火曜日, 8月 31, 2010

Activity from Activities

早く起きてバスで金沢へ移動。一年前は毎週、夏はずっといた。徘徊は延々と。
金沢21世紀美術館を回って鑑賞。展覧会だけではなく 今日のみの先行上映である 荒川修作の作品を取り扱ったドキュメント映画「死なない子供」(監督, 山岡信貴/2010)を鑑賞。ホームビデオのようなプライベート感を持ちながら的確な編集が施されている印象。しかしナレーションに浅野忠信を達者に当てているところだけしっくりはこない。監督自らの声で語るという方法を自分は信じる。荒川修作の仕事をもっと見たい。そう思わせた時点で成功はしている。
巧みさを見せつける様々な作品群にも、実直な声が介在している。八谷和彦の Open Sky Project は爽やかな印象しか持っていなかったが、プロジェクト展示を見ていると アーティストいち個人が空を飛ぼうとすることの大仕事っぷりの額に汗をかく日々が伝わってきて勇気が湧いた。何もしなければ飛ぶことはできない。ほとんどの日は土の上で働いている。
恒久展示のオラファー・エリアソン「カラー・アクティヴィティ・ハウス」を体験することができた。地元の中高生らが自転車で間をすり抜けて行く。危ない気もしたが、彼らは色と戯れているとも思える。

相変わらずの駆け足の日帰りだ。バスの時間までに 詫間さんとゆっこさんとえりっちょとみんなで合う。スターバックスですれ違い通信。互いの宿屋に潜り込む。そのままバスのなかで堕ちた天使を更正させる。それは同時にまた宿を離れることになるのだ。

http://www.shinanai-kodomo.com/
http://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=30&d=10

月曜日, 8月 30, 2010

人が風を起こす

東京へのとんぼ返りは 行きを青春 18切符、帰りは深夜高速バスという方法だった。無茶したおかげで一日ダウンに近い休み方をしてしまう。気持ちのうえでは満たされているのだけれど、ガクッと腰からきた。夕刻に着いた東京は名古屋よりも暑く、御茶の水駅だというのに繁華街のような嘔吐物臭が立ちこめていた。風が街に通っていない。ただそれを通り抜けて辿り着いた美学校の中には風を引き込む動きがあったのだ。人が風を起こす。それで生き延びている街らしかった。

行きには 東静岡市近くで電車の乗客が騒ぎ出し目を覚まし、ガンダムがいるのを思い出す。途中下車してオープンと同時に駆け足で見る。炎天下にそびえ立つガンダムはそんなに大きくなくて、そうか RX78 はこれくらいなんだよなと浮き足立つ。首だけ動くというちっぽけな演出に大の大人が汗を流して見上げている図は可笑しい。限定グッズ売り場に並ぶ大人たちは賢く。足を触りたいと並ぶ子連れをよそにブラウザを見てる。自分は足を理由にガンダリウム合金とはまだ遠いものに触れた。足の裏を覗き込むと「右足」とチョークで書いてあってそれがまたリアルだ。アナハイム社より委託を受けたバンダイ社の日本人工員の仕事。ドコモ社のビルが白のエクスペリアをあたかもガンダム風にランナー見立てて意気しゃあしゃあと立つこの新興地はジャブロー風だった。

http://www.gundam-shizuoka.jp/

日曜日, 8月 29, 2010

舞い踊る身体のかたちの

美学校にて 室野井洋子 ダンスワークショップ踊る身体参加メンバーによる 季節 舞い踊る身体のかたちの会 を見た。優しさが、緊張感のなかにある会だった。
会場はクーラーが無く、観客は密着して蒸し暑い。大ペットボトルの水を持ち込んで鑑賞する。お世辞にも快適とはいえない環境である。しかし自分らは意識を沈め、汗だくで沈黙した。

求めているもの。
それに向かって開いた身体。からだのかたち。
スカートがはじまる。
窓の外し方。
肩を打つ。
色気のなかで舞いあがらないわたし。

http://www.bigakko.jp/odori

土曜日, 8月 28, 2010

ささやかな解放区

デパ地下で安くなってた 天むすを求める。
三重県美でのワークショップの滞在時、天むす好きだよねと よく言われてた。
四つ入ったそのパックを食べる部屋で、テレビでは欧陽菲菲の「ラヴ・イズ・オーヴァー」(詞, 曲, 伊藤薫/1979)。断片しか聴かないが、最後の歌詞は元気でいてね、OVER して uh- だけになる。繁華街のカラオケ的な歌ではあるが、かなり真っ当な内容でまっすぐだ。そういうところで気持ちを漂着させるのか。歌謡曲の美学? やしきたかじんも共作しているのに頷く。

