金曜日, 2月 09, 2007
その戦いをやめないで、猫よ
やっぱりバナナは朝の果実よ。哀しいことがあっても、食べなくては元気が出ないぜよ。かぜのはなの正体は化膿した傷口。可能性はまだ転がっているさ。風に吹かれているという歌い方で、まだ長いマフラーを巻いて帰るのだ。「抱きしめる」は明日で終わる。いよいよ面倒な意識ともお別れになる。内面はもっと単純で、たけしの言っていたとおり、やりたいだけだ。人も猫もあっけなく逝ってしまうんだよと電話口で聞き、日記で読む。そしてお金もすぐに無くなるものだった。そんなものを両天秤にかけてしまう脆弱性を抱えながら、愛情をふたりでじっと待っていた。約束を祝う日を忘れてはいけない。落胆する日を忘れはしない。宇宙に舞うバナナの皮は、町指定のゴミ袋にちゃんと入れた一片。いつかの朝もこうして食べていた。数秒後か何年後かに降って来て、傘もささないから、つるんと転ぶだろう。それを知った。痛いことを分かっていながら、会いに行くだろう。越えるのは朝だ。夜じゃない。夕方に対して、明け方という呼び名ではまだしっくりこない。言葉が意味を越え、目が意識を越え、日が夜を越え。蒸発はしない。この膿はゆっくりしみこむ。不足分の催促状は止まらない。頭を抱えろ。頭を捨てろ。猫は畑にいた。外傷は無い。回虫のようなものを、きっと分かっていた。一本の線しか見えずに、里での日々を駆け回っていただろう。そう想像する。陽射しを受けて、バナナの皮と猫の糞が畑の土となっている。やってくるものはこばまず、去ろうとするものには鳴いた。窓はまだ小さい。二階から見えた木を思い出すのはとても疲れる。向こう側のこと。向こう側に手を振ったこと。約束を祝う日の前の晩に、駅前は残酷だ。知らない夢はもっと残酷だ。偉人に媚びる詩人を馬鹿にするのなら、既に偉人のふりをしろよ。それだけが姿の輪郭を呼ぶ術なのさ。見る為には、描かなくてはいけない。この窓は無なのだ。真っ白でも透明でもない、光で認識できるものはどんなに含んでいるだろう。何を?知らない。知ることじゃない。待つことでもない。