土曜日, 7月 31, 2010

ハンドルネームで出会う祭り

寝起きに誘われて、大須夏祭りでの 世界コスプレサミットパレードへ行った。
普段は持ち運ばない一眼レフを装備したので十倍は楽しめる。内向的なオタク達が炎天下に集い、思い思いに隊列を作っているのは、祭りが非日常であるという定義からすれば真っ当だった。
異様なのは自分も含めてカメラで取り囲むカメコ軍団である。これも祭りには付き物と言えばそれまでだが、このなかで一番内向きへ走っているのはカメコらで、場を引っ張ろうと外向きなのはコスプレイヤーだと感じた。どちらもハンドルネームで出会う祭りだが、通じる言葉を持っている 信じ合っている関係とも言える。

大須界隈の店で小銭を落とし、夜は合流した福岡氏、楊さん、亘さんと とんちゃん屋で飲む。安くて美味い。昨夜 須田さん、西山氏、鈴木氏らと行った駅前の気取った店なんかよりずっといい。なんだかんだで流れ、名古屋駅の前にあるキリンでも飲む。福岡氏がインドネシアでのレジテンスで感じた「寒い国の美術 を自分はいままで学んで来ていたことに気付いた」という話が面白かった。

金曜日, 7月 30, 2010

夜の経済学

東海三県でウハウハしてる今夜のあぶく銭は幾らだ。ドイツビールだピッツアだと言われてチャージ五百円で二度と行かないと五月蝿くなった。夜は財布を軽くしておくべし。東海三県の公式じゃなく自分の浪費は明らかに夜だ。泣いてるわけじゃなく、誇りを震わせているのに立ち会ってる。

木曜日, 7月 29, 2010

Not soon summer. It's here. 夏が来るじゃなくて、もうここにいやがる。

今朝、雨が降ってくれたおかげで 少しは涼しい。
八月の宿題がどんどんやってくる。31日に泣いてやりきれるものじゃないから、はじめから飛ばして行こう。少しはこの涼しさで勢いをつけていければいいな。
帰りの晩に 派手な服装をした中学生が多くたむろしていた。夏休みがはじまってすぐに ここいらでは商店街の夏祭りがある。九時になって終わったので 速やかに帰るようにとアナウンスが鳴っていた。明日も五時から祭りが行われるので奮って御参加下さいとも続けられる。
なんとも都合のいいことを。
管理する者はいつもそうで、立つ場所でみんな変わる。
涼しくなったぶん、CPU を回転させていこう。

http://www.youtube.com/watch?v=W-hkUDFNawo&playnext=1&videos=P7he7ui6ujc

水曜日, 7月 28, 2010

全身小説家

数年前より借りていたままの「全身小説家」(監督, 原一男/1994)をようやく鑑賞した。

井上光晴の小説を読んだことはなかったが、その人懐っこい人柄に惹き付けられる。文学伝習所の生徒とのやり取りが 温かいというのを通り越して、熱いぶつかり感を持っている。先生であり、父であり、男性であるという関係。ときには鬱陶しいほどの距離感で、持てるものを全て見せられるときにこそ 学ぶ者も心を開く。それは幾つでもある学ぶ喜びを持った青春であることを教えられる。

瀬戸内寂聴や埴谷雄高との親交が織り交ぜられ、井上光晴の経歴など虚構の存在も浮き彫りになっていくが、そこにイメージシーンが挿入されるところに、映画の虚構性が肯定的にあらわされているのだろう。氏の経歴が虚構であるからこそ、そのシーンはイメージとしてドキュメントできるのではないかと思った。それは小説に書くことができるという構造と同じなのである。

詩と小説の言葉の違いを考えるにも至った。それは明らかだ。
詩はあらわそうとする言葉ではなく、あらわれてしまう言葉だ。
小説にも あらわれてしまう言葉を持ち、詩にも あらわそうとする言葉は含まれていくが本質はそうだ。
そしてドキュメント映画は、あらわれてしまう言葉だ。