帰りに寄ったローソンプラスでは「魂のルフラン」(
詞, 及川眠子/曲, 大森俊之/1997)。エヴァキャンペーンは終わっても、ここの店員は有線いじってるな。深夜の、あまりにもささやかな解放区だ。

金曜日, 8月 27, 2010

雷が鳴る前に

雨乞いの如く「雷が鳴る前に」(詞, 曲, 槇原敬之/1992)を聴く。ここで歌われている風景が、いまの町ではないのだろうと思い知らされる。携帯電話時代前夜のリアリティを引っさげているのが素晴らしい。風景を切り口に気持ちが現れ、いまでは感じられないかもしれない静かな寄り方がここにはある。
君の電話番号を そらで言えるかななんて 喜びはもう起こりにくいよ。メモリへの焦りが勝ってしまう。

2006年に矢野顕子がホテルコンサートで歌ったカバー。

http://www.youtube.com/watch?v=88SeVzXp5Q0&feature=related

木曜日, 8月 26, 2010

支払い証明の提示

やがて名前は呼ばれる。そして入り口に近い机で向かい合い、「ぶっちゃけ」という言葉を使われるに至る。
ATM が停止してしまって、後ろに並んでいた我々はずっと炎天下で待たされる羽目になった。呆れた自分は自転車でコンビニまで走り、そこの ATM をすぐ使った。手数料もかからずに紙幣が出た。
コーヒーとラーメンを一緒にやっている店の どちらも美味しいなど信じ難い。

水曜日, 8月 25, 2010

黙って見たい

名古屋市内で行われていた二、三のグループ展を廻った。ひとつの会場に長居することはなく次から次へと移り、すぐに Unique Commons の会場へ戻る。
足を止めるものを実は求めているのかもしれない。
次が無ければ ただ 雑談をしてしまうだけだと思う。
怖くなったり、焦ったりしたい気持ちがある。
写真は Gallery KIKUOKA での 西山弘洋氏の作品展示の様子。右に鎮座しているのは木彫スピーカーの上のビクター犬。壁に貼った後で座られたらしい。
そんなことも受け入れてしまえば良いさと言っているようだ。
見る自分はかなりの我が儘だ。黙って見たいのだ。

火曜日, 8月 24, 2010

救われるとか知らないままそうしている、そうなると

野菜の無人販売のように画集が売られていた。
画集は野菜だ! と言っていたかどうかは忘れた。
原田久 公開制作 in 名古屋芸大 体育館にて。

月曜日, 8月 23, 2010

対岸の屋上ビアホール

かの有名な「大名古屋ビルヂング」があるビルにはビアホールがあって、時代の移り変わりか、もう無くなってしまうと聞いていた。いつもそんな「仕方ないのかなぁ」という話を聞いている気がする。それくらい時代は四方に脱皮していくものなのだろう。今夜はそのビルヂングの向かいにあるビアホールで飲んだ。こっちは無くならないと聞き、場を仕切ってくれた篠氏がリーズナブルで奇麗で良いと選んだ理由に頷く。何故か SMバーの話と、デートへのアプローチ話をした。向こうで飲んだら、どんな話になっただろう。まず面子が変わるのかもしれない。いやこれは論理的な比較ではなくなってきたな。

日曜日, 8月 22, 2010

メガネも大きいアリエッティ

大騒ぎの後の平日。この隙を狙って外出する。一宮にあるオルタナティブスペース「つくる。」にて「COMIC 展」見る。漫画〜コミックを基盤に遊んでしまおうという三人展。グッズ展開と二次的立体展開とインスタレーション展開が混在していた。篠田睦美さんが作った、漫画の中に出てくるメガネを実際に立体化してみるシリーズが可笑しい。「お父さんは心配性」のお父さんのメガネは目のかたちに丸く歪んでいるし、「オッス!トン子ちゃん」のマスターのメガネはぶっ飛んだ大きさだ。厳かに鎮座されていたのは 野比のび太のメガネ。喜び勇んでかけさせて頂く。ただ丸いだけではない縦長の漫画調のメガネラインがなんとも言えない。ドラえもんの目のラインにも似ている。

