金曜日, 9月 30, 2011

ゆたか荘 サラバ!

「お前にひとつ言い忘れたことがあったわ。」
「陽に当たれよ!」

木曜日, 9月 29, 2011

お釈迦様の掌の中

夜、友人らに荷運びを手伝ってもらう。
いつの間にこんなことをしていたのか。
我ながら、驚かせようとしてるみたいだった。
荷物が減る毎に自分の焦りも退いていく。

最近飼いはじめたという猫を見せてもらう。黒い子猫で、雄か雌かも分からない。明日、獣医さんに連れて行くって。マーキーの掌にすっかり収まって佇んでいた。
仏様の手の中に収まっていたようなビジュアル。
自分は引っ越してもお釈迦様の掌の中かな。それでどこまで楽しくなれるか かな。

水曜日, 9月 28, 2011

段ボールのおかげ

夕方の帰りには駅デパートのパレマルシェで おつとめ品のお弁当などを求め、同時にお客様用段ボールを三、四箱ずつ貰っていくのがこの頃の日課だ。
段ボールを持っていないと不安にすらなる。お弁当を入れるのもちょうどいい。
食べてから重い腰を上げて、本棚から本を取り出して行く。
段ボールの底が抜けぬように 詰めきらない程度でストップをかけるので、すぐに持って来た分はいっぱいになる。ガムテープでとめて、マジックで「本」と五つの面に書く。それの繰り返しだ。
要らない本は要らない本で分けようとしていたが、高度な判別をし出すとえらく時間がかかってしまうし、後で後悔しそうなので軽い判別に留めて梱包に専念する。

そう、今月いっぱいでこの部屋を出ることにした。

火曜日, 9月 27, 2011

栗の入った茶碗蒸しと、犬の毛

スーツのまま御飯を食べて、記念写真を撮った。
家族はいつでも会えると思うもの。
難解な本を読む為に、静かな時間も要ると思えるようになった。

月曜日, 9月 26, 2011

人数が多いと感情移入できる幅も増えるという公式

もうみんな AKB48 には食傷気味やわ。
とか言いつつコンビニ雑誌の表紙に目が引かれる。見知った子が元気かなと顔を見たくなる感じに近いかもしれない。などと 危険なアイドルオタク発言だが元来「会いに行けるアイドル」だったはずだから、親近感が持たれる存在なのだ。そもそもスキルではなくキャラなのだ。
いや、キャラというスキルだというツッコミこそあれ。
彼女達の決め顔はパターン化されていて、プリクラで可愛く見える角度の研究結果と同じに思えてしまう。いや、そのなかでも様々なトライはある。何かに努力している姿を投影させるというショーのシステムには、どんな子にも感情移入できよう。
そのシステムに対しグッドデザイン賞も取っていた。

http://www.g-mark.org/award/detail.html?id=37071

日曜日, 9月 25, 2011

福ちゃんナイトの前後

昨夜は福岡氏が DJ を回す 福ちゃんナイトが名古屋市内のクラブであり、氏の誕生日だった。プレゼントにと包んだ「ハムサラダくん」(著, 吉田忠/2007)の上下巻は鞄に入れたまま忘れていた。その前に萬さんが出品していた展覧会のオープニングがエビスアートラボであって、そこから皆で流れてきたのでやや遅くなってしまった。

引き止められながらもなんとか帰り、そんな経緯で朝になって、部屋は変わらずひっくり返ったままだった。iCal の内容が縦書き表示がされるアプリを見つけて購入した。
萬さんの絵は細やかで、器用ではない繊細さがあって良かった。