http://docudocu.jp/movie.php?no=2

火曜日, 7月 27, 2010

願いは自分から

坂本美雨が歌う「ひとつだけ」(詞, 曲/矢野顕子/1980)を聴いて、これを日記に貼りたいと思って検索をしたら、忌野清志郎と矢野顕子が歌っているものがあって とてもよかった。
「私のことを思い出してほしいよ」という歌詞を「僕のこと」と清志郎は歌う。
みんな「僕のこと」にしていくのがいい。
「僕」という言葉が入ってきたとき、この歌は「僕」と「君」になる。
「僕」と「君」に「私」は入りにくい。
「私」には「あなた」があって、「僕」は入れない。
願いは自分から出て、出会ってほしいと思うもの。

http://www.youtube.com/watch?v=cCVuCwOQW5c&videos=hBUem4GT7eI

月曜日, 7月 26, 2010

北向きの窓、解体されては復元する歌

岐阜の甘納豆屋さんを教えてもらった。
器と机の上でワインを頂き、求めて踊る話を聞いた。
開店したての店には、北向きの窓がある。
二人乗りをして、時計仕掛けのオレンジが流れているアジア調のレストランへ行く。
背後の字幕ばかりが気になってしまう。
それでも言葉は降りてくる。
何も聞こえなくなっても、語られていることがある。
女子は千切りキャベツよりもレタスさ。洒落たドレッシングが少しかかっているやつ。
駅まではバス代をけちり、自作の猫の鬱の歌を口ずさみ、電車のなかでは大江健三郎を読んだ。
電話は世界を変えた発明だ。
ここにいない人があらわれるんだから。

日曜日, 7月 25, 2010

みんな理由は無いけれど

起きて、文章 書こうとクーラーがかけられる部屋に逃げたらすぐに夕方で、近くの神社で盆踊りやってるからと聞いて、歩いて行った。アイスクリームを二回も買った。
狙っているものが分かりにくくなる気持ちもあった。
何の理由も無いけれど、遅くに電話がかかってくるような予感がしていた。

土曜日, 7月 24, 2010

南北迷わず

トイレで着替えてたとき「こいつ真剣やなぁ」と自分で笑った。
280円居酒屋は庶民の味方か。100円ショップみたいな損得勘定のもとに飲んだくれる。
闊歩するのは南へ、迷わず南へ。
井上陽水が流れる店でボトルワインを頼み、三人酔いつぶれ。
三人できりのない話をしていた。
それは誰も傷つけない話だったかわりに、頭を撫でるだけに思えた。
明け方、そのまま路上に寝ていたら、だんだん暑くなってきて、今日も酷いんだろうなと思えてきて、寝ていられなくなってしまった。吉野家で締めくくるのは幾つで培われる癖か。
フーテンのフォルダで彼は歌うと豪語していて、痩せた女子はアスファルトなんかには寝なかった。
始発で北へ、ガラガラにもたれて北へ。

金曜日, 7月 23, 2010

収穫感

以前に「ダンボ」(監督, ベン・シャープスティーン/1941)が好きな映画だという話を聞いていたことがあって、それを覚えていた。しっかりと見たことはなかったのでその話に興 味を持ち、レンタルをした。アニメーションの動きの楽しさが充満している。お話に何か目的があるというわけではなく、本質的に味わうべきものは動きと音を 持った映像そのものであるという姿勢を感じる。
面白いと聞いていたところとは異なり、衝撃だったのは酒に酔ったダンボらが見る幻覚のシーンだ。「ピンクの象の行進」は、お話とは異なるところでうごめいているが、このシーンのアニメートにはただならぬ気合いが入っているのを感じる。
また、映画の終盤には戦時中のアメリカらしい価値観が連発される。明るいが、一方的な栄光とも思える。第二次大戦がはじまった頃に上映されていたというものに納得した。
パロディや二次的な物が多いなかで既に見たような気になっていた名作には、当初のものしか持っていない性格があると改めて分かった。この収穫に出会えたときは嬉しい。

http://www.youtube.com/watch?v=RJv2Mugm2RI&videos=EFIaUSiy-Og

木曜日, 7月 22, 2010

不理解を理解したあと

皮膚科の午前診療へギリギリ飛び込んで、塗り薬と飲み薬を再度出してもらう。
天災だと意識するべき猛暑に対する特効薬は 飲酒と解放だと思い、一晩中甘いものバイキングの夢を見た。起き抜けに教わったのはジジェクが詩についてこう書いていたよという話。確かめようにも、財布を忘れた自分に それはできない。映像編集のお礼だと渡されたのは氷結レモンで、自炊したカレーと口に入れると、ジュースのようで違和感があった。結局はビール党の、女房と呼びたくなるオヤジ癖を持っている。これは性癖のようなものだ。ジジェクがなんと言おうと自分は詩を書いている。彼女が呆れたら一騒ぎを経て詩を書くだろう。
口述筆記とも、タイピングとも異なる方法で定着することを考えている。包括できる、できないを言う。不理解を理解したあと、肌がすこぶる良くなっているのを見る。