その足で木曽川のイオンまで移動し、レイトショーで「借り暮らしのアリエッティ」(監督, 米林宏昌/志田未来、神木隆之介、大竹しのぶ、三浦友和/2010)見る。
前半、絵柄がいつものジブリ調ということもあってそのアプローチの違いに戸惑ったり拍子抜けするが、徐々に穏やかな語り口を味わい深く感じるようになってきた。繊細なやり取りと、恋とも若さとも定義しない関係が素晴らしい。爽やかさに溢れて映画館を出た。

http://www.youtube.com/watch?v=i3TFz5-C0DU&feature=player_embedded
http://www.karigurashi.jp/

土曜日, 8月 21, 2010

Unique Commons アーティストトーク+レセプション

午後四時より「Unique Commons」アーティストトーク、以後 レセプションに移るイベントデー。企画そのものの立ち上げと作家選抜は原田久教授がしているものの、タイトル付けや事務的な進行は自分が行っていたので、トークの進行を務める。大学ギャラリーでの卒業生らによる展覧会なので、できるだけ講評会のようなかたちにはならないようにと意識した。事前にその旨を話していたこともあってか、皆フランクに話す姿勢であったように思う。そもそも、難しい態度をとってもすぐに見透かされるものなのだ。問題は問題のまま呈示しよう。問題が明確になること自体が答えだ。
後半になるに従って自然と引き出せる話し方になってきたと思う。

たくさんの人が来てくれた。ありがたし。
二次会は店の半分を埋める暴れ方だった。三次会は元祖福岡食堂。熱帯夜に人が密集し、自分は疲労も手伝ってか、急に気持ち悪くなり別地へ退散。エアコンを受けて水を飲んで生き返る。後から考えれば塩分を取るべきだった。しかしそこから急にアルコールではないテンションの上がり方をして、見に来てくれた真坂氏と朝までいろいろ語り明かしてしまった!
写真は全て浅井雅弘氏。





金曜日, 8月 20, 2010

問題

「現代社会の中で詩は何処にあるの?」とシンプルに聞かれ、あまりにもシンプルな事実を見ようとすることは勇気だった。
「市場は無いんです。」
そう市場は無い。
詩集を買わなきゃとかいう陳腐な話では続かない。詩は何処にあるかだ。問題はそれだけ。

木曜日, 8月 19, 2010

I'm home.

名鉄車両にジャズが流れ出した。
命からがら飛び乗った風に自分は汗だくだ。
部屋掃除をしていただけなのに死にかけて、水道だけでも生きていけるとは猫の鬱に否定される。
キャットフードとトイレ砂とシートでそこそこかかる。
北半球で行き来するだけでもそこそこかかるし、ドラッグストアのポイントカードを満点にしようと思うだけでもそこそこだ。ましてや冷蔵庫の中に何も無い日には、夜は冷麦があって良かったってなる。
茹でてもらえて良かったってなる。

水曜日, 8月 18, 2010

蔡国強作品制作 in 名古屋芸大 体育館

あいちトリエンナーレの為の作品制作で、蔡国強が 名古屋芸大 の体育館にて作品制作を行った。
パフォーマンスではなく作品制作なのだろうが、花火を付けるということで嫌が応にもパフォーマンス性が高まる。時間をかけて持って来た緊張感が着火の一点へ集中していくこと自体が魅力なのだろう。

大学院生らが制作ボランティアになっていた。
作家の指示を受けて、紙を運んだり、火を消したりと動き回る姿を観客席から見ていると、緑色の揃いのTシャツも手伝ってか、サッカーのようだ。

泳ぐ女性とアロワナの影をドローイングし、そこから花火の煙を付着させる絵に持って来たというのはイメージの移動があっていいなと思う。花火で絵が描けることは世界の希望に繋がるという飛躍をこなしてみせる アーティストの仕事を見た。

観客席では体育館の主が 次なる移動をいまかいまかと騒いでいたが。仕事の取り合いになりそうで、あからさまで壮絶に面倒な展開もありえて大変だ。大人ってのは我慢する存在なのではないということを同時に教えてもくれるが。

http://blog.livedoor.jp/etintokushigeego/archives/51568904.html

火曜日, 8月 17, 2010

Unique Commons はじまる

「Unique Commons」はじまる。
昨夜、印刷時に停止していたネットワーク環境は何事も無かったかのように直っていた。展示室には、さも平然とキャプションが並ぶ。

