交流は誰のものでもない。
故に祭りも世界も誰のものでもない。
だが、だからこそ誰もが私のものにしたいのである。
夜も、朝も、人は作り得ることを求めた。
記憶の中でそれは擬似的なものから本当の体験にすり替わるだろう。
きな臭い現実の制限は、何も大切にはされないだろう。
恥ずかしがり屋という店を考えた。
客との言葉をどこに設けるかで、右往左往する店なのだ。
すぐに祭りなど終わって、世界も終わる。いまは、後少しだけがある。
犬山のキワマリ荘に展示を見に行った。世界を あり余らせるか、強く欲し続けるかは私に寄るものだけであった。
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