金曜日, 6月 16, 2006

ユリイカ=分ったの意・任天堂/Nintendo 遊びの哲学

昨日購入した「ユリイカ」(特集 任天堂/Nintendo 遊びの哲学/青土社/1969-)を読む。
いまゲーム業界では、第三次次世代機戦争が始まらんとしている。
今年末に、「Wii」(任天堂/2006)と「プレイステーション3」(ソニー/2006)が出陣するのだ。

だが、既に人々はハイスペックだけを追い求めていく家電競争みたいなゲームに飽きて、いま一度「遊び」に戻ろうと気付き始めていたところである。それを先に体現しているのが「Nintendo DS」(任天堂/2004-)の大流行であった。

任天堂の持つ「遊び」を考察する内容。一般のゲーム雑誌よりも、しつこいほどに解体を続ける文章が並ぶ。
解釈しようと読むと、ほとんど同じ結論に行き着くような気がして、時間だけを浪費した気分になってしまった。
拙作「mario inframation of the middle ear.」(2002)のときから調べたり考えたりしているファミコン考察との類似点もあるが、触れられていないところもあった。横井軍平の逸話は、前に 調べたものとほぼ同一だった。おそらく文献などのソースが少ないのだろう。
横井軍平こそが任天堂の志を芽生えさせたという、目頭が熱くなる逸話がたくさん。
新幹線の中で暇つぶしに電卓をいじって遊んでいたサラ リーマンを見て、ゲームウオッチを思いついたとか、「十字キー」という直感的なインターフェースを生みだしたことなど、プロジェクトXにはならなかったの か。宮本茂といい、岩田社長といい、顔が見える会社となっている。良くも悪くも堅気な性格の会社である。
京都だからと考えると落ち着くのだけど、本当に馬鹿をやっても上品なのだ。

僕は完全に任天堂チルドレンで、いま風に称すれば「信者」だろう。中古ゲームの類いも任天堂を基本軸にして遊んでいる。ファミコンが与えてくれたものははかりしれず、また失わせたものもはかりしれないのだろうと思う。
上品で堅実で知的な遊び。
「Wii」は「We」を連想させ、それは「ファミリーコンピューター」という名前と同じことを言っている。トレンドに合わせて表層が変わっているだけだ。
特集対談の中で、ブルボン小林氏がゲーム機の名前から考察しているのが面白かった。
主格についてとか、興味深い視点。

戦争によってのみでしか、次世代に移項できないこの状況を「Wii」で打開してほしい。
遊んで、面白いならば、私達は笑顔でそれを支持する。そしていま、面白そうだと思っている。

ネットで検索していて「ユリイカ」は、分ったを意味する「Eureka」なのだとはじめて知った。
実は、京都の任天堂本社に行ったことがある。
会社のビルのかたちが、上から見たら「ゲームキューブ」(任天堂/2001)になっていた。

それからそれから、そのあたりから、ずっと頭の淵に「ファミコンプロジェクト」というのがあって、いつか本腰を入れなきゃと思っていて、この機体に向かい 合ってえぐり出さなきゃと考えている。一度作りかけた webページは放りっぱなしで残骸となっていて、いまやお洒落な安定イメージアイコンと化したマリオが居る。
「暫く、思い出話をしてもいいかい?」

http://www.seidosha.co.jp/index.php?%C7%A4%C5%B7%C6%B2%A1%BF%A3%CE%A3%E9%A3%EE%A3%F4%A3%E5%A3%EE%A3%E4%A3%EF
http://www.geocities.co.jp/Playtown/4007/phy_plo.html
http://www.nintendo.co.jp/n10/e3_2006/index.html
http://www1.odn.ne.jp/b.mayo/101/writing-fcproject.html