灼熱の陽射し。
大きなカーテンを開いた部屋と、頭上にある窓の下を行き来する。
出品者 25名ということもあり、作品も量がある。

自分自身の作品は「言葉で願う夜」(ビデオ/11分/2010)。

月曜日, 8月 16, 2010

コモンズの為に

搬入作業最終日。四日目ということもあってスタッフ勢は皆くたくたである。作品を最後まで調整したいという者が多いので、疲れたところに次から次へと運び込まれる。それでも展示を自身で行う作家は速い。今回、連絡役などを担当して改めて分かったのは、現場でやっている者は速く正確だということ。クリアであることが何よりの条件だ。
日数をかけたおかげで、その日の終わり時間は早い。ギリギリな印象ではなく、余裕をもって初日を迎える。キャプションのデザインと入力。印刷、ボードへの接着も順よくこなす。

日曜日, 8月 15, 2010

食べて、寝て、食べて、寝て

名古屋シネマスコーレにて「キャタピラー」(監督, 若松孝二/寺島しのぶ、大西信満/2010)を見た。午前の回に行ったら満員であったので後日にしようと帰路に一度はついたが、終戦記念日の今日に見ておきたいと思って引き返した。映画館で見るというのは時も場所も 環境を全て背負い込んで見ている。
次の回も満席で、立ち見での鑑賞。長時間の映画ではないが苦しかった。延々とすっきりしない不自由に浸される物語であったからだ。戦争は人を病的に貶める。事態から脱するのではなく、考え方を変えてラクになろうと口ずさまれる軍歌が、鼓舞と高揚のみで救われない。頭での理解に伴わない身体の反発。泣きながら軍歌を歌うとき、リズムの骨格はこびりついていた。どこにもすがる生き方は無いから、ついには 食べて、寝て、食べて寝ての これで生きていけばいいじゃないと言ってしまう妻の強さよ。それは平和でないのかいと思いもした。
軍神は戦争の高揚が終わったとき、バランスを失う。ちょうど欲望にかまけて暴れた男が我を取り戻し、戻ることを恐れるように。
脚本や伏線をどうこう言うのではなく、芋虫の軍神と妻という図を現代にぶつけたこと。行為として映画があった。

偶然にも若松孝二監督と大西信満の舞台挨拶の回だった。
映画を武器として!言えないことを言う。前作の連合赤軍で抱えた、赤軍兵士たちの上の世代たちがうやむやにしてきたことを追うという繋がりはクリアだった。そしてそのうやむやは現代にも立ちこめてきているはず。
シネマスコーレのホームページの インタビューで語られている「撮ってみたい映画の話」に、現代への直接的なアプローチがあるように思えた。
風景か。えらく穏やかな画が続きそうだ。「17歳の風景/少年は何を見たのか」がそうか。

http://www.wakamatsukoji.org/

http://www.cinemaskhole.co.jp/cinema/html/skhole%20kill.htm

土曜日, 8月 14, 2010

夜に剥き出しか

信じられない人になってほしくないと話すのは
君が
求める
知らない
内股で
もうあぐらをかいてしまおう
君の便り
街の灯と
歌うにふさわしかろう
これだけ外を見てる
駆ける犬のことは
目よ

金曜日, 8月 13, 2010

ユニークは

「Unique Commons」の搬入初日。総勢25名の出品なので四日設けて取りかかる。多過ぎるんじゃないと言われてたけど、余裕があるくらいでちょうどいい。対応できるスタッフは兼任の嵐なので、集中してしまうと無理だ。自分の作品そっちのけで設置や並べるのをして早めに終えた。西山氏、名知さんとココイチでカレーを夕飯にとった。僕はグリーンカレーを頼み、来月にタイ旅行と展覧会の誘いを断念したのを思い出した。鶏肉が食べたくなる。仕事部屋に戻り、75Ω のケーブル一つが無くて小一時間ばかり探す。そんなことをしているうちに何がしっくりくるのか分かりにくくなる気がして、明日 買いに行けばいいじゃんと思うに至る。詩を書く今夜。結局は単純なとこ。

木曜日, 8月 12, 2010

雨はスーッとしない

遅く帰るにも雨はまた強く
ジーパンは限界だ。君が言わしめたのはどこか
自身の度を果たしたのはどこか
上着を脱いでる
フリスク次の次
外れの沿線で迎えに来て
雨を教えておいたでしょうと話す。携帯頼みのハグだと後日はつきあえない。
塩に変えてほしい
テーブルの組み換えに際して
それでも来ちゃって

