数年前より借りていたままの「全身小説家」(監督, 原一男/1994)をようやく鑑賞した。
井上光晴の小説を読んだことはなかったが、その人懐っこい人柄に惹き付けられる。文学伝習所の生徒とのやり取りが 温かいというのを通り越して、熱いぶつかり感を持っている。先生であり、父であり、男性であるという関係。ときには鬱陶しいほどの距離感で、持てるものを全て見せられるときにこそ 学ぶ者も心を開く。それは幾つでもある学ぶ喜びを持った青春であることを教えられる。
瀬戸内寂聴や埴谷雄高との親交が織り交ぜられ、井上光晴の経歴など虚構の存在も浮き彫りになっていくが、そこにイメージシーンが挿入されるところに、映画の虚構性が肯定的にあらわされているのだろう。氏の経歴が虚構であるからこそ、そのシーンはイメージとしてドキュメントできるのではないかと思った。それは小説に書くことができるという構造と同じなのである。
詩と小説の言葉の違いを考えるにも至った。それは明らかだ。
詩はあらわそうとする言葉ではなく、あらわれてしまう言葉だ。
小説にも あらわれてしまう言葉を持ち、詩にも あらわそうとする言葉は含まれていくが本質はそうだ。
そしてドキュメント映画は、あらわれてしまう言葉だ。
http://docudocu.jp/movie.php?no=2