日曜日, 3月 26, 2006

詭弁の快楽、本当のことを言おう、リセットはしない、言葉は繋がっている

昨晩は、皆がくたばっていった遅くに、伊藤氏らが尽力した「PINE in the factory」のカタログを読んだ。
愛知県の南部、知多半島では、2003年より、友人らの実践が行われていた。
アートの普及?
アーティストの自由?
地盤づくり?
アートの可能性?
アートとしての存在意義?
社会のなかでのアート?

どこかの定義を借りていることが、こうして言葉にされていくのを思う。
議論や論理は、決めつけて、定義して終わらせていくことではないはず。
言葉は、自由になるための、進んでいくための、それそのものである。
僕は正直な意見をはぐらかすかのように言った。
面倒になっていた。
だからやめればよかったのだ。
それらは自明のものではない。どこかの定義でしかない。
アーティスト以前に市民、市民以前に一個人という蔓延しているかのような思考も批判する。
それは全て都合で引出される所属やでしかない。
以前、以後ではなく、同時だ。
アーティストであり、市民であり、ナニガシナニガシである一個人なのだ。
肩書きで自身を称することは同時であることを宣言する覚悟である。
その場の都合で、詩人だと自称したりしなかったりしているうちは、大人としての評価は無い。
アーティストはこうあるべきだという論文と、アーティストである前に一人の人間だという一見、大人のような意見が同じ口から出るのは間違っていて卑怯である。
そうやって各属性毎に分離した人間を信用できない。
自己完結しているんだねと批判された折には、勝手にしやがれとゴダールの有名作品の題名口ずさみ、忌野清志郎はかっこいいと話を切り替えた。

俺はロックミュージシャンだ。
僕は詩人だ。
この町が好きさ。
でも東京で売れたいのさ。
故郷に錦を飾りたいのさ。
海外でもガンガンに売れたいのさ。
たくさんの水着美女、制服美女に囲まれて暮らしたい。
でも愛しているのは君だけさ。
信じているのは自分からのこと。
僕は君の言葉を読んでいる。
君は僕の言葉を聞いている。
猫は僕じゃない。独立したみんなの鬱なんだ。
心は卑怯だよ。誰をも蹴落として、優しいことをして、満たされたいと思っている。
この町はそんな心の結晶体。
いろんな人の行き着くところ。
誰にも何の根拠も無い。
理屈で人は動かない。
戦争がはじまったら人を殺しにいくだけだ。
戦争が終わったら平和を歌うだけなんだ。
平和がはじまったら、戦争が要ると気付くんだ。
ミサイルや爆弾ではない方法で、
戦争はできないだろうか。
どうにかしてその営みの均衡で、競い合い、許し合うことはできないだろうか。
自分から信じていくことができるならば、
それはきっとできるだろう。
アーティストでいるときだけが、悪いことをしない仲間と生きていくことができるというなら、それは多くの集団が行ってしまった悲劇とよく似ている。
中山氏の車に同乗させてもらって、愛知県の北部に帰った。
福岡氏の提案で、延期した PSE法のこともあり、ハードオフを調査に寄ってみた。ジャンク品はほとんど処分され、店はソフトオフ化に進んでいた。
これから別仕事だという中山氏に手を振り、福岡氏とも、今日はひとまず休もうと家の前で別れた。
一人になって考えたいことが山ほどあった。
かっこいいものになる方法を手にできそうな気がした。
うぬぼれへの自制とかではなく、心は汚いものだと客観視する。
浄化機能のために、批判は信じるためであった。

谷川俊太郎と、手塚治虫がよく似ていると改めて思った。
「明るい夜」の資料を、持参して東京に行こうと思う。

http://p-i-n-e.com/
http://www.miraikan.jst.go.jp/j/info/2006/if_0122_01.html
http://www1.odn.ne.jp/b.mayo/101/akaruiyoru.html