木曜日, 12月 31, 2009

今年よさようなら

肝に落ち着く大晦日。
雪が飛び散る駅の駐車場は 20分まで無料。挨拶をして走る。

紅白の裏で トキワ無双の年越しリレー漫画。
今年、いやもっと前から輝く星に歌う。

http://tokiwamuso.blog84.fc2.com/blog-category-15.html
http://www.youtube.com/watch?v=mh5rh6Chv8I&feature=related

水曜日, 12月 30, 2009

空き地に面して

飲酒を進める喧噪のさなか
待合室の裏手に潰れた店舗の空洞。
居間の窓を閉めていても、空き地は部屋を照らしてくれる。
向こうにあなたがいて
私はまだ夢にもがく
空き地に面して
タイプすることもなく

火曜日, 12月 29, 2009

発着までは30分余りあった

バスに揺られているとき、まだどこへも向かっていない。
麓で走っているとき、もよおすのはどこでもない。

声は私のところ
あらゆるものを過ぎて
暗くなる前に思う

月曜日, 12月 28, 2009

マンデーリレーレ マンデーリーレーレー

忘年会@09 まちなかのモンゴル蜃気楼立ちこめる。飲むほどに来年がぼんやりと見える。
春はおろか、夏や秋の予定を話すよ。とても楽しいさと。

日曜日, 12月 27, 2009

猫の鬱の背

皿は何べんも風呂につかる
向こうを向いていると案配が見え隠れ
帰ってきたら壁に掛ける虎縞からベタまでを
ファンヒーターの奥は虹色
油は暑い陽を受けて漂った
伸びていければと思いながら
君は白い上に寝そべるはず

土曜日, 12月 26, 2009

視界に入りきらない大きな四角

東京都現代美術館で レベッカ・ホルン展「静かな叛乱 鴉と鯨の対話」鑑賞。
自動機械を用いた立体、映像、パフォーマンス、全てが真摯な詩心に溢れていて強い。文明批評と人間観察、自身への冷ややかな視点と、貶めることも奢ることもない自意識。
その一筋が自然に通った感触は、全く他の作家や他の展示の作品の印象を薄めるほどだった。
エントランスにあった井上雄彦の企画展示は漫画として面白いけど、美術作品の深みという要素は低い。漫画家の仕事だからそれでいいのかもしれないが。
こうした異なる作家の仕事を見比べることによって、構造の本質が見えてくる。

恵比寿の magical, ARTROOM にて「WORM HOLE episode12」なる企画展を見る。これには bnap05-06 へ共に参加していた西山弘洋氏が出している。昨夜も共にお邪魔していた。氏の作品は四角のキャンバスだけでなくクラフト紙の切れ端や、木っ端などにも絵を描き、壁面上で複数作品によって構成展示したもの。四角のほうが まとまった印象に見えるものだから、一部屋のなかに他の作家の四角い作品が多いと、どうも氏の展示が荒れたように見えてしまう気がした。本当はとても穏やかな選択を持っていると思うので、余計に思う。
木々の間を飛び交う描線の速度は 遅いのか速いのか、どうとでも見える。
あらゆる解釈は委ねられた。視界に入りきらない大きな四角を感じられるかだ。

焚き火に当たっていた24時間後には、名古屋へ戻る。新幹線の時間まで、皆で食事。渋谷に丸太小屋食堂なる店を発見。温かい感じで良かった。

http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/107/
http://www.rebecca-horn.de/index.html
http://www.magical-artroom.com/exhibitions/12wormhole/index.php
http://hirominishiyama.com

金曜日, 12月 25, 2009

東京にも焚き火

寝坊の大幅ロスにめげることなく東京へ移動。新幹線はあまりにも早く、東京まで来た感覚にならない。
このごろ薦められて読んでいた「貧乏人の逆襲」(著, 松本哉/2008)の現場である高円寺に行く。軽快なこの本で語られているのは二極化問題、管理社会、現代ではどこの町にでも当てはまるのだが、著者の松本氏が経営しているリサイクルショップ「素人の乱」は高円寺にあり、この素人の乱 自体が我慢ならない問題へアクションを懸ける現場なのである。
高円寺にまでも一瞬だ。ここの動きを体験するにはカフェやバーが開いている夜に来るのが適しているのだろう。先約があるので、ショップを見て DVDを買うに留める。ちゃぶ台三千円は安かった。近所なら買ってた。

