日曜日, 8月 01, 2010

絵に憧れ続ける詩と、詩を待ちわびる絵。

また木炭デッサンを描く機会があり、誰も嫌がって描かない牛骨を前にした。
かたちをとるのが早いねと言われ、高校の美術部の先生、倉岡先生はそうだと思い出した。
先生のアカデミズムを真正面から受けてという話をしながら、そんな絵を毎日 描く精進をしてはいないと考える。
描くことが好きで、それでも「絵画」にはどこか億劫な気持ちになっていた。
以前、ライヴハウス「源」で 斉藤哲夫氏と宴席を共にさせて頂いたとき、「絵はすぐに伝わるから強いんだから、詩より絵だろう。お前はばかだなぁ。」と言われて、それは氏が歌を作ってきたなかで、絵が持つストレートな力が羨ましかったからではないかと推察する。歌にも歌詞という詩があり、それにメロディがあって伝わるが、詩にはそれが無い。詩のメロディは言葉に内包されていて、そこまで行くには時間を要する。氏の言葉からそう思った。そして先生もまた 絵は一目で分からなきゃだめだと連呼していた。一目で分かるものは美術で、文学や音楽、映画、そして詩には時系が存在する。現代美術はその混在だから定義できないと言えるだろうが、一目で分かることは強いことだ。かたちをとるスピードは自分の根幹にある。言葉にするスピードの前に、見る人としてあり、そこまで言っておきながら億劫になったたのは何故か自問する。アカデミズムの匂い? ただの反抗期?いや、億劫にすらなっていなくて、詩人になろうとした!
絵に憧れ続ける詩と、詩を待ちわびる絵。
その関係を。

折しも今日は、三重県では三年に一度行っている久居高校美術部の OB 現役生らで行う展覧会「CUBE」のミーテーィングをしているとメーリングリストが来る。もう前回から三年か?と驚いたら、実は来年に向けて早くあたっているとのこと。それくらいで始めるのはきっと正しい。メールを送る。石膏デッサンの写メはしない。アカデミズムはひとまず片付けておく。