火曜日, 1月 29, 2008

私は確かにここにいる/いない?/いや、それはもはや第一義ではない。

愛知県立芸術大学 芸術資料館は打ちっぱなしのコンクリ壁が引き締まった空間で格好いい。そこで 愛知県立芸術大学 卒業 修了制作優秀作品展/研修生作品展で河村るみさんの作品「autoportrait」を見た。同時に彼女のアトリエでも作品「appearing surface-現れた表層- 」の展示を行っていたので、そこへも行く。
アトリエの壁面四方八方にある 釘を打った穴。それらを点結びの要領で描線で繋ぎ、多面体のような図形を何パターンも描き出した。衝撃はその後に訪れたと文章にはある。この図形に塗った 色層を拭ったとき、壁面の状態復帰の為に洗い落とそうとしたときに、いままで思ってもみなかった色やかたちのイメージが現れてきたという。この衝撃から意 図せずとも存在は残されていたと発見したのだった。
向かいの壁に概要の文章が貼られ、図形の色面を撮影した写真がある。実際のアトリエの壁はいま修復を終えた状態で、ぼんやりと跡を感じる程度になっている。その上に彼女が点結びをしたり消したりの映像がビデオプロジェクターで重ねて投影されているという展示であった。

私はここにいるということが、なぜに嬉しかったかという題目がはじまりそうだった。

私は確かにここにいる。
私は理由も条件も正常も異常も利己性も協調性も化学変化も大型出力も内定も蹴り上げも胃腸風邪も骨折も閉店も公募も年金も実家も徒歩もリニモも助手もジブ リも残業も三十も信心も作詞も朗読も鏡面も羊羹も神様も祖国もジェンダーも息子もニートも蜜柑も犬も猫も花々も紙コップの自動販売機も開会式も飲み会も キックオフもライターも三島由紀夫も煙も iPhone も政策も恋人も特急も往復も持っているだけのオイルパステルも八枚だけのクッキーも備えていなかったとしても、ここにいる。いや、いない?
いや、ここにいる行為は確かにここにいるのだから。
何が、何が嬉しいの?
私はここで何を歓ぶのでしょう。
今日は雨が降りそうだからと手に取った傘は見事に外れ、一人恥ずかしく携えながら。駅では誰も傘なんて持っていない。

話は意図的に長く遠回しにされている。

永田氏と少し話した。さっきまでいた学食で今度はホットのレモンを飲む。
美術はたいへん じゃなくて、美術もたいへん。

河村さんとエレベーターを乗り継ぎ、途中まで地下鉄を一緒に帰った。
安静にしていると不安になるという話を思い出す。
確か、学生運動の時代にノンポリでいられなかった若者たちの話ではなかったか。