明日に何かを起こす。物語は気概を持って、私たちが綴り、見届けよう。
また遅くから朝までの会だ。自室にてビール片手にDVDで映画をたらふく見た。
「うる星やつら4 ラムザフォーエバー」(監督, やまざきかずお/平野文、古川登志夫/1986)。
「スペース・カウボーイ」(監督, クリント・イーストウッド/トミー・リー・ジョーンズ、ドナルド・サザーランド、ジェームズ・ガーナー/2000)。
「天国と地獄」(監督, 黒澤明/三船敏郎、仲代達矢、山崎努/1963)。
「東京失格」(監督, 井川広太郎/福島拓哉、岩崎高広/2006)
と連チャン再生。
うる星やつらは、押井守の ビューティフル・ドリーマー(1984)との類似品でかつ地味な印象で劣化した印象が拭えない。破天荒でもいいのだけれど、葛藤対象の根拠が無いので空振りばかり懸命に続く。ドタバタなのにユーウツで報われない。詰め込み感が制約に化けてしまったよう。
打って変わって、スペース・カウボーイは痛快に面白い。かっこいい男たちの物語だが、いささか一元的な世界の捉え方にも見える。そう見てしまうのは、グラン・トリノ(2009)を見ているからである。非常に構造は似ている。しかし異者への眼差しはグラン・トリノのほうが圧倒的に深い。スペース・カウボーイがアメリカ万歳というわけではないが、誇りに思う姿勢を前に出している。グラン・トリノは、真摯な疑いの目と意志を誇示すること、深いところに流れる誇りである。9・11 以前、以後であることを思う。イーストウッドの見ているものは何も変わっていない。その出し方が常にいまへの姿勢なのだ。
フランク・シナトラの歌声が残っているにも関わらず、画面は白黒の黒沢節へ変わった。天国と地獄は痛快でありつつ重厚だ。世界の構造は二極対立ではないと考えても、現実には対立して現れているのを見せつけられる。考えは本質的なものを見る目である。狂気も誠実も表裏一体だ。だが人は一つずつしか選択できない。牢屋の金網は、身代金が境界として色が付いたように周囲のモノトーンより熱かった。天国と地獄の接点には磁場が起こっている。
では、合格と失格の境界には何が起こっているだろうか。
朝になって、皆が帰ったあとで一人 東京失格に挑む。挑むと称したくなるくらいこれが鑑賞に困難な映画だった。プライベートフィルム調で撮られた場面からは台詞も伏線も聞き取りにくく、見づらい。分からないというわけではなく、うごめきが伝わってくる。その意図は成功していて、見終わった後に登場人物らがやり取りをしている顔は思い浮かぶのだ。それも動く画として。残像的な彼らの動きは、東京徘徊であり、合格も失格も彼らの意識ひとつである。彼らと女性一人の時間が流れたとき、私たちはかけがえのない選択の時が人生にはあると思えた。それは緊張感と言ってしまえばそれまでだが、そういうものだと思う。なんでもない日常をだら〜っと撮るという類いの引きこもり的な映像では決して無い。
翌日も仕事だというのに、無茶をして映画をむさぼりたいというのは何かある。骨休めではなく、気持ちの整理か、まだ埋もれている本音への回帰か。
http://www.youtube.com/watch?v=CIw4BvTVdS0
http://www.youtube.com/watch?v=l-pXaZAACGg
http://www.youtube.com/watch?v=D7GDYQY6ny0&eurl=http%3A%2F%2Fhomepage2.nifty.com%2Fe-tedukuri%2Ftengokutojigoku.htm&feature=player_embedded
http://www.youtube.com/watch?v=gaF62loA9Ys&eurl=http%3A%2F%2Fwww.p-kraft.com%2Flostintokyo%2F&feature=player_embedded