高円寺を後にして、夜は中心から少し離れた郊外へ。画家Oさんのアトリエで行われる展覧会のオープニングプライベートパーティ。
たくさんの方が見えていた。絵描きにジャズピアニスト、詩人に主婦、体力のある方々。素晴らしき出会いに何度も乾杯した。
焚き火理論よろしく、皆で火を囲む。ありがたし。

http://trio4.nobody.jp/keita/

木曜日, 12月 24, 2009

寝転んで届くのは

トツギーノのガチャガチャやったその晩に火燵で絵の具を開いてる。
ちょうど猫の鬱が紙の前で寝ていたから、その背を描く。
そんな自然なことがいいと思った。
大きなアトリエに吹き抜ける風を、船内で思い浮かべるギフトのよう。

水曜日, 12月 23, 2009

prunus

名古屋市の frorist_gallery N で詫間のり子さんの個展「sink or swim」を見る。
写真であっても画像には層が起こっていた。
それは一般的には時間に左右されるものだろうけど、詫間さんの場合は気持ちで起こしていくのだろう。遥か彼方へ飛んでいった層の前で、誰かはずっと誰かになった。

駅からギャラリーへ歩く間、道に面した学校の敷地に季節外れの桜が芽吹いているのを見つけた。ケータイで撮ろうと手を伸ばしている我々の息は白い。このあたりの団地は丘を切り崩して家を建てているので、どの家も長い階段を持っている。

http://web.me.com/yurika7/
http://ppp00.web.fc2.com/

火曜日, 12月 22, 2009

この部屋にて何をするか

棚卸しのつもりが大掃除へ発展。似たようなものだけど際限なく奇麗にしたくなるので終わらない。ある程度でやっていかないと割に合わないと考えるが、環境こそは手を抜くと低いところへすぐ行く。厳しい仕事をする為には机の上から見ていかなければいけない。パソコンと天板の間に敷いた透明ビニルに、いつかの展覧会案内状を挟み込んでいる。それらひとつひとつが愛でられる環境を、如何に効率良く作るかが鍵だ。この部屋にて何をするか。

月曜日, 12月 21, 2009

誰かが導くとして

彼女は廊下でインスタレーションを取り組んでいた。
悔しがっているわけではないのだろうけど、音楽はブルーハーツで そこで思いをぶちまけていた。
鍵盤ひとつ押さえるのに苦労をしょいこむ教室を思う。
廊下は過ぎ去ることのできるところ。
彼女が何をしているのか。誰かが尋ねるとして、それは誰か。

ジョン・ゾーン提案による即興演奏システム「コブラ」を初めて行う。自分は声を変換させる。窮屈なことはなく、ゆるやかな輪郭が引かれるという感触。走り方が見えるときは楽しい。プロンプターのセンスが問われるのだろう。

これは音楽なのか。誰かが尋ねるとして、それは誰か。
そして彼女は何を話す。

http://www.youtube.com/watch?v=1m1pjR1AQbc&feature=player_embedded
http://www.youtube.com/watch?v=8QO8atT1Sqc&feature=related

日曜日, 12月 20, 2009

だいぶ昔のことのような

安宿の理不尽さが許されるのは安いからで、高速インターの脇に辿り着くのは寝床を求めるがあまり。雪が振る前には雷が鳴ると知った。朝焼けとドラえもんのファミレスは長靴を履いた客が行き交う。チーズフォンデュを付ける温野菜を器用に取る。

金沢市内の ひがし茶屋街近くの古本屋さん「あうん堂本舗」に自身の詩集を置いて頂く。
二階で造園設計 中村彩さんとガラス作家 今井美智さんによる「雪の匂い展」が行われていた。室内に しいの実とガラス。窓一面は向かいの屋根に積もった雪で真っ白だった。雪は余分な音を吸い込むから、ガラスは静まり返っていた。

