金曜日, 2月 08, 2008

デスノート

「DEATH NOTE」(監督, 金子修介/原作,大場つぐみ/藤原竜也、松山ケンイチ/2006)の後編を日テレで見た。疎いことに ようやくデスノートを知った。Lはかっこいいなぁ。
しかし、このお話がヒットして出てくるところが 00年代なんだろうなと思う。80年代にこの漫画は描かれない。ジャンプはそのときの少年心理を掴んでいる。「デスノート」に熱血や根性の汗を振り乱す ヒーローはいない。冷静な知性による把握が優れたものとしてある。頭脳戦の漫画が無かったというわけではなく、「デスノート」ではあらゆるものが「厭世 観」の上に意識されているのだ。
厭世観とは「どうせ世界はこうなっている」という目だ。
80年代には たとえ頭脳戦を描いていたとしても「まだまだわからないぜーッ!」と歯を食いしばっていた。デスノートは違う。名前を書かれた者は死ぬ。それは変えられな いという達観がある。これはネット世代の「厭世観」にシンクロして支持されるのだろうなと、どうしても考えてしまう。情報で把握されている世界を、恐怖と いう情報で支配しようとする「キラ」は、テロリズムのそれと同じだ。マスメディアによって整頓された情報に反する力として流行する都市伝説にうまくそれを 絡めていて、リアリティのある面白みを作ることに成功している。「デスノート」の面白さは、Lと月の頭脳戦では無く、そのリアリティにあるのではないだろ うか。前編のほうが面白く感じた理由をそう考えた。
ノート自体に手で名前を書くという設定も、筆記行為が、キータイプよりも崇高に捉えられている意識のあらわれで面白い。小学生のときに、赤鉛筆で人の名前 を書いたらその人が死ぬでとうわさされていたのを思い出した。いまでも時々、赤字だとか意識するが、あれはデスノートより怖いな。デスペンだ。
デスブログというのも想像したが、例えば個人や企業の具体名を挙げて罵倒し、実社会的に陥れるような匿名掲示板なんてのは、既にそれであった。
ここで、匿名の者は殺されないという卑怯な在り方が浮かび上がる。デスノートのルールとも合致する。実名を名乗る者は、リスクを背負う分だけ強い。

http://wwws.warnerbros.co.jp/deathnote/