土曜日, 9月 24, 2011

土曜作家

外で遊ぶ子らが英語で どぅーゆーらいく? あいらいく!と声を出している。
最高の天候に安らぐ自分。再度買い出しへ。

来月に出品する企画展「線跡 senseki」のチラシを頂いた。永田浩子さん、文谷有佳里さんらの作品と共にギャラリー GOHON で行う。
企画者の茶谷麻里さんが書かれた、展覧会紹介文にある「作家として作品をつくる事に於いて必ず一度は『線』というものについて考え立ち止まる時があります。」がいい。
絵描き限定ではなく、作家。
ものの作り手ならば。

http://www.gallerygohon.jp/f3-exhibition-vol.20.html

金曜日, 9月 23, 2011

張り替えを見届けた帰り道

自転車屋のあるビル屋上に取り付けられた、そこそこ大きな看板が雨でふやけて、晴れて乾いて ごわごわになっている。
あれは貼り替えになるのだろうな。

夜、下弦の月。
テント商会の倉庫、閉まっている。
社長はあと一時間で起きる。
それまでに自分は歯を磨いて布団に入り、とっくに寝ていましたという演出をしなければいけない。
カーペットの部屋で何かが持って行かれ、無かったことにされた。
名刺だけが貯まり、誰も相手の話はしない。銭湯が背中を洗ってる。
若宮通り、三つずつ光球あり。
「にて」を用いて書き言葉。話を続けて。
とうきやのカーテン。丸ポスト。
赤い光。
旧道の名残り。
ずっと明るい。喫茶コマツヤ。一度も無い。新聞屋さんの挨拶。駐車場 防犯ライト。赤い。
不二家、白い光。とびたしちゅうい。
プラモ屋、かつてあった寿司屋。かんぴょう巻きだけ買って、土嚢を積みに行った。
報告をしに、展覧会を。
オリオン。
空車。
800円。
赤字。
蛍光灯。
踊り場に照明があった。
台所で皿を洗う音がする。

帰ったら、昨日も会った彼から封書が届いていた。わざわざ偉いのである。綺麗な粘着糊で封をされていた。

木曜日, 9月 22, 2011

面倒なことを吹き飛ばす男が要るね。

連日、上小田井駅。またあのホーム。コンクリートが踏み固められているよう。変色してる。いろいろ携帯の話に動きがあって楽しい。こういうのは騒ぐこと自体が楽しい。

au で iPhone5 出るとしても、au 専用機とかじゃなく、SIM 移し変えればキャリア変えれるようになったらいいのに。
電波方式違うから無理か。アメリカでもキャリア別に iPhone4 出してたしな。
でも iPhone の機械自体にはキャリア選べる機能あるもんなぁ。
こういう、出来るんだけど大人の事情で機能制限ってのはよく起こっている。
面倒なことを吹き飛ばす男が要るね。

水曜日, 9月 21, 2011

甘い一過

昨日 歩いた線路沿いを一瞬で走り去る電動車両。

甘い歌と甘いコンビニ。
大きな冷凍庫をくぐり抜けて、タクシーに乗れば。荷物が濡れないように。
勇んで向かったら、もう空は晴れていた。

火曜日, 9月 20, 2011

自然は残酷だ

不意打ちのごとく名古屋に台風の土砂降りが直撃。避難勧告が出て、名古屋市のホームページにアクセス殺到でサーバーダウンして更に民衆の怒りは爆発。春日井のほうは酷いと報道を片目に早引けする。地下鉄鶴舞線から名鉄犬山線へ乗り継ぐ上小田井駅で、名鉄が止まってしまっているという状態で、ホームに人がこぼれ落ちそうなくらいに溢れていた。ある瞬間に、これは歩いて帰ったほうが得策だなと思い、人ごみに押しつぶされながら改札へと降りる階段へ。改札がパニック状態で、駅員さんが大荒わ。ソフトバンクの携帯は完全に繋がらなくなっていた。かろうじての番号メールが桑さんから来る。西春駅までなんとか歩く。川がかなり増水していた。写メを撮ってる場合じゃないとか言いながらも、かなりの人数が一斉に携帯を出していたので便乗する。一枚で良いと宣言し、帰路を急ぐ。くるぶしまで水は来た。まだなんとかなるだろう。ようやく西春駅に着いた。喫茶店でも行ってだべりたいねーと以前に交わしていたことを実行できるくらいの早い時間だけど、さすがに全身びしょ濡れなのでこのままでは風邪をひいてしまう。よって解散。彼女は駅に停めてある自転車に乗っていった。自分はアパートに着き、玄関周りの水はけをして、シャワーを浴びた。そうやって一息ついたころ、雨は止んでいた。