水曜日, 7月 21, 2010

ミチクサナイト十周年

昨夜は盟友マーキー氏らが主催しているクラブイベント「ミチクサナイト」の十周年記念へ遊びに行った。ミチクサナイト・・。十年前、同級生達が 元喫茶店の物件を一軒 借り切って住みはじめた。一階の元店舗部分を使って DJをしたり、ライヴをしはじめたのがはじまりだ。いつしか外来を呼んでの定期的なナイトパーティとなった。自分も十年前に山田亘さんと「昭和慢画DJ」をしたことがある。それはブログではなくネットに日記として書いてあって、ブログに写してあった。いま読むと恥ずかしい。
それでも何かしたいことだけやっている感はあって、楽しそうだ。深夜四時から DJをやっていたという体力に驚くし、実際 みんなそんな時間でも踊って遊んでいたのを覚えている。

十年間 ミチクサの面々がやってきたことは何も変わらず、楽しくやろうってことだった。
ここには草食男子は居ない。ハイエナのように食い散らかされて、若いことを謳歌している。今夜のマーキーはペテン師 DJ で、飛び入りの長身ラッパーとバトルだってやっていた。
テクノポップユニットのチカチカは、新曲がかっこよかった。
僕は終電で帰ろうと思っていたけど、マーキーの熱さにほだされて、最後までいた。
十年目は朝四時に解散。
電気がつけられたクラブは寂しいな。
おめでとうと言ったのもこっぱずかしい響きで。

http://yaplog.jp/jinm/archive/209#BlogEntryExtend

火曜日, 7月 20, 2010

いまはもう分かるハズ

向き合うのが本当は怖くて、説教じみてしまうのは自信が無い証拠。
「すべて時代のせいにして」(詞, 曲, 泉谷しげる/2008)を聴いた。
いまはもう分かるハズ というところが好きだ。
手拍子というのも、向き合うのが怖いから。あれは流れていってしまう。

http://www.youtube.com/watch?v=MjsZM0SPAAw&feature=related

月曜日, 7月 19, 2010

木炭は背すじ

十年ぶりくらいに木炭デッサンをした。
絵を描くことはあっても、木炭デッサンをしようとはなかなかしない。非常に勉学的な道具、媒体だと感じる。背すじを伸ばすにはいい。
いまは、これで何かをするというには思いつかないけれども。

鉛筆の一般性とはまた別に、原始的な筆記物だと捉えることもできるのかもしれない。
石や砂を押しつけるように、木を蒸し焼きにして押しつけているのだから。
などと考えてもいまは画材屋で数百円払って手に入れる存在。美大受験や石膏デッサン、キャンバスへの下絵などで用いられる道具という存在がリアルな感覚だ。
そして十年ぶりに握ったというのが本当のところ。
それだけで何かができるんだろう。

日曜日, 7月 18, 2010

棒切れを投げて

尼より帰国した福岡氏の報告会が福岡食堂で開かれた。
千枚余りの写真をスライドで見せてもらう。
ジャワ島の山村で、村民と他国から集まってきたアーティストらで行われる数々のワークショップは、制作者側の 体力と受容が大きく要るだろうと思わせた。

新鮮だったのは 棒切れを投げて、走って取りに行くというだけで遊びが成立し、子どもたちが笑っていたこと。
この話を聞いたとき、後から聞いた面々も誰もが「犬みたい」と言った。

http://d.hatena.ne.jp/schwerkraft/20100625/1277488061

土曜日, 7月 17, 2010

あそこは大きな分かれ目だったんだ

昨日見た映画でいちばん良かったのところを思い出した。それは砂浜でナンパできそうだった女子に対して、貧乏人を馬鹿にするなとその価値観に迎合しなかったシーン。
あそこは大きな分かれ目だったんだ。
彼女はここにいなくても、彼の顔をいつか見る。

