火曜日, 6月 06, 2006

私は詩人と名乗ろう。君がそれを問えば良い。

「詩を書く なぜ私は詩をつくるか」(著,谷川俊太郎/詩の森文庫、思潮社/2006)を読んだ。氏が立って体現している詩人の姿についての直接的な文章 であった。書くことが神格化されるのを取り除き、どういう感じがするのかという素の感想から考えがはじまっていく。文章、詩、短歌、童謡、これらへの素の 姿勢は、言葉についてを考えることであった。クラッシック音楽からはやしうたまで、氏の詩という図鑑には入っている。手塚治虫と類似点を感じると改めて思 う。手塚もまた、谷川のような点があるだろう。
神様と呼ばれ、生まれ育ちが良く、そのインテリ性を自ら乗り越えようとした結果、大衆性が意識された表現や、高度な芸術実験まで幅広くプロフェッショナルにこなしている。幅広い歴史観、未来観、人間観を持って、地球中心の世界を描き出す。宇宙は常にそのテーマだ。
思えば、鉄腕アトムの主題歌は谷川俊太郎の作詞である。
これについては研究している方もいるのではないだろうかと考える。しかし手塚治虫の漫画は群衆劇を基本にしていると思うのだが、谷川俊太郎の詩はどうなだろうかと考えた。「ぼく」や「私」でよく語られているから「群衆劇ではない」とは言えないだろう。
本書のなかには「アノニム」という言葉がよく出てくる。
意味がわからなかったので辞書をひいてみると「アノニマス」しか載っていない。「アノニマス」の意味は「作者不詳の。匿名の。」なので、おそらくこれと似たような意味であろうと考える。文章に当てはめてもしっくりくる。
詩は誰それが書いたかどうかで判断されるものではなく、アノニムになっていければと。
言葉は常に語り手によって意図や方向を持っていると思うが、それが名前ではなくアノニムな人間であればいいだけだ。
僕が手塚だ谷川だと言う先にも、最後はアノニムな記憶や体験になればと考える。優れたものは常にそうだ。売名行為でもなんでもいいと思った。
図書館で借りてきた「泉谷しげるのひとりフォークゲリラ お前ら募金しろ!」(著,泉谷しげる/読売新聞社/1994)を読んでいて、その「アノニム」が重なって考えられた。
93年、北海道西沖での大地震で被災した奥尻島を助けようと、泉谷しげるが街頭でギターをかき鳴らし募金を集めたという活動のドキュメントエッセイ本。売 名行為ではないかというマスコミのツッコミに対し「あーそーだよ、オレはよ、売名行為でやってんだ。なぜならよ、有名じゃなきゃ金は集まらんだろォー。」 と返したという。
これに吹き出す。正論だもの。
売名行為でつきつけても、人の心に訴える核はアノニムだ。常にそれは剥き出しにされている。

http://www1.e-hon.ne.jp/content/sp_0031_tanigawa.html
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