金沢駅の駅ビルで治部煮と共にビールらで乾杯。あっという間に帰る時間が来てしまった。途中、踏切に落雷が相次ぎ、何度も止められる。米原での新幹線乗り換えは乗客皆が走っていた。なんとか終電までには名古屋に間に合う。ホーム上で詫間さんと会うことができた。夏のことなのに、だいぶ昔のことのような話をした。

http://www.aun-do.info/


土曜日, 12月 19, 2009

編み込み合う

八月以来の金沢へ。
よりによっての大雪で、東名高速が止まったのでバスではなく電車で向かう。JR 名古屋駅は吹雪。特急しらさぎ号の到着が遅れていた。ホーム端の立ち食い蕎麦屋で朝食。向かいのホームで三脚を立てた男達もしらさぎ号を待っていた。今日一日ここで粘れば、良い画は撮れるだろう。出発する僕らの顔など撮りはしない。僕らの顔は僕ら自身で撮ろう。ひととおりの近況を話し、雪のなかをしらさぎは走って行く。
福井から石川は積雪が多かった。
金沢の町は路面に付けられた除雪用の噴射水もあって、池がそこらじゅうに出来ていた。
靴はすぐにずぶ濡れだ。

21世紀美術館のニットカフェで、広瀬光治さんの「歌とニット〜トーク&ミニコンサート」を見る。話しと歌は交互に、互いを呼んでいて 気持ちは穏やかになっていく。

オラファー・エリアソン「あなたが出会うとき」から感覚を揺さぶられる。色相で満たされた部屋に入るとき、向こうにいる人が色のなかに消えていく。それを追う自分もまた消えていく人で、赤色にいるときに赤色を見ているわけではなく、見ているもには反対色である。色は視覚に位置しながら周辺感覚に領域を伸ばしていることを思った。

夏以来の金沢はお世話になった方々との再会もでき、短い時間でも意識を立ち上がらせることになった。
あらゆる行為が編み込み合う。雪道の土壌には夏のことがある。

http://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=24&d=461
http://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=19&d=460

金曜日, 12月 18, 2009

うまくしなければ何のポイントも無い

昨夜はクリスマスカードを作った。最初は面倒がっていたけど、二つ折りを開くと絵が飛び出してくるように仕込むことにしたので、適当に作ってもうまくできないと観念し、けっこう本腰を入れた。三時間くらいかけて完成。今日の日中に投函。間に合うだろう。

日中の雑務は際限の無い連鎖で、クリスマスカードのように放たれるギフトではない。キャッチボールでもないしブーメランでもない。確実にと滑らせていくカーリングだろうか。うまくしなければ何のポイントも無い。
定刻通りで途中置きして、夜は持ち込み形式の忘年会へ行く。ワイン一本で顰蹙。
クリスマスはいつから恋人のものになったのかという話は、日本だけの異様な認識であろうし、根っこの無い文化行事は解釈が気楽なので商売として都合が良いわけで、いまはハロウィンが同じような広がり方をしようとしている・・とか。作品のプレゼンテーションという場は、作家が他者と対話ができるかどうかに懸かっているとか。緩急織り交ぜの一夜。終電にて帰宅。ワインの空き瓶を持ち帰った。ゴミが置いていかれると嫌な感触がするのを思い出した。

木曜日, 12月 17, 2009

こんなにくそ寒い夜

とにかく進めなきゃと思って無軌道に市内を歩き回る。そんなときほど収穫無く、愛に憂うばかり。憂いは愛の起こりか。なんだかやけに冷え込むぞ。12月が心配するなよと顔を出して来た。

どんな機種のiPod にしても「Pissin' till I die.」(詞, 鈴木慶一/曲, 白井良明、鈴木慶一/1999)は入れちゃう。99年の当時にダウンロード方式で発売してて、いろんな形式で聴き比べができるようになってた。いまは何ので聴いているんだろう。YouTube に載ったら、FLV で、音は落ちるんだろうけどそんなに気にならない。スピーカーがショボイからあまり変わらないんだな。
歌い出しの「こんなにくそ寒い夜」になってきた。つべこべ言っても、愛を憂いだ分だけ動いてる。

http://www.youtube.com/watch?v=QR8FkcaX1wY

水曜日, 12月 16, 2009

画室の就寝

48色入り色鉛筆ケースの蓋が 猫の鬱の寝ているところへ覆い被さった。人様のせいでこうもひどい目に合うのかと顔をしかめる鬱は、今日にはじまったことじゃない。48色のどれくらいを掴んで君を描いているのか。鬱は白黒だけじゃない。どこか青く、緑と、内に赤を持って体を伸ばしている。ケースを少し手前にして鬱が寝やすいようにして、また描き続けよう。水で伸ばしたりもできる。ケースに筆が入っていなくても。