月曜日, 9月 19, 2011

雨だらいくらいに日本酒を

昨日の席に参加できなかったからとノリ氏が日本酒一升瓶抱えてやってきた。ぐっちゃぐちゃの部屋んなかで飲む。猫の鬱が大興奮。それもそうだ。外は本当に雨だらいをひっくり返したような豪雨だった。

日曜日, 9月 18, 2011

まったりBBQ

ハイパースローライフハウスにてバーベキュー。今朝まで「BBQ」の三文字メールが行き交っていた。みんなワクワクしながら炎天下のなかで肉を焼く。缶ビールで乾杯すると、まるで TV-CM のようだった。
みんなそれぞれ仕事を抱えている状態だったけど、たまにはこんなに解放されるときもないと狂っちゃうという気持ちになった。ありがとう。ユーシ氏!もといユーし君とともちゃん。


土曜日, 9月 17, 2011

最果て

なにがなんでも城北線で行くと決めたのは、街中の最果てに行きたかったから。
I' m 派遣で詩人。



金曜日, 9月 16, 2011

店を広げて八方美人か、孤島で自分語だけで自分に話しかけるか

名古屋に「AppBank」二号店が出来た日に、シャープの「ガラパゴス」をシャープ自身が売ることを終了するという報道が入る。
「AppBank」とは iOS のアプリ紹介や、iPhone、iPad のケースやグッズを紹介と販売する人気サイトで、店舗もかまえていて、一号店を原宿に開いていた。東京中心で展開していくんだろうなと思ってたら、名古屋パルコに二号店ができた。サイトと連動する「AppBank」という名前のアプリがあるので、それで情報を得て、プレオープンの昨日など冷やかしに行っていた。ケースの品揃えが充実していて、六月にドイツの家電量販店サターンで買うかどうか迷ったサムスナイトのスリーブケースが売っていた。
店員さんに Bluetooth キーボードと自機をペアリングさせてもらって試させてもらう。面白い。でも iPad の画面入力は気に入っているのでいいや。

「ガラパゴス」は完全に終了するわけではなく、ブランド自体は残るのだけど、自社で売るのは終えるというかなりの縮小だ。
買った人は踏んだり蹴ったりだろう。Android が悪いわけじゃなく、ハードでの展開が悪いのではないかと思う。
どうせならガラパゴス OS を作って欲しかった。
ガラパゴスのケースは、もうワゴンセール行きだろうか。
出ている数が少ないから、iPad1 のケース下にまみれていそうだ。

http://www.appbank-store.com/store/campaign/campaign_0915.html

木曜日, 9月 15, 2011

エヴァ今昔

こないだの初めての顔合わせが多かった飲み会では、途中ヱヴァQの予告動画 (金曜ロードショーver,) を iPad で、皆で見ることで心が一つになるという 踏み絵(ちょっと違うか)みたいな手法で盛り上がった。
なんともオタッキーな展開。でもそんななりふり構わず、思い思いに興奮して良いところを騒いでいた。
テレビ放送版を全話 見直したい。iPad に圧縮して全話ぶち込む?
それはかつてマーキー氏がかしてくれた三倍録画で 長いVHS に全話入れてあったのと一緒だ。

水曜日, 9月 14, 2011

段ボールひとつで張り合う

とうとう段ボールの有料版を買ってしまった。
マーキー氏に、たとえいま必要でも 段ボールなんてスーパーで貰ってこればいいと言われていたけど、スーパーで貰い続けるにも限界があった。

