火曜日, 1月 08, 2008

ネットカフェで死ぬのはいやだ

昨晩遅くに再放送していた「ネットカフェ漂流」(ディレクター, 高橋龍平/フジテレビ/2007)というドキュメントは凄かった。他人事には思えず、録画しながら見入った。

日雇い派遣で働くネットカフェ難民たち。家は無く、一時間百円の激安ネットカフェに泊まり込む。その金も無い夜、野宿ができない冬ならば、夜通し歩き通して始発が出るまでやり過ごし山の手線に入り込んで寝る。東京はもはや金の無い者も飲み込んで動いているのだ。
そこには現実から逃げ惑う生活があるように見えた。何の潤いも無い日々が延々と繰り返されていく。悪いのは本人に限ったことではなく、不運と不遇。そこに塞ぎ込んだ一瞬のことが閉塞的にさせていた。それには可哀想だと同情する。
何もそこまでして東京にしがみつくことはなかろうにと思うところもあるが、ならばお前もそこまでして詩など書くことなかろうにと繋がるわけで、しみじみ画 面を凝視したのであった。どんなセレブでも、無一文で頼るところも一切無くなって放り出されればネットカフェに行くだろう。
取材を受けていた難民の男性の歩く速度はせわしない速さだ。話しかけることができない、威圧的な歩き方である。文句を抱え込んでるのはそれに出ている。東京を恨む目はそのまま自分に還ってくる。東京をそうさせているのは自分なのだ。
夜は長く、朝は悲惨である。ネットカフェで死ぬのはいやだ。
豊かなリクライニングシート、貧しい眠り。夢なんて見れない。

番組ディレクターは、彼が自分と同世代だということを意識する。
社会復帰を支援するボランティア団体を紹介すると、一時は すねられたものの、なんとか相談に行き、だめもとで頑張ろうかなと言う。僅かな光明を覗かせて番組は終わった。
自己中心的で恥ずかしい感想のようだが、自分がいまこうしていられる境遇に感謝する気持ちになった。

http://www.fujitv.co.jp/b_hp/fnsaward/16th/07-174.html