火曜日, 12月 15, 2009

織り混ざってくる

早めの忘年会があり、鍋やら飲み放題やらで制限時間付きの店だった。何かと飲む機会が多いが、今夜はしっかり話したいんだと強く言われていた。店では食事に走ってしまって、落ち着かず。かといって、飲みはじめの感じが見えてくると変調が出来ない流れになってきて、どうも何かを語ろうとできない。そんな無理して出来てくるものではなく、自然と織り混ざってくるものだろうと思い、時間内は美味しく頂く。
気付いたときには明日も早いからと解散する一行。ローソンでアイスクリームを買って帰る。身体的にはシメだ。普段は忘れるのに、こんなときに限ってポイントカードをしっかり提示したりする。

月曜日, 12月 14, 2009

Sense or

音はどんな楽器で膨らむのか、気持ち巡らす間もなく一週間は経つだろう。
ヒカシューの「パイク」(詞, 巻上公一/曲, 山下康/1980)演奏のVを見ていると、そんなに大手を降るものではないと思う。可笑しみと背中合わせが反応でポンプを押すのだと。
Sense に or と Sensor 降って。

http://www.youtube.com/watch?v=UK49vuHnKqs&feature=related

日曜日, 12月 13, 2009

Twitter 一考

昨夜 某企画への漫画の受け取りで駅のほうには出ていたが、買い物はできなかったので 改めて市内へ出た。
転落して傷だらけになってしまった iPhone に、いいかげんケースを付けなければと思い立ちミラータイプのプラを購入。そのままのデザインが一番良いという志向から、付けるならば別要素が欲しいという志向へ。透明ケースというのはどうも妥協的な感じが拭えない。
展覧会を見ようと離れた別の町へも行くが、着いたときには閉場してしまっていた。道すがら Twitter でつぶやき続けていて、それが時間などの判断をさせないようになっていた。危ないなぁと言いながらもそこまで悔やまない。
日曜まで食い込んで来た雑用を済ませて、電車内で偶然会った福岡氏と食堂でパスタ。缶ビール大を二本。最新 Mac と最新作品への制作を聞く。多難なれどやるしかないっ!という仕切りになってしまう。
昨夜 受け取った漫画は個性的であるという点で勝っていた。
Twitter の中毒性は安心して個性的であろうとできる小さな枠の存在だろう。
140文字の中に詩はあるのではなく、一本のタイムラインを ばらばらの言葉が流れていく姿にある。この流れを意識させる文字の現れ方はあるはずだ。コンサートで無言のMC をするわけではなく、日々の動きに。

土曜日, 12月 12, 2009

かっこいいがため

ラッキープレイだと撃ち殺しているんだから非道にも思われよう。惨くともゲームはゲームで、仮想のものだとする割り切りが大人のビデオゲームにはつきものだ。割り切りそのものが想像力の使い方である。でも子どもたちには、想像力があると言いながらも はなっから割り切りを要求するのは惨たらしい。
レンタルで見た「紅の豚」(監督, 宮崎駿/森山周一郎、加藤登紀子/1992)は、大人向けというテイストながら、子どもに対して割り切りを押しつけるものではなかった。飛行艇で空中戦をしておきながら非道なところは無い。それでいて軍ものうんちく欲は満たしてくれる。大人の恋の割り切りも描かれているようで実は無い。むしろ子どものほうが、恋を割り切る強さを持っていると描かれている。宮崎駿の興味はあまり歌姫には無いだろう。姫は除いた「歌」にはある。
「時には昔の話を」(詞, 曲, 加藤登紀子/1987)に散りばめられた、サンテグジュペリへのオマージュの豊かさを宮崎駿が語り込んでいることに比べれば、ただ かっこいいがための「大人の女」はささやかだ。