猫の鬱は何をしてるんだかと寝てる。知られなくても、良い仕事にしたい。

火曜日, 9月 13, 2011

正夢になるか

ムーンライダーズのファンクラブ会合で詩の朗読をするという夢を見た。
即興で、朗読に何の歌を織り交ぜようと頭を巡らせたら起きた。

自分の前のステージは、タイの友人が段ボールで作った電車の先頭車両の中で寝転びながら音を出すというパフォーマンスで、二階の運転席には韓国人の友人が乗っていた。
何らかのトラブルで彼の音が止まらなくなり、予定の時間を過ぎても前のパフォーマンスが終わらない。その音に被さるかたちで、急遽 僕が詩の朗読で入るという展開だった。先頭車両は、名鉄の特急みたいに二階建て構造になっていて、タイ人の彼は更に段ボールの箱に仰向けになって演奏をしていた。
彼が出している音は一定の音の繰り返しなので、その上に被さって詩を読むには合っていた。
ステージに上がると、箱には外からアクセスが出来ないようになっている のが分かり、ヘッドホンもしているようなので、時間が分からなくなっているのかもしれないと思った。
詩に「恋人が眠った後の歌」(詞, 曽我部恵一/1999)を入れた。

バスタブで待ちぼうけ~と鼻歌を入れると、お客さんから手拍子が起きた。周囲はかなりのうるさ方が多いと思われ、イカシタ即興朗読が望まれている。
やや新しめの選曲が微妙かもしれない。
だが、往年の名曲過ぎるのもベタで安牌だと非難されるだろう。
彼の出す音が、教会の鐘の音に変わった。

月曜日, 9月 12, 2011

11日の報道

そういえば昨日は 9月11日だった。同時多発テロからもう十年。いやアメリカでの11日は、日本では12日だから十年前の朝だ。あらゆる思考の変化をもたらしたのがあの日だと考えられているからか、大震災の 3月11日も、3.11 と呼ばれるようになっていた。自分にはどうもこの日付の呼び方で流行していく感じがしっくりこないが、どちらも 11日というところに意味を重ねて見てしまうのは仕方がないと思う。

十年目に何かをしようとするテロリスト達もいただろう。報道されていないだけで、水面下ではたくさん捕まっているのかもしれない。そして警備の強化や、中東圏への迫害など様々な歓迎されないことは起こっているはず。グラウンドゼロでの式典があったと聞く。
日本では別の陰謀説も多く語られているが、真相は分からない。たけしのテレビで取りあげられるくらいなのは「真相は分からない」という結論で着地してしまえるからだろう。つまりは他所の国、アメリカの出来事を日本で語るからである。
それは福島第一原発の事故について、アメリカの報道が、あれは水素爆発ではないと報道で言うことができるのと同じだ。
自国の報道がリスキーで、そこまで踏み込んでいけない。十年経ち、そうやって守っきたものは、何だったのか。
戦争にまでして、もっとたくさん失っていたのではないか。
そして日本のこれから十年は。

日曜日, 9月 11, 2011

次からはミスタードーナッツにしようと思う

寝ていないと次の日に調子が悪いものだ。
それをつくづく実感した。
勝手なのはいつでも自分だが、見極められない場合にみんなぐちゃぐちゃになって引き渡される。

聞き慣れぬドーナッツ屋チェーン店、米国発のそこはコーヒーがとても薄く、文字通りアメリカンだった。それも思考がまとまらぬ原因だったのかもしれない。
次からはミスタードーナッツにしようと思う。
それでも帰り際には、明日からの平日に繋げているのだから、やっていけるのだと思う。
帰ってすぐに寝た。

土曜日, 9月 10, 2011

あの言葉が出ているときは調子が良いのだ

つまりは「詩」は何であるかという問いと、多くは似ていたし、それで食べている人が皆無なので、単純な経済を作れるかという話も尽きることはない。なんてざっくりと考えているうちはまだ平和だった。
朝まで呑んでいられるうちは。
グラビアアイドルの誰々に似ているなんて騒いでるうちは。

創造する者には根拠が無く、根拠を作る者には飛躍が無い。
おとなしそうに見える者が、いちばん恐ろしい者なのはどこも同じ。

木曜日, 9月 08, 2011

何も格好良く騒がれるものではない

排気ゴミ出しながらエコエコ五月蝿いビデオセミナー。節電を呼びかけるチラシを徹夜で冷房ガンガンかけて Macうならせて作ってる。横目に呆れて見る。
自分の出したゴミもえらく多い。でも地球には無事で居てほしい。つまりは我が儘に筋を通したいとしか考えていないのである。
いろいろ正論ぶってはいるが実のところは我が儘だ。

