毎週欠かさず「働きマン」(作, 安野モヨ子/2004-)のテレビドラマを見ている。何かが足りない!といつもピーピー言う。連続ドラマの文法に沿って作れば、こうなるだろうと言いながらも、何か決定的な不足要素を感じていた。
近所のレンタルビデオ兼書店にて、ビデオの貸し借りをした後に雑誌「モーニング」を立ち読みした。原作は二巻くらいまでしか読んでいないけれど、話はオム ニバス形式でもあるので最新の回でも楽しめる。ぐふぐふと読み、やはりドラマには存在しない興奮を覚える。そのひとつの理由が おぼろげながらも見えはじめた。
それは登場人物たちの言葉である。漫画の「働きマン」たちは、物語の進むなか、ずっと、自分の仕事についての思いや葛藤を独白し続けている。いや、むしろ物語のあらすじよりも、独白に感動する漫画ではないかと思う。
その言葉は、彼女、彼自身らに向けられている。私たち読者は、その姿に自分を重ね、親近感と同時に相容れない部分を見出すという緊張感を持つのだ。
それに対し、ドラマ版の言葉は大きく異なる。第一回はそれが特に強調されていた。毎回冒頭のシーンで登場人物たちは 突然、物語とは外れた異次元に位置して、カメラ目線になり視聴者に話しはじめるのである。その言葉は、視聴者がそこから共感をしはじめるように用意された 導入である。仕事の悩みやよくある話、ずばりその回のテーマそのものであるその言葉は、彼らの心境ではあるものの、とても歯切れ良く進む。
働きマンは頑張っているなぁという感触はあるが、キリキリするほどの興奮は起こらない。そこには、安心感のある視聴者との距離があるように思うのだ。あくまでも前向きなスタイルに帰結していくという・・。
原作の漫画は、最終的な解釈を読者に放りっぱなしにしていく鋭い危うさがある。働きマンたちの独白は、やもすると反感を招くものかもしれない。けれども、 彼らがそれぞれの正義を抱えて戦っているという姿がある以上、その反感も「働きマン」の力なのだと思う。そこには反感という時期を超えていく独白がある。 辛くて切なくて、どうしようもない戦いに向かう姿に揺さぶられる。編集部から蒸発してしまう男の話は、ドラマでやるのだろうか。僕はあの話に相当ピリピリ 来たので期待している。
漫画とドラマの違いは、それはそれでいいのだ。こう、ああでもないこうでもないと言いながら、菅野美穂がチオビタの CM に出ているのまで凝視するのが楽しいのだ。
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