割り切りながらも胸を痛めている自分を想像させんがため、顔は絶対に見せない。

http://www.youtube.com/watch?v=HqOhAQbo5yE&feature=related

金曜日, 12月 11, 2009

codnw2

以前から やろうやろうと言っていたゲーム大会の日。先週までタイトで順延していたもの。名鉄犬山線を北上した山岡食堂の一室で「Call of Duty Modern Warfare 2」(X Box360/Infinity Ward/2009)をプレイ。二年ぶりくらいに X Box のコントローラーを握る丸腰だろうが構わずプレイ。蜂の巣となって駆け巡る。朝まで立ち回りをやり合っているのはおかしなものだが、やられると悔しくなってむやみに動き回ってしまう。なんて「男」なゲームなんだと連呼していると女性もゲーマーはいるという話になってしまうが、そうではなくこのゲームが持っている要素そのものが実に「男」の喜びそうな内容に満ちあふれているのだ。今夜の朝までコースには女性が一人もいない。ゲーマーにするべくここで朝までとか思う。いつもの愚痴を垂れるべくの酒瓶を傾けているくらいなら・・。面倒なのをやっつけるべく立ち回ったほうがいいと思う。僕自身のプレイは面倒な極地でチーム戦では足を引っ張り、個人戦では復活と同時にやられる有様。時々訪れるラッキープレイを少しでも増やそうと躍起になった。

http://modernwarfare2.infinityward.com/agegate.php

木曜日, 12月 10, 2009

B級お色気おバカ映画のご都合主義にはお国柄が出てくるのだろう

「貧困ボーイズ やりすぎエレジー」(原題, Sex Up 2 - ich könnt schon wieder/監督, フロライン・ガートナー/アンドレ・カミンスキー、 ヨーナス・ヤーガー・メイル、ヤコブ・マッシェンツ、トーステン・フェレ/2005)鑑賞。字数の無い映画紹介欄なら、B級お色気おバカドイツ映画と小見出しをタイプしておけば足りる。
ベルリンが舞台だが、あまりドイツらしい特徴も出て来ないのが残念だった。クラブバーのトイレではコンドームの自販機があるところとか、冗談の交わし方とか、義理堅く遊ぶところとか、何も無くて物足りない。登場人物に同性愛者が自然と描かれているところや、細かく見ていけば他の国では無いというものなのだろう。欧米から見れば韓国と日本は近い描写にされてしまうように、日本から見ればドイツもイギリスも似てしまう。実際は映る画も違うのだろうけど。
BGM で「ジュテーム・モワ・ノン・プリュ」が流れていたのが寸違いだなと思っていた。どうやらテレビシリーズでも放送されていた内容らしく、そこでも BGM が使われていた様子。お決まりな王道チョイスということか。
映画の後半にあるアクションシーンは、素人が戦うという要素から逸脱しない程度のアクションで好感が持てた。軍人でも無いのに銃に長けていたり、殴る蹴るがこなせるなんてご都合ドラマ過ぎて「特命係長 只野仁」じゃないんだから。大筋はご都合主義で来ておきながら、アクションになるとけっこう弱いという感じが良かった。
只野仁はB級お色気おバカ日本映画だなぁ。テレビシリーズが元になっているのも同じだ。ドイツで DVD吹き替えで出てるかな。

水曜日, 12月 09, 2009

町やな!と叫ぶおばさん、町というかコロニー!とつぶやく おにい。

夕方に電車で一駅の大型ショッピングモールへ行く。大型という敬称より、巨大と書いたほうが正しい。購買意欲をごまかすケチな自分にも、何かを買わなきゃと思わせる圧倒感がモールにはあった。
吹き抜けのエントランスに二階分の高さもあるクリスマスツリーのバルーンオブジェがあり、天井からキラキラ光る玉や星が吊り下げられていた。そのオブジェの四方には覗き窓が備え付けられていて、子供らがそれを覗いていた。このバルーンの中の空間を利用して何か仕掛けを設けているのだろうと思い、子供に紛れて覗き込んでみるとそこには小型モニターが取り付けられており、何のことないテレビCMが流れていたのであった。がっかりすると同時にショッピングモールが求めているオブジェは美術作品では無く、賑わいとしての飾りなのだということを認識する。モール自体から発せられるメッセージの徹底されたブレの無さ。ここでは買うことが居心地の良いことだ。
この場をお道化てくすぐっても、何も出て来ない。
モールは善良に映るが、商店街や地域社会を崩壊させている要素があるのも事実だろう。しかし同時にこれだけの品揃えと雇用、利便性の享受を楽しんでいるのも事実。中間層に向けたひとつの価値観に満ち足りている。僕の好きな女性タレントも笑顔で宣伝している。
でも毎日行くのはちょっと疲れるかなと思う。
分からないままに買い物は進行して行き、必要なものや欲しかったものを手に入れることができた。

