金曜日, 2月 22, 2008

陶酔することができる奴と、呆れることができる奴の違い

「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(監督, 若松孝二/坂井真紀、ARTATA/ナレーション, 原田芳雄/音楽, ジム・オルーク/2008)をレイトショーで見た。

重く息苦しい。これは若者が突っ走った先にある前線のどん底だ。
映画館横のカラオケ店前 路上にたむろして抱き合っていた茶髪の厚底靴ビジュアル系十代らと何も変わらないはず。
「70年代は敵がハッキリしていて羨ましい」という現代の文句をよく言うが、実は何も変わらないのだなと思った。自己批判、統括か、マジレス、mixi日記更新 何も変わらない。連帯の名前を信じる方法が同時代的ということである。
敵はいつもハッキリせず、自分自身が呼んでいる。

山中、ベースキャンプでの内ゲバシーン。
殴ることは革命的指導だというメチャクチャな論理が異議無しとされていく集団心理の作用は、人間社会の宿題なのか。大義の為には犠牲が要るという聖戦の教典を引用して、歴史はいつも本末転倒をしている。
人の矛盾・・
そんな言葉ではサブイボが立つ。
そこで陶酔することができる奴と、呆れることができる奴の違いを考える。
あさま山荘に立て篭ったときに、銃を持ちながらカレーをかきこむ姿が哀しくて泣けた。

http://wakamatsukoji.org/index.html