水曜日, 8月 11, 2010

温かく伝わること

Skype で 独フランクフルトの George らとビデオ通話。いま現在の作品のことを照れながら話す。うまくはまとまっていないのがバレバレで、でも元気だよとは伝わって。

古いテレビで語りかけるべきなのかもしれない。映像編集用のポータブルテレビは、外部入力も受け付けないほど冷たい。Skype の映像は大きなドットの集積で荒れているけど、君の顔が見れたというだけで嬉しい。聴こえたとか、見えたとか、原初的な喜びは変わらない。元気だというのが伝わってくれれば何より温かいのだ。手紙を送る時代から、ボトルに託した時代から、鳩の足にくくりつけた時代から、まず初めに伝わったのは生きてるってこと。タイムラグが短くなっていくと共に、いまここには居ないということも浮き彫りになる気がする。

火曜日, 8月 10, 2010

ミーティングを外から見ると歯痒くなるものだ

三重に行っていた間に他の面子に助けてもらい、事務仕事の苦しさは軽減していた。それでも放っておくと面倒なことになる案件ばかりかな。

夕方に「ア"ーッ!ラジオ」のミーティング。これは十月だが、フライヤーを刷るには決めなければいけないことがたくさん。現代美術の企画展をラジオ放送のイベント会場に持ち、ドキュメント番組を作るという企画が難しいと同時に面白くなる可能性を持っている。
開催できなくなってしまったとしても、どのような対話を持ち、それをどう編集していくか。キーになる取り組みになると思う。

月曜日, 8月 09, 2010

One pain, One hope

猫の鬱と共に愛知へ戻る。だいぶ慣れてきていた。
いろんなものに慣れてくるの繰り返し。
今朝は起きたら昨夜のぶんを取り返すように喋りまくった。三重で中高生らの詩に触れてからテンションは高く 暴れ気味なのだ。身体の疲労が押さえていただけだ。

桑さんがくれた「A Little Because」(詞, 菅野よう子、Tim Jansen/曲, 菅野よう子/2010)を聴く。
One pain, One hope
と歌い出されて持っていかれる。
猫の鬱は電車のなかで沈黙。それから部屋では寝っ転がって甘えてくる。猫の甘える権利は可愛さに比例しないと言いたい。もっとも、可愛さは権利主張をするところから来ないんだけど。
君が甘えるのはしばらくだろうか。

http://www.youtube.com/watch?v=ohmOjlS6NtE&feature=related

日曜日, 8月 08, 2010

おもちゃのチャチャチャは野坂昭如 詞だったのか

「告白」を見に行くつもりが「トイストーリー3」(監督, リー・アンクリッチ/声, トム・ハンクス、ティム・アレン/2010)を見るという展開 with マーキー。
絶対に自分のチョイスでは見ないという観点で ここは楽しむ。脚本がしっかりしていて、軽んじていない内容と絵作り、アニメーションのきめ細やかさに 破綻の無い信頼を感じる。3D も CG だと書割り感が無く自然だ。もともと 3D でなくてもいい内容でもある。同時上映の短編「デイ&ナイト」(監督, テディ.ニュートン/2010)は 3D と2D が混在している実験アニメーションなので、必然性があって楽しかった。

「トイストーリー」は初のフル CG 長編映画として登場していた。そのときから動揺「おもちゃのチャチャチャ」(詞, 野坂昭如、補, 吉岡治/曲, 越部信義/1962)のように「人の見ていないところで、おもちゃは生きている」というアイディアを根幹にしている。この根幹を持ってくるところが優れていると思う。
元々 おもちゃ自体が生きているんだと想像を膨らませて遊ぶ物であるから、想像が全肯定されるアイディアなのである。それを想像を破壊せずにリアリティを持たせる絵、即ちフル CG で描くという構造が根幹だ。
CG だ、3D だと新しい方法で 想像を遊ぶのに最も適している内容だと思った。