火曜日, 12月 08, 2009

そこそこなチョイス

修羅場と化した作業室の掃除を少しだけ。同じくひっくり返っていた部屋の掃除も少しだけ。着なくなった衣服をまとめて捨てる。どれも金にはならない。夏服を天袋に入れる。こんなことを十二月になってからやっているなんて。自分がずぼらなだけでなく、ようやく寒くなってきたというのもある。先日の高山では雪すら見なかった。暖冬は寂しく、冷夏は悲しい。
仕事そこそこに夜 思いつきでレンタルビデオ屋へ。小一時間は居座って物色した。
「東のエデン」(監督, 神山健治/木村良平、早見沙織/2009)を一巻だけ見る。絵はハチクロで お話はシリアスというのが段々癖になってくるんだろうなぁと思い始めたところで終わった。一本に二話しか入ってないというのは厳しい。アニメは全話分借りてくるのが良いと再確認。借りられてたので そこそこなチョイス。根を詰めすぎないスタンスで身体を和らげ、動ける姿勢を取り戻そうと思う。

月曜日, 12月 07, 2009

火燵布団浴

記憶が曖昧なのだけれど 私は何故だか自室の火燵の天板を捨ててしまっていた。なので昨年は天板無しの火燵で過ごしていた。古い漫画に出てくる こんもりした形状の布団であるそれは、飲み物が入ったコップを置くことも難しく、食事はおろか物書きもできない。それでは不便極まり無いと 今年は、夏に使用していた折り畳み机を天板代わりに乗せてみた。足を畳んでやると足の分だけ高くなるが、ちょうど熱も伝わってこない作りになって使用はできる。天板よりは小さいので布団と毛布の部分ができるけど、まぁいいかと使いはじめてみた。
その布団部分の上で このごろ、猫の鬱が寝るのである。
夕食時などには気持ち良さそうに伸びている。ホットカーペット状態になっていて、熱伝導がちょうど良い頃合いなのだろう。溶けたかのように寝ている彼女は、ふわふわでとろとろだ。火燵の中では熱過ぎる。畳上ではすぐに冷えてしまう。岩盤浴のごとし火燵布団浴にて、猫の鬱は安らぎの中心だった。
人間様も火燵に入ったまま寝てしまったりすると逆に疲れてしまうのが常だ。火燵布団浴ぐらいが良いのだろうと学んだ。やはり猫は快適な場所を見つける天才だ。

日曜日, 12月 06, 2009

冬眠を享受しつつ夏の〆日を聴く

information です。
■ 金沢21世紀美術館ポッドキャスティング まるびぃ on the RADIO にて、
  「愛についての 100 の物語」、村田仁インタビューと、
  村田仁と詫間のり子さん(同展出品作家 写真家)の対談が公開されました。
  展覧会終了後の八月末に収録したものです。

村田仁 インタビュー
村田仁 × 詫間のり子 対談


兎に角 眠り倒す。人の身体の回復には眠り以上のものは無いと判断する間も無く、寝ていた。アパートの裏にある家屋が立ち退きで取り壊されるので、ご迷惑をおかけしますと粉洗剤の粗品一つ。年の明ける頃には通りから吹きっさらしが吹いてきそう。Googleストリートビューにだけ空き地が写っている。

土曜日, 12月 05, 2009

輪ニメーション09 覚醒編

仮眠なれど大きく、覚醒しJRに乗る朝。スイッチバックひとつ二時間ほどで着く飛騨高山。駅からすぐにセンターへ飛ぶ。数時間前に書き出されたディスクの再生確認をして、問題無く完了。オペレート室の階下にある手洗いで解放されたのは尿意に限った思いではなく高揚感であった。そして間もなく子どもらの前での上映。飛び交う私のが出ているという声に救われる。

気がついたらまた高山の駅前にいて、焼きそば名物であろう食堂で 小池さんよろしくラーメンをすすっていた。帰りのJR内でメルヘンアニメコンテストの受賞作家の方々と相席をさせて頂く。話の隅々に情熱が感じられ、疲れを忘れさせてくれた。

http://www.hida-anime.jp/top.html

金曜日, 12月 04, 2009

Robot not sleep, be finish.