金曜日, 7月 16, 2010

これしかできない良さ

既視感があるだろうなぁという不安を抱えながら「色即ぜねれいしょん」(監督, 田口トモロヲ/渡辺大知、臼田あさ美、峯田和伸、岸田繁/2009)をレンタルしていた。

おそらくは基本的に面白い雰囲気と内容なのだけど、どうも気持ちが乗れない。主演の渡辺大知は素で高校生らしい魅力を持っているし、ヒロインの臼田あさ美も眩しい。ヒゲゴジラやヒッピーも存在感のある風を吹かしていて、音楽も青春の不穏な霧を晴らすにはちょうど良く機能しているんだ。

平均点は高く叩き出しているが、あしもとはすくわれない。全てがスタイルに還元されてしまうようだ。などと言われても みうらじゅん原作映画は続けて作られそうな気がする。
そして相変わらずな印象だけどこれしかできない良さになっていくのだろうとも思う。

http://shikisoku.jp/

木曜日, 7月 15, 2010

天野ジャックは話したい

話すことができる機会は、実はまれ。
たとえどんな焚き付け方だとしても、話したかったところへ行けたならハッピーなのかもしれない。
お酒を飲むと本心が出てうまくいくわけでもなく、お茶で心が打ち解けるのは自分だけかもしれず。
昨年の夏に連呼していた「天野ジャック」がきっと目を出しているね。

水曜日, 7月 14, 2010

奴の名は仁だった

「狂い咲きサンダーロード」(監督, 石井聰亙/山田辰夫、小林稔侍/1980)を鑑賞!
音楽と美術を泉谷しげる、そして PANTA&HAL、THE MODS で勢い良く、パンクロックに暴走族、抗争、堕落、女、薬に喧嘩、そして右翼とクレイジー、狂気、狂気。狂気の先のバイク。
動物でありながら誇りを持ち、それは「狂い咲き」というに相応しい。

映画の途中までは、喧嘩というのは加減をどこかに抱えてて、吹っ切れるのが危ないだけとかいう安心感がどこかにあったけれど、右翼が見え隠れしてきたあたりから 常に吹っ切れてしまっているんだと怖くなってきた。そこからはもう戻れない。戻らずに納得が行くまで徹底的にやった奴の物語なんだこれは。
見た後に石井聰亙の日大芸術学部卒業制作ということを知り、徹底的にやったのは監督なんだなと震えた。

http://www.youtube.com/watch?v=MXt2tEmRdH4&feature=related

火曜日, 7月 13, 2010

肉でも食べたなら

夕方からバーベキューをするというのをすっかり忘れていた。気付けばドラムの電気コードが周囲へ黒く延びている。三つの円と一つの長方形の電熱プレートで、肉と野菜を焼くのに止むことはない。いつもと違うのはアルコールが無いことと、面子が若く、草食系男子を地で行っているということ。僕は信じないと豪語するのは自分の釈明。原罪も無いようにできるみたい。
よく分からないままに食べ、暗くなる前にすぐ片付けた。それから若さは何処へ散っていったんだろう。花火の袋に書いてある、"大人の人といっしょにしよう" の大人はもう君達になるというのに。

月曜日, 7月 12, 2010

遅かれ早かれ

that's a choice, that's a choice
sooner or later
that's a choice, that's a choice
that you are all going to have to make

From "Pictures Of Adolf Again"(Lyrics and Music, Bill Fay/1971)

日曜日, 7月 11, 2010

Unique Commons

information です。

◆母校での企画展に参加します。

「Unique Commons」名古屋芸術大学 美術学部 洋画卒業生展

日時・2010年 8月17日(火)- 9月2日(木)
   12:00-18:00 入場無料
アーティストトーク+レセプションパーティ・8月21日(土)16:00-19:00
会場・名古屋芸術大学 西キャンパス Art & Design Center
   愛知県北名古屋市徳重西沼65 (map)
出品・浅井雅弘/石神則子/井上信也/岡川卓詩/小原朋世/川上美里
   鬼頭健吾/坂上ちさと/坂柳光香/櫻井りえこ /佐々木憲介/佐藤 翠
   鈴木勇士/田中 桂/名知聡子/西出真美/西山弘洋/野中迪宏/禿鷹墳上
   畠山瑞規/前川宗睦/三木瑠都/宮崎浩太/村田 仁/和田典子
案内・PDF(1MB)

