので、良い気分にさせてくれるサロンではないのだ。消費者のままでいくか、生産者になれるか。その言葉を繰り返す。

日曜日, 3月 07, 2021

ポメラニアン四日にて

 いろんなことが同時に動く。それが見えるのは面白い。
 集中できる音楽はこれだと教えられ、読んでおこうという本を買い込んだ。三月は見渡したい。次期のために読み書きしたい。いま何が起こっているのか。それをみんな書き出せるか。
Get Things Dan だと口酸っぱく言っていた本は、言うは易し、行うは尋常ではない内容で、旗をあげなければ向かうことはできないけれど、たいへんでたいへんで目が回る。

 ブルーノ・ムナーリ「木をかこう」のように描きたいと考えていた「本の木」の絵をようやく描いた。紙に描いた絵を基に編集に入る。実際に写すスマホに転送してトリミングする。
 良い感じな気はする。解像度がもう一段階ほしい気も。

 絵を拡大させることにした。最終的な仕上がりで検討するため、iPad で描くことにする。Adobe Fresco を使う。切羽詰まった制作状況でアプリケーションの使い方を覚えるのはいつものこと。

 ポメラ三日目の論考の輪郭をより深く書き込んでおきたい。日記は日記で、ブログはブログで、ツィートはツィートで良いので、アカデミックライティングもどきもしておきたいのだ。

土曜日, 3月 06, 2021

三日ポメラさん

 積ん読(つんどく)された物質を段ボールに入れた。機械的に左側にあるものから所定の位置に動かすという作業を繰り返し、自室の机をスッキリさせた。ポメラが来て二日目の夜だ。dTV のゴジラも見終わった。ゴジラより俳優を魅せていたが、ゴジラ自体の動力はそういうものかもしれない。
 ゴジラではなくコロナは、愛知県は独自の宣言を出しているし、東京のほうも二週間延ばすという。みんなどんどん、どうでもいいや~となってくる。ゴジラに襲われる世界の人々もそう生きていただろう。戦時中の日本の大半もそうなのではないか。ドラえもんの歴史の漫画を読んでいたときに「疎開」の解説のところで、子供が「どうして都市を中心に爆撃が行われたの?」と聞いてきた。「そのほうが要領が良いからだよ。人が・・(死ぬとか殺すは言いたくないので)・・工場とかが集中しているからね。田舎は少ない。だからだよ。」都市への一点集中だ。

下記を構想する。メモとして。

@危機の集中化
@都市だけではない危機
@うっせえわ
@幼児虐待、カルト化などの事件
@取り戻すのではなく、新しくつくるコミュニティ。

金曜日, 3月 05, 2021

ポメラと連れ添って二日目の朝

 昨晩は某リストアップの作業をしながら dTV で「ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘」からの「ゴジラ・ファイナルウオーズ」を流す。ファイナル・ウォーズの中盤でダウン。人間に擬態した宇宙人が攻めてきているのは旧来のゴジラと同じなのだが、いかんせんミュータントと呼ばれる強化人間が格闘などで戦うところが長すぎる。一体何を見ているのか分からなくなるので、ツッコんで楽しまなければいけない。そもそもゴジラ自体そうでしょうと言われればそうだ。「シン・ゴジラ」も実はそうだった。骨董無形で、馬鹿馬鹿しい子供だましのお話のなかに反原発や自然破壊などのメッセージが分かりやすくお説教めいて提示されるゴジラには安心感がある。これがエンタメか。
 岡田斗司夫が、ゴジラは太平洋戦争の英霊がお盆に帰ってくるお化けのようなものと語っていた。台風や地震のように、日本人の精神的風土に根付くゴジラ。うまく組み立てられている。

 話すようにタイピング。ポメラの定位置、姿勢を意識する。とにかく書いてみる。
 考えていることを全て書き出せと言われて、気持ち悪いと話すか、書きたいことはみんな頭の中にあるんで~と言うか。  とにかく今日は「メイゲイ・ブックツリー」の絵を描いて完成させる。そのために部屋で仕事ができるようにする。
 ポメラに手を出してしまった。

木曜日, 3月 04, 2021

ポメラ礼賛

 また三月になってしまった。
諸々停滞してしまっていることを揺り動かしたく、ポメラDM200 を中古で買った。これを定価で買う者は猛者だと意識する。
 中学校のときに文豪ミニが流行って、父親が購入していて、自分もいじっていた。一ドットずつ十字キーで置いていく描画機能でストⅡのケンの絵を描いたりして遊んだ。保存は 3.5インチフロッピーだった。
それを思い出す。
 重い図体で、印刷はほとんど感熱紙でやっていたそれ。
ワードプロセッサーだ。
 言葉だけに向かうために、読み切れない有象無象をポメラで薄めるしかない。一生分のワープロを購入したという音楽評論家の片山杜秀氏の件を新聞で読んだ。後日、同じ紙の記者もその記事に言及していた。文章を書くことと、編集をすることは別だと捉える人の強い意志が、ポメラを生き延びさせ、自らを生き返らせるようだ。
 今日はどれくらい電池が持つかを、出勤して試す。行きの車内はマスク率九十パーセント。黒地に白の明朝体で縦書きで滑っていくポメラ。キータッチの音は Bluetooth イヤフォンを付けている私には聞こえない。
 慣れないのは右上の Delete キー。
iPad の癖で、画面をタッチしてしまうこと。

 スタバで席に着くとき、コーヒーを思いっきり溢した。ひとくちもつけていなかった。店員さんは気にしないでくださいと布巾を持ってきてくれた。これからお仕事ですか?とも。一時間で出るんですゴニョゴニョと、ポメラでドヤろうとしていましたなど言えない。どこかでマニュアルがあると意識した卑怯な自分。十分後には何もなかったように芝居は再開されると。そんな映画があった。「トゥルーマン・ショー」。現実はビルから落ちる瞬間も、火事で空から灰が降ることも、コーヒーがひっくり返り、スプリングラテが飛び散ることも、遅れている提出物も、調べきれなかった資料も、残り時間も、みんなカットされない。中学生のとき、口づけをしたあとのカップルはどんな風に唇を離すのか見たことがなかった。おそらくその疑問はどんどん回収されていく。疑問を出すこが大切だという話になる。
 私がハンカチすら持っていないことをスタバの店員さんは知った。そして何もできずにオロオロしている子供のようで消費者の甘えに三百八十円を支払っていたことも。コーヒーもう一杯を入れてきてくれた。すみません。サービス以上か、以下かで、語られるとき、私は追加で購入するのが筋なのか。この国にはチップが無いのだから、チップを設けるしかない。人々の感謝が対価として現れるしかない規則ならば、そうなる。
 またこの店を利用させていただきますと向かう。ここで超えていく方法を私は持てるか。
 店員さんが「小さいテーブルですので」と言った。落ち度を設けて、こちらの落ち度を楽にしてあげるのは優しさなのか。消費者の気分を損ねないようにするマニュアルにも思えて少し怖くなる。

 帰宅し、前の持ち主が貼っていた画面フィルムを剥がす。気泡は入っていないけれど、切り口が歪んでいるのは気になる。新品の画面があらわれた。なるだけ、気になる要素を減らしたい。それだけ。気になることが多すぎた。だからコーヒーをこぼす。コールバックにも出ない。何度もスマホを覗いてしまう。もう気にしない。目の前の文章に集中する。夕方四時、電池残量 79パーセント。悪くない。使い込んだら変わるだろうか。でも悪くない。