映画「A」(監督, 森達也/1997)で「欲を捨てると言いながら、ハルマゲドンから信仰で助かろうという考えは欲ではないですか」と質問した学生がいた。あれは相当に鋭くて良かった。それを思い出す。
社長が我に返るとき、何を話していたかを省みるとき、だだ漏れのバルブを締めるかだ。それだけは何も格好良く騒がれるものではない。

水曜日, 9月 07, 2011

谷山浩子ファン続々あらわる

また Twitter で谷山浩子の話を続けてしまった。二十年ほど前に雑誌取材をしたことがあるなんて話が出てくるのでスイッチが入った。そしたらもっと若いフォロワーからも好きだと声が上がる。
「夜のブランコ」(1994)のリンクを貼る際に見つけた「てんぷら★さんらいず」(1982)の歌番組出演時の映像がすごい。歌詞世界に合ってる。

http://www.youtube.com/watch?v=D3BCUjC1WXc&feature=related
http://www.kasi-time.com/item-17392.html

火曜日, 9月 06, 2011

捨て場番号23

資源ゴミ捨て場で ペットボトルに瓶、缶を大量に捨てた。
歩いてすぐのところだけどよく忘れるし、面倒がってすぐに溜まる。
この夏は消費のしかたが異様であった。ようやくラクになりはじめた気がする。台風も去った。
去っていく後ろ髪のごとき風が吹く。積まれたペットボトルは崩れない。青いネットにホールドされている。

月曜日, 9月 05, 2011

女子会は行かない

ハワイアンのちにビアホール。駅前のここはニヒルーな先輩が働いていたという理由だけで選ばれる役得な店だ。落ち着きたいときは奥を選ぶと良いらしい。
人の恋路に突っ込んで話すのが難しいように、ある作家人生へ突っ込むのも困難だ。
ビールにまみれて好きだ嫌いだがあふれ出してくるとしたら、作品は契約のもとあらわれるとは限らない。それは無理矢理つくられているのだ。もしくは失恋を忘れるために、無理に酔っているのだろうか。

日曜日, 9月 04, 2011

「例えば」と「このまま」

それからスーツのアウトレット工場に行って黒いのを買った。
自分のこれまでを映画にすることはない。
土埃の匂いを嗅いで思い出すところは幾つかある。実家の傍にあってよく弟と遊んだ納屋や、bnap のときに動いた味噌蔵。重労働か、知的労働か、口だけでは進めないこともあったと思う。
スーツの回数は少ないほうだろう。

春日井市で行われている 真坂氏と西山氏の二人による企画展「for example」を見に行く。開館前に近くまで来たので、ケンタッキーフライドチキンを食べる。店の外から涎が出てくる匂いで充満していた。
「for example」はモデルハウスで行われるというもので、二人のインスタレーションが居間や台所、風呂場に広がっていた。このまま少し住めたら面白いなと思って、このまま家と作品と一緒にパッケージして売るってのはどう?なんて話す。

「例えば」と「このまま 」、これは高度な言葉遊びだ。
これはシーソー?比べるのではなく、重さに任せて向かうこそライフ?
例えば黒いのを買わずに、裸で試着室から出てきたら誇り高く遊べた?
このままカタギに戻らなかったら、チキンのままかと。
いや舵を切る。
それから二人は ばらばらで、ときに車に乗り合わせる。

http://ryoheimasaka.net/06_fe/index.html
http://outlet-koujyo.jp/

土曜日, 9月 03, 2011

緘黙する景色 introduction あーあーあー

information です。

◆「緘黙する景色」に参加します。

美術作家 伊藤正人氏による企画展「緘黙する景色」に参加します。
言葉になる前の動きを 言葉によって表出させる、四名の作家による美術展です。

「ファン・デ・ナゴヤ美術展 2012」での企画、来年1月に名古屋市民ギャラリー矢田にて行います。
この展覧会に向けて、今年の 9月から毎月一号ずつフリーペーパーが発行されます。
フリーペーパーは各出品作家それぞれと企画者による共同作品です。美術館、ギャラリー等に配布されますのでどうぞお持ち帰り下さい。