"Unique" とは固有の存在であること、
"Commons" とは共有の意味を持つ。
美術作品は作家特有で唯一無二の表現であり、
同時に公的な共有財産である。


私の票もどこかに流れている。何かを買って何かをやめた手札もどこかに流れている。
見届けられない。対流か流れを増すものか。

土曜日, 7月 10, 2010

白けない寓話と、画だけで安心してしまうビデオレター

辛いよと話を聞いていた「ドッグヴィル」(監督, ラース・フォン・トリアー/ニコール・キッドマン/2003)を見たが、辛いというより面白くてしっかり見入ってしまった。長い映画だけれども、独特の構成が癖になり豊かに感じた。監督の意図が何処にあるのか思い巡らすこと自体が面白い。悲喜劇を皮肉に浮かび上がらせることと、寓話として押し出すが白けさせない方法であった。演劇のようだがこれはアップやカメラワークを伴った、れっきとした映画である。

ながら見で映画が見たくなり、以前に見たことのある「光の雨」(監督, 高橋判明/大杉蓮、萩原聖人、裕木奈江、山本太郎/2001)を流す。劇中劇の構造が好きになれなかったけど、いまはこういう作りも一定の効果はあるんだろうなと納得する。それでもやはり好きにはなれない。そこまで劇的な効果をあげているとは思えない。赤軍の狂った価値観を 現代の若者の良識で共感したり反論しているだけで、どうも整理整頓されてしまっている印象。萩原聖人の撮るメイキングビデオがもっと恐ろしいものを炙り出す存在になってほしかった。俳優が自ら演じた赤軍兵士へ向けて語りかけるビデオレターは面白そうな存在なのだが。画だけで安心してしまうのかもしれない。

金曜日, 7月 09, 2010

環境のことを作家は考えているだろう

片岡鶴太郎が絵を描きはじめた頃、ドキュメント番組で氏が個展会場に遠方から到着するという場面が流れた。
こんなに奇麗に展示してくださって、ありがたい という旨のことを彼は愛嬌たっぷりに言っていた。
当時 高校生の自分には、会場を見てすらいない お任せ展示なんだと 呆れた覚えがある。
いまでも、氏が大家ぶっているという愚痴も少しは含まれてくるが、氏は絵だけを描くと仕事を割っていて、展示に関してはプロじゃないからと そういう意識もある。芸人がライヴをするときに、舞台準備からチケットやビラまで一から十まで関わらず、自分の芸づくりだけに取り組むのと同じだ。
文筆家にも本の装丁から何まで確認をして手がけたいという作家と、そうではなくお任せする作家といるだろう。自分だけでなんとかなるとやっていくのは無理があることとも思う。
どこで託し、絵はどうなるのか、作品を取り巻く環境のことを作家は考えているだろう。
キャンバスの地塗りを人に手伝わせていいのかとか、木枠や絵の具から作っているわけじゃないとか、無限の環境のなかにどう作家の仕事が位置しているのかを 自ら問うている。

木曜日, 7月 08, 2010

FORT

昨夜のドイツ戦を見ながら、bnap のときに知り合ったブレーメン芸大の面々を思い出していた。ちょうど少し前に Jenny へ久方ぶりに送ったメールが返ってきていて、彼女がいるベルリンでのことなどを聞いていた。
彼女がいま発表をしている「FORT」というグループのサイトを教えてもらう。2006年の「HOTEL」を発端として、数々のショウとイメージのアプローチを行っている。
完成された世界を垣間見せ、リッチかつチープに怪しさと可愛らしさを同居させた魅力は変わらない。元気そうでとても嬉しかった。

彼女のメールには Unique だという単語で 僕が紹介した作品への賛辞が述べられていた。
僕も Unique を用いて返信しよう。

http://jinmurata.blogspot.com/2006/09/site-scens-hotel.html
http://www.fortcollective.com/