紅葉見下ろす、見下されたわけじゃないのに何も言えない。庭でがめつさのまま走る不節操。
Kraftwerk「The Robots」(1977)如クディスク焼ク。オエル。

http://www.youtube.com/watch?v=VXa9tXcMhXQ&feature=PlayList&p=456EDED76BE6E7F0&playnext=1&playnext_from=PL&index=4

木曜日, 12月 03, 2009

冷静さを取り取り戻すため

よーやく山場は超えた。けれども画面比率が変わってしまったりしてうまく最終アウトプットまで持っていけず焦る。

冷静さを取り戻すため、五時半で一度切り上げる。アプリケーションは、根性で動かない。いまの仕事は、出来る人は一瞬で出来る領域だと判断。なんとかなると自分に言い聞かせる。
・・そんな、ヒーヒー言いながら触ったアプリや仕事は身体にこびりつくほど覚えるが、ストレスフルなのは間違いない。終わったら一人静かに反省をするつもり。とか言いつつ、Blog と Twitter で公開する孤独恐怖症。
Twitter はつぶやき記録だから、心メモだな。公開の。共有することを前提としたつぶやき・・。詩とは似て非なるものか、似て同じものか、全く非なるものか。いや、Twitter に詩も宿ろう。カテゴライズのなかには収まらないこそ詩であるから。

一日の変わり目も分からなくなった。空が薄明るいとき、自転車置き場は施錠されて入れず、自室に戻るのは億劫だったが歩いて帰ることにする。携帯電話の充電コードを無意味に持ってきていたのも帰る理由のひとつ。でも本当は少しでも寝て、冷静さを取り戻すためだ。などと同じ言葉を連呼している時点で、何も冷静さは無かった。しっかりと明るくなった廊下でまた仕事場の鍵を開けるとき、Twitter に今日の運勢がフォローされる。心が落ち着き、Mac は静かにファンを回す。触ればとても熱いのに 無言で処理をしていた。山場は超えたんだからとつぶやき、無駄な手を見つけては置くことに務める。

水曜日, 12月 02, 2009

Is it happening what?

何をすればいいのだろう。
それがすぐに分かれば
追いつけたるや 追い越せるや
すると言い、
聴こえなくなる。
小石だろうが巨大な岩だろうが、いくら凝視しても動かない。
Mac はただ知識に基づくことがほとんどで、勘も基づいているものがほとんど。スクリーンセーバーが何べんも映る。なかなか辿り着かない悟空のような夜。
What's happeing? じゃなく、Is it happening what? な Twitter の側面、もう終えたいばかりに。

Twitter は140文字しか打てない紹介されたけど、140文字も打てるよ!とか思う。英語では、短いつぶやきというコンセプトになるだろうけど・・。日本語では、50文字くらいが妥当なのではないだろうか。

火曜日, 12月 01, 2009

コンポジションオーバー

この頃は 何をするにしてもこの映像作業をやり切らなければという念が頭から拭えず、常に焦っている状態で、落ち着かず、冷静さが無い。すぐにリミッターは切れ、Mac も落ちていないのに再起動をしかけるのは人間側だ。After Efects は素晴らしいソフトだと理解する。一日のほとんどを編集画面の前で過ごし、レンタリングまではまだ遠い。気がつけば「あとちょっとなんだけどなー」が口癖になっている。それでも期日までには一日くらいの余裕を持って仕上げられそうな気がしていた。それでも正確な数 235もあったキャラクターを全員登場させるというのはただ並べればいいものではないから、何かと選択が要る。脇役キャラをあらかじめ一つのレイヤーにまとめておくという案を、自転車での深夜帰宅途中に思いつく。作業効率も上がるし、構成をするにおいても把握しやすいだろうと意図する。