火曜日, 4月 24, 2007

TV Turnoff Week

テレビの裏のビデオケーブルを噛み切られても、布団の上からはねのけたりはしない。猫の鬱を毎日待たせてる。自分自身は印刷を待って、帰りが遅くなってい て、そのおおもとはテレビを消せない夜のせい。アメリカでは銃規制が論じられるどころか、悲惨な事件から身を守ろうと銃を求める人が殺到しているという。 テレビはこれからもおそらく、いじめられている子への言葉をパフォーマンスすることがあっても、いじめっ子の気持ちを代弁してあげることはしない。できな いということではないと思う。それを言ってはまずいのだ。それが納得されては、看板がハリボテだったことがバレてしまうから。言葉に愛の様相を持たせなけ れば、愛をあてずっぽうに検索する群れがいてもらわなくては都合が悪い。教室がグローバル化されるという危惧を、偶然にも近くの犬山市だけが意思表示して いた。野球だけが特待生を放棄し、健全ぶっている。それだけ金になるのだから、厄介なのだろう。美術の特待生は金にならないから、健全なように見えるだけ だ。これも厄介なことに自分で自分のことを純粋だと錯覚しているのだ。少なくともエゴとピュアは表裏一体であることだけは覚悟したい。卑劣な魔法だという 覚悟を持って、言葉を窓として掲げるのだ。
「テレビ消灯週間」というものが掲げられているというのを、ブログ「イルコモンズのふた」で知る。テレビは消して、パソコンは点ける。ビデオで映画は見 る。YouTube ではギンズバーグ。なくてもいい時間をなくす。なければいけない時間があらわれてくる。それを全てテレビのせいにしなくてもいいが、犬山市の教育長に習っ て、当たり前のように降り注いでくるこれが何をもたらしているのかと考えよう。疑問の意思表示をすること自体が重要だ。疑問と答えは同時に提示されてい く。どんどんそれは瞬時にも変容していくだろうが、疑問に挙げなくては何もはじまらない。それはどういうことなのですかと、誰かと問いかけ合うことは、生 活の栄養分だ。
猫の鬱が布団の上で重たい。

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