日曜日, 3月 01, 2015

世界と繋がっているという安心と恐怖を確かめるように、我々は船に乗る

表現活動で金儲けをしようなんて発想を持っていなかった者ほど、三十代も半ばを超えて 所謂 ええ年齢になってくると、安い営業マンみたいに一山当てやろうという話をこしらえる。そして容易に飛びつく。もしくは地団駄を踏む。そこへ踏み込める財力や知識、トータルに言えば力不足を自分で分かっているのだ。
ここでこれまた安いビジネス本、自己啓発本の類は「貴方はいままでどんな人生を歩んできたのか?」と諭し始める。その説法が辿り着く先は「この国に生まれて良かった」という無敵の自己肯定なのかもしれない。つまりはリーズナブルでイージーなポジティブライフなのだろう。それはそれでプリミティブな話だとは思う。
しかし 実際のところはもっといろいろ複雑なはずである。
どんな遊び人の人生にも、自覚しているかどうかは分からないが、単純化できない感情が溢れた瞬間はあっただろうと自分は考える。それが一瞬で、あるあるネタに回収されるような酷い有様を自ら進んで行っているのが殆どなのだとは思う。予め用意されたシステムを利用して、明朗会計とでも唄うかのように次のターンへ進行できるよう設計されているようなのだ。
それは生真面目な日本だけの話でもおそらく無い。現代社会はそうしないと回っていかないと言われればそれまでだ。詩人の自分が期待しているのは、ビジネス本、自己啓発本に反論するのでは無い。ひれ伏すのでも無く、無視するのでも無い。ただそれ以前のもっとややこしいところに身を置けるよう、環境を整えたいのだ。
「そのためにはお金が要るだろう」と誰かが、つまりは自分が指摘する。
時間給は正当化され、バカンスはハローワークまでの間と設定される。
飛行機は落ちない。テロにも会わない。ただ不穏な空気が 複雑で豊かな物事を整理整頓して破壊していく。それは理念に合わないとして次のターンにされる。
新しい洗濯機の前で自分は考えた。
後藤さん、湯川さんらを殺害したとされる IS、テロリストの訴えを果たして我々側の何人が彼らの言語で理解をしているのだろうかと。
もともと英語で話してくれていて、YouTube のルールを守ってフェードアウトを織り交ぜる。彼らが恐怖の為に仕立てた言語が流れていたのならば、母語はどこで唸っているのだ。
それはカメラの裏側、動画編集ソフトのインターフェースの前にいてクリックをし続ける者の愚痴だ。
世界と繋がっているという安心と恐怖を確かめるように、我々は船に乗る。