水曜日, 7月 07, 2010

夜のルールは朝にペナルティで

日本時間三時半の深夜、自室の21インチテレビで ワールドカップの準決勝。スペイン×ドイツ戦を見た。素人目にはどうして動けないんだろうと思ってしまう。ドイツはいままでの速攻型のプレイができなかった。スペインは如何にしてそれを封じていたのだろう。解説者はゾーンを駆使していると言っていた。いろんな方向から攻められていて、いまの自分はボールを持ちに前線かバックラインかどこかに居る。朝が来ると自ら動けるものを封じ込め、自ら明るくなりきる前に言い切ろうとし過ぎているようだ。言葉を駆使するのは夜だけじゃない。どこでそんなルールを得て、君は手足を持ったのか。

火曜日, 7月 06, 2010

こうマルチタスクじゃ

このところしばし停滞していた「ア"ーッ!ラジオ」のミーティング。
おいつめられてちゃんと動けるかが問われる状態。先日試した Ustream と FM の連携放送は投資0にしてはうまくいったほうだと思う。数秒の遅延がありながらも音声はラジオでよく聴こえていた。
何をするにもこうマルチタスクじゃ自分のメモリが足らん。
ラジオの回路をハンダ付けするように、いまの仕事も誘導して線引きしないと。いつもミーティングは一時間半ほどで終える。長くはせずに切り替えるんだ。

月曜日, 7月 05, 2010

できない顔で読めば

昨日とは違って 全くできないかもしれない顔で自身の未知に向かっているのは、詩を読むときだ。
今日は七夕イヴライヴにて、パウル・ツェランとの同期、非同期の言葉を紡ぐことへ向かった。
Scratch というプログラミングの学習ソフトを用いて展開。
詩人が詩を読むのは、朗読家の朗読とは異なる。というまた同じことをツェランの朗読「死のフーガ」に見たのだ。

日曜日, 7月 04, 2010

できる顔で呼び込め

バックヤードは壁に断熱材も何も無いから急激に暑くなる。ましてや三階建ての屋上ともなれば陽射しは容赦ない。あんな階段は速く切り抜けて下りるか上るかしてしまわねば。

度胸だけで立ち回るのは、何もできないじゃなく、何かできる顔でいるため。

土曜日, 7月 03, 2010

ここに音声が来る?

たとえ一晩中 哲学を語っていたとしても、差し出される冷茶がペットボトルのならばその味だ。
裸どうしで踊ってくれたんだと笑っても、画面には彼女ひとり黙るだけ。
松ぼっくり状に毛が割れてしまった猫の鬱を舐め回すように写メする。
餌の小分けをやめて買いに行く。
言葉は過ぎ去るためではなく、君が返すための手だて。
力を隠し持っている。無力であることを力にする。
言った言わないのために紙をファックスすると、何が聴こえる? え?ここに音声が来る?

金曜日, 7月 02, 2010

感情を押し殺しているかのように

晩には多くの若者で集まって、道まで溢れる勢いで、明日にはこの国を去るからと話していて、氷をぶら下げ、猫を被り、放送を探る。週末に託つけて飲み会をしている面子とは後で、恋はたいへんだけど勇気をくれるのと車内で騒ぎ、勢いだけでは落ち着かぬ自分の詩。一人で周囲と話す。誰かと話せるために集まっていたはずで、吹出しに何か書く。それはそのまま何か言う。クラッカーをつまみ、混沌を引き受けられるのかを問う。

「感情を押し殺しているんですか?」
と聞かれて、それは鋭く嬉しかった。
声の抑揚に落とし込むのではなく、朗読家ではなく詩人自身の詩であること。感情もろともこめられた詩は、そんな姿になる。

木曜日, 7月 01, 2010

十年前もそうだった

延々と十年前のビデオを取り込んでいた。
議論が起こり、反論は声ではなく動き回るなかで現れ、混沌が平等に起こるようにと見回していたのがよく分かった。
カメラレンズの横で抱擁をしていて、映ってはいないが顔が近くにくる。
甘えた声に甘えでは返されず。ワイドショーの続きを追いながら髪を結っていた。段ボールを貼りめぐらせた部屋では数枚しか描かなかったように思う。自意識を高めるだけのためにその部屋はあって、詩を書く机上も、もはやどこにでもなれそうであった。
ビデオはひととおり目を通されて並んだ。
編集はいまの有り様と希望の写し鏡だ。十年前を面白がるのは、十年前もそうだと頷くから。
混沌は何で引き起こされて、どう染み込んでいくか。
放置プレイではなく、解放と呼ばれるのには何がどう作用しているか。