監督は詩人だと神格化せずに見ようと挑んでも、否が応でも溢れてくる。
「紀子の食卓」(監督, 園子温/吹石一恵、吉高由里子、つぐみ、光石研/2006)を DVD で鑑賞した。
登場人物のそれぞれが独白をして物語っていく。
それは監督が詩人だと思い出させないわけにはいかない。一昨日 山口氏が僕に話してくれたのを思い出した。
そうだと思う。
語られていく声と 動きが混ざり合って深化する。
極めてシンプルな心理表現が「私」の存在を問うときには響いてくるのだ。
家族の姿が役割ゲームに墜ちたとき。
自分なんていなくていいと思ったとき。
自分はいていいんだと思ったとき。
とりあえず括り付けた名前を、朝の風に吹かすとき。
血は逆らえず、次の町を目指すには夜じゃなく朝が良いと思い出す。
忘れたくしゃみで思い出す。
演技ではなく、私ですらない私になることとは。
泣いたときには思いが溢れているのだから、思い出しなさいねと姉は言った。
妹は泣くだろうか。
父は泣くだろうか。
家族は想像する。私と関係して動いていくと想像する。
http://www.geocities.jp/anchorsline/film/noriko/index.html