月曜日, 7月 20, 2009
素朴さを守る為に知性が要る
連勤仕事の後で、夕食に土曜の丑を頂く。食べながら何故か司書の女性の話に。知的で素朴な人が何故に病まなければいけないという強迫観念に捕らわれなければいけないのかと問われる。いや、素朴故に悩むし、鰻が美味しくてもボリュームとか養殖とか、いろいろ好き故に検討するように、素朴に純粋無垢で姿勢を強くするために知性を持って病むのだと言い返した。いまや病むことのフリに長けた者は多い。コスプレは日常化し、眼帯の少女が主人公のアニメが行き交う。素朴に純粋無垢でいられるほど世界は静かではなく、次から次へと裏モードも表示される。厭世観は生きる力になり得るか。対立項の観点があってこそ比較思考として活かされるだろう。やはり、素朴さを守る為に知性が要る、か。知性を得て育てる場所、それが教育機関で無くてどこにあろう。オープンしておいても誰も入ろうともしない教室で、いま非難と凶弾されている主義主張が語られているか。それは憧れ過ぎなドラマ観だった。そして誰もが入ってくるだろう。純粋さとは卑怯に手段を選ばなくても良く、一点でその方法だけに終始している姿勢だ。信じられる画が徐々に見えてくる。いくら病んだフリ、つくり笑いのフリをしたって、美味しいものにお金を払うだろう。教室を出て、駅までの帰り道でまだ話してる。主義主張は柔らかい尾っぽとなって揺れている。熱いからビールでも飲んで、純粋に酔おうよ。私達は対等に話したい。話すことができたならどんなに豊かになれるだろう。