水曜日, 11月 11, 2015

思考の道具、詩の道具。

昼食後、喫茶店へ移動し、私とミーティングをしている男性。MVNO(モバイル・ヴァーチャル・ネットワーク)の SIM を通信に使用する ミドルレンジの格安スマホと、百円均一ショップで購入したスケジュール帳を重ねていた。スケジュール帳は革風のコーティングがしてあり、安っぽくない。どちらもコストパーフォーマンスが抜群だねと、私はツッコんだ。私の手元には ASUS製の、Nexus7 2013 と、無印良品のスケジュール帳、同じく無印良品の落書き帳。伊東豊雄デザインのレタリングペンが並んでいた。そんな高級というわけでもないが、彼のコスパ重視の装備を前にすると、やや気が引けた。いや、価値をどこに置くかであり、書き味や使い心地、耐久性など、いろいろなところでパフォーマンスの評価は分かれるのだから、何も無駄な贅沢をしていると恥じたり、悔しがることはない筈である。悔やむならば Mac ユーザーは辞めよう。
そして、そんな二人が 何についてミーティングしているかというと「詩集」のことである。これ以上に贅沢なことがあるか!

この頃の自分は、デジタルガジェットへの興味が増してくると共に、文房具へも鼻息を荒くするようになった。それは、思考を進める道具であり、絵描きが絵の具や筆という道具を用いるように、詩の道具と言えるのだ。何で書いても同じということではない。
モレスキンのガイドブックを、文句を言いながらも読み、ラージサイズを購入しようと決めて店に行けば、三千円近くする。さっきのスケジュール帳が三十冊買えてしまう。それだけ価値のあることを書き、表現することができて、充実した思考をもたらしてくれるはずだと考える。プライドというか、張り合いみたいなものだ。三千円そこらで取り戻せるなら安いものだ。いま、そう考えている。

彼と私は「いつでもどこでも言葉を受け止めるため、筆記用具は持ち運ぶべき必需品」と語る若き詩人と、記事にして頂いたことがある!
ああ、あの新聞記者 ○○さんの手帳は何だったろう!モレスキン?いや、社の支給品か。見れば良かった。スマホがまだ無かった頃なのは確実だな。