月曜日, 4月 28, 2008

社会的には大多数が参加しているが、文学的には何の意味も無い*

先日、大学で同じアトリエだった同級生の友人に展覧会のパーティで再会した。数えたら六年ぶりだった。細密調の鉛筆画を数点、彼は出品していた。近況などを話しながら まるでテレビドラマのように、たいへんだよねと話す。絵に一辺倒であるという話を聞く。
今日は「絵筆を折っちゃあいけないよ」と 全国を巡回してきた初対面の先生が僕たちに指を向け、饒舌に指導された。
数日前の打ち上げの席で「だめだったらやめないと何にもならないよね」と聞いた。
僕は、「満たされようと追い求めていたものを、実は別の何かで満たされたとしても、いままで追い求めていた場面が焼き付いてしまっており、まさしく実体の 無い夢まぼろしを追いかけることになってしまって、それからは何のテンションも実は無いのだと思う」と言ったのを思い出した。問題は満たされようという内 容が何であるかだった。
会社勤めをしながら絵を描き続ける おじさん、おばさん、先生、友人たち。
ギャラリーは美術史に片思いをしている。絵描きたちは自分から美術だと言い過ぎるので、賑やかにはなるが 怖がって歴史は逃げていく。
一時のカフェブーム全盛期に告白されたオシャレも、いまやオサレと表記する自嘲的な片思いだ。
自称詩人が集まるいつもどこかの朗読会。同人誌たち!ブログ、投稿詩サイト!あのネーミングには思わず拍手してしまいたくなるくらい うまくまとめてあった。「イージーポエム」か「ライトポエム」。
では何をどうすればいいんだ?と自己批判、統括しなくちゃいけなくなる。でもそんな自己満足で死ぬのはまっぴらごめんだから、絵を描いているだけで奇跡で あって、本当は生きてりゃいいんさと言うところに輪廻する。そもそもそれが自己満足だと思ったから疑いはじめたのだが?!
つまらない人生は存在しないが、つまらない詩は存在する**。

詩は疑われてはじまり、その疑いがずっと読まれるかどうかだ。
自分が信じていることや、信じたいことを書くのではなく。自分の分別からも外れることを求めて書いている。
思えば、これはとても気持ち悪い何かを抱えた景色だ。時折、色という漢字を使いたくなる。色はいい。色は正直だ。

(*、** 共に「戦後詩」(著,寺山修司/1965)より内容引用。)