ベランダみたいなところで鍋をやっているときにも「Twitter ってどうよ?」とゆー 話になって、一通りは返すのだけれど、どうも月並みなメディアにもてはやされているようなことしか言えない。
実際のところは Twitter を自分が活かしているか、これから活かせるようになるのかはよく分からない。
触りはじめの興味や情熱は過ぎ去って、ルーチンワーク的に書くのもどうかと躊躇われるようになった。
百人、千人単位でのフォロー状況になっている人とは根本的に見えるものが違うのだろう。ブログもアクセス数が多かったり、コメント欄で議論などが起こっていたら違ってくるのだろうけど、Twitter は呟きとか言っておきながら実はフォローする特定多数を相手にしている前提がある。ブログは不特定多数を持って書いている。Twitter のようにタイムラインの状況に反応しているわけではない。自分の場合、ブログのほうがもっと一人語りだ。
当初は Twitter にその要素が強いのではないかと思っていたが、実は目に見えて存在するフォローという読み手の存在が、安心感であると同時に開放的ではないようになってきた。
先日、Twitter でフォローし合っている友人が目の前でログインしていたときに、そのタイムラインを見せてもらった。すると彼のタイムラインにはフォローしているなかで最も細かくツィートしていた自分の顔だけが ずらずらと並んでいたのだった。
その画面は、自分にはとても気持ちの悪いものに見えた。
互いに自我の肥大を認め合ったとき、相手に自分の利己的な発言はあんなふうに映るのかと思った。もっとも、タイムラインとはナルシズムが溢れて然るべきの川なのであろうとも思う。
イルコモンズのブログにて「Web上で自殺したあとは、何をすればいいですか?」というエントリを読む。「web2.0 自殺マシン」というツールを使えば、ただソーシャルネットワークものから脱退するのではなく、アカウントは保持しながら二度とログインできなくさせるという墓状態にさせるところが面白い。これでリアルな世界に生き返ることができて、面倒な web上の自分におさらばできる。
Second life に一時期ハマったとき、オンラインでの体験も実際の経験であって、区別するのは面白くないと思っていた。いまもそれは思い続けている。
オンラインから吹いてくる風が強くなれば強くなるほど、デジタルに区別することは困難になる。
web上で自殺したくなるという衝動も分かる。風はオフラインの我が身をさらし、蝕む言葉であるから。
オフラインで自殺をして楽になろうとするのと同じ衝動なのだ。
オンラインでも二度とその命が戻れないという構造がいい。もっとも、オンラインは別名で生まれ変わることができるし、オフラインがどうかは知らないが。
オンラインとオフラインが区別できなくなってきているという批判は役に立たないだろう。
オンラインもオフラインも、アナログに全てが繋がっているリアルな世界だった。
むしろその区別を強めて、別人格だと興じるほうがおかしくなってくる。
mixi は その区別を心地よいものだと考えた上で、オンライン上に関係を仮想に作り上げるツールであった。自分は面倒くささと気持ち悪さで脱退した。Twitter は、その区別がまだ薄いように感じる。例えば Twitter のフォロワー同士のオフ会は、出会ったその場でも Twitter で会話をしていたりするとかいうネタのような話は本当にあるのだろう。それがその者たちの関係のリアルな実感なのだから、いまやオフラインに切り替える必要も無いのだ。
この類いの話をしていると、だいたい眉をひそめられてしまう。例えば文通で知り合った男女が実際に会ってみたけど、その場でも手紙を書いて渡し合って書き文字で会話していた。なんてエピソードだったら「微笑ましいね」なんて反応なくせにっ!
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