それからノリクン合流し、何故かマーキー宅で飲む。すぐに寝てしまった。マーキー宅にはおもちゃがたくさん吊り下げてある。チェコの人形や、同級生に貰った手作りキャラや。

http://www.youtube.com/watch?v=v_FfHA5whXc&feature=related

土曜日, 8月 07, 2010

鬱の旅

今回の三重県立美術館でのワークショップに際し、猫の鬱を三重の実家へ移動させるという大冒険を行った。
数年前に一度 連れて来たときは、家にいる猫のモクに追いかけ回され、おしっこを漏らしながらカーテンを駆け上った。いまはモクは亡くなっていないけど、犬が四匹(サラ、ベルナ、ブレネリ、グラッド)と猫のラムというのが居る。こんな動物王国では猫の鬱は生きていけない。彼女はずっと家の中で暮らしてきた箱入り娘なのである。人間と同じで、そんな娘に社会性は育ちにくい。大きくなって最近ようやく他の人にも威嚇しないようになった。ただ、猫や犬となると難しい。

祖母が介護施設に移ったので、離れの部屋が空いていた。そこを鬱の部屋にしてもらう。クーラーもあるし、網戸にすれば風通しもいい。愛知の自室よりも快適だ。
所用で土日は単身 愛知に戻る自分。
鬱は一匹を満喫というわけでもないけど、寂しいだけじゃなくて別の世界に触れて少したくましくなるんだ。いきなり犬と猫に見つかったら発狂するから、会うとしたら少しずつだが。それは永住するときでいいなあ。


金曜日, 8月 06, 2010

寄り添うではない詩へ

朗読してもらう前に「声変わりの日」と読む。
それは個々の詩のタイトルではない。「詩を読んでもらいます。」と言う。
例えば彫刻の前に座りこみ、模写ではなく詩を書いたなら、絵画を前にして寝そべって、詩を書いたなら、写真のようなトーンを持って詩を書いたなら、どこでも詩は書ける。モバイル機器は画面に引きずり込まれてしまうから難しい。紙の優れたところはフレームを持たないことだ。窓枠は無く、外の光だけが浮かぶ。
君は光を見てまた書く。

肘に絵の具を付けて、名知さんが笑って来た。
寄り添うではない詩が 僕の多様性への課題です。

木曜日, 8月 05, 2010

生の強さ

みんなが作る詩に向き合うとき、僕が言えることは僕の詩性に基づいてでしかなく、決めるのは自分自身で、詩性は強要できない。僕からの提案は誘導しているだろうし、好みを反映しているが、この問いかけを足がかりに自由になってくれるのが一番いい。この、僕との対話であるとき、彼、彼女は受け入れたり、戸惑ったりすると同時に、僕も同じく戸惑う。これは詩だねと喜び合う為にはどちらも引き受け合う必要がある。驚くべき詩性がうごめいている。渦のようなもの。これは詩だと僕らは引き受けた。改行の存在、常に完成しているという制作への姿勢、言葉遣い、イントネーション、発音、言葉を制御しないこと、意味に縛られない、生の強さ。

水曜日, 8月 04, 2010

「推敲」の語源は詩作

昨日、ホワイトボードに書いてみた詩が 今朝も そのままにしてくれてあった。
写真に撮って消す。
そして今日からワークショップがはじまる。


声変わりの日

0・紙に鉛筆で書く。
  消しゴムを使わない。縦書き。
1・自分が最も古く書いた、発した言葉
  (日記、手紙、メモ、文章など持参してきてもらう。忘れたら思い出す。)
2・最近の印象
  このごろ感じていること。
3・自分が思い出せる 誰かの口癖をそのまま入れる

1と2と3の要素を書き出す。
何行目に配置しても良いので、一行から数行、詩として並べる。

4・1と2と3の連なりから、連想(妄想?)される一行を書く。
 ・(4で書いた行をふまえて全体を改造していく。)
 ・言葉を切る、改行するリズムはメロディではなく自分の感覚に沿う。
 ・推敲している状態の紙も捨てない。
 ・推敲は複数のパターンを見比べないようにする。
  紙の上には一本の川しか流れていない。

5・声に出してみる。
6・詩を持ち帰る。
7・いつかまた読む。


津荷先生の中学校 美術部の面々は、最後の一人ができるまで文句ひとつ言わず、いつもこんな感じだからと笑う。仲が良い。個性を認め合っている素敵な関係だった。
みんなとても真剣に取り組んでくれた。

終了後、名知さんと駅前のミスタードナッツでお茶をした。ワークショップとは何かという話になった。学校の授業でもなく、カルチャーセンターでも塾でも教室でもない。
第三者も味わえるものであること、「普遍性なんだよ」ってのは、普遍的なドーナッツ(オールドファッションとか)を食べながらするもののようだが、ポンデリングの黒糖を齧ってた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A8%E6%95%B2

