火曜日, 9月 15, 2009

映画における詩人

映画のなかで「詩人」はどう描かれているか。超越的で分かりにくい場合も多い気がするが、その映画のキーになってくるのではないかと思う。「ワンダーラスト(原題, Filth & Wisdom)」(監督, マドンナ/ユージンハッツ、ホリー・ウエストン、ヴィッキー・マクルーア/2008)にも詩人が出てきた。
邦題の「ワンダーラスト」は、主人公のユージンハッツが憧れる劇中詩人が書いた詩から歌にする題で、「ワンダーラストキング」。更に「欲望の王」という訳が付く。
この歌自体はユージンハッツが実際にジプシーバンドの「ゴーゴル・ボルデーロ」にて歌っている歌だ。そのまま映画のなかでもライヴをするという構造で、監督マドンナの、ミュージシャンらしい発想だと思う。映画自体もミュージシャンライクな発想だ。
カメラの引きが少なく、全体的にバストアップで寄りの画が多い。状況や風景をじっくり見たり、見渡す視線は少ない。
通りのシーンを撮っても、目線は常に人物へ向けられているので、常にその者との距離が近い。総じればこれは、顔の表情を重視しているつくりで、MTV風だと言える。歌手の顔がどのようなものであるか。鑑賞者を見据えて歌う(威嚇、挑発、同情・・)。演者のパフォーマンスだけで描こうとするものなのだ。歌手を画面のなかで演者にしこんだのが MTV だとするなら、俳優らを表情だけで語らせるように歌わせるのはマドンナの映画だろう。どちらも同じ感覚から来ている。
話が少しそれた。劇中詩人の描く「ワンダーラスト」は、大きな役割ではある。その訳のとおり、映画に出てくる彼、彼女らは皆 自身の欲望を裏切ることができない。それ故に葛藤する。最終的なその昇華点が「ワンダーラストキング」だと歌い上げるところにあるのだ。
しかし原題の「Filth & Wisdom」は訳すると「汚物と知恵」であり、言わば「聖と俗」である。この題名を付ける監督の視線は、映画自体が群衆劇であるということを示している。「ワンダーラスト」が題では、完全にユージンハッツが主人公の視線だけになってしまう。実際に群衆劇のなかの主人公として描かれているから重なってしまうのだが、この映画で重要な流れは埃を被っていて誰にも知られていなかった詩が歌になって皆に聴かされるというところであり、「欲望の王」として君臨することではないだろう。群衆劇だとする視線は見渡している視線だから、これは実はかなり重要である。題を付ける監督の目は引きのカメラワークをしていたのだ。

映画における詩人とは、題名を付ける監督にある。
映像の要素をどう結びつけて呼ぶのか。超越的でなくても、みんなそこにある。

http://www.youtube.com/watch?v=H9nx6YW3qAI&translated=1