土曜日, 9月 14, 2013

世界の終わりを描くこと

いま久々にこのブログを触っています。映画「風立ちぬ」を見終えたところで、そのままスターバックスに入ってこれを書いています。醒めないうちに書きたい気持ちになっているので、そのまま書きます。映画を見ていない方は、見てから読んでください。

※ 映画「風立ちぬ」「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」を見ていない方は、ここから先は 二作を見てから読んでください。
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「世界の終わりを描くこと」初校 村田 仁

二作は先の震災を受けて、大きく変わったのであろう。
アニメーションに時事的な問題を取り込まないで欲しいという声もある。しかし、宮崎、庵野の二監督が、生きて感じていることを全て注ぎ込んでいる作品であるからこそ、二作は極めて重要な視野として描かれるべきものになっていた。

映画「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」と同時上映された「巨神兵東京に現わる」は、単なるオマケではない!と自分は握りこぶしをつくっていた。
そこでは「世界の終わり」が描かれている。
「Q」本編で描かれている絶望の下敷きであり、単なる悲劇ではなく、再生が存在するのだという大きな視野であった。伝説を語っているプロローグである。

映画「風立ちぬ」を見た。
序盤には 関東大震災の場面がある。その始まり、大地を走る赤い光の地割れは「ヱヴァQ」のワンシーンからトリミングしてきたような光だった。ここでも「世界の終わり」は丁寧に描かれる。復興していったという歴史的なところも押さえてはいるが、それよりもその場面だ。

背筋を伸ばし、強い意志を持って生きようとする正しい姿は美しい。人々は理想に胸を熱くし、如何に生きるかを背負っている。仕事はその喜びの在り方なのだ。(「コクリコ坂から」を思い出させる場面も多い。)
かたや、終わることのない絶望の中で苦しみもがく 14歳の姿は、大人になれない若さと、現在進行形の魅力を備えている。

映像詩「世界の終わりではない」を自分は描いていた。それは世界の終わりを認めたくないと言い続けているテレビである。
恐れ多くも、二監督が「世界の終わり」をしっかりと描き、それを腰に据えたのとは違い、言い訳は続いていた。
結論を急いで認めたくないと行を埋める自分と、世界が終わるときはこうだと現し、さぁどうなんだ?!と探し始める二監督。

「風立ちぬ」は自身の仕事を振り返るように、主人公が前を向いていった。大人向けではあっただろう。しかし、単なるシリアスぶったドラマなどには堕ちていない。アニメーションによるファンタジーの表現を背負っている。
戦争の道具を作っていたんじゃないかとか、煙草を吸い過ぎているとか、ましてや病人のいるところで!なんて難癖つけるような見方は愚かである。彼らの葛藤と生きる覚悟は黙しながら描かれている。注意書きや説明ばかりを見ようとする者は、泣けない。「世界の終わり」が描かれたうえで、私たちは一日一日を大切に生きているのだ。

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