日曜日, 2月 18, 2007

愚かなときも正しいときも

マーガレットは穏やかだ。
日曜午前十一時半の図書館には温かい陽射しがあった。
木製の本棚はゆっくりと背中を伸ばしていた。
すぐに水に入れるだろうと思って、お願いした簡易包装の紙に横になっている、数本の花。車中で夢を見ていたろう。我々は四川に満足して、それからお寿司まで、言葉と色を前にした。部屋には幸せがそのままかたちになって、不甲斐なさはそのまま空白の時間になった。愚かなときも正しいときも、男は写真を撮るだろう。また写真を見るだろう。「もう、家に帰ろう」(著,藤代冥砂/ロッキングオン/2004)。男の言葉が過去形で語られていること。それが実直な力である。
クイズも受験も人生も机の上で拝み、失った時間のために何かをするべきだと思った。
涙についてを書く。
「泣けないときは決まって泣けない、そういうものだ」とは村上春樹で、僕たちは補いあっているし、互いの豊かさを膨らませあっているのさとは、かの詩人で、「そういうこと?」と猫博士に聞かれたあとに「そうかもしれない」と気取って答えたらまた村上春樹だ。あと缶ビールと「やれやれ」をひとくちできればノーベル賞。
だけれども、本当に欲しいのはダイナマイトですよねとお聞きしたい。そうだダイナマイトについてを次は書こう。
まだ涙についてを書いていない。
夜のホームにて、黄緑色のベンチに座っていると手元が寂しくなった。忘れ物をしてきたように思った。行きはマーガレットを抱えていたからだ。処女詩集を越えることはできないうのは、そうだろう。それでいいのだし、それを見つけることができればその詩人は続けていくことができるのだろう。僕たちは、いたいけなふりをしているわけじゃなく、涙についてをどう書き、どう画を抱くかを、考えあぐねて呆然としていたのだ。猫は何度も行き来して、はやく冬が終わらないかと鼻を濡らしている。
マーガレットは穏やかだ。