火曜日, 8月 03, 2010

声変わりの日 -prologue-

近鉄 津駅西口で画家の名知さんと合う。彼女も「子どもアート in みえ」で絵を描くワークショップを行う。
僕とのコラボレーションというわけではないが、ワークショップを受ける中高生らは同日に二つを梯子するわけだから、共鳴 もしくは反発し合うところもあるはず。それは面白いことに違いない。絵と詩を並べて、混ぜはしないことが興味深い。
今日は美術館で顔合わせと、作品などの自己紹介、この作家はどのようなワークショップをするのかという話をした。

高校の美術部での先生、倉岡先生が来られた。詩人になるとはねとニカニカ笑い、名知さんの作品についても狂人的な制作を凄いなと話したり。言葉について話してくれたり。

僕のワークショップタイトルは「声変わりの日」。
参加する中高生それぞれが自分で詩をつくるワークショップだ。ただ勝手に書かれたのではつまらないから、いろいろ僕からの提案がある。そして詩の朗読もしてもらう。正味 三時間くらいの半日で、どこまで取り組んでもらえるか不安もあったが、今日の終わりの頃には、みんなリラックスしていた。
午前中の作品紹介では紹介していなかった ブルーマヨネーズのことも話した。
ブルーマヨネーズのこと「二人が混ざり合わないこと」は自然と受け入れられているように思えた。

決めた後で思ったが、「声変わりの日」というタイトルはブルーマヨネーズの四回目の朗読会「君との声別」に印象が近い。だから「声別れの日」と言い間違えそうになる。
つまりここには何かある。

月曜日, 8月 02, 2010

複数形の「s」

夏休みというのに事務仕事が山積み。
今月半ばから行う「Unique Commons」という展覧会は出品者がとても多い。末尾に付いた複数形の「s」が合っている。
僕自身は明日から三重県立美術館ではじまる「子どもアート in みえ」のワークショップを行うため、今日中に三重入りしたいのだが、事務室は助っ人大勢でも太刀打ちできないほどの内職やら刷り出しやらで 近鉄電車には間に合いそうにない。荷造りのこともあるので朝入りにする。
おかげで西山氏と すき家で食事と会話をゆっくり堪能することができた。
少し寝ると、電車の窓から見える画が続く。

日曜日, 8月 01, 2010

絵に憧れ続ける詩と、詩を待ちわびる絵。

また木炭デッサンを描く機会があり、誰も嫌がって描かない牛骨を前にした。
かたちをとるのが早いねと言われ、高校の美術部の先生、倉岡先生はそうだと思い出した。
先生のアカデミズムを真正面から受けてという話をしながら、そんな絵を毎日 描く精進をしてはいないと考える。
描くことが好きで、それでも「絵画」にはどこか億劫な気持ちになっていた。
以前、ライヴハウス「源」で 斉藤哲夫氏と宴席を共にさせて頂いたとき、「絵はすぐに伝わるから強いんだから、詩より絵だろう。お前はばかだなぁ。」と言われて、それは氏が歌を作ってきたなかで、絵が持つストレートな力が羨ましかったからではないかと推察する。歌にも歌詞という詩があり、それにメロディがあって伝わるが、詩にはそれが無い。詩のメロディは言葉に内包されていて、そこまで行くには時間を要する。氏の言葉からそう思った。そして先生もまた 絵は一目で分からなきゃだめだと連呼していた。一目で分かるものは美術で、文学や音楽、映画、そして詩には時系が存在する。現代美術はその混在だから定義できないと言えるだろうが、一目で分かることは強いことだ。かたちをとるスピードは自分の根幹にある。言葉にするスピードの前に、見る人としてあり、そこまで言っておきながら億劫になったたのは何故か自問する。アカデミズムの匂い? ただの反抗期?いや、億劫にすらなっていなくて、詩人になろうとした!
絵に憧れ続ける詩と、詩を待ちわびる絵。
その関係を。

折しも今日は、三重県では三年に一度行っている久居高校美術部の OB 現役生らで行う展覧会「CUBE」のミーテーィングをしているとメーリングリストが来る。もう前回から三年か?と驚いたら、実は来年に向けて早くあたっているとのこと。それくらいで始めるのはきっと正しい。メールを送る。石膏デッサンの写メはしない。アカデミズムはひとまず片付けておく。