非常に偉そうに批評めいたことを書く。
少し前にレンタルした槇原敬之の新譜を聴いていた。
これがなかなか理屈っぽいアルバムだ。震災を受け、時勢へ応答している内容なのだ。
「Heart to Heart」(2011)と名付けられていて、なんだかチープなデザインのジャケットである。 楽曲のどれもが聴きやすいポップにまとめらているが、どうも歌詞があっさりしていない。ネットで原発奨励ソングと叩かれた論点は間違っているとは思うけど、そう解釈されてもおかしくないくらい誤解を招く表現が多いと思う。二言目には「ありがとう」や「当たり前のことに感謝」というキーワードが出て来て やや説教くさい。
そんなことを書くと、お前の詩なんて理解されないしこの誤解可能なブログはどうなんだと言われそうだが、聴き手が不可解なものに入って行く当たり方と、受け入れてくれそうなポップミュージックに理屈めいた言葉が乗ってくる ちぐはぐさとは違うだろう。
ただ、自分はこの傾向を批判しているのではなく、もしかしたら槇原敬之が大きなステージに展開するきっかけではないかと感じているのだ。
自分は、中学生のときに氏の 1st アルバム「君が笑うとき君の胸が痛まないように」(1990)を買ったのが、生まれて始めて買った CD だ。レンタル CD でテープにダビングする日を経てから買い直し、ラジオのエアチェックもまめにしていた。思春期における自分の基礎的な感覚を養った存在である。
いまでも当時のアルバム(ファンの間では「君 三部作」という)らを聴くとグッときてしまう。これは思い出フィルターも入っているのだろうが、やはり当時の歌がいちばん活きが良い。楽曲と歌詞の密な融合が成され、目に見える成長と広がりがある。ストレートな感情表現を日常風景に落とし込んでいくことで歌われる切なさにリアリティを持たせる方法が確立していく。フォークソングほど女々しくなく、ロックほどドライでもない。繊細さを持った歌詞と、メロディの多彩さを武器にして支持を集めてきた。
メジャーで走り続ける苦楽のなかで、定番枠に入りつつあった頃に氏は覚せい剤所持の逮捕事件を起こしてしまう。同時に同性愛者であることも騒がれ、あらゆる意味でタブーと叩かれる存在になった。自分はその頃、ちょうど出ていた「Cicada」(1999)のあたりでは気持ちが 離れていて、あまり反応していなかった。この状況を真正面から受け止めた再出発のアルバム「太陽」(2000)は良く売れていたようだが、本当のところへ踏み込んでいない感じがして、あまり好きになれなかった。丁寧な聴き方をしていないのもあるが、それこそ会社の意向やメジャーに存在するが故の正当性を通しているように思えたのだ。ポップシンガーが性悪説を唱えてそこには居られない。ただ「Cicada」収録の「Hungry Spider」は、そんな危ないところへも挑戦している歌だった。そこで逮捕されるというのが象徴的ではある。
それから何枚か出たアルバムを聴いたりもしたけれど、自分の気持ちは返らなかった。国民的支持を集めていると評されている「世界でひとつだけの花」(2002)なんて、何も良いと思わない。これこそ理屈っぽいと思ってしまう。以前にも同じ内容をブログに書いたけれど、比べ合う人間は愚かだねと言いながら、実は「花」と「人間」を比べてそこに気付いているのが原点だから、そもそも「比べたがるのが良くない」という主旨が肯定できず、ロジックとして崩壊していると思うのだ。なんて五月蝿く書く自分がいちばん理屈っぽいのだが、比べなくて良いという気休めな歌が、また支持されるというのも気色悪く感じてしまう。だいたい花が争っていないなんていうのも人間の主観だ。地面の下では根っこを伸ばし合い、誰よりも自分らしく美しく咲く為に養分を奪い合っているかもしれない。あの歌の欠陥は「誰よりも」と「自分らしく」を分けてしまったところにある。一見、受け入れやすいメッセージだが、実は「だったら自分で、これでいいやと言えば終わるじゃん。蓮舫の言う 二番じゃダメなんですか を受け入れることになってしまう。」に行き着く危険性を持っていると思うのだ。
やや偽善的な印象すら持つ歌は、初期にも多い。それは性格的な部分にも由来していると思うが、逮捕から復帰後の歌はその要素が多分に多いのだ。
ダークサイドの自分に向き合う歌がいつか出てくるのではないか。そこはきっと深い歌になるだろう。そしてそんなポップソングは少ない。そうやって自分は氏の歌を捉えてきた。
今年の新譜「Heart to Heart」は、震災の影響をもろに受けた内容になっており、先述の原発奨励ソングと騒がれた歌も入っていたりで、理屈っぽい。そしてこれは皮肉だと思うが、「当たり前なことに感謝する」というスタンスを貫くがあまりに、逆に極めて頑固で自由な発想の効かない氏のダークサイドが露になっていると感じる。そんなに感謝なんて思えるかよと批判されるのも当然で、原発問題は 恋愛ソングのように人それぞれと割り切れない内容を含んでいる。しかし誰もが原発反対、賛成、と声をあげるなかで 氏だけが「いままでの恩恵に感謝すら感じられないなんて逆に危ない。それを忘れたらもっと失ってしまうのではないか。」と歌うのは無意味なことではない。殺伐とした社会は日々への感謝の気持ちを忘れているとも見える。現代人にこそ氏の頑固なまでの歌が、気持ちをほぐしてくれるものとして機能するのかもしれない。あくまでもそうかもしれないとだけ思う。まわりくどい歌詞と、聴きやすいポップメロディの合致は不可思議な分裂状態に着地している。そしてその主張自体が偽善的な道徳観と色眼鏡で見られてしまってもしかたないところにもいる。普遍的で安心する姿勢を持っているとも言えるが、そんな甘いことを歌われてもと思えてしまう。
何度も同じことを書いているようになってきた。
氏の逮捕後から続いている理屈っぽい本質追求ソングの路線は、成熟はしていないものの、本作でやや動き出したと思う。それは震災を受けての時代に返答するという姿勢がそうさせている。比喩表現を捨て、ストレートに「原子炉」という言葉が出て来たり、それでいて「犬みたいに僕と君は笑う」などの表現も共存させようとする。ただメロディは犬の鳴き声を入れるなどの自然な関係ではなく、作り込んだポップで、意味内容と合致しない気もする。
ここまで書いて、かつて「どんなときも。」(1991)は、理屈と切なさの共存ではなかったかと思った。
「ビルの間に落ちる夕陽」と「僕が僕らしくあるために」という歌詞が続けてあり、そこに爽やかで力強いメロディがあった。
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