火曜日, 1月 08, 2019

平成最後だと騒ぐ文言には呆れたい

新年の挨拶を躊躇ってしまうくらい、年始の感触が薄い。
それは催事を全く体験せず、自業自得なのだが大晦日に発熱し、元日の休日診療所でインフルA と診断されたからで、隔離されての孤独な正月と年始の日々だった。いや本当に孤独だったなら、治療すらままならず、のたれ死んでいただろう。ドヤ街の映像をこういうときに多く見てしまい、天涯孤独なんてもんじゃないと嫌な心理になる。上には上がいると見るとき、下には下がいると。
しかし体験の時間をやり直すには幾らかの演出が必要だろう。もっと冷静に語るべきは、猫の鬱が、そうこのブログのタイトルである猫の鬱が、五日ほどの失踪を経て、近所で保護されていて、年末に電話連絡が入り、保護されていて無事に帰還してきたことを。もっとも賛辞しなければいけないのだとは思う。
賀状には「さよなら猫の鬱」と名付けられそうな絵を描いていた。
それも含めて、やり直す時間を設けないといけない。
自分でも思ったより形式的なものを信じているようだ。
SNS ひとつの区切りなど、何の意味もなかろうに。

flexible は Netflix と見た目も似て。