月曜日, 10月 15, 2007

物語を切り開く力とは異なるもの

「めぐみ -引きさかれた家族の30年-(原題/ABDUCTION -The Megumi Yokota story-)」(監督, クリス・シェルダン&パティ・キム/2006)
を DVD で見た。
こんなことがまかりとおってなるものか!という怒りと悲しみを持つと同時に、この映画の視点は、海外の監督だからこうなるのだろうなと思った。それは拉致事件に対して、アメリカ人らのほうが日本人より強く反応するということと、共通するのではないかと考える。
自国の利益とか都合などもあるだろうが、映画のなかに出てきた、
「アメリカは 一人国民が拉致されたらば、そのために戦争をするだろう」という言葉にその根本の考え方の違いがあらわれているように思う。

いざ、自分の家族が拉致被害にあったとしたら、たったひとりに何ができるだろう。連帯し、活動を続けていくことは とんでもないことだ。でもそれしか解決には無い。日本の反応はひどく冷たい。
こうして一個人が国に向かって、停滞して蔓延った歴史の病理を剥がすようなことは、個人主義の西欧に合意されるのではないか。
日本人は、どちらかというとそういう活動は苦手で、もっと連帯感が同情を中心に向かっていくような気がする。
だから、この監督らがインタビューで
「この映画にあるのは愛の物語、希望を持って負けない姿が美しいのです」
と答えていたのに、どこか違うピントを感じてしまったのだ。
僕には横田さんが、いつか めぐみさんと草原に寝そべって、いろんな楽しいことを話したいなという箇所に、愛とか強さという形容とは異なるものを感じるのだ。
開拓していく強さじゃなく、本当にこの家族が持っているのは活動ということではない・・・。
拉致事件をめぐる姿には、日本の家族の、愛のありようがきっとある。
そこにこの映画は向かっていない。
ここにあるのは、急務な使命を持った物語のみである。
現在進行形の事件を扱うという、社会的な効果も勿論そこにはあるだろう。しかし、再度書き連ねるが、本当にこの家族が持っているのは活動ということではない・・・。
という姿を、僕は映画に求めている。
原題に「物語」とあることに、感じていた違和感はここだったのだ。

http://megumi.gyao.jp/

http://www.abductionfilm.com/