展覧会詳細は「緘黙する景色」の webページを御覧下さい。
(文・村田)

日時・2012年 1月11日(水)- 1月22日(日)※16日(月)
   休館 9:30 - 19:00(日曜日は 17:00 閉館) 
会場・名古屋市民ギャラリー矢田 第1展示室
主催・名古屋市文化振興事業団、名古屋市
企画・伊藤正人
出品・河田政樹 丹羽康博 村田 仁 伊藤正人
入場無料


遅い台風で、たくさんの顔を見過ごしているうちに、お人好しだからと黙り、テープのリバースを待つ。これからもっとたいへんでも、話せないよりいいよ。

http://beyondwords2012.blogspot.com/

金曜日, 9月 02, 2011

氏の歌は変わっていく

非常に偉そうに批評めいたことを書く。
少し前にレンタルした槇原敬之の新譜を聴いていた。
これがなかなか理屈っぽいアルバムだ。震災を受け、時勢へ応答している内容なのだ。
「Heart to Heart」(2011)と名付けられていて、なんだかチープなデザインのジャケットである。 楽曲のどれもが聴きやすいポップにまとめらているが、どうも歌詞があっさりしていない。ネットで原発奨励ソングと叩かれた論点は間違っているとは思うけど、そう解釈されてもおかしくないくらい誤解を招く表現が多いと思う。二言目には「ありがとう」や「当たり前のことに感謝」というキーワードが出て来て やや説教くさい。
そんなことを書くと、お前の詩なんて理解されないしこの誤解可能なブログはどうなんだと言われそうだが、聴き手が不可解なものに入って行く当たり方と、受け入れてくれそうなポップミュージックに理屈めいた言葉が乗ってくる ちぐはぐさとは違うだろう。
ただ、自分はこの傾向を批判しているのではなく、もしかしたら槇原敬之が大きなステージに展開するきっかけではないかと感じているのだ。

自分は、中学生のときに氏の 1st アルバム「君が笑うとき君の胸が痛まないように」(1990)を買ったのが、生まれて始めて買った CD だ。レンタル CD でテープにダビングする日を経てから買い直し、ラジオのエアチェックもまめにしていた。思春期における自分の基礎的な感覚を養った存在である。
いまでも当時のアルバム(ファンの間では「君 三部作」という)らを聴くとグッときてしまう。これは思い出フィルターも入っているのだろうが、やはり当時の歌がいちばん活きが良い。楽曲と歌詞の密な融合が成され、目に見える成長と広がりがある。ストレートな感情表現を日常風景に落とし込んでいくことで歌われる切なさにリアリティを持たせる方法が確立していく。フォークソングほど女々しくなく、ロックほどドライでもない。繊細さを持った歌詞と、メロディの多彩さを武器にして支持を集めてきた。
メジャーで走り続ける苦楽のなかで、定番枠に入りつつあった頃に氏は覚せい剤所持の逮捕事件を起こしてしまう。同時に同性愛者であることも騒がれ、あらゆる意味でタブーと叩かれる存在になった。自分はその頃、ちょうど出ていた「Cicada」(1999)のあたりでは気持ちが 離れていて、あまり反応していなかった。この状況を真正面から受け止めた再出発のアルバム「太陽」(2000)は良く売れていたようだが、本当のところへ踏み込んでいない感じがして、あまり好きになれなかった。丁寧な聴き方をしていないのもあるが、それこそ会社の意向やメジャーに存在するが故の正当性を通しているように思えたのだ。ポップシンガーが性悪説を唱えてそこには居られない。ただ「Cicada」収録の「Hungry Spider」は、そんな危ないところへも挑戦している歌だった。そこで逮捕されるというのが象徴的ではある。
それから何枚か出たアルバムを聴いたりもしたけれど、自分の気持ちは返らなかった。国民的支持を集めていると評されている「世界でひとつだけの花」(2002)なんて、何も良いと思わない。これこそ理屈っぽいと思ってしまう。以前にも同じ内容をブログに書いたけれど、比べ合う人間は愚かだねと言いながら、実は「花」と「人間」を比べてそこに気付いているのが原点だから、そもそも「比べたがるのが良くない」という主旨が肯定できず、ロジックとして崩壊していると思うのだ。なんて五月蝿く書く自分がいちばん理屈っぽいのだが、比べなくて良いという気休めな歌が、また支持されるというのも気色悪く感じてしまう。だいたい花が争っていないなんていうのも人間の主観だ。地面の下では根っこを伸ばし合い、誰よりも自分らしく美しく咲く為に養分を奪い合っているかもしれない。あの歌の欠陥は「誰よりも」と「自分らしく」を分けてしまったところにある。一見、受け入れやすいメッセージだが、実は「だったら自分で、これでいいやと言えば終わるじゃん。蓮舫の言う 二番じゃダメなんですか を受け入れることになってしまう。」に行き着く危険性を持っていると思うのだ。
やや偽善的な印象すら持つ歌は、初期にも多い。それは性格的な部分にも由来していると思うが、逮捕から復帰後の歌はその要素が多分に多いのだ。
ダークサイドの自分に向き合う歌がいつか出てくるのではないか。そこはきっと深い歌になるだろう。そしてそんなポップソングは少ない。そうやって自分は氏の歌を捉えてきた。

今年の新譜「Heart to Heart」は、震災の影響をもろに受けた内容になっており、先述の原発奨励ソングと騒がれた歌も入っていたりで、理屈っぽい。そしてこれは皮肉だと思うが、「当たり前なことに感謝する」というスタンスを貫くがあまりに、逆に極めて頑固で自由な発想の効かない氏のダークサイドが露になっていると感じる。そんなに感謝なんて思えるかよと批判されるのも当然で、原発問題は 恋愛ソングのように人それぞれと割り切れない内容を含んでいる。しかし誰もが原発反対、賛成、と声をあげるなかで 氏だけが「いままでの恩恵に感謝すら感じられないなんて逆に危ない。それを忘れたらもっと失ってしまうのではないか。」と歌うのは無意味なことではない。殺伐とした社会は日々への感謝の気持ちを忘れているとも見える。現代人にこそ氏の頑固なまでの歌が、気持ちをほぐしてくれるものとして機能するのかもしれない。あくまでもそうかもしれないとだけ思う。まわりくどい歌詞と、聴きやすいポップメロディの合致は不可思議な分裂状態に着地している。そしてその主張自体が偽善的な道徳観と色眼鏡で見られてしまってもしかたないところにもいる。普遍的で安心する姿勢を持っているとも言えるが、そんな甘いことを歌われてもと思えてしまう。

何度も同じことを書いているようになってきた。
氏の逮捕後から続いている理屈っぽい本質追求ソングの路線は、成熟はしていないものの、本作でやや動き出したと思う。それは震災を受けての時代に返答するという姿勢がそうさせている。比喩表現を捨て、ストレートに「原子炉」という言葉が出て来たり、それでいて「犬みたいに僕と君は笑う」などの表現も共存させようとする。ただメロディは犬の鳴き声を入れるなどの自然な関係ではなく、作り込んだポップで、意味内容と合致しない気もする。
ここまで書いて、かつて「どんなときも。」(1991)は、理屈と切なさの共存ではなかったかと思った。
「ビルの間に落ちる夕陽」と「僕が僕らしくあるために」という歌詞が続けてあり、そこに爽やかで力強いメロディがあった。

http://www.makiharanoriyuki.com/topics/heart.html

木曜日, 9月 01, 2011

確かな手順

サラダバーに二人は食らいつき、誰にも話せない仕事をした。
君が居てくれるだけで僕は頑張れると、居座った大広間の片隅で話した。
それからは画面の指示に従って進めるだけ。
三ヶ月でも五ヶ月でも何かを成し得る。
確かな手順を取る事ができれば、もっと野菜も採れる。